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常にパラレルワールドの分岐点にいて、至上とつながる自分が望む世界。


おそらく今は人生の分岐点。50歳も過ぎるといろいろ考える。頭の中でいろいろと考えすぎている自分をリセットするための瞑想。早朝、めんどくさくてやらない日もある。
今日もやらなかったわー・・・罪悪感を感じる位なら、やらないほうがいいのではないかと思うときもある。
だけど、呼吸とイメージがうまく重なるときがある。体内が温かくなり光が満ちる。
今日の瞑想では自分が菩薩のイメージでずっとそこに座っていた感覚だった。
余韻を味わっていると、自分の努力や頑張りはあまり関係なく、常に菩薩(イメージ)で居続けている自分がいるのではないか、と思った。(そういう世界に座している、というべきか)
 自分が不安になったり恐れたり、その結果、頑張ったり努力したり反省したり、とは別の次元で、ドンと居座って変わらない存在と世界。かなしみの奥にあるうつくしいもの、現しつくせていないもの、至上のものにアクセスできる(回帰する)と、なにかしなければ許されないと思っている自分が馬鹿らしく思える。そして、ひたすら在ることに感謝できる。日常生活の中ではすぐに消失してしまう感覚だけど。
こういう体験をしていると、ふと、現象世界って味わうことしかできないのではないか、と思う。成長して変わっていっているように思い込んでいるけど、そうではなく、ほんとに、生は単に味わうことが目的の、かなり巧妙に作られた体験型アトラクションなんじゃないかと。  
足りないものがある世界から見ると何かしないといけないと思うが、足りている世界につながると、本当は自分以外のものに成る必要はないんじゃないか、と思えてしまう。
不安や恐怖を避けるために、人に認められるために、自分を成長させなきゃと願う自分ではなく、単に「体験したい」というモチベーションで動ける。いろんな体験をすることに価値があることがわかると、挑戦したくなる。そんな考え方や姿勢にシフトすると、それに見合ったワールドが用意されているんじゃないか?
 いろんな計らいをいったんやめて、何が起きてもじたばたせずに味わうことに決めてみる。そんな生き方もいいのではないかと思い始めてきた。まあ、そういうことを考えられること自体、平和でひまなのだろうな。もちろん、仕事は忙しいし、いろいろと日々悩んでいる。
 だけど、平和で暇なんだろうな。それは悪いことではない。むしろ、そこを目指してじたばたしてきたのではないか。今は、そこにいて、そこからどう動いていくのかを考える世界を楽しんでいるんだから。この世界は、自分が意識している部分だけで成立しているわけではない。自分が意識していないところを他人が担っている。自分のことに必死な反面、そんな他人にも関心を向けられることは、半世紀近く生きてきた者の嗜みではないか。他人に関心を寄せられる自分でいることは、新たなワールドを生きることになるのではないか。ここからどんなワールドが用意されているのだろうか。おそらく常に人生の分岐点なんだな。

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