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Mr.Children「名もなき詩」がなぜ"名無し"で僕の涙を誘うのか。君は誰?

さいきんMr.Childrenの「名もなき詩」を聞いて、毎晩、涙している。だからというわけではないけれど、連想していることをつらつら書こうと思う。詩をどうこう言うことには正直、不純さというか、躊躇い、野暮ったさがともなう。でも、衝動を表現することに幾ばくかの個人的意味があるとも感じているので、書くと決めた。 

誰もが、一度は「わたしって何なんだろう?」「何者なんだろう?」って悩んだことがあると思う。特に苦しい時、つらい時、「自分らしさって」「わたしの良さって」何? 何? 何? と、あなたは自責に似た問いを自らに課してしまう。そして小さくなりすぎた自己肯定感を“顕微鏡”で探すこともあきらめ、「生きる意味なんてない」って、ふさぐ。僕はそうだった。しかも、もしその要因のなかに「他人を傷つけた」とか、あるいは「不作為で取り返しのつかない事態を招いた」などが含まれていたとしたら、申し訳なさの重みに骨をきしませ、皮膚を腫らせ、僕は(あたなも?)やはり生きる意味を問わざるをえなくなるだろう。

名前。何を指してそう呼ばれるのかわからないもの

人は名前をもっている。わたしは「正木伸城(まさき・のぶしろ)」。当然ながら、正木伸城のことは正木伸城が一番よくわかっている。でも一方で、「正木伸城のことは他人の方がよくわかっている」ということもある。「ある」というか、そちらの方が真実に近いことも多い。

家族が見るわたし、近所のママ友が見るわたし、会社の同僚が見るわたし、上司が見るわたし、旧友が見るわたし、Twitterのフォロワーが見るわたし、ライターとして書いた記事の読者が連想するわたし、そして、わたし自身が自覚しているわたし。それらはすべて、異なっている。だから時に「わたし=正木伸城」であることに、わたしは違和感を抱く。セルフイメージと、他人が感じているわたしの印象に差があって、戸惑い、不安定になる。各々がイメージする"異なるわたし"は、そうやって人々のあいだでひしめき合う。それぞれが一分の真実を抱えて。そして、「自信」というものが何の根拠にも支えられていないと感じて、ふさぐ。

本当の「正木伸城」はどこにいるのだろう? もし、上記のどれもがわたしのカケラに過ぎないのだとしたら、「正木伸城」という名が名指すもの、イメージは、多くの人の想像の集まりでしかないのだろうか。ただの固有名詞、記号、それが宙に浮いているだけ。いろいろなイメージと連想の総和が「正木伸城」なのだろうか。それとも、自分の真実は本人だけが知っていて、他の人のイメージは勝手なものにすぎないと割り切るしかないものなのか……そうは、できないよね……。正木伸城とは、何者か。わたしとは何者なのか。

哲学的に聞こえるかもしれないこういった問いは、日常的には深刻さをともなわない。考えもしない。でも、危機的な、絶望的な苦境に立たされ、天を仰いで泣きじゃくり、生命を擦り減らす音が耳をふるわせる時、あなたにとってこの問いはビビッドになる。

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あなたでも君でも「darlin」でもないわたし

Mr.Childrenの「名もなき詩」は、そんな世界を唄う。

ちょっとぐらいの汚れ物ならば
残さずに全部食べてやる
Oh darlin 君は誰
真実を握りしめる
      (詩:うたまっぷ.com、以下同)

のっけから「他人に押しつけられる『わたしらしさ』」に敏感な"僕"がでてくる。「それ、僕じゃないよ……」「それは君が抱いている僕への思い込みだよ……」。多少そう感じたとしても、人間関係などを気にして、あなたは、押しつけられる「わたしらしさ」を食べてしまう。呑み込んでしまう。しかも相手が、まるでわたしの真実でも知っているかのように見える。相手が僕の価値を鑑定している? まさか。でも、そんな君は、いったい誰なの?――「Oh darlin 君は誰」。問いが、ここで急に切迫感を持つ。

詩の中で多用される「darlin」。この語は親密な相手にも使われるが、一方で「面識はないけれどたまたま手助けてしてくれたあなた」に対しても使われる。「誰だかは知らないけれど、ありがとうね」といった句に添えられて。そんな不鮮明さをたたえた"氏名で名指さない名指し"が「darlin」だ。つまり、名もなき状態で使われる指示語――。

歌詞の冒頭で、作詞した桜井和寿さんはすでに「わたしは何者?」「この名前を持つわたしは誰?」という問いに対する答えを渇望し、誰かにそれを認定判断してほしいと願う“僕”をど真ん中に置いている。

名指される「らしさ」を他人に決めてもらいたい

君が僕を疑ってるなら
この喉を切ってくれてやる
Oh darlin 僕はノータリン
大切な物をあげる(同)

「君ってさ、実はこういうヤツだったんだね」と疑義を呈されるのなら、"僕"はそうじゃないことを示すために「喉を切ってやろう」と言う。相手に失望された時のつらさを想像してほしい。「お前って、その程度だったんだね」。その苦から逃れるためなら、自傷だってするかもしれない。"僕"は、相手が"僕"に見ている「僕らしさ」を揺るがせまいとする。それで相手に「大切な物」すらあげてしまう。「僕らしさ」を定めてほしいと願うがゆえに。それが極まって、歌詞は「生涯を君に捧ぐ」というところまで行ってしまう。ほとんど「自分らしさ」の決定は、相手任せだ。依存だ。

こんな不調和な生活の中で
たまに情緒不安定になるだろう?
でも darlin 共に悩んだり
生涯を君に捧ぐ(同)

だが、"僕"はその感懐を、正直に告白する。依存する弱さを明確に口にする。それが「名もなき詩」のサビである。

誰かの値踏みは「わたしらしさ」にはならない

あるがままの心で生きられぬ弱さを
誰かのせいにして過ごしてる
知らぬ間に築いてた自分らしさの檻の中で
もがいてるなら
僕だってそうなんだ(同)

他人に依存したって何も始まらない。他人から与えられた「らしさ」で自分を固めようと努力してきた、そうして築いた"自分らしさ"は、自身を解放するどころか、檻に閉じ込める。

どれほど分かり合える同志でも
孤独な夜はやってくるんだよ
Oh darlin このわだかまり
きっと消せはしないだろう(同)

ならば、どうすればいいのか。自分らしさ、名前を持つ"僕"らしさはどうすれば鮮明化できるのか。自分に自信がない、アイデンティティの弱さに耐えられない。そんな依って立つ床のきしみ、不安定さに脅えつつ、飲み会で「キャラ立ちする自分」を演じることが解決になるだろうか。仕事の業績で他人から抜きんでること? 自分にしかできない特技を持つこと? TOEICで850点以上を取ること? アーティストとして世に名を馳せたり、何かで記録を残すこと? それで苦は解決するだろうか。桜井さんはそれらが足がかりになりえないと言い、こう続ける。

いろんな事を踏み台にしてきたけど
失くしちゃいけない物がやっと見つかった気がする(同)

それは何か。

君の仕草が滑稽なほど
優しい気持ちになれるんだよ
Oh darlin 夢物語
逢う度に聞かせてくれ(同)

"僕"は、何かの心境の変化があってか、このあたりから「わたしらしさ」を、愛する人との「あいだ」に見ようとするようになる。冒頭で筆者は「固有名詞、記号、それが宙に浮いているだけ。いろいろなイメージと連想の総和が『正木伸城』なのだろうか」と問うた。自分らしさ、名前、それらは「誰かという一点」にとどまって、そこで値踏みされるようなものではない。そうではなくて、むしろ、コミュニケーションをする、やりとりをする、変顔をして笑わせ合う、そんな僕と君のあいだに、僕らしさ、君らしさが現われてくるのではないか。"僕"はそう思うようになっていく。

愛はきっと奪うでも与えるでもなくて
気が付けばそこにある物
街の風に吹かれて唄いながら
妙なプライドは捨ててしまえばいい
そこからはじまるさ

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自分らしさには君が必要。君らしさには僕が必要

自分のなかに「自分らしさ」をつくっても、誰かに「自分らしさ」を認めてもらっても、それは「ほんとう」ではない。むしろ、誰か・どこかに「自分らしさ」が固定された瞬間、自分らしさは自分を縛る「檻」になる。あたかも有名な俳優・タレントが、TVでのキャラを壊さぬようプライベートでも"それらしく"振る舞ってしまうように、他人から求められる「らしさ」に応えようとして、あなたは自分を束縛してしまうだろう。

それは、苦しい。そうした形ではない、そして"与えられる"でもない「らしさ」は、他人とわたしのあいだに、たゆたうように、瞬間瞬間あらわれる。それが真実、なんじゃないかな――? 歌詞のなかの"僕"はそう思っていく。そして、他者なしでは成り立ち得ない抽象概念に思いを馳せる。

絶望 失望
何をくすぶってんだ
愛 自由 希望 夢
足元をごらんよきっと転がってるさ(同)

他人がいなければ――つまり世界にあなた一人しか存在しなかったとしたら――あなたは寂しいという感覚を得ることもなく、絶望もしない。生まれてから死ぬまで独りだから、"独りである"という認識も、"孤独"という理解も生まれえない。それと同じように、もしずっと独りなのだとしたら、愛や自由、希望も生まれない。反対に、他人がいることではじめて"愛"という可能性が芽生える(もちろん"絶望"も)。

他人は、自分を映す鏡だ。他人がいるから"僕"は、他人に照らされて、他人のリアクションを通して「わたしらしさ」を考えることができる(似たことを繰り返し言うけれど、もしこの世にあなた以外の人がいなかったら、あなたは「自分」というものも「自分らしさ」というものも想像することすらできない)。他人あっての自分、他人がいるからこそ確かめられる自分の存在という手応え。そこに目をむけた時、「自分とは何だろう?」「自分らしさって何だろう?」「名前を持つわたしは、誰?」という問いが、自己完結型ではない問いで、他人とのあいだに折々自然と立ち現れる"答え"に目配せしながら、でも再び「問う必要性に迫られる問い」なのだ、ということがわかる。

継続的に言葉になるような答えはない。でも、「名指される僕は誰?」という不安は、解消されうる。他人という存在によって、たとえば更新という形で。もちろん、他人は自分以上に“わからない”感じのする生き物なのだが――。

痛み、悲しみ、心の火花、温もりが「らしさ」になる

あるがままの心で生きようと願うから
人はまた傷ついてゆく
知らぬ間に築いてた自分らしさの檻の中で
もがいてるなら誰だってそう
僕だってそうなんだ(同)

他人と接すれば、自分も傷つき、相手を傷けてしまいもするだろう。そもそも他人が存在するから「名指される僕の不安」が生まれる。だが、その不安は他人をもってしてはじめて解消されもする。

他人との接触で、自分らしさや自分といったものの存在にリアリティが持てるようになる。相手とのやりとりを通して、相手という鏡が"あなた"を教えてくれる。痛みを感じ、温もりを感じ、自らの存在感を強く抱きしめられる機会ができる。また、「自分がそうであるなら、鏡である相手もそうなのでは?」と想像をめぐらせて、他人との接し方に責任を持てるようになる。つき合いが、丁寧になる。傷ついた時に感じる痛みは、物理的なモノではない。愛も、自由も、夢も、希望も、物理的なモノではない。だから、「はい、これ」と提示できない。でも、相手と自分との「あいだ」でそれらは、相手とのやりとり、それこそ抽象概念を「伝える」「伝え合う」ことから生まれる。この詩のなかの"僕"にとっての「らしさ」は、詩の末尾で「愛情」という表現になった。

愛情ってゆう形のないもの
伝えるのはいつも困難だね
だから darlin この"名もなき詩"を
いつまでも君に捧ぐ(同)

愛を伝え合うその時、名前をもつ自身への「何者か」という問いからくる不安は薄らいでいく。そして、「名前を持つわたしは、何者?」というその問いが「安心」で満たされ、また相手も「あなたがあなたなら、それでいい」と、名前もなしに名指してくる。その、安心をもたらす"愛情を伝える行為"を"僕"は「名もなき詩」と名づけることにした。

どうも、正木伸城にはこの詩がそう読めるのである。

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