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役に立たない人間に価値はないのか|連載『「ちょうどいい加減」で生きる。』うつ病体験記

うつ病体験に「意味はあった」と語る違和感

うつ病が良くなってきたときに、私はあることに悩みました。うつ病体験について「意味があった」「価値があった」と言いきれるかという悩みです。断言してしまうと、心のどこかに違和感が残る気がして、なかなか踏んぎりがつかなかったのです。「精神を病んだことにも意味があった」。そう言うにしては、精神疾患はあまりにつらく、苦しい。人生の時間を大幅にロスした気もします。だから、私のなかにはつねに「もし、うつ病になっていなければ」という思いがうかんでくるのです。葛藤しました。

でも――それでも、です。私はいま「倒れたことにも意味があった」と、あえて言います。病をいだいた人生を、葛藤しながらも肯定します。現在まさに病気の渦中にいる人からすれば「綺麗ごと」としか思えないかもしれません。ですが、私は、断言することの暴力性に目配せしつつも、迷いをふくんだ丁寧な肯定をしたいと考えています。

「それでも/にもかかわらず」うつを肯定する

「はじめに」で引用したフランクルの書籍『夜と霧』に次ぐ彼の有名な著作の原題をご存じでしょうか。ドイツ語では『… trotzdem Ja zum Leben sagen. Ein Psychologe erlebt das Konzentrationslager』と書きます。可能なかぎり直訳すれば『それでも人生に然(しか)りと言う』となります。フランクルは、ナチスによるユダヤ人大量虐殺という地獄のさなかにあっても、人生に寸分の希望も見いだせないと感じられても、それでも人生に然り(=「そうだ」)と言って肯定しようと呼びかけました。私は、この「それでも」という単語の「含み」に彼の思想の豊かさを見ます。ここに、葛藤がつつみこまれている。共感します。

人生に生じる喜び・楽しみと苦しみ・悲しみを天秤にかけたら、たぶん、かなり多くの人が「苦しみや悲しみの方が多く、重い」と答えるでしょう。人生は、自己肯定を「させまい」とするたくさんの要素との出あいです。挫折するでしょう。傷つくでしょう。でも、そんなもろもろの要素に抵抗するかたちで、パウル・ティリッヒという神学者も、「にもかかわらず」人生を生きようと提案しました(『生きる勇気』大木英夫訳、平凡社ライブラリー、1995年)。私は、こういった「それでも/にもかかわらず」という姿勢で自身の人生にも「然り」と言っています。どんな苦境にまみれようとも、にもかかわらず、だかこそ、強くしなやかに生きようと思っています。

過去は変えられない。過去の意味は変えられる

過去は変えられません。事実としては変えられない。ですが、過去の意味は変えられます。現在についてもそうです。「今」の見え方も、意味も、変えることができる。もちろん「考え方一つで世界は変わる」という雑な話がしたいわけではありません。ちょっとしたテコ入れでガラッと変わるようなことは、まずない。思考は鍛えるものです。「それでも/にもかかわらず」といった肯定的な発想の転換を身につけるには、たくさんの鍛錬が必要です。その、鍛え抜いた思考の先に、じつは、「ああ、あの『過去』にも意味があったんだ」「『今』こうしていられること自体が幸せかもしれない」という希望の視点が眠っています。過去の「解釈」は変えることができる。たとえ、うつ病で苦しみしかないと思える過去であっても――。これが私の結論です。

私は、思考の「練り上げ」を、まさにうつとの闘病のなかで行いました。闘病自体が思考を鍛えてくれました。

すると、です。興味深いのですが、うつが酷かったときに長らく感じることのなかった「生きがい」が私のなかからわいてきました。

役に立つ/立たないで人を見てはいけない

精神科医・神谷美恵子は著書『生きがいについて』のなかでこう問いかけています。

「精神の病のために絶望や虚無のなかにおちこんでいるひと、高齢のためにあたまが働かなくなり、ただ食欲だけになってしまったようなひと。こういうひとには、もはや生きがいを求める心も、それを感じる能力も残されていないのではないか。こういうひとにもなお生きる意味というものがありうるのであろうか」

神谷美恵子『生きがいについて』みすず書房、1980年

精神疾患患者やハンセン病者などをつぶさに見つづけてきた彼女は、率直に、彼・彼女らには生きがいなどないのではないかと感じていました。しかし、その上で彼女は、自身も葛藤・思索し、以下の結論に至ります。まるで暗雲を吹き飛ばし、青空をあかあかと示すかのような一言です。

「人間の存在意義は、その利用価値や有用性によるものではない。野に咲く花のように、ただ『無償に』存在しているひとも、大きな立場からみたら存在理由があるにちがいない。自分の眼に自分の存在の意味が感じられないひと、他人の眼にもみとめられないようなひとでも、私たちと同じ生をうけた同胞なのである。もし彼らの存在意義が問題になるなら、まず自分の、そして人類全体の存在意義が問われなくてはならない」

同書

人は、人間の価値を「役に立つ/役に立たない」という視点で見てしまいがちです。人を値踏みするときに、まさに有用性(役に立つか否か)を問うのです。もし有用かどうかだけで人を判断するなら、毎日怠けているように見えた引きこもり時代の私は、存在意義のない人間だったことになります。生産性なんてゼロでしたから。しかし神谷は「そうではない」と言います。ここで拙ツイートを引用します。

この意味をちょっと説明しましょう。

生きがいをわかせたい

そもそも存在意義があるかないかという問い自体がおかしい、と神谷美恵子は訴えます。存在意義は「すでに」ある。誰に対しても、ある。この彼女の確信は、「人生の意味はすでにある」と述べたフランクルの確信にも通じます。「そんな綺麗ごとを……」とあざ笑うような冷笑的な態度を吹き飛ばす強いメッセージが『生きがいについて』からあふれ出ています。

しかも、存在意義があるという"事実"は、社会的な有用性があるかないかとは関係がないと神谷は言います。もし、精神疾患患者やハンセン病者に存在意義がないとするなら、有用な人間の存在意義も否定されなければならないし、人類全体も「存在意義なし」と断じなければならないとさえ彼女は言うのです。なぜなら、私たちは本質的に「同じ人間なのだから」と。

そして人は、存在意義を感じたときに「生きがい」をわかせます。特に神谷は、人は、「他人から」自分の存在意義を見いだすと指摘しています。自分のなかからではなく「他人から」です。つまり人は、「他人から必要とされている」「『あなたに』必要とされている」と感じたときに、生きがいをわかせるのです。大事なのは、効率性でも生産性でもなく、必要性だと。必要こそが人の心に灯(ひ)をともす、と。この意味をこめて私は先のツイートをしました。

いかがでしょうか。どこか、胸に響く見方だと感じられるでしょうか。

さて、そんな私は大学を卒業して、新卒で新聞社に入社。記者になりますが、早々にうつ病にかかります。その経緯から闘病物語をとき始めていきましょう。新聞社に勤めていた約13年は、正直、休職・復職の繰り返しで、まともな社会人生活は送れませんでした。

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