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はじめに|連載『「ちょうどいい加減」で生きる。』うつ病体験記

もし心が突然変わってしまって、思うようにならなくなり、失敗したり落ち込んだりをひんぱんに繰り返すようになったら、あなたはどうしますか? 以前は元気いっぱいで、「どうやって元気って出すんだっけ?」と考えなくても、朗らかに動けていた。そんな自分がネガティブになり、かんたんに心に傷を受け、グチっぽくなり、体がダルくて身だしなみを気にする心の余白すら持てなくなってしまったら――。

それ、うつ病のせいかもしれません。

私は、うつ病でした。

精神病棟への入院。休職3年。長期投薬を経て

私が病気になったのは、社会に出てすぐのことです(不安神経症やパニック障害も併発)。13年以上の闘病を経験しました。休職は通算で3年強。精神病棟にも入院。基本は投薬治療でしたが、容易には治りません。

そんな私がいま何をしているかというと、病から抜け出し、転職。IT企業2社や人材ビジネスの大手企業を経て、独立しました。現在は物書き・マーケター・フリーの広報などをしつつ「自分らしさ」を追求できる環境にいます。大手メディアでも連載をしています。このnoteの連載は、そういった経緯をもつ私の実体験やキャリアアップの経緯、心を軽くするノウハウをつづったものです。

本連載を執筆しようと思ったワケ

世のなかには、精神的な疾患や障害を抱える人がたくさんいます。完治が不可能だとされる人もいます。または、治ると言われる病であっても、何年、何十年と、病と共に生きている人もいます。私は彼らの苦しみの声、悲鳴に耳を傾けてきました。相談に乗った人数は、ここ15年でのべ500人を超えます。

その過程で気づいたことがあります。一つは「うつ病を経て元気になり、自己実現を果たした私の経験が、人々の希望になる」ということ。病気の人、そうでない人、さまざまな人たちから、私の言葉やノウハウが「支えになった」との声をいただいています。

もう一つ気づきがありました。それは、精神疾患と上手につき合って自己実現をしたり、うつ病を乗り越えて成功するといった内容をつづった本が、まだほとんど(というか「ほぼ」)存在しないという事実です。すでに成功していた人がうつ病になったという話ならよく見聞きしますが、私のように、成功以前に、まず挫折から始まって――社会人になってすぐに病にかかり――13年超の闘病を経て、36歳から本格的な社会人デビューを迎え、自己実現を果たしたといった「超・遅咲き」の話が本になったという先例はほぼありません。

以上のことから、私は本連載を書こうと決めました。私になら、うつ病と丁寧に向き合った経験から、みなにエールを送れるかもしれないと思ったのです(出過ぎたマネかもですが……)。

うつ病治療の正解を求めている人たちへ

ただ、うつを抜け出すといっても、「完治」というもの自体があつかいの難しい話でもあります。医師にもよるでしょうけれど、うつ病に関しては完治と言い切らずに、あえて「寛解(かんかい)」と言うにとどめる診断も多くあります。寛解とは「病状がおだやかで、見かけ上、正常に戻っている状態」のことです。じつは私自身、寛解のステージにいます。少なくとも医師から完治宣言をされたことはありません。かといって病気なのかといえば、病状からは脱しています。

あたり前といえばあたり前ですが、この意味で本連載は、精神疾患への対応の仕方の正解を述べるものではありません(医学書的なものでもないですし)。まかり間違っても、連載内容を片手にうつ病患者に対して「これ、読んでごらん。こうやってうつを克服した人がいるんだって。あなたも頑張りなさい」と語りかけるようなことはやめてください。私の言葉が、凶器になります。

病気克服や仕事成功の「手放し礼賛」はしない

さて、闘病生活は、私にある生き方をもたらしました。

それは「何ごとも『手放し礼賛』はしない」というスタンスです。私がもし、やさしく、しなやかに生きられているしたら、そうできているのは「手放し礼賛はしない」という生き方のおかげです。

何かの良し悪しを判断する際に、ものごとの裏側にあるかもしれない見方や隠れた部分、いまの自分には理解できない領域が必ずあると意識しておくことは、とても大切です。それらを差し置いて、見ないようにして(つまり「手放し」で)ただ全面的に褒(ほ)めて崇(あが)めて礼賛するという態度はとらないようにしようと決めて、私は生きています。

たとえば私は、この連載を、次の2点に気をつけて書くことにしています。

・病気克服を「手放し礼賛」しない
・うつ「後」のキャリアアップや仕事の成功も「手放し礼賛」しない

「おや?」と感じましたでしょうか。病気克服を礼賛しない?

もちろん私だって、病気を乗り越えることには価値があると感じています。否定はしません。全力で応援します。ですが「応援はするけれど、手放し礼賛はしない」という態度でいるのが「ちょうどいい」と私は考えています。

どういう意味か。

仮に、病気の克服自体を「手放し礼賛」する文章を書くとしましょう。「病は完治させるのが良いに決まっている」といった表現で、です。すると、病気の完治が不可能とされる人たちはどうなるでしょうか。彼らは心情的にも(現実的にも)置き去りにされてしまいます。だって……治らないかもしれないのですから。あるいは、治癒できずに何十年と苦しみ続けている人は? 「克服できない自分は何かが間違っているんだ」と自らを責めだしてしまうかもしれません。

手放し礼賛の価値判断には、このように誰かを置き去りにする可能性があるのです。

同じことはキャリアアップの話にも言えます。本連載の副題に「自己実現の方法はうつ病から学んだ」とありますが、私は社会的な成功やキャリアアップを手放し礼賛するつもりもありません。なぜなら、全肯定をしたときに、やはり、裏側・反対側で誰かを傷つけるかもしれないからです。キャリアアップを礼賛してしまえば、「そうできない」自分を責めてしまう人もいるでしょう。その人を置き去りにはしたくありません。わたし的には、副題の「自己実現」は、キャリアアップだけにとどまらず、「自分らしく生きる」といった生き方にかんする意味もふくみこませるつもりです。

私は、精神疾患と向き合うなかで、また、自分が時に加害し、被害者となるなかで、自分のなかのこの観点を養いました。以来、心配りをしつつ丁寧に言葉をつむいできました。病気について全肯定も全否定もしない。もろ手をあげて礼賛も否定もしない。「ちょうどいい加減」で向き合う。これが私の取ってきたスタンスです。

「ちょうどいい加減」という生き方の豊かさ

本連載をとおして私がいちばん伝えたいのは、人生のあらゆることに対して慎ましやかに、節度ある態度で、つまり「ちょうどいい加減」で向き合うことの大切さです。

苦しい日々から希望の光を見いだしたり、地獄のような体験から喜びの芽を発見したりして「生きがい」を覚える。充実の生に彩りを与えるのが「病苦」だったというのが私の実感です。また、先に述べたような「手放し礼賛」を避け、ものごとには多様な面があると意識して、さまざまに思いを馳せながら人・モノ・コトと接する。そうすることで人から信頼され、社会的にポジショニングできたというのも私の実感です。これら実体験のメッセージから、読者に「ちょうどいい加減」の生き方や知恵を提供できたらと思っています。

本連載に触れれば、あなたの人生が少しだけ、より豊かになるかもしれません。最後までお読みいただけたら幸いです。

起点はいつも「読書」だった

ここで、ナチスの強制収容所を生き延びた心理学者V・E・フランクルの一節を紹介します。

「われわれが人生の意味を問うのではなくて、われわれ自身が問われた者として体験されるのである」

V・E・フランクル『夜と霧』霜山徳爾訳、みすず書房、1956年

難解な文章です。この個所を「われわれが人生の意味を問うているのではない。返ってわれわれが人生から意味を問われているのである」と意訳してみましょう。

あなたが「人生ってつまらないな」と思っているとします。そのとき、あなたは人生の側に向かって「どんな意味があるのか」と問いかけるかもしれません。ですが、フランクルは、返って人生の側「から」あなたに対して意味が問われているというのです。「そう言っているあなたはどうなんだ」「『人生はつまらない』と言っているあなた自身がつまらない人間になっていないか?」と。

一事が万事だとフランクルは教えてくれます。

あなたが「人生なんてクソだ」と思っているとしたら、それはあなた自身がクソな人間だから(強烈な言い方でスミマセン)かもしれません。あなたが人生をあきらめようとしているのなら、その時は、あなた自身がため息をつかされるような人間になっているかもしれません。フランクルが同書で教えているのは「あなたが価値判断をするかしないか――つまり『つまらない』『クソだ』といったかたちで――という以前に、人生の意味はすでに与えられていて、大切なのはあなたがそれに気づけるかどうかだ」ということです。すでにある人生の「潤い豊かな意味」をひろいあげることができれば、人生や過去や病の見方は変わります。

先に書いたように、私は、苦衷の日々から希望を、地獄の体験から喜びを見いだしてきました。なぜそうできたかというと、一つには、フランクルが示唆してくれた「人生の意味はすでに与えられている」という前提を私も共有していたからです。でも、これは私が超人だからできたことではありません。思考を転換することで、折々に見方が変わったのです。人生からの問いかけに耳を澄ませることで、私の「生」が活き活きし始めたのです。起点になったのは、いつも「読書」でした。当然ながらフランクルと出あうことができたのも本によってです。このような「何か」を起点にした自己刷新は、じつは誰にでもできます。

本連載は、そういった読書経験や良書の紹介文にもなります。先人があなたに肩を貸してくれるかもしれません。そういった楽しみ方もご一興。ぜひご高覧ください。

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