週間レビュー(2022-5-1)_行動主義のコールハウス。
大した提出もなく、大きな仕事のマイルストーンもなく、ゆったりとした1週間で自分のペースで色々と考えたりした。
25日 霞ヶ関の合同庁舎
用事があり霞ヶ関に行く。霞ヶ関に行くとなんとなくパッとしないワシントンD.Cを思い出したりする。格子状で大きなボリュームが連続的に立ち並んでいるので見通しが良いが場所としての情報量が少ない。なのであまり楽しい場所ではない。
国交相の入る合同庁舎は薄暗くどんよりとしていて、まさに60-70年代に建てられたであろう老朽感が漂っている。オフィスの中は小学校の職員室のようないかにも昭和ドラマに出てきそうな雰囲気を持っていた。
場所だけをみても官僚の人気が下がるのがよくわかる。ここでクリエイティビティは育たないことは確実であり、創発的な努力が報われなさそうな感じがした。ぜひ税金を使ってでも、建て替えやリノベーションを検討したら良いと思う。建築家は誰か提案しないのだろうか?
26日 啓蒙することで世界は良くなるのかな
3ヶ月に一度くらいのタイミングでメンタルがとことん落ちる。おそらく自分も今していることに飽き始めていたり、自分の目標や計画を見直すタイミングなんだろうと思う。ここで落ちたままでいると何も進展しないので、ちゃんと向き合う必要があるなと思っている。
「なめらかな社会とその敵」を読み直していると、啓蒙思想を発端にする現代の活動が世の中を根本的には変えることができないのではないかと改めて考え直してしまう。啓蒙思想やある意味でのアクティビズムは、生産活動ではなく個人としてのメンバーシップやマインドを所有していることを表現することであり、その先に夢見る課題解決には人類史というスパンでみると失敗しているのは紛れもない事実である。だからこそ現代でも戦争行為は終わってないのだと思う。
例えば、現代アートも同様に無力であるとも考えることができる。
現代アートは投げかけによる、社会啓蒙や課題発見の手段でもあり、的確な情報伝達ではなく受け手の想像の刺激による発想を促すメディアだ。
しかしながら、今では多すぎるほどの展覧会や企画展、そしてインターネットによる現代アートに触れる機会も増えたように思うが、なるほど世界は好転しているとは言い難い。この事実をアーティストはどのように受け止めるべきなのだろうか?もしくはそもそも現代アートは知的で個人的な表現活動でしかなかったのかもしれない。昨今NFTアートのようなデジタル上での価値交換の仕組みが存在してるが、これも同様にアートを購買し、メンバーシップや所属を示す道具になっている。果たして、アートの役割とはどこにいってしまったのだろうと考えてしまう。(NFTアートはアートなのだろうか?ということも考える必要がある)個人的なタナトフォビアを解くためにもこの問いに対して解決しようとしないといけないのだろう。
27日 レム・コールハウス
建築家としてのレム・コールハウスを学ぶ。
自分が思うに彼が建築家として優れているのは、半建築家的な浮遊するポジションに身を置き続けていることだと思う。分業社会においてその専門的な能力を有することを社会から求められることは避けられないことだが、それに争い、職種という合理化のためのツールに対して一歩俯瞰してサードオーダーを考え続け、作品を構成していく。
このポジションの取り方をしているからこそアイデアが腐らないのだろうと思う。24歳でジャーナリストからAAスクールで建築を学び、建築ではなく「錯乱するニューヨーク」でデビューを飾った彼を自分と対比してみると学び取れるものはたくさんある。そしておそらく彼の実利的な性格を見るに経営がうまいのだろうと思う。
- 自分の考え方や考えるツールこそカスタマイズしなければ誰かに真似されないものは作れない。
-重松さんのように、知性で肩を並べるにはどうすれば良いのかは行動に示さないといけない。
-「そんな状態だから、遅かれ早かれ時代との繋がりを失うだろう。現代を生きるうえで、過去は卑小すぎる。」という一説はまさしくである。過去や先人を糧にしつつも、それらに極度に縛られることから逃れなければならない。
28日 スーラの点描とデジタルの点群描写
外界を解像度やピクセルの集合体で作られたと一番初めに気がついた新印象派のスーラの延長線上にデジタル描写があり、点群の描写があることに気が付く。人類で初めて「点でも世界書けるんじゃ?」と思ったスーラのクリエイティビティがすごい、本当に人類の想像力から技術進展が始まっている、そのリアリティが最もあるような気がする。
スーラが試みた色彩の三原色への還元は、20世紀のモンドリアンのコンポジションの作品群へと繋がっていく…美術史は人類の世界認識の移り変わり、そして現在の世界認識の位置が明らかになっていく感覚が感動的だ。
これから人類の世界認識をどうやって変えていこうか、そこを考えていくのは建築家やアーティストなのだろうと思う!
29日 磯崎新、作品集を読む
先週、衝動買いした磯崎新の作品集を読む。(2-3万くらいクレカを切っていて明細を見て驚いた…)
ここに振り切れる磯崎新の達観的人生観と自己肯定感の持ち方、そして使命の気づき方が卓越していると思う。なるほど、自分もこの感覚を持ちつつもそこに振り切れない理由は、生活への執着のようなものがあるのかもしれない。彼が大学院生ということはほとんど自分と同い年ということだ。
自分の解きたいものの時間軸の伸ばし方、そして絞り込み方に強いポジションの取り方への戦略性を感じた。ある種の達観、自分に対しての自信の表れとも言える楽観的な姿勢は天才というより鋭すぎる頭の良さだと思う。
この黒川紀章の文章の全文は秀逸だった。メタ的で形而上学的な建築への挑戦、作家性の追求ではなく、痕跡や同質性の排除はまさに資本主義の中で消費される作家の様式に対して、戦い方として正しいように思った。そもそも建築家としての戦い方すらも戦略的で挑戦的である点が見習いたいところ。
30日 新建築を旧建築にする
事実新建築ほど、業界に閉じた雑誌もないように思う。建築関係者なら知っていて当然だが、その他の業種や人々でこれを参考にする人はいるのだろうか、マガジンハウスのCasaの方が意味あるものだと自分は思う)建築界の停滞を作る一つの大きな要素であるかもしれない、その意味では旧建築とさえ揶揄できそうだなと思ったりした。分離派のように未熟でも良いから、自分の目で重要なものをキュレーションして新建築を本当の「新」を求めていくものにするのも面白いかもしれないな。誰かとやってみたい。
5月1日 これからの2年間の頭の使い方
前提として、近代社会を成してきた虚構の秩序が、ついに壊れ果てようとしてると社会に感じ取るのは、個人的な使命のようなものなのか、もしくは心のどこかでその事実を望んでいるのだろうか。これはコロナ以降ずっと思っていること。明らかにリズムが崩れいているように思うけれど、世の中はあまり気がつかないふりをしているのだろうか。不信感ばかり募って擦れてしまったかもしれない。
だからなのかもしれないけれど、メディアの情報や資本が流れてたまる場所、それを受け取ろうとする起業家、未来を信じて結託した大人たちのそのほとんどがどれも虚実のように見えているので、そこから下されるオーダーや解くべき問いというものは疑わざるを得ないと思っている。かつそこに従属的になるのは、既存の社会基準の中で評価を得られる能力と環境があれば至極簡単なのだと思う。なので、その傘の中に自ら入ることには徹底的に抵抗するべきだと自分に命じている。
とすると大事なものは、時代と寝た上で見えた社会の状況と透明な好奇心のようなもので、解くべき課題を自ら定め、自分にオーダーを課していくことにあるのかもしれない。少なくともこのネットワークの充実した時代においてクリエイティビティは明らかに民主化するが、そこに頼りきると作家性は普遍化し目線が下がってしまう。また、作家性や個人的な欲望を満たすために物事を希求し続けると、社会性や時代のコンテキストを失って視野狭窄になるのでそれは避けたいと思っている。
まとめると「社会から課されるあらゆるオーダーは食い繋ぐためと割り切り」「そこで時代の流れに触れる中で独自の課題展開を試みる」「その上で好奇心をベースにした解法への確信を持ち合わせるまで取り組む」「その解法は当たる当たらないに惑わされる必要はない、なぜなら好奇心なのだから」「解法が面白ければ、使命は後からついてくる。そのためには生きてる間ではできる限りの箔が必要であり、しかし評価の時間軸は考える必要はない」みたいなことになるのだろう。
みたいな話をとりあえず知り合いに話してみている。
読んだ本
・バックミンスターフラー(図書館にあった本)
・なめらかな社会とその敵(途中まで)
・ザハハディドは語る(これも途中まで、難解)
・美術館をめぐる対話
・ソクラテスの弁明
クリトンとソクラテスの対話はもはや現代に言えることばかりで勉強になる。
・行動主義 レム・コールハウス
・大学キャンパス再生のデザイン
タイトルはここから引用。人類初期フェーズすぎて、なんか滅びるのも早そうだなという所感。
今週は色々読んで、考えて、そして不安に駆られて、逃避したくなってしまう感情ばかりだった。来週もメンタルを保ちつつ頑張りたい。
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