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りあるマザーファッカーの告白

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”りある”マザーファッカー★ノンフィクション★アルコール依存症克服【出生】1977 年新宿【教育】歌舞伎町・都営団地【中毒経験】アルコール(寛解※通院中)・軽ドラッグ(寛解)・ギ…
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1番このnoteで伝えたい病気の話

THE うつ!!! 高田馬場の精神科に何年お世話になったか。 かみさんから紹介された病院で、舌を切った後、表向き一過性精神障害として通院していた。自分の感覚だと躁鬱と統合失調症の症状だった。その診断名は付いていない。先生はいつも大きなココロで迎えてくれた。感謝の気持ちが大きい。だが、病院にはバスや自転車で通っていたが、この行き帰りの苦痛、そしてたまに入れ替わる病院受付の対応にいつも悩まされていた。 基本的に生まれながらに敏感にできている自分は、バス、自転車の行き帰りで大き

存在していなくてはならない

息子という不思議 2005年7月、息子が誕生した。立ち会い出産だった。生まれてきたばかりの息子は、出口の関係で頭が伸びきっていて、とても不思議な存在に見えた。そして不思議な感覚は、その後も消えなかった。誕生した喜びというよりは、不思議な感覚という表現になってしまう。もちろん喜びはある。毎日笑顔が絶えない時間が訪れた。 だが、<不思議なことに>不思議な感覚がずっと続いた。違和感とか、ズレ、とか、そういうものでもなく。。。ハッピーストレンジ、アナザービューティフルとかそんな

カット・タン・マイセルフ(D)

帰国、父親、タクシーバンクーバーから帰国する機内、ここでもオートミールが出た記憶がある。アッツアッツだった。それを爆笑しながら食べた。あの機内はかなりテンションが上りきっていた。かなり薄い断片的な記憶がある。真ん中の席付近にかみさんと座った。寝る、食べる、寝る、みたいな感じで帰国したと思うが、実際どうだったかわからない。精神的に不安定な乗客を乗せる航空会社のリスクもあるだろう。自分がそうなっておいて何だが、あの密閉空間に少しおかしいやつを同乗させるのは細心注意が必要だろう。本

カット・タン・マイセルフ(C)

かみさんが病院に到着し、これで帰れると一安心したが、状況は変わらなかった。あの状態のまま飛行機に乗せて帰国することはできないと誰もが思っていたに違いない。時間が経過するのをじっと待つ感じだった。薬が効いているのか、躁鬱なのか、時間経過はゆっくりではなく、1日があっという間に過ぎていく。投薬という病院側の親切な図らいか。ゆっくり感じる時間が何となくホワッとスッキリ過ぎていく。 舌先をなくし、うまくしゃべれない精神が崩壊した男のバンクーバータイムは意外と早い。 かみさんが来て

カット・タン・マイセルフ(B)

激アツなオートミール 人間ドッグで着るようなお召し物に着替えさせられ、集合部屋に入れられた。 ひたすら泣いている人、 誰もいないのに必死に話している人、 絵をずっと描いている人、 家族がお見舞いに来て嬉しがっている人、 入ってすぐに、ある男がオレのもとにきた。 絵を見せてくる。 どうやら衛生を通じて誰かと話しているらしく、 テレパシーとか、暗号とか、 一生懸命オレに説明をしてくれた。 彼は大真面目だ。 オレも大真面目に聞いた。 自分も描きそうな絵もあ

カット・タン・マイセルフ(A)

ココロにタトゥー 自分の舌を切り落として向かったタトゥーショップで 明日施術よろしくと話したら、口の中を見せてみろと言われ、見せることに。 「カット・タン・マイセルフ」 とゴモゴモした口元で頑張って話した。 日本ではなく1人で来たバンクーバーだ。 英語の表現はこんなもんだ。 娘を亡くして、悲しくて、自殺したと思ったみたいで、 切ない顔をしてイケメンの店員さんが気にかけてくれた。 彼はイケてるスケーターだった。 近くに病院があるからそこに行こうと連れて行ってく

死のうと思い、舌を3センチぐらい根元から切りました(D)

B&B 最初のホテルを出て、どうたどり着いたかわからないが、 ベッド&ブレックファーストに泊まることになった。 自分のセレクトだが、全く記憶がない。 彷徨ったあとにたどり着いたのか、 希望の宿に着いたのか、わからない。 結果的にお世話になる病院のカルテを確認すれば全てわかるだろうが、 オレの記憶の中では曖昧な部分でもある。 部屋は比較的広く、両側の壁際に二段ベッドが2台あった。 ブルー基調の部屋は今泊まっても問題ないぐらい清潔な部屋で心地よく、一人でその部屋

死のうと思い、舌を3センチぐらい根元から切りました(C)

高いところから飛び降りる それしかないと決断するが、土地勘がないので、 バンクーバーで1番高いタワーに登った。 お金を払って登った。 強化ガラスを硬いもので割り、飛び降りようと。 そんな事ふつうに考えればできるわけないのにぶっ壊れている脳が指令を出し、 タワーに登った。 混んではいなかったが、適度にお客さんもいた。 何かやらかせば大騒ぎになる。 タワー全体をガラスが取り囲んでいるが割るものもなければ、割ろうとしても割れそうなガラスは存在しなかった。 高層の

死のうと思い、舌を3センチぐらい根元から切りました(B)

主張をできる人できない人・比べる人、比べない人 危険な環境が好きな割には、そんな振り切れた悪をやってきたわけでもなく、世間で有名になるぐらいの武勇伝を持っているわけでもないが、この頃までは、誰が来ても、どんな状況に置かれても、自分だけは生き延びて、その経験を糧にもっとさらに大きな刺激を求めて生きていくんだろうと思っていた。 最近までそんな感じだったので、失敗も多くあり、痛い思いも、恥ずかしい思いもしてきたのだ。 そういう思考に至った原因は、幼年期の環境と逆境体験が大きく

死のうと思い、舌を3センチぐらい根元から切りました(A)

ソーソーなバンクーバーに到着2005年5月。27歳。 タトゥーを生涯の仕事にしようと動き出していた時、カナダのバンクーバーに向かった。 1人で向かった。 ひとり旅はアムステルダム以来で、とにかく何か違う自分になりたいという想いと、カナダのWEED文化にも興味があった。 昔の話だ。今は全く興味がない。 当時は、むしろ後者の方が興味があったのかもしれない。文化に興味があった。 ネットで調べ上げ、合法非合法で闘っているショップが一件あって、そこではネタも普通に買えるし、

人生で一度だけビビったこと

大久保ばあちゃん大久保ばあちゃんから電話が入った。 「まーくん助けて。。。じいちゃんが怖くて。。。来てくれる、、、?」 大久保ばあちゃんが泣き言を言うのは珍しく、 というより初めて聞いたかもしれない。 大久保ばあちゃんは、その名の通り、自分がばあちゃんを認識した時、 大久保に住んでいて、それで名付けた名前だと記憶している。 一番古い記憶の中では、 百人町にある少し築年数のいった白いマンションに住んでいた。 その部屋にもお決まりのように重厚感のあるしっかりとし

テキ屋家業

引っ越し小学校5年生の5月頃、念願の都営住宅に当選し、 戸山ハイツ33号棟の最上階14階に引越した。 眺めは最高だ 小学5年生の5月ごろ。 丁度、西向天神のお祭りと引越し日がぶつかって、新居で荷ほどきをしている父親にどうしても祭りに行きたいと伝えた。 大した荷物の量もないのだが時間に追われながら淡々と作業をこなしている不機嫌で余裕のない父親に何度も交渉した。 そして渋々了承した父親にいただいた1000円を握りしめ、少し歩けば歌舞伎町という立地に立つ小学校近くの

腐った死体<母親>が死んだ

給食後、担任から告げられたアッパーカット病院に運ばれてから、母親のもとへ行きたがらなかった父親も病院に向かったみたいだ。オレが学校に行ってからだったのか、その前に出ていたか、覚えていない。 オレは救急車で運ばれた次の日も普通に学校に行った。 学校では普通に過ごし、普通に給食を食べ、 20分間の昼休みに外に遊びに行こうと思っていたら、 教卓から担任に呼び止められた。 深妙な顔を浮かべて話し出した女性担任は、 オレに向かって驚くことを言い放った。 お母さん、亡くなら

腐った死体は仲間を呼んだが現れなかった

限界 両親はアルコール依存症との戦いの末に、オレの環境を重視して父親が離婚を切り出し、それに母親が応じる形ですんなり離婚が成立した。離婚はしたが自宅近所に部屋を借りた母親は、少しでもオレに会いたいと思っていたに違いない。 このコラムは、ある荒廃した家庭に挑んだ、1人の青年の記録である。新宿に生まれ育った無垢な小学生時代に、アルコール依存症とバイセクシャルという特異な両親に囲まれ、酩酊した母親と強制的に初体験をさせられ、その後30年近くに渡り自身もアルコール依存症に苦しみ、