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人生で一度だけビビったこと


大久保ばあちゃん

大久保ばあちゃんから電話が入った。

「まーくん助けて。。。じいちゃんが怖くて。。。来てくれる、、、?」

大久保ばあちゃんが泣き言を言うのは珍しく、

というより初めて聞いたかもしれない。

大久保ばあちゃんは、その名の通り、自分がばあちゃんを認識した時、

大久保に住んでいて、それで名付けた名前だと記憶している。


一番古い記憶の中では、

百人町にある少し築年数のいった白いマンションに住んでいた。

その部屋にもお決まりのように重厚感のあるしっかりとしたサイドボードが置かれ、世界の王のホームランボールが小さく細い三本のバットに支えられ飾られていた。そのホームランボールは、「本物だから大事にしてね」と小学校高学年の時に渡されたが、大事にしていたのは1年ぐらいで、のちに俺の遊び道具となり、マジックで書かれたサインは薄くなって見えないぐらいの代物になってしまっていた。

ボールをもらった時は、バブル絶頂期で、大久保ばあちゃんのマンションもアップグレードし、明治通り沿いの大久保通り交差点付近、ちょいと背の高い見栄えのするマンションだった。

ウチのボロアパートと比べるとだいぶ羽振りのよい生活に見えた。俺の中では、世界の王のホームランボールは、大久保ばあちゃんの自慢の一品であったことは間違いない。出かけると羽振りは良いし、男勝りな性格で人望もあった。

だが酒を飲むと乱暴な立ち振舞になる。。。あまり言いたくはないが、大久保ばあちゃんも病的酒飲みの1人だったと思う。

大久保ばあちゃんはジャイアンツの大ファンで、経営する屋台の上客である後楽園関係者(ボクシング関係の偉い人だった)からもらったチケットで大人気だったジャイアンツの試合によく連れて行ってくれた。大体ジャイアンツベンチ裏辺りの良席で、ビール片手に楽しそうに応援をしていたばあちゃんを頼もしく思えて、ばあちゃんといるとココロが大きくなる感じがいつもした。


母親は大久保ばあちゃんの仕切る屋台街の1店舗を経営していた。

店舗と言っても黒に近いグレーの屋台だ。

父親がお金を出して、開店した屋台で数百万かかったと聞いていたが、本当のところはどういうお金が誰に渡ったのか、歌舞伎町のカオスな人間関係がかなり不透明にしている。

今もその母親の屋台は、母親のお兄さんと俺の連名で登記されているはずである。

手元に登記簿がある。

家賃をもらう権利は間違いなくあるのだが、入ってくるはずの家賃収入を一度も手にしたことはない。やはり、歌舞伎町のカオスな人間関係がかなり不透明にしている。どういう流れでそうなったのか、本当は全て知っているが、まだ何もアクションを起こしていないで静観を続けている。

母親はその屋台で八重子と名乗り、酒とつまみを振る舞った。

時には客を見てボッタクリながらやっていたと思う。

好きな客にはカラダも振る舞っていたに違いないが、真実は知りたくないし、そっとしておこうと空想をストップさせている。


心の安定がない母親は心底人を信用できずにいたと思う。

酒を飲んで脳を麻痺させて、肌身で人と触れ合わないと人を全く信用できなかったタイプだったはず。

少し心を開いて人と付き合っても、おそらく自分と一緒で対人関係障害を抱えていた母親は、時には気を使い過ぎて疲弊し、時には裏切られ、不義理に会い、そんなストレスを酒を飲んで爆発させ、その事でもっと大きなトラブルを抱えながらまた酒を飲み、負のループを拒否しながらも受け入れるしかなかったのだと思う。


それがアル中(現在の物質使用障害)なのだ。

母親は俺以上の病的酒飲みだった。


大久保駅横、地下の焼肉屋

大久保ばあちゃんは良くも悪くも、ものすごいパワーを持っているので、一緒に楽しい時間を過ごすこともあれば、ココロが折れ、ぐったり疲れる時間も多くあった。

小さい頃、大久保駅の隣りにある地下の焼肉屋にオレの家族を定期的に招待してくれた。もちろん全部おごりの席なので、ウチの父親も財布の負担は少なかったが、酒を脳が支配しだす頃には父親も心身の負担はかなりのものだったと思う。

大久保ばあちゃんとじいちゃんの夫婦喧嘩の仲裁で90%は時間が経過していたからだ。オレは父親以上のストレスを抱えてバトルの行方を見守りながら、焼き上がってからかなり時間のたち固くなったカルビを責務のように口に放り込んでいた。オレは何もできない。

大抵の大人にはツッコミもできたが、二人の喧嘩はそんなオレのスキルを受け付けなかった。

そんなに広くない店内に響き渡る大きな罵声が支配する。

ドスの利いたじいちゃんの声と、それに負けじと言い返す大久保ばあちゃんの酒ヤケした濁声が、小学生、中学生のオレには荷が重かった。

店主も二人が何者なのかしっかりわかっていたので、大久保ばあちゃんのお客さんか、じいちゃんの繋がりのある方か。。。とにかく他のお客さんに迷惑がかかるレベルの口喧嘩だったが、注意をしにくるような事は一回もなかった。

オーダーを持ってくるついでにまあまあ落ち着いて的な事を言ってくれてはいたが、その場を救ってくれる救世主ではなく、帰る際、厨房前に立って、涙で前が見えないぐらいになっているオレにいつも優しく話しかけてくれたのを覚えているが、少しは小学生のオレを助けてくれとココロで思っていた。

そのぐらい手のつけられない裏社会の喧嘩だったが、オレの周りの酒飲みはみんなそんな感じだったから、強弱は感じたが、良し悪しはまるでわからなかった。

何が正しくて、誰が正解なのか、どういう事が悪くて、何をしてはいけないのか、学校レベルの道徳は理解できる頭はもちろんあったが、その教えを実践するようなシチュエーションには恵まれなかった。


じいちゃんの*ひ・み・つ*

聞いた話では、じいちゃんは、どういう理由かわからないが人を殺めて合宿に行っているということだ。

15年とかそんなもんだ。

模範囚で少し早い出所をしたそうだが、ケツ持ちのじいちゃん不在の長い間、歌舞伎町の屋台街は、ばあちゃんが守り抜いていたと思う。

組織名を具体的には言えないし、もう忘れてしまっているが、右の組織に所属し、熱心に活動していたと思う。

じいちゃんは酔っ払うとゲリラの話をオレにしてきたり、日本について熱弁を奮ったり、拳の強化の仕方などもじいちゃんから学んだ。

毎年正月に行っていた四万温泉(たむら)で平泳ぎを教えてくれたのもじいちゃんだ。

オレが保育園か小学校低学年当時は、露天風呂の脇にプールがあって夏はそこで泳いでいた。

全身紋紋のじいちゃんがオレに泳ぎを教えている写真が残っている。

基本的に優しく、楽しいが、酒が入ると雰囲気も態度も変わった。

肩を切りつけられた事があったみたいで、どっちの肩か忘れたが、ボルトが埋まっていて、それをオレに話してくれたことがあった。

酔った勢いで色々話していたと思うが、つねり合い、ひっかき合いぐらいの喧嘩しかしたことがなかった小学生のオレにはかなりインパクトのあったエピソードだった。

日本刀の切れ味についての話は特に記憶に残っている。

たしかタクシー運転手だったと思うが、口論になって日本刀で運転手の頭を切りつけたと。

そしたら頭蓋骨のカーブに沿って皮がめくれ血が吹き出したと。

想像力が優秀な自分は映画監督のように数台のカメラでその現場を瞬時に再現していた。

いつも通っている歌舞伎町の街で気が狂った日本侍が、ギラギラの日本刀で人を斬りつける光景は、ランドセルを背負ってチャイムで管理されている自分の歴史の教科書に深く刻み込まれた。

もちろん、ドリフやひょうきん族の話題と一緒に学校で語られることはなく、話を共有するような悪のレベルの高いヤンチャな仲間はその当時いなかった。


ゲリラ勃発

そのじいちゃんが暴れている。

助けてくれと大久保ばあちゃんから電話がかかってきた。

少しじいちゃんの様子がおかしく、ボケてきたと屋台街すぐ近くの飲み屋で愚痴りながら話をしていたから、突然ではあったが、じいちゃん対応の下準備はできていた。

自分にできることがあれば力になりたい。

だけど、ばあちゃんから泣き言を聞いたのは始めてだったオレは不安を覚えながら大久保通りをまっすぐ自転車を走らせていた。

小滝橋を右に曲がってすこし行ったところに大久保ばあちゃんの家はあった。

そこも都営住宅だ。

ノックし部屋に入ると大久保ばあちゃんが困り顔でじいちゃんをなだめていた。

しかしじいちゃんは聞く耳を持たず、怒り、怒鳴り、裏社会独特の狂気を放っていた。

オレがじいちゃんと話し、とりあえず落ち着こうとなだめてみるが逆効果だった。

どこから取り出したかわからないが、鈍く光る短い刃物が数本、手の中に収まっていた。

何を怒っていたのかよく覚えていないが夫婦喧嘩の成れの果てが刃物になったのだ。

それぐらいならよくある話だか、目の前で刃物を持っているじいちゃんは刑期を満了したプロだ。


不良のプロだ。


刃物の扱いを初めてみたが手馴れていて、素人が勢いで包丁を出している雰囲気とはまるで違う。

その短刀らしきものを怒りに任せて畳の床に叩き落とし脅し始めた。

ズドン、ズドン、と正確な角度で短刀は畳に突き刺さり、怒鳴り声と突き刺さる音と大久保ばあちゃんの鳴き声と。。。


オレは人生で初めて人にビビった。


本当の意味でビビったのはこれが初めてだった。

怖い地元の先輩に恐怖を覚えるのとは訳が違う。

人を殺めた過去を持つプロの刃物の脅しは想像をはるかに超えた恐ろしさだった。

15.6歳の若造にはその状況を解決する術が思い浮かばず、初めて恐怖で泣いた。

とにかく怖かった。

酒も入っているのか聞く耳を持たないじいちゃんの側に寄るのが精一杯で、やめてくれ。

と言いながら横で泣いた。

ただ、じいちゃんは止められないが、ばあちゃんの側にいて守る事は多少できると思い、じいちゃんを説得しながらばあちゃんの横にいった。

リビングから避難するように寝室に2人で座り、状況が変わるのを待った。

確か、帰れ!とオレに言っていたが、大久保ばあちゃんは泊まっていってくれと言っていたと思う。

正直、帰りたかったし、こういう状況で人は警察を呼ぶんだと、その場で起こった経験の中から110番する人に共感した。

だが、今までの経験の中からここで警察は呼べない。

そう判断したオレは大久保ばあちゃんといる事を決意したのだが、少し落ち着いたじいちゃんを見て大久保ばあちゃんは迷惑をかけた、帰っていいよと言ってくれたと思う。

心配だったけど、帰っていいと言われた後30分ぐらい様子を見て帰宅した。

父親にも伝えたが、どうする事もできないと、厳しい顔をしながら父親は言っていた。


戦後の爪痕

オレはとにかく何もできなかった自分の情けなさに打ちのめされた。

親との格闘の経験から、大抵の修羅場への抵抗力は持ち合わせていたし、たとえ刃物を持った不良と鉢合わせても立ち向かえる勇気があると思っていたが、ある意味振り切れた本物の不良を前に手が出なかったし、完敗だった。

15,6年間生きてきて、人を刃物で殺めた人間と接したことがなかったし、ましてその人に刃物を向けられた経験などなかっただけで、オレはそっちの道で生きる適性を持ち合わせていなかったと痛感した事件だった。


大久保ばあちゃんの泣きの電話は、その時が最初で最後だが、じいちゃんの乱心はおそらく、しばらく続いたと思う。



今伝えたのは、オレなりの非力なリベンジだ。

どんだけ深い傷を心に負ったか、わかるか、じいちゃん。

あんなの酷すぎる。

大久保ばあちゃんに対してもオレに対しても。

その後のオレの人生に大きな影響を与えた刃物の使い方だったから。


そのじいちゃんも他界するのに十分な時が流れた。


<TOP写真>2008年・USA・カリフォルニア・カーディフ

苦しんでいる人に向けて多くのメッセージを届けたい。とりあえず、これから人前で話す活動をしていきます。今後の活動を見守ってください(^^)