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腐った死体<母親>が死んだ


給食後、担任から告げられたアッパーカット

病院に運ばれてから、母親のもとへ行きたがらなかった父親も病院に向かったみたいだ。オレが学校に行ってからだったのか、その前に出ていたか、覚えていない。


オレは救急車で運ばれた次の日も普通に学校に行った。

学校では普通に過ごし、普通に給食を食べ、

20分間の昼休みに外に遊びに行こうと思っていたら、

教卓から担任に呼び止められた。


深妙な顔を浮かべて話し出した女性担任は、

オレに向かって驚くことを言い放った。


お母さん、亡くなられたんだって。。。

だからすぐに帰りなさいと。。。


はい。。。って言ったと思うが、なんて言葉を返してよいのか、

全くわからなかった。

心に下から突き上げるアッパー食らって動けなくなったような窮屈を感じた。


学校の指示で用務員の方が家まで送ってくれた。

一人で帰せないと思ったみたいだ。

(そういう場合、多分親や親戚、身元引受人が迎えに来るのかな?)


登下校のいつもの道を用務員の方に連れられながら歩いた。

約10分ぐらい一緒に歩いてくれた。

西向天神の階段を上がり、

大久保中学校の横を通り抜け、

まねき通りに出て左に進む。

炭屋の角を左に曲がる。

その奥に自宅があった。


自宅まで行くと、

にいちゃんばあちゃん(にいちゃんと一緒にたこ焼き屋経営)が待っててくれた。

ホッとした。

今でもハッキリ覚えている。

完全に家族の暖かさを感じた。


優しく包み込むようにオレを気遣ってくれた。

本当にありがとうございました。


父親が帰るまで待っている時間があったから、

オレはバレンタインのお返しに行くとばあちゃんに告げ、

返せるだけ返そうと自宅を出た。

受け止めたくない出来事だったんだろう。

当日なのに考えたくなかった。

よくわからない行動だけど、

お返しに向かった。


小学生の時に訪れた暴れん坊の母親の死は、やっぱり辛かったんだろう。

ようやく自分の過去を愛せるようになった今。

そういう自分を受け止められるようになった。


やっぱり辛かった。


誰にも言えない痛烈な孤独を感じた。



昭和63年3月14日ホワイトデー


母親の死を受け止めながらホワイトデーのお返しに向かって自転車を走らせた。

新宿文化センター脇の東大久保公園で友達と会い、何気なく振舞っていたつもりだった。


様子がおかしくみえたのか、女子からの視線を強く感じた。


それは明らかな哀れみという味わったことのない直接的な眼差しだった。

遠目から、といっても10m先ぐらいから、

当時大好きだった女の子が友達数人とオレを見ていた。

すぐにオレの母親が死んだ知らせが届いていると察知したが、その子の家に向かい、ホワイトデーに用意してたお返しを渡しにいかなければならない。


15メートル先ぐらい、あの目線は忘れられない。


考えるとしんどかった。


だか、任務を遂行して、これから始まる死の宴に立ち向かわなくてはならなかったから踏ん張った。

極寒の冷気を吸い込んで身体の中で滞留させているような冷たく、よそよそしい緊張感は、これから起こる予測不能の生活への不安と、周囲の哀れみから影響を受け、完全に自律神経を乱していたに違いない。


公園にいる時、

にいちゃん(テキ屋上がりのたこ焼き屋さん)がオレを探しにきてくれた。


散髪に行くぞと一言。


公園の目の前にあった理容室にお世話になっていたので、すぐに行けたが、面倒だし、心にそんな余裕がなかったが、先に行っててもらって、オレはオレの仕事をする旨を話した。


好きな子が住んでいる都営住宅のドアを叩く。

何階だったか。。。

正確に覚えていないが、角部屋だった記憶がある。でも、それも曖昧だ。


好きな子は家にはいなかった。

下の公園にいるから。

公園で渡せなかった。

だから、わざわざ家に行き、お母さんに渡した。


どういう気持ちだったのか覚えていないが、受け渡した好きな子のお母さんにお悔やみの言葉とオレに対して励ましの言葉をくれたと記憶している。

わざわざありがとうの言葉は、11歳のオレには処理できないお気遣いの日本語だった。死の話がこんなに早く回るのが不思議だったし、やはりみんなに知られていちいち対応するのも嫌だったし、気を遣われるのも辛いから嫌だった。


とにかく、、、そっとしておいて欲しいと願った。


目立ちたくなかった。


腐った死体は焼かれた

通夜、葬式と旧姓の母親の名前で執り行われ、母親方の親戚と隔絶した雰囲気が流れていた。

親戚からすれば、父親は大事な家族を病気の状態のまま突き放し、生活力のない状態である事は明らかなのに手を差し伸べず、離婚し、一切の関わりを絶ったからだ。

だが、アルコールの病気を抱えた家族は理解できるだろうが、病的酒飲みの家族が日常の生活から離れ、平穏な時間が流れる、あの開放感。

ずっと意味不明で常識的な理解を超えた振る舞いにかき回され、生きている心地がまるでしない家族が住む小さなアンダーグラウンドは、反社会勢力を生み出すには絶好のパワースポットに違いない。

不信と反骨精神、おぞましい大人の裏側を覗き見て一歩も二歩も同年代よりタフで強烈な狂気を備えることになるからだ。

タフとは表現できないケースも多くあるかもしれないが、一度壊れると手のつけられないコントロール不能の高エネルギーを帯びた反社会的モンスターを生むことになる。


母親を見送ってくれた方々、今思い浮かべても様々な方々が来られていた。

職なし宿無し、性別不明、二日酔い、前科者、反社会勢力、、、

歌舞伎町サーカス団。

そんな感じだった。


俺の担任や母親と付き合いのあった父兄の方々も来ていただいたが、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

何でかわからなかったが、今ならわかる。

死んでも母親の人となりを知られたくなかったんだと思う。

サーカス団の中で死ぬほど酒を飲み、荒れ狂い、ひたすらオレを困らせて死んでいった恥ずかしい母親を死体になっても見られたくなかった。


依存症の家族を持った経験がある方はわかると思うが、恥ずかしく、惨めで、生きた心地のしない生き地獄を世間に晒したくないのだ。


大好きな母親をどうして良いかわからない。

どうにも処理できない。

葬式でも複雑極まりない心理状態で寡黙に過ごした事を覚えている。


身体は焼かれた。


日本は死体を焼き切る。

身体が焼ける匂いなのか、骨という身体が出てきた時に受け付けられない匂いを嗅いだ。

これが人間の最後の匂いかと。


骨を見て、

にいちゃんばあちゃん(にいちゃんと一緒にたこ焼き屋経営)が

オレの肩に手を置いて、大きく震えて泣いていた。


困った。

完全に困った。


泣きそうだった。


が、我慢した。

我慢したか、よくわからない。

ショックがデカすぎて泣けないというのはああいう事なのかもしれない。


最後に、大久保ばあちゃん(歌舞伎町屋台街のボス)に仕切られて、

屋台仲間全員がオレにお小遣いをくれる為だけの列ができた。

みんな一万円を包んでオレにくれた。オレにお金をくれた方たちは20人ぐらいいた気がする。小学5年生には大金を手にしたが、父親に全て渡した気がする。

泣きながらオレに一言、

がんばれ!とか、

負けるな!とか、

何かあったらいつでも連絡ちょうだい!とか、

とにかく必死でオレの事を励ます方々が少し負担だったが、

やっぱり嬉しかった。


が、、、最後の最後で疲れた。


ずっと考えてこなかったこと、

思い出したくないことをいっぱい思い出したからだ。


思い出話を語りかけてくる親切な方々の話を受け取るのは、

かなり負担がかかった。

いい話、お涙ちょうだい話ばかりするんじゃねー、、、


帰りのタクシーで横や下を向きながら、父親にバレないように大泣きした。


バレてたけど、父親は何も言わなかった。


<写真>昭和53年頃・西向天神祭・にいちゃんに抱えられ・まねき通りにて。


苦しんでいる人に向けて多くのメッセージを届けたい。とりあえず、これから人前で話す活動をしていきます。今後の活動を見守ってください(^^)