モモ

#1 無駄な時間とは。

こんにちは!
毎週金曜日開館の【Vivid Books】へようこそ!
今週の一冊は、児童文学でありながらも、時間とは何か、本当の豊かさとは何か、大人でも考えさせられる名作です。

目次
1.今週の一冊
2.要約
3.学び・気づき
4.さいごに

1.今週の一冊

作品名:モモ
作者:ミヒャエル・エンデ(訳者:大島かおり)
出版:岩波書店、2005年(原書1973年)

2.要約

大都市の外れのさびれた円形劇場に、彼女はどこから来たのか、親は誰かも不明な浮浪少女のモモは暮らしていました。モモには話を聞く能力が優れていて、どんなに人生に悩んでいる人でも、モモに話を聞いてもらっているうちに、不思議と気持ちが晴れやかになり、たちまち問題は解決してしまうのです。ただじっと大きな黒い瞳で見つめているだけなのに、です。

そんなモモ達の暮らす街に「時間どろぼう」が現れ、大人たちの時間を奪っていきます。彼らは大人のところへ行き、時間をお金のように数えて、無駄を削り、節約させようとします。「あなたは、身体の不自由な母と接しているので、42年間で55,188,000秒の損失です」「あなたは毎日15分セキセイインコの世話をしているので、13,797,000秒の損失です」というようにです。さらに「睡眠に、食事に、映画に、合唱団の練習に、飲み屋に、読書に、、、」と計算し、相手をパニックにさせるのです。このようにして丸め込められた大人たちは、自分たちの無駄な時間を節約し、物事を早く終わらせ、生産性を上げることだけを考え、忙しい日々を過ごすようになってしまうのです。

大人たちは忙しくなると、子どもに高いおもちゃを与え、その代わりに自分たちは子どもと全く遊ばなくなりました。さらに、子供たちは親元を離れて、「子どもの家」で一括管理されるようになりました。そこでは「楽しいかどうか」という観点は無視され、すべてが「将来のためになるかどうか」に沿って遊びや勉強が決められていたのです。

モモはそんな「時間どろぼう」たちに変えられてしまった人々の忙しい生活を、もとの豊かな生活に戻すために、勇敢に敵に立ち向かっていくという物語です。


3.学び・気づき

①無駄の考え方について
②子供の遊び方について

「モモ」からの学びの1つは、無駄の考え方です。
「時間どろぼう」が奪った時間は、すべて「人間らしい営み」であり、人間の生活を精神的に豊かにしている部分であったと思います。しかし、これらは人間視点であれば無駄ではないと言えるかもしれませんが、「時間どろぼう」にとってはどうでしょう。彼らからすれば、生きるために人間から時間を奪う必要があるため、その手段として人間の仕事以外の時間をすべて無駄とみなすことは至極当然なわけです。どんなことにも言えますが、僕は無駄かどうかの判断にはなんらかの軸が必要だと思っています。
例えば、何も軸がなければ、「本を読むこと」「ラーメンを食べること」のどっちを取るかは完全に好き嫌いです。しかし、「今すぐお腹を満たせるのは?」という軸を持てば「本を読むこと」が無駄になり、「ラーメンを食べること」の方を選ぶべきだと言えるでしょう。逆に「ダイエットをすること」が目的なら、たとえラーメンが好きでも「ラーメンを食べること」は我慢すべき無駄なことになるでしょう。
行動判断には軸が必要で、人によってそれぞれだなということを改めて確認しました。「普遍的な無駄」は存在しないというのが僕の考えです。

もう一つの学びは、大人が忙しくなった後の子供の遊び方についてです。作中では、「リモコンで走らせることのできる戦車」、「細長い棒の先でぐるぐる円をかいてとぶ宇宙ロケット」、「赤い目玉をチカチカひからせて歩いたり頭を回したりする小さなロボット」が例に挙げられていて、作者のエンデはこういった遊びに対して否定的な見解を持っていたと言えるのではないでしょうか。

とりわけこまるのは、こうゆうものはこまかなところまでいたれりつくせりに完成されているため、子どもがじぶんで空想を働かせるよちがまったくないことです。ですから子供たちは(中略)動きまわるおもちゃのとりこになって、(中略)けれど頭のほうはからっぽで、ちっとも働いていないのです。
                 (p.110~111より引用、太字は筆者。)

しかし、僕はこれに対して、あえて批判的な見方をしてみました。
まず、そもそも本当におもちゃが子どもの空想を奪っているかは疑問が残ります。「科学的な根拠は?」系のガチレスが一つ。(笑)
さらにもう一つ、遊び方が固定化されたもの同士を組み合わせたり、違う要素を加えることによって、新しい遊び方を考えだす可能性を見落としているのではないかということです。遊び方が決まっていない単なる木箱や小石から自分で遊びを考えることが空想力を高める、という考えには同意できます。しかし、遊び方が決まっているおもちゃに対して、違う遊び方を見出すことにこそ、もっと大きな意味があると僕は思っています。
ただ、それを子どもが一人で成し遂げるのは難しいと思うので、大人は子供に「何を与えるか」ではなく、子供と「どう関わるか」を考える必要があると感じました。なので「おもちゃを使う遊び」自体は別に否定はしませんが、作中の子供たちに「大人が無介入である」という点においては、エンデと同じく、僕も疑問を抱きました。


4.さいごに

おおー、結構長めのブログになりました。大学のレポートくらいですかね。(笑)

実は、教育経済学の授業で金融リテラシーの重要性に関するような単元で参考にされていて、当時はあまり読もうとは思いませんでした。しかし大学に入って小説を全く読まなかったので、小説も読んでみようと思って手始めに、なんとなく親しみのある「モモ」を今回読んでみました。単純に物語を楽しむのももちろん楽しいですが、いろいろ考えながら読むのもまた楽しいですね。

小説、ハマるかも。

次の定期投稿は月曜日【ラーメン やまもと家#2】です。
それではまた。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?