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【第3号】感情を表現するのが下手なのです

1月某日|バーチャルコワーキングのはなし

この日はじめてTwitterのスペースに目的をもって参加した。ホストが話したり、だれかが学んだりできるわけではないスペース。では何をする場所か。それは集中するためのスペース。

この日やったことは、本を読む、仕事のひとり会議。ほかの参加者がなにをしていたかは知らない。ホストの方は執筆しているようだ。わたしはいつものように自宅のデスクでこのスペースだけを開いて作業をした。家にいながらオフィスにいる感覚を受ける。ありがたい場。

ホストの方いわく、アイコンが並ぶとバーチャル相互監視感が出るので、やらなきゃいけない状況になれるらしい。わたしもただただ無言のバーチャル集中部屋でもくもくと作業をしている。この記事を書いているいまも参加させてもらっている。


1月某日|仕事の作法のはなし

平田オリザさんの『対話のレッスン』を再読。気になった一節がある。それは、演劇を創っていくうえでのコンテクスト(文脈や背景)のずれの内容。平田さんはこう説明している。

俳優というものを、言語の側面から定義するならば、「他人が書いた言葉(=台詞)を、あたかも自分が話すごとく話さなければならない職業」だからである

わたしは演劇の世界は詳しくないがこれを読んで感じたこと。それは世の中にある仕事の多くは、自分の言葉で話さなくても済んでしまうんじゃないかということ。これに恐れを感じた。

多くの人がその仕事を演じなければ仕事が成り立たない、お給料がもらえない、生活できない世の中になっているのではないかということ。接客マニュアル、会社の風土や風習、メールのテンプレートなど。台詞があれば効率よくことが進むし、波風も立ちにくい。たとえ波風が立ったとしても他人が作った言葉を順番通りにやっていれば責任から少し逃げることができる。

だけどこれが毎日、何時間も続くと考えられなくなる人が増えるのは当然のことだなと。これは西村佳哲さんの本『自分をいかして生きる』に書かれている「ここに”いる”、”いない”」につながっていると思った。わたしも自分用に台詞を使うときがあるが、この場面では単なる流れ作業のように思う。相手を観て接する時間はなくしたくない。


1月某日|鎧を脱ぐお年頃のつづきのはなし

先日の記事「鎧を脱ぐお年頃」の続き。対話の場に参加してから自分がいまどう動いていいか分からなくなった。身動きが取れない感覚に近いんだけど、歩みは止まらず進んでいる。そのなかで自分にできることに尽力していきたい感覚。

矛盾した言葉だけど「身動きが取れないのに解放的な状態」になった。この状態になるきっかけは昨年11月にパートナー先の方ふたりとお話ししてからだ。この日から自分を見つめ直す期間に入り、自分が外でしている行動に興味が薄れてきたというか、無理する必要ないんじゃないかと。この思いにとどめを刺されたのが冒頭の記事で記した対話の場。いまはすごくいい気分。

毎日の気づきや感情を手帳に記録することも、今年からはじめたnote執筆も、だれかに言われたり、自己啓発本を読んでこうした方がいいんかなと疑心暗鬼のなか従順したりすることなく、自分の内側からやりたいと思ったことをやっている。長くなりそうなのでこの件は別でまとめることにする。


1月某日|日程調整のはなし

「相手:〇月〇日空いてますか」
「わたし:何時ですか」
「相手:〇〇時です」
「わたし:その時間は空いてません」
「相手:〇〇の件(私たちにとって重要なこと)で話したいです」
「わたし:それであれば調整してみます」

これで3ラリー。わたしがすごい無駄だと思うことです。日程調整をはじめる側(相手)が1回目の連絡で日付と時間と要件を伝えてくれれば、わたしの返事をもって1ラリーで完了する。面と向かってするやり取りなら無駄とは思わない。電話でも。だけどチャットでこれをされると…ね。


1月某日|記憶力のはなし

わたしは物覚えが悪い。とくに自分がいなかった場は覚えにくい。この「いなかった」はその場に自分が向き合えていなかったという意味。なにか他のことをしながら話しかけられたときだったり、別のことを考えているときだったり。だからわたしは忘れないようにメモをする。わたしはここに「いない」のかもしれない。

逆に「いた」ときのことは鮮明に覚えている。相手の表情やしぐさはもちろんのこと、わたしが何を言ったか、その場になにが置いてあって、周りからなにが聞こえたかなど。メモをしなくても鮮明に覚えている。たぶん「いなかった」ときは感情より思考が働いてしまって自分の言葉で話していないんだろうな。


1月某日|注目される度合いのはなし

わたしには裏方の役割が求められるときがある。バックオフィス的な意味合いだ。この日、とある仕組みを入れたスプレッドシートを提案した。みんなの反応がよく、視線がこちらに向き、わたしは照れる一方。

家に帰って思い返すと昔からそうだと気づく。部活で1番になったとき、教育実習で教壇に立ったとき、プレゼンをするとき、バンド活動をしていたとき。わたし単体で注目されるととたんに恥ずかしさが出てくる。行き過ぎると耳が真っ赤になるらしい。

これはなぜかと掘り返してみた。たぶんなにがなんでも注目されたくないわけではなく、みんなのなかの一部程度で注目されたい、一部でいれれば満足という気持ちがあるんだと思う。

わたしがラーメンだったら出汁の煮干しでいい。麻婆豆腐のひき肉を炒めるときのテンメンジャンでいい。食べたとき「出汁がいいね!」「ひき肉がいいね!」このくらいの注目でいい。通な人だと「出汁の煮干しがスープを引き立ててるね!」「ひき肉を炒めるときのテンメンジャンはなにを使ってるの?」となるかもしれないが、ここまでくると単体として注目されすぎている。

わたしはここまで具体化されると恥ずかしさが出る。わたしは裏方気質が性に合っているんだろう。


1月某日|意図を見失ったはなし

ひと月に何度かわたしが進行をする対話プログラムがある。この場では参加者から話したいことを出してもらって、意見交換したり、思いを聞いたり話したりする場。なのにこの日、私はしゃべりすぎたので反省している。理由ははっきりしている。

手帳の使いかたが話題になったから。こういう風に使っていて、こういう効果があるんだよと独演会状態。好きなことの話になるとテンションが上がって話し続けてしまうなんて単純だねわたし。場の意図を受け止め直します。

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