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海外に住もうと決めたその瞬間のできごと。

井の中の蛙、旅に出る。

それまで野球(か人前での漫才)しかやって来なかった僕は、あるきっかけで強烈に外の世界に興味を持ち始めていた。世の中の事はもちろん、身の回りの事でさえあまり分かっていなかった。

初めて日本の外に出たのは18歳で、行き先はモンゴルと悩んだ末、英語圏であり人も穏やかそうなニュージーランドに決める。より安心できそうな場所から旅を始めようと思ったのだ。

初めてのパスポートを手に、異なる言語、羊の群れに往生するバス、北斗の拳でしかしらなかった南斗十字星、’’フレンドリー’’なニュージーランド人、見た目がどことなく自分たち似ているマオリの人たち...の中を駆け抜けた旅だった。

とても新鮮な日々の中にちょっとほろ苦い思い出もある。(そして甘酸っぱい)
そしてなによりもこの旅は、アウトドアにハマるきっかけを作ってくれた。

その話の詳細は別の機会にするとして、今回は僕が海外に住んでみようと決めた時のことについて書いてみようと思う。今まで誰にもちゃんと明かしてこなかったのでなんか恥ずかしいけど。

ところで「心が動く瞬間」のことについて、何かいい表現がないかと探していたら、こういう表現を見つけた。

僕たちは心の中にいくつかのたまごを抱えています。普段はその存在にすら気づかないたまごですが何かを経験して心が大きく揺れたとき、たまごはパカッと割れて新しい命が飛び出してきます。それは心の住人です。ロックンロールに出会ったとき僕の心の中で1つのたまごが割れました。それは初恋のように僕を夢中にさせました。今も元気なその心の住人は僕にマイクロフォンを握らせました
by甲本ヒロト

インターネットの記事で見つけたので真偽のほどはわからないが、彼の難しいことばを決して使わない表現方法は、なんか本当っぽい。そして、僕にとってすごくわかりやすい。というわけで今回の僕のストーリーを通じて、何か新しい自分のたまごに気づいてもらえたら嬉しいです。

では、時は飛んで2014年のカリフォルニアへ。

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外で寝るのが当時のマイムーブ

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ロードトリップの途上で。


YOSEMITE
2014年の春、僕はカリフォルニアのヨセミテとビショップにクライミングトリップにでかけた。クライミングトリップといっても、この時はボルダリングがメインで、日本からの友人ブライアンとのロードトリップだ。彼はアメリカ人だけど日本に住んでいる。たぶん当時働いていたパタゴニアの渋谷ストアに彼が遊びに来た時に出会い、交流が始まったと思う。

ヨセミテから始まったこの旅は、荷物はなるべく少なめにして移動自体も楽しもうというのが旅がテーマだった。クライミングの結果にはあまりこだわらず、仲良くなったサーチ&レスキュー(国立公園の救助隊)の人から自転車を借りて公園内を走ったり、突き抜けるような青空や、乾いた空気を存分に吸収した針葉樹の香りに五感を解き放つ日々。

夜はもちろん焚き火を囲み、キャンプ場で出会った人のギターのつまびきに耳をかたむける。キャンプ場の端っこに常設されているテントのようなサーチ&レスキューのコテージを横目に、この仕事の生活ってどんなだろう。もし自分がここで働くのなら何が必要なんだろう...なんて想像していたのを今もよく覚えている。そんな感性に突き動かされるがままの2回目のヨセミテ一。


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とある日ブライアンと。今思えばあまり意味をなさないクラッシュパッドとともに。(写真の中にある黄色い落下時の衝撃吸収用のパッド。通常もっと分厚い)


BISHOP

そして次はヨセミテからタイオガロードを走り、シエラネバタ山脈の東側ビショップについた。ここはハイボールクライミング=「ハイ(高い)」「ボルダー(岩)」と呼ばれるタイプのクライミングの聖地で、名前の通りでかい岩がゴロゴロしている。「いや、岩というかビルじゃないか」と言うぐらいのもある。

しかも見渡す限り一面にだ。実は僕はハイボールが好きだ。怖いけど身軽な状態でグイグイ登れる感覚が好きなんだと思う。目の前に広がる登りごたえのありそうなボルダーの海に、僕はわくわくが止まらなかった。(ビルのやつは見ただけ。)

今までで一番好きなクライミングエリアかもしれない。


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ビショップのバターミルクエリア。ざっくり言うと、この→「x」ぐらいが人の大きさ。

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クライミングマスターの犬が見守る中、あと少し。
時に怖いけど、身軽にな状態でがしがし登れるのが好き。


数日がたち、ちょうど近くのオーウェンズリバーに釣りに来ていたスコットとジョーと合流する。彼らは野生のブラウントラウトとの出会いを求めてこのエリアにきていた。いい釣り場といい岩場は実は同じ場所に存在していることも多いのだ。
(トラウトレイクとデシューツリバーなどもそう。)

スコットとは2011年に彼が働いているパタゴニアのサンフランシスコストアで出会い、その後日本に来てくれた時も一緒にキャンプやクライミングをしたりと交流があった。少し僕より年上の彼は、いつも僕の想像の少し先を行っていて、今では僕のメンター的な存在でもある。まだ本人には伝えたことないけど。アメリカの黒人系コミュニティにアウトドアを広める活動もしている。

ジョーとは日本のパタゴニアで一緒に働いていた時からの仲だ。一緒にトリップに行ってはハードコアなことをするわけではないけど、アクシデント的に有名な心霊スポットでキャンプしたり(どうりで誰もいなかったわけだと後から納得した)、なぜか蕎麦屋で低体温症になったりと、話題と笑いが絶えない旅が多かった。
彼は「持続可能な漁業」の広めるために起業し活躍している。

パタゴニアという会社を通じたコミュニティの繋がりはつくづく興味深い。

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釣りにきていたスコットとジョー。


時間が経つのは早い。特に楽しい時はなおさらである。今回もたくさん笑ったクライミングと釣りとキャンプの日々もいよいよ終わりを迎えた。

近くにあるおじいちゃんの別荘(おじいちゃんの留守中には大変お世話になった)に滞在を続けるブライアンに別れを告げて、ここからはサンフランシスコにあるスコットのアパートへ向かうことになった。

その道中、だだっ広い農場とその脇に立ち並ぶ大きな風車に囲まれていたこと。
そしてあたり一面が夕日で真っ赤に染まる中、その夕日に向かって車がひたすら走っていったのを鮮烈に覚えている。

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釣りする人にもいい。僕のお気にりの場所の一つ、イースタンシエラ。

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2回目のサンフランシスコへ


スコットのアパートはサンフランシスコのミッションストリート沿いにあった。
「今のミッションストリートは昔の治安の悪さからは比較にならないほど住みやすくなったんだよ」と教えてくれた。古着屋やレコード屋のようなおしゃれなお店と、まだ少し危なそうなにおいが入り混じるストリート。

そんなサンフランシスコでは夕方からグローブを持って野球の試合を見にいったり、ラテン系の人たちのパレードに出くわしたり、憧れだった本屋さんやコーヒー屋さんを巡ったり。(この当時のお気に入りは有名だけど「Four Barrel Coffee」と「City Lights Books」だ)

男三人、クラブでプリクラを取ったのも今となってはいい思い出だ。
(プリクラと言っても中身は証明写真の機械だったのがなんか可笑しかった)

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Four Barrel Coffeeの前。路上とお店が融合してストリートを作りだす。
コロナがあってからはバンクーバーでも多くみられるようになった。

この街での僕は、通りを歩くたび、街の喧騒にふれるたび、匂いを嗅ぐたび、心が大きく揺さぶられていた。それがなぜなのかその時は言葉にできなかったけど。

たぶんそれは今思うに、この土地の人が持つ活力と路上でたまに見る絶望感、人種の多様性と一部の特権社会、自分の育った国への理解や尊敬と無理解や無意識的な差別。シリコンバレーのスタートアップとヨセミテの大絶壁。そういった相反するもののコントラストが同時に存在していることが強烈すぎたのかもしれない。

おしゃれなメガネ屋さんにしか見えないオトナ向けのトイショップで、若い女の子たちがトイを手にとっている姿は、僕がクライミングシューズを選んでる姿と何にも変わらなかった。

うん、やっぱり自分の常識となにか全然ちがう。

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ひび割れるたまごから、出ていくカエル。

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お気に入りだったアパートの屋上。

ある日、屋上にて。

スコットのアパートには屋上があり、僕はそこが大のお気に入りだった。
ある日そこからジョーと2人で街をなんとなく眺めていたときのこと。
(ちなみにジョーはこの時すでに帰国のフライトを逃し滞在を延長していた)

ジョーがわけもなく屋根をつたい隣のアパートの上を歩き出した。それをぼんやり見ていた僕はふと彼の昔の話を思いだす。彼とは初めてあった時から、昔の話をいろいろ聞かせてくれていた。

ジョーは18歳の時に大学進学のためにサンフランシスコにきた。
そしてバス停でタバコと引き換えに単語を教えてもらっていたことから、釣りに行った先でアクシデントが起こり、4日間ほど家に帰れなかった...などなど。
(彼の名誉のために許可なく詳細は書けないが、彼はとてもスマートでユーモアもあり話しがうまい。いつもたくさんの刺激をもらっている友人のひとりだ。)

-そうか、18歳という年だったのか。
つまり僕でいうと、冒頭に書いたニュージランドに行こうとしてた時だ。

ニュージランドでの自分を思い出し、それからその時にこの地にいる自分を想像してみる。ドキドキして胸が締め付けられる感覚が襲って来た。

どのバスに乗ればいいか分からず呆然としていたり、すぐにスリに合っていそうな自分の姿が浮かぶ。おどおどしてスーパーでの買い物もままならないだろう。
あとなぜか、2008年頃にLAのリトルトーキョーで出会った人の顔も浮かんだ。彼は色々な事情で8年ぐらい日本に帰っていない...と言っていた。


海外で暮らすって言うと楽しそうに聞こえるけど、学生でしかも一人暮らしだと、その何倍もの見えない努力と苦労が必要なんだろう。とひしひしと感じた。

もちろん当時の僕には大学進学できる学力も全然なかったし、お金や...というか、そもそもそんなアイデアすらなかった。今ですら旅は少し経験してきたけど、海外に住んだことなんてない。

「18歳の時にもしここに来てたら人生変わってたのかな」と、ふと思う。

-僕はその時29歳。

すると、なんか聞いたことがあるような言葉が頭に浮かんだ。

「人間、志を立てるのに遅すぎるということはない」
そりゃ、もちろん一理ある。
「ギターがうまくなるのを待っていたら君はおじいちゃんになってしまうよ」
と言った人もいるらしい。

その意味は少し違って、始めるのに早すぎるなんてことはない。
(すみません、正直に書きます。2つ目は完全なる後付けで、この時の自分の心境を何か言語化できないものかと、さっきググりました。。)

そうだ今がいつも人生で最も若い日なんだと気付いたその時ー

ーパカっ。たまごのからが割れる音がした。


そうだ、ワーホリにいこう。

18歳の時にしかできないこともあれば、少しは何かを経験してきている30歳にしかできないこともあるはず。自分探しではなく、自分の培ってきたものを使おう。見たいと思うもの見て、したいと思うことをしよう。

人生経験がある分ノウハウもあるのだ。うん、この感覚は正しい。
と僕はもうすでに確信していた。

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あらたなジンセイのはじまり。

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僕の心が決まった瞬間にパチリっ。心が決まれば、あとは簡単。


たまごから孵ったかえる?は、再び今にも井戸の外に飛び出そうとしていた。
あの映画によって衝撃を受けた以来の沸き立つ感じだった。

カナダへのワーホリがすぐに頭に浮かんだのは、その時よく一緒にアウトドアをしていた、ぷっちょという友人の影響もあった。彼はオーストラリアとカナダのワーホリを経験していて、特にカナダの話はよく聞いていたのだ。今は父ちゃんになったぷっちょ。元気にしてるかな。(韓国にもクライミングいったね!)

ワーホリであれば30歳中までなら申請できるし、費用もそんなにかからない。
申請したのが受理されたなら、あとは行くだけだ。しかもバンクーバーだったら、ワシントンもオレゴンも近く、北米を大陸と捉えて見て回るには良さそうだ。

一応書いておくと、別にカリフォルニアだから惹かれたわけではなかった。
ヨセミテやビショップはもちろんすごいけど、他にもスコーミッシュやレベルストーク、オレゴンのスミスロックやユタのインディアンクリーク、カナディアンロッキーにユーコン、メキシコのバハカリフォルニア半島。他にもバンクーバー、シアトル、ポートランド…これ全部地続きだ。

こんな風に行ってみたい場所の名前をあげるだけでも止まらなかった。

島にはあまりない壮大な自然と、その土壌と人が作る文化に広く触れたかった。
日本に比べるとめちゃくちゃ広い大陸を、車で生活をしながら巡ってみよう-。

こうしてあらたな夢が始まっていった。

さいごに

さて、以上が僕の海外に住もうと思ったきっかけの話。
まさに旅の「高揚」「効用」だったのかもしれない。

-あれから6年。できたこともあるし、まだまだこれから予定していることもある。海外の人がどんな習慣で暮らし、何に関心を持ち、どんな事に悩み、日本のことはどう見えているのか。あの時よりは少しは知っている気もする。さらに少し日本を離れたことで、島国特有の自然や日本の文化、人の素晴らしさも改めて感じていることがたくさんある。

でも、「海外に住んで何が一番変わったの?」と聞かれれば…

…あえてヒミツにしておこうかな。笑 (わざわざ記事書いてるクセに)
何が変わるのか、変わらないのか自分で確かめるのもいいかもしれないし。

でも言えることは、海外に住むこと自体は魔法ではないということ。
自分の意思で決めることで何かが変わるということ。

この機会に写真を見返し、記憶を掘り起こしながら書いていると、自分でも熱い気持ちが蘇ってきて、なんとも言えない新鮮な時間になった。

また今回触れていないワーホリに関してのお役立ち情報などは別に書こうと思うのでよかったらまた読んでください。最後に、書きながら自分で気づいたことをメモして終わりにします。

人が最も若い瞬間は、いつも今だ。昨日がダメでも、明日が楽しみでも、存在するのは今しかない。今が未来である。始めるのに早すぎることなんてない。...Memo


もしこのストーリーを通して、何かご自身で思い出したことがあったら喜びに尽きます。それでは。
smile:)


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