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【感想】書籍『映画を早送りで観る人たち』

昨年3月頃、SNS上でバズった現代ビジネスの1本の記事。

映画好きは「何だその鑑賞の仕方は!けしからん!」と怒り、倍速視聴派は「うるせぇ!映画ぐらい好きに見させろ!」と怒り返していた(どっちも私の偏見を含みます)
バズった余波はTwitterに留まらず、長文で意見を述べているブログやそれこそnote記事も少なくなかった。
そんな風に大バズりしたおかげなのか、そこから連載のような形で深掘り記事が書かれ、それらも(少なくとも自分の周りでは)話題に。

本書はそれらの記事を大幅に加筆・修正する形で書籍化したもの。

映画を早送りで観る人たち≠若者

まず、本書を読む上で気を付けておきたいのが下記2点。

  1. タイトルにもなっている「映画を早送りで観る人たち」とは必ずしも若者だけを指すものではない(著者も明言)

  2. 本書が扱っている“問題”は倍速視聴だけではない。

単純な若者批判でもなく、また倍速視聴に限らないもっと普遍的な映画鑑賞全般についての内容になっている。

「作り手の意図」とは?

倍速視聴に対する否定的意見として思い浮かぶのは「そもそも監督をはじめとする作り手が意図した映画を見たことにならない」というものだろう。

この意見の前提部分に否定の余地は無い。
マジョリティの映画監督が自身の作品について「倍速視聴でも問題ない」と考えているというのはさすがに無理がある。
特にアンケートなど裏付けとなる統計的データがあるわけではないが、以降これは常識として進める。

ただ、じゃあ倍速視聴さえしなければ作り手の意図した作品を鑑賞したことになるのか?というとそう単純な話ではない。
(本書でも終盤に同様の議論が出てくるが、自分は前述の記事を読んだ当時からぼんやりとこの事を考えていた)
映画鑑賞には様々な変数が存在する。

  • 画面サイズ(劇場スクリーン、テレビ、タブレット、スマホetc.)

  • 場所(映画館、自宅、カフェetc.)

  • 操作の可否と実施(早送り・巻き戻し・一時停止が可能か/実際にやったか)

  • 周囲の環境(マナーの悪い客の有無など)

そういえば今日観た映画で隣の席の人がポップコーンを取る際に異様にガシャガシャ音を立てる人でキレそうになったw(余談)

厳密には、映画館の出来るだけ大きくて音響も整ったスクリーンで周りにマナーの悪い変な客がおらず集中して鑑賞できて初めて作り手の意図した作品に向き合える。
倍速視聴とは別に、スマホ画面で鑑賞してもそれは同じ映画を見たことになるのか?という議論はずっと前からある話だ。

極端な話、クリストファー・ノーランの『TENET テネット』やドゥニ・ヴィルヌーヴの『DUNE/デューン 砂の惑星』をグランドシネマサンシャイン池袋もしくは109シネマズ大阪エキスポシティで見なかった人は全員が作り手の意図に沿っていないことになる。
(これは極論です)

※IMAXの画角については上記の記事を参照

作り手が意図した作品として映画を鑑賞するというのは案外簡単なことではない。

ただし、ここで私がやりたいのはこれら作り手の意図を毀損し得る鑑賞形式を糾弾することではない
金銭面や住んでいる地域など事情は様々だ。
そもそも映画が映画館という特殊な環境によって守られてきた最後の砦というだけで、他の領域では既に作り手の意図から外れた鑑賞は完全に浸透している。

  • 音楽(アルバムを通して聴かずに1曲単位で聴く)

  • テレビドラマ(早送り、巻き戻し、一時停止機能の使用)

  • 小説(どこまで読んだら休憩するかは完全に読み手に委ねられている)

全てスマホ登場以前からの状況である。
音楽はiTunesが1曲単位での流通を決定的にしたし、テレビドラマは録画機器の普及によって時間のコントロール権を視聴者に明け渡した。
そもそもテレビというメディア自体がスマホ以前から食卓の片付けや洗い物をやりながら見るというスタイルと共存してきている。
(現に脚本家の橋田壽賀子は「画面を見ていなくても話が分かるように」やや過剰なほど説明的な長台詞という独自スタイルを築いた)

これらを可能にしてきた技術の進歩の波が動画配信サービスによって遂に映画にも訪れたということなんだと考える。

以上より私のスタンスは

  1. 倍速視聴は明らかに作り手の意図を毀損するものである。

  2. しかし、作り手の意図に沿わない鑑賞というのは何も倍速視聴だけではない

  3. 音楽アルバムがシャッフル再生で解体されて1曲単位で聴かれるのが当たり前になったように、映画の倍速視聴も時代の流れ的に不可逆であろう。

ネタバレ問題

本書では「ネタバレサイトを事前にチェックして結末を把握してから映画を見る」という若者が紹介されている。
その理由として挙げられているのは

  • 作品選びで失敗したくない

  • タイムパフォーマンス観点でどんな気分になる作品なのか予め知ってから見たい

といったもの。
個人的にはこれらの意見には賛同しかねるのだが、実はこれは映画というアートフォームに対する重大な問いが秘められている。
それは「映画の面白さって何?」というもの。
多くの人にとってその答えは「ストーリー」だろうが、実はそうとも限らないのである。

まず、物語学・物語論という学問において物語は多くの場合に訳語として当てられる「ストーリー」ではなく「ナラティブ」と呼ばれる。
ナラティブを構成する要素は大きく2つ。

  1. 物語内容(Story、ストーリー)

  2. 物語言説(Discourse、ディスコース)

ストーリーは所謂あらすじ。何が起きたか?
ディスコースとはそれをどう語ったか?
「演出」が近い日本語か。

ここで毎週ラジオで週刊映画時評コーナーを行なっているライムスター宇多丸が2016年に出版した『ライムスター宇多丸の映画カウンセリング』を引用する。

本書は読者からの人生相談に映画をオススメする形で答えるという雑誌連載を書籍化したもの。
「小説を買うと先に結末を読んでしまう。その後はじめから読んでみるものの結末が分かっているので全然楽しめない」という42歳の方からの相談。

 ということで今回は、そもそも小説や映画など「物語形式をとっている娯楽作品」というのは、本当に「結末を知っているとつまらない」ものなのか?というところから改めて問い直す作業をしてみたいと思います。
(中略)
 あらすじ的な意味で言う「ストーリー」というのは、「物語形式をとっている娯楽作品」そのものが実際に「語っていること」と、実は同じものではなくて、それは、読者なり観客なり(作り手なり!)がその作品をあくまで後から自分なりに再構築した、「また別のフィクション」に過ぎないんですよ。
 本当は、相談者の方含めて、我々読者や観客は皆いつも、「作品そのものが語っていること」を普通に理解し、楽しんでいるはずなんです。映画であれば、それは映像と音響の組み合わせが織りなす何かであって、そのことは誰もがわかっている。はずなのに…いざそれを事後的に説明しようとすると、まずはどうしても、あらすじ的に単純化された「お話」にいったんは還元せざるを得ない。
(中略)
 ちなみに僕がラジオで扱う映画をできるだけ複数回観るようにしているのも、初見時はしばしば「お話」の認識(すなわち“あらすじ還元”)に手一杯で、「真にそこで語られていること」を見逃しがちだったりもするからです。
(中略)
もちろん結末はおろか、全てストーリー展開を把握した上で観返すわけですが、2度目以降の方が、遥かに面白くなることが多いですよ。

さらにSpotifyオリジナル番組『三原勇希×田中宗一郎 POP LIFE: The Podcast』でも同様の話がされている。

映画・音楽ジャーナリストの宇野維正と音楽ジャーナリストの柴那典をゲストに迎えて「そもそも映画を観るとは本質的にはどんな体験なのか?映画的快楽って何?」といった話題を掘り下げる回(2019年配信)

MCU映画は細かなプロットまで把握した上で観るというタナソー。

田中「ミステリー的なプロットを映像の編集で繋いでみせなきゃなんない映画っていうのは脚本に振り回されてて面白くないんですよ。でもやっぱり物語の力ってすごい強いから、そこに引っ張られちゃうのね。それが嫌だから必ずストーリーとプロットを把握してから観る」
宇野「まぁけど映画の批評をしてて何が面白いのかっていうと、まず大前提としてほとんどの人は柴が言ったように映画は筋書きで観てるんですよ。もちろん映画が良い悪いって言う時は筋書き以外のさっき言った映画的快楽(※注:撮影と編集)がサブリミナルには効いてるんだよ?」
田中「そう!確実に効いてる」
宇野「あるものと無いものじゃ効きは全然違うんだけど、基本的にはみんな筋書きで観てるところに、その映画の良さを筋書き以外から持ってくるのが書いてても楽しい。だから筋書きで観ること自体は悪いことじゃないというか普通に当たり前のこと」
田中「音楽でいうと歌詞を聴くのと近い」
宇野「ただ、とはいえネタバレに過度に敏感になってるこの風潮はあまりにも筋書きのことしか考えてない」

ちなみに上記ポッドキャスト(特に後半)で話されている事はかなり本書と通じるものがある。

念のため書いておくと、本書で紹介されているネタバレサイトを先にチェックしてから観るというのはたまたま行動が同じというだけで映画に対する理解度では雲泥の差がある。
(まぁ映画に対する理解なんてものは端から求めてないって話になるのだろうけど)

ネタバレを知ってから観るという行動への忌諱も昨今のネタバレ警察的な息苦しい相互監視も本質的には表裏一体で、その根底には「映画=ストーリー」という認識があるのかなと思ったのでした。
自分もリモートワークになる前は金曜日の夜に新作映画を観て、翌土曜日に同じ作品をもう1回観るって生活をしてたな。

学生時代の「好き」は一生もの

さて、ここまで書いてきて「結局お前は倍速視聴について肯定派なの?否定派なの?」って話だが、自分のスタンスは 

  1. 自分はやろうとは思わない。

  2. ただ、まぁ好きに観ればいいんじゃないでしょうか。

だって、たかが映画だし。
(念のため書くと年間80〜100本の新作映画を劇場・配信で見る程度には映画を好きな人間の目線からの「たかが映画」です)

ただ、もうすぐ35歳になるおじさんの経験則から一言だけ言わせてもらえるなら、本当に好きなものは持っていた方が良い。
というのも、本書で紹介されている倍速視聴してまで作品・コンテンツを観たい動機が純粋に「観たいから」という内的なものではなく「流行りに乗り遅れたくない」「友達との会話で仲間外れにされないため」という外的要因によるものに思われるから。
20代後半ぐらいから友達も自身もライフステージが変わり始めて「あの映画観た?」なんて話をする機会は減っていく。
ここで『水曜日のダウンタウン』を手がけるTBS藤井健太郎とアイドルグループBiSHをプロデュースするWACK代表・渡辺淳之介の対談本を引用しよう。

ー企画のためのインプット方法を教えてください。
渡辺 元も子もないですが「学生時代にいかに遊ぶか?」ですね。社会人になって、映画を観る時間や音楽を聴く時間って、圧倒的になくなっちゃったんですよ。大学生って、「インプットしなきゃ」なんて思わずに、ただただ好きなことをやっているじゃないですか。その時間こそが、すごい財産なんだろうなって。
(中略)
藤井 学生時代になんとなく好きだったものが、いまの仕事のベースになってるのは間違いないでしょうね、16、17のときに好きだったものは結局ずっと好きだし、もっと言うと14歳のとき最初に好きになったものって、一生ものだなとは思う。でも、なんにも知らないし、何が好きなのかわからない人って作り手でもたまにいるじゃないですか?「どうしてそうなっちゃうのかな」って。
渡辺 たしかに、空っぽな人っていますよね。
(中略)
藤井 学生時代の“好き”って感覚は大事ですよね。

僕も学生時代の友人で今でも繋がってる人いるけど、LINEのやり取り含めて話す頻度は多くて年に数回かな。
みんな変わっていきますから。

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