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第10回:『世界で一番ゴッホを描いた男』

正直にいって、僕はゴッホの作品があまり好きではない。

ある人にいわせれば、シンプルな題材をパワフルな色彩と長い筆使いでダイレクトに迫ってくるのがゴッホの魅力とのことだが、確かにゴッホの作品は彼が属する印象派の他の画家に見られるふわっとした雰囲気のそれとは異なり、対象がこちらをじっと見つめているかのような印象を与えてくれる。よく印象派は「光の表現」といわれることが多いけれど、ゴッホは光をとおり越して太陽そのものの生命力を描いているような気さえする。僕だってそのことくらいは理解している。僕が好きではないといっているのはもっと別の部分、「絵そのもの」にある。



「怖いもの見たさ」という表現がある。見れば確実に怖がるくせに、一度それを見るまでは頭の中にへばりついている「あれ」のことだ。ゴッホの絵は、僕にとってまさに「怖い」のだ。「灰色のフェルト帽の自画像」なんてまさにそう。絵の中のゴッホは「いつまでそこにいるのかね、私は君みたいに暇じゃないんだよ」と語りかけてくるような雰囲気で僕は未だにこの絵を直視できない(別に僕自身、暇なわけではない。ただなんとなくそんな声が聞こえてきそうというだけだ)。「ひまわり」なんてのも花の1つひとつが独立して我先に太陽の光を浴びようとする生命の様子がかなりリアルだ。生命はときに利己的に振る舞う。光を浴びるためなら他の花を押しのけるし、そこに遠慮というものは見られない。

ゴッホの絵にはそんな生命や自然の美しさを超えた「怖さ」のようなものがあるのかもしれない。直視すればそこに引きずり込まれ、こちらの生命力すらも奪い去ってしまうかのような、そんな怖さと美しさが入り混じった感情を読み取ってしまうのだ。だから僕は、いまだにゴッホの絵が好きではない。



ドキュメンタリー映画『世界で一番ゴッホを描いた男(2016)』

映画『世界で一番ゴッホを描いた男』に登場する人たちも、おそらくそんなゴッホの「怖さ」に取り憑かれているうちの一人だ。彼ら・彼女らが住む中国は深圳市の大芬(ダーフェン)は世界最大の「油画村」として知られ、複製画を描く画工が約1万人もいるといわれている。特にゴッホが人気で、今回のドキュメンタリーの主役といえる趙小勇(チャオ・シャオヨン)は、20年もの間ゴッホの複製画を描き続けその数は10万点以上にものぼる。絵を描くのも寝るのも全て工房の中。単に仕事だからというのでは説明できない「狂気」にも似た何かをこの街には感じる。


映画はチャオがオランダ・アムステルダムへゴッホの原画を見に行こうとする様子をドキュメンタリーで描いている。なんと20年もゴッホを書き続けているにもかかわらずチャオは一度もその目で本物を見たことがないという。しかし、それは仕方のないこと。なぜなら出稼ぎで田舎からこの街にやってきた彼にとって、絵は時間を一緒に過ごす「友だち」でも、心の傷を通わせられる「恋人」でも、暖かく包み込んでくれる「家族」でもなく、お金を生み出すものでしかないのだから。しかしあるとき、彼は夢を見る。目の前に何万回と描いている絵の作者ゴッホが「私の作品を描いていてどうだ?」と聞いてくる夢だ。その夢をきっかけに、チャオは自分の描いている絵について考え始める。自分は絵を描く職人なのか、それとも心を描く「芸術家」なのかについて……。



映画の瞬間:情報の非対称性が生む、残酷さ。

今回の映画の瞬間は、オランダはアムステルダムについたチャオ一行が、現地で売られている自分たちの描いた絵の値段を知る場面だ。もともと彼は高級そうな画廊で絵が売られていると思っていた。しかし実際に彼らの絵が売られるは、道の脇の土産物屋だった。

チャオ:「長い付き合いだが高級な画廊と思っていた。まさか土産物屋だとは思ってもなかった。」
(土産物屋の売値を知って)
チャオ:「あの絵が500ユーロか。俺の売値は確か450元、小売値との差は10数倍だ。いや、そこまでないか。1ユーロが8元だから4000元だ、それでもすごい差だ」

タバコの煙をくゆらせながら語るチャオはどこか寂しそう。自分たちが丹精込めて「リアル」を追求した複製画が売値の約9倍で取引されるなんて、と。でもそこでへこたれないのがチャオ・シャオヨン。なんとその場で価格交渉を始める。工房の惨状を訴えつつ……。

こうした「買い叩き」というのは情報の非対称性に由来する。よく価格は市場原理に基づいて決まるといわれるが、実際に資源分配が適切に行われることは少ない。ゴッホの複製画を例にするとチャオは本来の売値の約数倍で売れることを知らないために、相場よりも低い価格で売らざるを得なかった。もしもっと高値で売れることを知っていたら、最初からその価格で売っていただろう(ただ、オランダの画商が売値の数倍で買う保証はないが)。

残酷かもしれないが、双方が持っている情報が平等に分けられることなどないのだから、仕方のないことだといえる。こうした情報の非対称性はオランダだけでなくとも世界中の至るところで見られ、すでにこの大きな社会にきちっと埋め込まれている。好むと好まざるとにかかわらず、それが社会システムなのだ。

その後彼は美術館の行列に並び、20年間描き続けたゴッホの原画に会う。「ひまわり」、「灰色のフェルト帽の自画像」、「じゃがいもを食べる人たち」「カンヴァスの前の自画像」……。その絵を見つめる目は、まるで絵を習い始めた子どものようだった。


売値の現実と、ゴッホの原画を目の当たりにしたチャオ。彼はホテルまでの道を歩きながら、これまでの複製画工としての人生を振り返る。

チャオ:「20年、複製画を描いたが原画とは比較にすらならない。」

足取りは重く、うつむいたり、宙を見上げたりするその目にはうっすら涙を浮かべている。いわば「偽物」と「本物」の差を見せつけられたチャオ。その後彼はオランダからフランスへ移りゴッホが描いた場所を回りながら、帰国後の自分の仕事について、考え始める……。

心を埋めてくれるものは、「物質」か「精神」か

帰国してかれは「画工」から「画家」への転進を考え始める。実は深圳市には「画家」と呼ばれる身分もあってこちらは専用の住居に格安で入れるといった優遇政策がある。ただ、1万人の絵描きが暮らすこの街で画家は300人にも満たず、しかも画家になるには公募展に3回入選する必要がある。それでも、画家になる目標を語るチャオの顔は、金銭や評判といった物質的な満足よりも、内側から沸き立つ精神的な満たしを求めているかのように見える。


ゴッホのまなざしに捉えられた男、チャオ。それが吉と出るか、凶と出るかは誰にも分からない。なんせ、ゴッホですら評価され始めたのは彼の死後、10年以上の歳月がたってからなのだから。

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