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鬱くしさという花 

僕は整体という職業に関わっていますが「躁鬱」の傾向があります。

それなりに自分に向き合って、結構いい感じに安定していましたが、強めの「鬱」が来ました。

しんどいのはそうなのですがそれより「やっぱりこれ性質だわ、切り離すとか消化するとかそういうんじゃねぇや笑」って再度実感したのでここで一発まとめて行きたいと思います。

今も割とキツいんですけど、どこか嬉しい気持ちもあります。
というのも「治すとかそういうんじゃねぇや」っていうのを白旗上げる感じで認識できた気がするからです。

やっぱりこれって自分の一部で、いわゆる「陰」的な側面なんだなって実感しました。

生まれてから今日に至るまで色々ありました。
テクニックで対処しようとしたり、他のことで誤魔化そうとしたり。
力で押さえ込んだり、感じるのを辞めてみたり。

でもぜーんぶだめで、結局「向き合う、味わう」っていうことが良かったしそれしかなかった。

でも今はそれすらもちょっと違うのかなと思ってて「そんなに大事じゃない友人」くらいの立ち位置で、ほどほどにいい加減に付き合うくらいがいいんじゃないかなって思ってます。

これはとある人のポストからもらった考え方なんだけど、あまりにも命に誠実というか大事にしようとするほど多分死にたくなるし死んでしまう。

命に対して潔癖になると、じゃあ死ぬのが一番綺麗じゃないか?ってなるんだよね。

僕は今まで自分のことで手一杯で、周囲を見るということが本当にできなかった。

人生の指針が「傷つかないこと」というのが一番の優先事項として掲げられていて、そこに引っ掛かるもの全てを排除してきた。

だから人が傷つこうが、どう思おうがどうでも良かったし、そう思わないと生きてられなかった。

自分の母親からも、友人知人からも「ようやく人になった」と言われるようになった。

「傷」というものを認められるようになって、みられるようになった結果、自分を鏡で写すように客観的に観察できるようになったから、自分の姿が「人」であるという認識ができたのではと思ってる。

元々人だったんだけど、過去の傷とか経験から、一時的に人から離れるしかなかったんじゃないかなって。

僕の知ってる「まだ人じゃない人」というのは、隣の人より優しくて、それでいてとても繊細で柔らかい、赤ちゃんみたいな感性を持っている人だ。

意識的にも無意識的にもとにかく「視えて、受け取っている」ので、その情報の処理が追いつかず、心とのバランスを取る、命を繋ぐために仕方なくその回路を遮断して一時的に凍結させることで「人の形」を保っているのではと思った。

ある意味「まだ人じゃない人」ほど「誰よりも人」であると僕は思う。
なぜなら僕はそういう人に救われているからだ。

むしろ「人である」という人にほど僕は嫌というほど思い知らされてきた。

生きるために人であることを一時的にでも辞めなければいけなったのではないか。もしそうなら、なんて強くて健気なんだろうと思う。

そういう人が抱えている諸々に、どうしようもないほどの温かさと光を感じる。
傷こそが「らしさ」と「優しさ」を形づくり、その人の周りを覆っている。
なんて美しいんだ、鬱くしいんだと。
その闇にこそ光があるんだ。なければいけないものなんだ。
愛すべき部分なんだ。ただ時間がかかるだけなんだ。

ふと、真面目だとか考えすぎだとか言われてきた過去を思い出す。
理解できないことから逃げる体の良い言い訳に「真面目」という表現を用いて自分を正当化しようとしてるだけだろ?って当時は本気で思ってた。

今でこそ少し視野が広がって相手のことを思えるだけの余白があるけれど、それでも多くは、そういう細かな機微みたいなものが一切わからない人が多いのも事実だと思う。

そうだ。
これはとても個人的で、過去の自分を前面に押し出して、大義名分のように言いたいことを言っているだけの話だ。

そんな時に「鬱」というのは多くのことを教えてくれる
「あぁそうだ、俺は元々そういう人間だった。」

ここ最近色々うまくいっていて、ちょっとふわふわしていた。
この調子で行けたらいいなって思ってた。

でも忘れてた。
竹内晶貴という人間は、そんなに強くなかったのだと。

今の俺にとって「鬱」というのはブレーキというかニュートラルな位置に戻るための物差しのようなものかもしれない。

最初は戸惑った。対処しようともした。
でも味わうほどに「そうだよな、俺ってそんなに強くなかったよな」って感じられるようになった。

整体という職業である以上「健常であるべし」なんて勝手に決めつけてた。
常に自分に向き合い、あらゆることを自分事とし、何事にも感謝を持って常に中庸であろうとする。

無理だ。無理無理ずーっとなんてやってらんない。

鬱っぽいからいい感じに手も止まるしやる気も出ない。
やりたくないことには一切気持ちが向きもしない。
無理やり動こうにも心がブレーキをかける。

お前はよくやっている。けれどここで一度止まっておけ。
しっかり「落ちろ」。
死なないために今ここでしっかり落ちておけ。
もうお前だけの命じゃなくなったんだから、そういったことも踏まえて「生きる」ってのをやらないと行けないぞ。

「死なないために」「居なくならないように」
「同じことを繰り返さないように」ということを強く思えるようになった。

そのために今どういう状態なのかを感じて、それを表現できるようにしようとも思った。長く付き合っていくために、新しく出会う人たちのためにも。

決して安定しているわけじゃない。
むしろ「安定」して「不安定」だ。
ゆらゆら揺れる。まるで船の上にいるように。

生きるためじゃない。
死なないためにまずできることをやる。

これが俺にとっての自分の命に対する向き合い方というか「誠実さ」の意思表示だ。

なんて後ろ向きなんだと思うけど、そういうところが最高だとも思う。


「定期的に死にたくなる整体師がいるって?」

「そう、今鬱っぽいから連絡しないでくださいとか平気で伝えてくるんだよ、すごくね?」

「誠実なんだか不誠実なんだかわかんないな。」

「でもさぁ、変に小綺麗なこと言われ続けるよりよくない?
なんか整体師って身体に詳しいけどなんか掴みどころない人多くて苦手なんだよな。」

「わかる、ご飯とか一緒に行きずらいかも。
Xの発信とかも身体にまつわること多いしさ、自分の不摂生とかみられるのちょっと怖いよな。」

「その噂の整体師ってどんな人なの?
んー、なんか躁鬱っぽくて、定期的に死にたくなってて、やたらとアニメとか漫画で例えてくる変な人。」

「変だなぁ〜それ。」

「だろ?でもなんだろうな。
同じ目線でいようとしてくれるというか、土足で踏み込んでこないというか
鬱とかってマイナスじゃん?イメージ的に。でもそういうのも普通に話してくるんだよ。」

「今鬱ですって?」

「うん。
季節の変わり目かなぁなんて言いながら普通に話してくるんだけど、なんか「当たり前」に話してくるからこっちも深刻になれなくて笑うんだよな。」

「変なの。施術の感想一切出てこねぇじゃん。」

「そりゃあほら、受けてみたほうが早いし。
いってみなよ、いい人だよ?笑」

「なんて整体?」

「五感をフルに使うサイキック整体」


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