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第12章 『老子の教え』


『老子の教え』の書評文


 私は該当書籍と『超訳論語』のエッセンシャル版を読み、安富さんが東大で『論語』と『老子』をもとに講義を行った動画を視聴しました。

 
 安富さんが『老子』と『孔子』の間で連続していると考えている概念は「道」(Tao)と述べています。
 実は、「道」と云う概念は『論語』と『老子』に限らず、中国の思想の根幹を支える概念でもあります。
 安富さんは、『論語』と『老子』に注目されていますが、「道」と云う言葉を議論しているのは、儒教の経典『易経』でも同様です。その『易経』の注釈書「周易繁辞上伝」の中で、「道」と云うのは「陰」と「陽」が組み合わされることで、変化が生じることを指す、と述べています。


一陰一陽これを道と謂う。
 あるいは陰となりあるいは陽となって無窮の変化をくりかえすはたらき、これが道とよばれる。(高田真治・後藤基巳訳『易経(下)岩波文庫、220-21頁)

 中国思想の研究者である金谷治は『易の話』の中で、「易」の「八卦」が表現しているのは、「陰」と「陽」と云う「相反する二つの対立」で、それこそが「基本的な構成原理」と述べています。金谷によれば、「陰」と「陽」は単に対立しているのではなく、相互に依存し合った関係と云います。そのさい、「対待「と云う言葉に注目します。

二つの対立というのは、実は対立ということばだけであらわすのはふさわしくない。この二つは確かに反対であるが、たがいに排斥し合う反対、相容れない矛盾した関係ではなく、逆にたがいに引き合う関係、相手があることによって自己があるという関係である。(略)対立という関係は、そもそも論理的にいって両者の存在を必須の要件とするであろう。相手があってこその対立である。
 易の二つの対立では、その点に重点がおかれている。そういう関係を、中国のことばでは対待という。たがいに対立しながら、しかも、たがいに相手の存在によりかかって共存している関係である。相対し相待つのである。そこには相互の対立とともに相互の依存がある(金谷治『易の話』、202−03頁)。

 金谷は、「対待」は「西洋的な二元論的対立」とは異なる、と指摘します。なぜなら、対立によって相手が排斥されるのではなく、世界がそのように構成されているからだ、と云います。 むしろ、対立こと「対待の関係を正しく認識して現象に対処することこそが必要」と云い、そう云う発想は易に限らず、中国の思想の根幹を支えている、と云います(209-10頁)。
 金谷は『老子』や『荘子』の文章を挙げています。「有無」「難易」「長短」「高低」「貴賤「美醜」のように一見すると相反するような概念が相互にぐるぐると回転するように、対立する相手に依存し、実は相手を内側に潜ませていると云います。一例として、『老子』の58章にある「禍は福の倚るところ、福は禍の伏るるところ」を挙げ、「禍」の中に「福」の要素が存在し、「福」の中に「禍」の種が存在し、そう云うかたちで「禍福」が対立している、と云います(214頁)
 また金谷はそのような「対待」は西洋的な二元論とは異なる、と云います。西洋的な対立は「プラス一、二と加えられて天にとどく方向」と「マイナス一、二と地の底まで進む方向」であり、「この二つは〇を起点として交わることがない」と云います。例えば、「神」と「悪魔」、「霊」と「肉」と云うように、「二つは絶対に相容れないもの」と云うことになります(216-15頁)。

 ここまで、易経について述べてきましたが、「陰陽」や「対待」を補助線にすると安富さんの議論がクリアにみえてくると思います。
 改めて該当書籍に話を戻しますと、安富さんが「解説」で「道」は「存在」とイコールだ、と述べ、もし「道」によって「存在」が成り立っていると、「道」と「存在」を切り分けてしまうとと、プラトンのイデア論と変わらないと指摘しています(254頁)。

 私なりにこの箇所を補足しますと、ヨーロッパの思考法はレンガのように積み上げていく方向になりがちなのに対し、中国の思考法はちょうど易経の陰陽を表している「太極図」のようにグルグルと回転している、と云えます。さきほど、金谷が指摘したように「福」と「禍」は一緒に存在しているわけです。一方で、「神」と「悪魔」は永久に交わることはありません。
 最近、気づいたことなのですが、プラトンの哲学とユークリッド幾何学は構造がよく似ていると云うことです。どちらも、より議論を上へ上と積み上げていくと構造となっています。プラトンの著作では、冒頭に議論の主題である「徳と何か」「愛とは何か」「知識とは何か」「正義とは何か」が定義され、本編ではソクラテスと対話する相手がその言葉の内容をめぐって議論を行ない、最終的に何らかの結論が提示されていきます。言葉を議論した末に、言葉の背後にある「イデア」と云う存在そのものを支えているものが出てきます。
 ユークリッド幾何学は、「点とは部分のないものである」と云うような数学にまつわる言葉の「定義」からはじまり、数学の問題である「命題」が出て、その問題に関して回答を行なう「証明」が行われます。ちょうど、ユークリッド幾何学の証明がコンパスと定規で作図可能で、誤りのないものとして証明しようとする姿勢は、プラトンが対話の中で、世間一般の思い込みを排し、現実世界の背後にある「イデア」を証明しようとするのに重なります。実際、ヨーロッパの数学者の書いた本には、ユークリッドとプラトンは同様に扱われています。
 私は当初、古代世界では学問が未発達だから数学と哲学はあまり分化していなかったから、ごっちゃになって議論されているのだろうと思ったのですが、以前、野口さまが紹介されました『プリゴジンが考えてきたこと』の中で、プリゴジンが物理学の専門家でありながら、人文学や文化論に言及し、物理学と人文学の統合を構想していた、と記載され、著者である北原和夫さんは、日本では科学の新発見は研究室の内部で留まるが、ヨーロッパでは個人の存在基盤を揺るがすものと意識され、科学者が自身の発見を一般向けに発表したがる、と指摘していたのを読んで、人文学の起源である哲学と科学の起源である数学の構造が根本的に同じだからそうなるのではないか、と思いました。ブロックのように言葉や概念を積み上げていき、そこから世界を認識するのはヨーロッパならでは思考法ではないかと思ったわけです。

 現代日本人は、「理想」と「現実」は対立すると漠然と考えがちですが、もとをたどるとプラトンとアリストテレスに行き着きます。そもそも「理想」の訳語である”ideal”は「イデア」から来ています。「理想」から「現実」をみると「理想主義」になり、「現実」から「理想」を批判的にみると「現実主義」になります。この対立構造は、プラトンとアリストテレスの議論の違いから来ています。イデアのようなものを想定して現実を分析したのがプラトンで、イデア論のような観念的なものを批判して現実にある物事を議論したのがアリストテレスと云う風に分けられています。この「理想」と「現実」の対立構造が濃厚に出るのが、政治思想や学問の世界と云えます。特に、政治学では、「理想主義」と「現実主義」の対立図式は定番のテーマと云えます。一例を挙げると、「革新」と「保守」や「社会主義」と「自由主義」、「リベラル(寛容)」と「パターナル(権威主義)」と云う具合にです。
 もちろん、現在の政治学のすべてがそこまで単純な議論を行わないのですが、やはり「現実」と云う言葉には「理想」と云う言葉への批判の意味が強いです。批判する対象を「理想主義的だ」と云う風に云うときに使われがちです。それはプラトンの『国家』で描かれている「現実には未だ存在しないが最善な国のあり方」をアリストテレスが『政治学』の中で「現実にありえるかたちで実現できる最善な国あり方」を提示したのを引きずっているからだ、と云えます。
 これも前述のブロック思考の一形態と云えます。「理想主義」なら「現実」を批判するかたちで「理想主義」に基づいてブロックを積み上げ、「現実主義」なら「理想」を批判して「現実主義」のブロックを積み上げていくと云うかたちになるわけです。もっとも、現在の政治思想は「現実主義」と称する人たちのほうが優勢のように感じられますが。
 
 一方で、『老子』や『論語』、『易経』ではそのような「現実」と「理想」をわけるような思考法はしません。道は陰と陽と云う二つの概念が組み合わって、現実世界で起こる事象はグルグルと回転して発生するものと考えます。そして、そう云う思考法はプラトンやアリストテレス、ユークリッド以来の思考法に慣れたヨーロッパの知識人には大変衝撃的だったと云えます。



 私は、安富さんがそう云う回転式の思考法にたどり着いたのは、『複雑さを生きる』からだった、と考えます。同書の第4章で『孫子』の「無形」について取り上げていますが、近年の研究では『老子』と『孫子』は実は相関関係にあったのではないか、と云う指摘があります。軍事研究家のデレク・ユアンは『真説 孫子』の中で、『老子』と『孫子』の「道」と云う概念は共通しており、『老子』はスピリチュアルや倫理学の本と云うよりも『孫子』と同様に国家経営論として読まれてきた、と指摘しています。



 安富さんの独特な視点は、中国古典の思考法から着想を得ているのだと思います。それは、現代日本の知識人には少ない観点と云えます。『複雑さを生きる』で単線的な「計画制御の不可能性」を指摘しているのは、「道」や「陰陽論」と通じると云えます。
 該当書籍は、そう云った安富さんの今までの思索をもとに『老子』を再構成したものと云えます。

 では、具体的にどう云う風に応用可能かと云いますと、私は『老子』の思想で世の中の事象をみることだと思います。
 例えば、今回の衆議院選挙で躍進した「日本維新の会」をどうみるか。
 安富さんは、「維新の会」はファシズムに近づいている政党と分析していますが、実際はかなり複雑な背景があるようです。
 関西学院大学教授で、日本政治思想史の研究者である冨田宏治さんは、「維新」の実態は格差や分断を煽り、勝ち組の中堅サラリーマンが支持する組織政党だ、と分析しています。冨田さんによれば、維新の支持が大阪で根強いのは、大阪の街並みが貧富の格差をはっきり可視化するからだ、と云います。具体的には、勝ち組が生活するタワマンと貧困層が住む長屋が近くに存在するからだ、と云います。維新はそうした格差の構造を利用し、中堅サラリーマンから固定票をもらうことで支持を拡大してきた、と指摘します。



 なお、冨田さんは、衆議院選挙中に出演したYoutube番組「哲学入門チャンネル」で中で、自身の勤務している関西学院大学の学生の間でも維新支持者がかなりいると述べています。理由は、中学時代から受験勉強を必死にやって努力したつもりなのに、社会が平等になれば中学のときに勉強しないで遊び呆けて学歴社会からドロップアウトした同級生たちの顔を思い浮かべて、「自己責任だ」と云う風に片付けたくなる、と云うそうです。維新は、そう云う上昇志向の強い人たちを取り込んで選挙を行なうため、選挙は非常に合理的に行なうと云うそうです。



 私は維新やその支持者の発想は、前述のブロック思考ではないかと思いました。「努力」や「自己責任」を積み上げると、「勝ち組」になれると云う感じで、そう云う積み木の上に「現実」をみていると云う感覚です。逆に云うと、日本の中堅サラリーマンやその予備軍の名門大学生はそう云うブロック思考で凝り固まった人が多いと云えます。もっとも、それは「計画制御」を前提にしているので、崩れるときはあっと云う間に崩れてしまうのですが。
 しかし、そうであるならば、積み木を積み上げていくようなブロック思考よりもグルグルと回転する「道」や「陰陽論」によって現実は絶えず変化するものと云う認識はかなり衝撃的な思考法ではないかと思います。
 私は今後の日本では、そう云うブロック思考よりも「道」のような回転するような思考で世の中をみるほうが良いのではないか、と思います。該当書籍は、そう云う思考を安富さんなりに提示したものと考えます。



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