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【体験談〜再婚シリーズ〜7】タロット的に見る、ADHD継子のサポートと頼りない夫2

数ある記事の中からご訪問いただきましてありがとうございます。
マルソルです。

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(前回までのお話)

前回までのお話を読んでから続きをお読みいただくと、わかりやすいかと思います。

居場所づくり

放課後デイサービス

病院やカウンセリングなど、Aくんは嫌がる素振りを見せることなく私について来てくれました。
Aくんの「ADHD」について、本人には「キミは少し人より記憶しづらい特徴らしい」というようなことをやんわりと伝えていたからかもしれません。

「自分には苦手な部分がある」ということを意識してもらっていたのは、そうすることで、自分のうっかり癖を否定せずに自分の特性を受け入れながら、日常生活の中で少しでもうっかりを防ぐ意識を持ってもらいたいと思ったからでした。

カウンセリングを中断した後、次にAくんに何かできそうなことはないかと調べていくと「放課後デイサービス」という福祉サービスがあることを知りました。
私は、家から比較的近くにある場所を探し、すぐに問い合わせの連絡をしました。

放課後等デイサービス(ほうかごとうデイサービス)は、児童福祉法を根拠とする、障害のある学齢期児童学校の授業終了後や学校休業日に通う、療育機能・居場所機能を備えた福祉サービス。略して「放デイ」。

かつては個別の障害福祉法を根拠としていたが、法改正によって障害者総合支援法が根拠となり、未就学児童は児童発達支援事業、学齢期児童は放課後等デイサービスに分かれ、身体・発達・精神などの種類にかかわりなく障害児が利用できるようになった(現在は児童福祉法に移行)。民間事業者の参入も進んでおり、利用者の選択肢が増えている。

これらサービスの利用には、利用者が市町村に対して申し込む必要がある。決定されると障害児通所給付費及び特例障害児通所給付費が支給される(児童福祉法第21条の5の2)

Wikipediaより


当時中学2年生になっていたAくんですが、私は彼の学習への意欲の少なさや、進路のことが気になっていました。。
「放課後デイサービス」は、家や学校とは違う場所に自分の居場所が作れます。
そこに行くことで、課題に取り組む時間が作れたり、人との交流が増えることはAくんにとってメリットだと思いました。

放課後デイサービスに問い合わせた後、市の福祉課で申し込みをし、平日週2回、放課後の利用が決定しました。

デイサービスの日、Aくんが帰宅すると車に乗せて送迎する日々が始まります。
夕方までのパートが終わると家で待っているAくんを送り、帰宅してから夕飯を準備する。
そして夜7頃に迎えに行くという、なかなかハードなスケジュールです。

プログラミング教室

「放課後デイサービス」の利用を考えている頃、他にも見つけていたものがありました。
それが「プログラミング教室」でした。

小学生の頃からAくんは少しゲームに依存的でした。
勝ち負けで一喜一憂し、負けるととても悔しがり、時には怒ったり泣いたりと激しいものでした。
中学生になって泣いて悔しがることは減りましたが、相変わらずゲームへの執着は少し異常でした。

家ではネット利用の時間制限をし、夜時間が来ると子どもたちはリビングでゲーム機や携帯電話を充電するようにしていました。
これだと、もっとゲームがしたいAくんには物足りません。
そこで、友だちからこっそりゲーム機を借りて帰り、お腹が痛いからとトイレにこもり、隠れてゲームをするようになっていました。

ある時そのことが発覚し、夫2と口論していたAくんが放った一言が私の耳に強く残りました。

「俺にはゲームしかないんだ!!」

この一言に込められた、自分への肯定感の低さ、自信の低さ、自尊心の低さ。
どれだけ自分に傷ついて来て、自分を保てるゲームにどれだけの思いを持っているのか、なんとなくAくんの気持ちがわかり胸が痛い気持ちになりました。

そんなこともあり、好きなゲームを活かせそうなところや、得意なことや興味を持てそうなことで、今後のAくんの選択の可能性を広げられそうな「プログラミング教室」に私は可能性を感じました。

今でこそプログラミングは必修化されていますが、当時はまだその存在が認知され始めたばかりだったので、教室に通ってみることもメリットだと思い申し込みをしました。

幸いなことに、利用しようと思っていた「放課後デイサービス」の運営の一環として「プログラミング教室」があったので、こちらも支援という形で利用できることになりました。

「プログラミング教室」は、土曜日の夕方から夜までの利用でした。
少し家から遠かったのですが、土曜日ということで時間に少しゆとりのある送迎をしていました。

見えてきたもの

キャパオーバー

…ところで。
各所に申し込み、利用開始となって送迎を何度かしたあたりで、私は「あれ?」と思いました。
すべて私が送迎をしていたのです。

確かに全部私が調べて決めてきたことです。
でもこれは、夫2の息子のことでもあるはず。
それなのに、仕事から帰った夫2に「じゃあ迎えに行ってくるから」と声かけて、夕飯の支度の途中に出ていったり。
土曜日もAくんを連れて2人で家を出て、暗くなるころまた迎えにいく。

夫2に頼まなかった私が悪いのでしょうか。
それとも、自分も送迎する、と言い出さなかった夫2が悪いのでしょうか?

1つわかるのは、私がこうして1人で勝手に進めながら、その間夫2に相談したり、話し合ったり、ということをほとんどしていなかったことが招いた結果だということです。
夫2に「私に任せておけばいいんだろう」と思わせ、入り込む隙を与えていなかったのは私だということです。

この、自分で自分を追い込む行動は、もともと忙しかった私に輪をかけるように負担になっていきました。

私は引っ越してきてから、役員を2つかけもちしていました。
この地域にある「小学校のPTA」と「子ども会役員」と「地域役員」の3つのうちの、「PTA」と「子ども会」の役員です。
この地域では、子どもがいる家庭は必ずすべての役員を1度は経験する決まりで、それは引っ越してきた私たちも例外ではありませんでした。

引っ越したのが、小学校4年の半ば。
つまり、残り2年で3つ全ての役員をするということです。
本来なら、”子ども1人につき"その条件ということらしいですが、そこはさすがに免除になりました。

「PTA」と「子ども会」の役員である私は、平日の夜に出ていくことが月に数回と、役員として土曜日の行事参加もありました。
「平日のパート」に「家事」、そこに「役員」の仕事、「放課後デイ」と「プログラミング教室」の送迎。
私のキャパは限界を迎えていました。

「情熱過多によりバランスを崩し前が見えなくなっている、ワンドの10」


私の中の「認められたい」という心の奥にあったもともとの欲求。
それが「普通の家族」を築きたいという欲望に姿をかえ、その欲望のために自分に「呪い」をかける。
私はすっかりその「呪い」に飲み込まれていました。

「自分の考えに縛られ囚われ見えなくなっている、ソードの8」


「自分がしっかりしなくては」
「ちゃんと母親をしなくては」

この時の私は、自分の限度を超えさせてしまうこの考え方が自分を縛り、どんどん動きづらくさせていたことに気づいていませんでした。
それ故、負担の原因を環境のせいにしていきます。

支え合えない

Aくんになにかしらのサポートができないかと強く思う背景には、夫2を頼りなく思う私の心理が働いていました。

どうして気づかなかったのか。
どうして気にしなかったのか。
もっと早い段階で気づいてあげて、大人が対処していれば。

その気持ちが、より私を加速させたように思います。
Aくんと毎日一緒に生活しながら、一体彼の何を見ていたんだろうと思っていました。

家族として、親として、私は一緒に暮らすうえで知っておくべきだと思い、発達障がいのこと、ADHDのこと、相談できる機関など、あらゆることを調べました。

一方で夫2はどうでしょうか?
実の子のことなのに危機感に乏しいというか。
子どものことをちゃんと理解して、自分にできるサポートをしようという姿勢が見えてきません。

Aくんの将来を考えていない訳ではなかったと思いますが、少し考えが足りないように感じていました。
そんな夫2に対して徐々に苛立ちを募らせた私は、自分ばかりに負担がかかっているのは協力しない夫2のせいだと思うようになりました。

Aくんが社会に出て困らないように、私と夫2と社会の力を借りて、それぞれの協力を持ってAくんにできることをしてあげたいと私は思っていたのだと思います。
私が理想としイメージしていたのは、「ペンタクルの3」のような強力し合える体制だったのでしょう。

「自分の力だけでなく協力し合いながら形にしていく、ペンタクルの3」


けれど夫2の様子を見て、私が思うようには進んでいかないことがもう見え始めていました。

私の中で「どうして自分だけがこんなに必死なのか」わからなくなっていました。
このあたりから、子連れ再婚家庭(ステップファミリー)で問題になってくる部分が、露呈し始めていました。



つづく…。


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