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私が性嫌悪症になった理由

交際や結婚を夢見たり、男性に好意を寄せた事もある。
でも、身体の接触や粘膜の触れ合いが必要になると考えると、恋人を作りたいとはとても思えない。
自己肯定感が著しく低い自覚はあるが、理由はそれだけではない。
今日は、先日35歳を迎え未だに純潔を守り続けている一人の人間の過去を、どうしてもどこかに書き留めておきたくてパソコンに向かっている。
内容に嫌悪感を抱く方もいるかもしれないが、こんな経緯から異性との触れ合いに恐怖を抱いている人間もいるのだという事を、一人でも多くの方と共有出来たら多少は救われる。

『親』から『女』になった母

私がもうすぐ中学校に進学するというタイミング、3月の末に父が入院した。4月になって、末期がんでもう治る見込みがない事を、長女である私だけが聞かされた。
建築関係の仕事で鍛え上げられていた父の体はあっという間にやせ細り、その年の6月30日に息を引き取った。既に死恐怖症となっていた私は、父の最期を怖くて直視する事が出来なかった。
当時私は反抗期の真っ只中で、正直なところ父も母も早くいなくなってしまえと思っていたはずなのに、いざそうなると分かって初めて自分にとっての存在の大きさを実感させられた。

ところが、それから半年と経たぬ間に、母の言動に異変が起き始めた。
毎週のように職場の後輩、それも20代の若い男性職員ばかりを頻繁に家に呼ぶようになり、逐一私に関わらせようとしてくるようになったのだ。来客がある日は必ず鍋料理が出され、同じ食卓を囲まなければならなくなった。

ある日、母親が私にこんな事を懇願してきた。
「いつも家に遊びに来てくれてるAさんが、社宅で犬を飼っているの。でも毎日吠えて他の人達の迷惑になっていて、社長から寮を出ていくか犬をどうにかするかの二択を迫られているの。お願い、お前が犬嫌いなのは知ってるけど、可哀想だから引き取りたい。頼むわ」
A氏とは、家に招かれるようになった若い男性職員の中の一人だ。
私は渋々了承した。そうしなければ、何の罪もない犬達はきっと殺処分されてしまうだろうからと。

次の日、我が家にやってきた3匹の犬達は、全く躾がされておらず話の通り朝から晩まで吠え続けていた。それだけなら矯正できたのかもしれないが、問題はそこじゃない。
犬と一緒に、転がり込んできたのだ――寮を出る必要が無くなったはずの、飼い主だったA氏が。

それから、「どうして」と聞く事も出来ず、強制的にA氏との同居が始まった。当時私達は家賃の安い平屋の賃貸に住んでおり、思春期の私は一人で、隣の部屋でそれ以外の家族とA氏が一緒に寝る事になった。隣と言っても、襖一枚で繋がっており、プライバシーは無いに等しい。

ある日の夜、私と妹達が布団に入り、いざ寝ようとしていたところで、風呂場から母とA氏の声が聞こえてきた。狭い湯船で一緒に入浴するのは無理があったが、それ以前に『男女の裸の付き合い』というのがどういう意味を持つのか、当時13歳だった私も、10歳と8歳の妹達も知らないわけではなかった。
翌朝、母とA氏に聞こえない場所で、私は妹達に詰め寄られた。あれはいったいどういう事なのか、お母さんに聞いてきてよと。私がそう母を問い詰める前に、夜中私はA氏から呼び出された。
「君のお母さんの事が好きなんだ。お父さんにはなれないけど、一緒にいたいと思っている」
私は口から何の言葉も出なかった。何とも言えない気持ち悪さが、私の中に渦巻いていた。当時母が43歳、A氏が28歳。父の死去から半年、多感な時期の私が受け入れられるはずもなく、私はその日を境にA氏との会話を一切やめた。

約1年後、実父の貯めていたお金も使い、一戸建ての住宅に引っ越す事となった私は、やっときちんとした自分の部屋を与えられたものの、母の部屋に置かれたダブルベッドに嫌悪感を抱かずにはいられなかった。

『女』のまま『親』になった母

5年後、18歳になった私は単身東京に引っ越していた。それまでの間に不登校を経験したり、統合失調症も患っていたが「お前に出す金がない」と治療を強制的に止めさせられた事もあった。人によっては下衆だと思われるかもしれないが、これまでの心労の分こちらから散々迷惑をかけた後に縁を切ってやろうと、敢えて学費の高い専門学校を選んで寮にも入った。一人の生活は快適で、幻聴に悩まされる事もなくなったし、ホームシックになる事も全くなかった。夏の終わり頃には母の携帯電話と実家の電話を着信拒否にし、メールもブロックしたくらいだ。

東京に越した翌年の3月、春休みの最中にその平和は乱される。
寝ていた私の部屋のドアが勝手に開いたのだ。幸いチェーンはつけていたので中に入られる事はなかったが、外を見ると母が何食わぬ顔で立っていた。
「お前のリクルートスーツ買いに来たから支度して」
母は高速道路を運転する事が出来ない…そう、外に待っていた車の運転席に座っていたのは、バスのドライバーでもあるA氏だった。

A氏の事は知らないが、母にとっては初めての繁華街だったのだろう、見るもの全てが新鮮なようで、色々なものに声を上げて驚いていた。
そんな中、A氏が一言声を上げた。
「ねえ、2時間○千円ポッキリだって」
視線の先には、ラブホテルに客を誘導するための看板を持った男性が立っていた。
「やだーサイテー!」
そう返す母の声は、内容に反して異様に楽しそうだった。私は気持ち悪くて恥ずかしくて、一刻も早く帰りたかった。

無事リクルートスーツの申し込みも終わり、レトルト食品や消耗品の買い出しに付き合うと言い出した母は、車中で「どこかに宿泊はするが予約は取っていない」と察せる内容の会話をA氏と交わしていた。私はやっぱり早く帰りたかった。

5ヶ月後、私は気まぐれで実家に帰省した。食費を節約したかったし、東京の夏は私にとって暑すぎる。
しかし、迎えに来た母の姿とその後の暮らしぶりに私は違和感を覚え、非常に嫌な予感がしたのだ。母は普段ラフなパンツスタイルを好み、仕事の時以外はスカートなんて穿かないはずなのに、毎日腰を締め付けないワンピースばかり…それも、今まで持っているのを見た事がないものしかない。
案の定、東京に戻る私を送る車の中で母は言った。
「私、お腹の中に赤ちゃんいるから」

東京行きの特急の中で、私は気がついていた。
3月に押しかけてきたあの日、『予約しなくてもいい宿泊施設』に泊まった事、その日敢えて妹達を連れてこなかった事、聞かされたおおよその出産予定時期から逆算した妊娠時期…

その日からものの一週間で、私は統合失調症を著しく悪化させ、睡眠障害にまで陥った。
それと同時に、それまで比較的平気だった性的なコンテンツに対してこう思うようになった。
「セックスなんてクソくらえだ、気持ち悪い」と――。

今でも『女』のままの母と、自立できない自分

生きるのが辛くなるほど眠れなくなった私は、一時的にメールのブロックをやめ、母にメールを入れた。「眠れなくなった。貴方のせいだ」と。
母は何の理解も示さなかった。数日後に送られてきたのは、出所の知れない怪しいサプリメントと「病院の薬はやめろ」という連絡だった。
就職活動もままならなくなった私は、実家に帰省する以外の選択肢を見つけられず、学校を何とか卒業した後泣きながら実家に連れ戻された。もちろん、引っ越しのためのトラックを運転しにA氏もついてきた。
隣りの部屋から赤ん坊の泣き声がする事を受け入れられるまで1カ月はかかっただろうか。それまで私は鬱に近い状態で食事もままならず、通院時に目の前が病院でも引き返そうとする程だった。
更に、本来受けられるはずだった自立支援医療は「こんな狭い田舎でそんな事をしたら近所中に知れ渡るから」と受けさせてもらえず、アルバイトを強制されて長続きせずに辞めた事もあった。
生まれてきた子に罪はないと理解出来てからは、5年間身の回りの世話をして一緒に遊んだりもしたが、5歳になったその子に暴言を吐かれてから関わる事を止めた。きっと、現在15歳になった本人の記憶には残っていないだろう。

母は今でも、毎日決められた時間にかかってくるA氏の電話に出て、1分間だけ声を聞かせ合っている。その声は普段と違い、恋をする女そのものだ。私にとってはそれが本当に、本当に気持ち悪い。

現在の私は強引に自立支援医療の手続きを進め、向精神薬と睡眠導入剤で生活出来ているものの、26歳で患った病気でほとんど歩けなくなったために、当時決まっていた内定を取り消され、定職も見つからなくなってしまい、実家で母親やA氏と同居する事を余儀なくされている。また、土地勘の無い東京で通っていた病院での診断が間違っていた事から、20歳から28歳までの間の給付金100万円以上を遡って受け取る事も出来なかった。
ここまで自分がボロボロにならなければ、もっとマシな生活が出来ていたはずなのに…という思いもあり、性行為に対する嫌悪感が無くなる事はなく、TLの漫画等は全く読む事が出来ない。
自分のスキルが活かせると割り切って、3Dモデルに性器を加筆するような仕事も受け入れてはいるが、それを実際に使っている人を私は出来れば見たくない。

多感な時期の子供を持ち、再婚や事実婚を望んでいる方がこの記事を読んでくれていたら、どうか頭の片隅に置いておいてほしい。
貴方はそれで幸せになれるかもしれないが、子供の人生が必ずしも同じ方向に行くとは限らないのだと。そして、自分の幸せのために、子供のメンタルケアを蔑ろにしてはいけないと。

交際や結婚を夢見たり、男性に好意を寄せた事もある。
でも、身体の接触や粘膜の触れ合いが必要になると考えると、恋人を作りたいとはとても思えない。
自己肯定感が著しく低い自覚はあるが、理由はそれだけではない。
少なくとも私は、親という存在によって心を滅茶苦茶にされた人間のひとりである。

2022年11月6日 椿

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