英語だけの環境にブチこまれた時の絶望と壁を超える快感。
私は、日本で教育受けてきて、高校の中では「英語が得意科目だった」
ひょんなことから、何も知らず「国際教養学部」という学部に入学。
私が入学した国際教養学部は、大学の授業全て英語/留学必須。
調子に乗っていた18歳のまる子は、「まぁ英語も得意だしイケるっしょ」
初めての授業は、英語のエッセイの書き方を教えてくれる「ライティング」
いわゆる一番簡単な、英語補習授業。
授業開始後、「え、全く聞き取れない…。何を言ってるんだ?」
90分間愕然としたまま授業終了。
「宿題をやりたい気持ちはあるのに、宿題の内容ややり方が全く分からない」
武器だと思っていた英語が、全く役に立たないレベルだということを突き付けられた。
そこからは、疑心暗鬼になり「英語が出来る人みんな敵」。
英語なんて嫌だ。外国なんて行きたくない。転部してやる。という負の連鎖
でも、でも、受験勉強頑張った自分にここで辞めたら申し訳ない。
だから、毎日意味の全く分からない英語の授業に、出席だけしていた。
授業以外でも英語勉強をしていればいいんだろうけど、精神的に無理。
3ヶ月間、グロッキー状態の中で毎日英語を浴びせられる日々。
ある日突然、アメリカ人の元ジャーナリスト教授の授業が
「ん?聞こえる。」
日本語に訳して理解するんではなく、英語のまま意味がわかる。
え?何これ?と思っている間に授業が終わっていた。
英語が少しずつ聞こえるようになり、聞こえる時間が伸びていく。
でも全然話せない。でも何言っているか分かるから、しっかり準備すれば、エッセイではしっかり戦える。
英語は発音やネイティブっぽさではなくて、話している内容が大事。
日本人と友人になるように、趣味や考え方から外国人と友人になること。
そういう当たり前のことが、言語が変わると途端に分からなくなっていたことに気づいた。
それに気づいてからは、発音練習ではなく話せる内容について勉強。
言語を学ぶために出会った外国人たちは「日本人である私」に興味がある。
でも、趣味や考え方で惹かれ合って仲良くなる外国人は「私自身」に興味を持ってくれる。
言葉が足りなくても、そういう形で仲良くなる子たちとは、なんとなく一緒に居て楽しい。
そう思えるようになってから、ポジティブに英語に対しても捉えられるようになった。
でも一方で、帰国子女たちには純粋な英語力だけでは(特にTOEIC至上主義の日本社会では)絶対に勝てない。
もう一つの武器を得るために、台湾留学で中国語を習得しようと決めた。
台湾に渡った暑い8月。また「何を言っているか一文字も分からない」
でもその時に感じたのは、「あぁこの感じ懐かしい。3ヶ月したらきっと突然聞こえるようになる。」
というなんとなくの自信。一度超えた山は、また超えたくなる。
レールに乗った人生見つめ直して、台湾で自分も対峙する時間を増やしてます。 人間として、なりたい姿に近づけるよう日々思ったことを書きます。