丸井零
世界の終わり。 人類の滅亡。 文明の荒廃。 そんな終末世界での百合を書いていきます。
足が10本あります。 ……というわけで自己紹介です。 普段はTwitterにいます。カクヨムで一次創作を、pixivでは二次創作を行っております。全部小説です。 知人が日記やエッセイを書き始めたのを見て、自分もやりたくなったというわけです。流されやすい人間なのです。いつもふわふわ漂っています。指は10本あります。 生きていて思ったことをぽつぽつ書いていこうと思っています。明るい話や、元気が出るような話はしないと思います。黒いものを吐き出します。 たまに嘘の
noteで呟きができることを知った。 しばらくTwitterをやめてみようかな……。
景色が走っていく。近くのものは速く、遠くのものはのんびりと。列車に揺られながら、進行方向に対して直角に目線を向けると、外の世界が目に飛び込んでくる。 金属とコンクリートを組み合わせて建てられたマンション。かつては住人のゆりかごとして機能していたであろうそれは、今ではただの地形の一部と化してしまっていた。側面がえぐるように削られ、内部の階層構造が露出している。ほとんどの窓が割れており、成長期の乳歯のようにガラスを残して口を開けていた。 道路には自動車がまばらに停まっていた
本が読めなくなってしまった。別に珍しいことではない。この「この珍しいことではない」には二つの意味がある。つまり、本が読めなくなる人はこの世界にいくらでもいるということ。もう一つは、本が読めなくなる期間が筆者の人生の中で何度もあったので珍しくないということだ。 この症状には前兆がある。まず、矛盾するようだが、色んな本に手を出そうとする。 そして、この本には自分が求めている世界がある!と信じてそれを購入する。そして買った本を読み終える前に、また別の本に目移りする。 この
毎日投稿、すごい。
自転車のタイヤに空気を補充した。 空気が抜けてるな、入れないと走りづらいな。 そう思いながら、そのための時間を確保することができなかった。朝の出発前に入れようとするも、起きるのが遅かったりお腹が痛くなってトイレに篭ったりして、チャンスを逃してしまう。帰りに入れようと思っても、今日はもう疲れたから明日にしよう、と先延ばしになってしまう。 それにしても、タイヤの空気が抜けているだけで、こんなにも走りにくくなるものだろうか。アスリートのトレーニングのように、後ろにタイヤを
人生のレールから外れずに生きていける人は、一体何人いるのだろうか。小中高全て真面目に通い、「良い大学」に行き「良い会社」に勤める。「普通」に結婚して、「普通」に子供を作り、やはり「良い学校」に入れる。この先には老後も待っているが、これより先を考えるのは、今は止めておこう。 ここまで読んでみて、あなたはどう感じただろうか。年齢によっても立場によっても、感じ方は様々だろう。特に違和感もなく読み飛ばした人がいるかもしれない。我が子の将来のことを考えて、胸を痛める人もいるかもし
焦燥感。 人生という長く険しいマラソンコースを走っている筆者の背中に、いつもべったりと張り付いているものをこう呼ぶ。 何かしなくてならない。生きているのだから、何か残さなければならない。当然、価値のあるものを作らなければならない。 いつからだろうか。そんな考えに心を押し潰されるようになったのは。この世界に生まれてきたのだから、何か価値のあるものを作りたい。高校生になってからは、「価値」の正体も分からぬまま、逃げるように理系という道を志すこととなった。そして大学に
─天下の物は有より生じ、有は無より生ず─ 老子 誰も思い付かない素晴らしいアイデアを思い付く力が欲しい!という人(自分も含めて)に向けて、この文章を捧げる。何かいい方法を知っている方がいれば、筆者に教えて欲しい。 宇宙は、ビッグバンという巨大な爆発によって誕生したと言われている(最近では、ビッグバンよりもさらに前にインフレーションという真空でエネルギーが増大する現象が起きたという説も出てきている)。ビッグバンによって、大量の粒子が撒き散
『1984年』という本がある。作者はジョージ・オーウェル、社会主義者だ。そんなオーウェルが、いかにもソ連をモデルにしたかのようなディストピア世界を描き、それを批判的に書いている。 実を言うと、筆者はまだこの書を読破できていない。途中まで読んで止まってしまった。最近は読書体力が落ちてしまっているので長い文章が読めないのだ。歳を取るのは悲しい。 この作品の中に、「ニュースピーク」というものが出てくる。正しい言葉の使い方を、権力側が指定してしまうシステムだ。初めてこの作品を
冬になるとアリがいなくなる。これは有名な童話でも語られていることだ。今はまだ、下を向きながら歩けばすぐにアリを見つけることが出来る。アリという昆虫はどこにでもいる。土であろうとアスファルトであろうとコンクリートであろうと関係ない。春から秋にかけて、いつも忙しなく動き回っている。自分たちの住む環境を絶望的にまで改造されても、彼女らは堂々と社会を営んでいるのだ。 そんな姿を見ていると、この大地の本当の主は今目の前を歩いている小さな昆虫なのだと実感する。人が整備をする前は今より