あなたは「言葉」をどう使っていますか?
『1984年』という本がある。作者はジョージ・オーウェル、社会主義者だ。そんなオーウェルが、いかにもソ連をモデルにしたかのようなディストピア世界を描き、それを批判的に書いている。
実を言うと、筆者はまだこの書を読破できていない。途中まで読んで止まってしまった。最近は読書体力が落ちてしまっているので長い文章が読めないのだ。歳を取るのは悲しい。
この作品の中に、「ニュースピーク」というものが出てくる。正しい言葉の使い方を、権力側が指定してしまうシステムだ。初めてこの作品を読んだ時には、こんなことに何の意味があるのか分からなかった。作者は
「人は言葉を制限されると思考も制限されてしまう」
という主張を行なっていたらしい。先に読んだ解説にそのようなことが書いてあった気がする。その時には、まぁそんなものなのかなとしか思わなかった。しかし自分の周りを意識して見渡していると、言葉というものが力を奮っている場面を何度も見つけることが出来た。
我々は、言葉を自由に操ることができる。何か許し難いものがあれば、それに批判的な名前をつける。
最近、ある老人が大きな交通事故を引き起こした。しかしその老人は逮捕されなかった。ネットでは彼のことを「上級国民」と呼ぶ動きが生まれた(ネットだけではないかもしれないが)。本来、「上級」という言葉に悪い意味は含まれない。しかし、このような場面で皮肉的に使用することで、正反対の意味を付与することができるのだ。
我々は「呼び方」に最大の注意を払う。例えば領土問題。竹島問題では、我々日本人は「竹島」と呼び、韓国は「独島」と呼ぶ。「北方領土」に対しては「クリル諸島」だ。
もっと身近なところでは、ネット上の右翼の人たちのことを「ネトウヨ」と呼んだり、twitter場で活動するフェミニストのことを「ツイフェミ」と呼んだりする人たちがいる。上記のような呼び方をする人たちは、その集団に対して負の感情を抱いていることが一般的だ。
「安保法案」と「戦争法案」との対立もあった(おそらく今もある)。「安保法案」を使う側は、安全を保証するための法案だという主張をこの言葉の中に含ませている。「戦争法案」を使う側は、安全どころかむしろ戦争に巻き込まれてしまうという危惧を含ませている。今回は言葉の持つ力についての話なので、どちらが正しいのか、といった考察は一旦置いておきたいと思う。
際どい話題をたくさん放り込んでしまった。出した例については本当に他意はないので気にしないで欲しい。とにかく、様々な立場の人が巧みに、そして無意識に言葉を使っているのだということを実感していただきたかった。
日本には言霊という概念がある。口に出した言葉には霊力が宿っており、現実に影響を与えるという思想だ。それとは違うが、言葉にはそのまま発言者の立場や思想が宿っている。
筆者はネット上では「僕」や「俺」などの一人称を使わない。初めは「僕」と言っていたが、だんだん違和感を感じるようになって使わなくなった。プロフィールにも書いてあるが、性別という概念があまり好きではないのだ。気が付いたら、そういったものを感じさせない「筆者」「自分」を使うようになっていた。
一度、自分が使っている言葉をざっと見返してみるのも悪くない。頭の中が整理できるかもしれない。自分がどのような立場に立っているのか、本来は気付けない部分も見えてくるかもしれない。我々はよく「和食」「洋食」「中華料理」という呼び方をする。では、エスニック料理(民族料理)という言葉を使う時、我々はどのような国の料理を思い浮かべるだろうか。そこにはどのような国々が含まれているだろうか。そして、その国々に対してどのような評価を抱いているだろうか。
筆者は冒頭で「歳を取る」という言葉を使った。なぜだろうか。私が子供だった時には「大きくなる」や「成長する」という呼び方をしていたはずだというのに。成人した後は「歳を取る」や「老いる」という言葉を使う。何が違うのだろうか。あるいは、何が違うと思っているのだろうか。
これ以上は話が拡散してしまいそうなので、ここで終わりにしようと思う。我々は常に何らかの「立場」「思想」からものを見て考えているのだということを、そしてそれが言葉の端々に宿っているのだということを、常に頭の片隅においておきたいと思う。
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