見出し画像

現代に生まれ育った僕は、もう少し感情を表現してみたい

まだまだ中途半端な答えしか出ていないのだが、一言で言うとどうも「昔の人」の方が「今の人」よりも感情的に人と接し合っていたように思う。互いの感情をもろに見せ合い、特に怒るときは今の人よりも思いっきり怒っていたように思う。仕事柄、各年代の人と接する機会が多いが、日常会話でも年配の人の方が、回りくどい言い方などがなく、直接的にはっきり言いたいことを言ってくる傾向がある。

それは「思い込みが強い」と言えるのかもしれない。〜はこうに決まってると思い込んでいるから、はっきりものが言えるのかもしれない。
もしくは、長年の人生経験から自らの哲学を築いてきた証なのかもしれないが、

それであればアーティストを見ても70、80年代アーティストはその頃に歌った歌詞やメロディも直接的に人の心に訴えかけるような物が多い気がするから、故に「長年の経験」という理由は僕に中では矛盾しており、おそらく「生きた時代」が違うからという理由が最もしっくりくるように思う。

時にその性格は、「思いやりがない、多様性に欠ける」、そんなふうに捉えられてしまい、現代の若者世代からは若干引いた目で見られてしまうのかもしれないが、僕はそんな性格の人に対して悪い意味で捉えておらず、むしろ良いものだと思う節が多い。

「思い込みが強い」というのは、言い換えると「信念が強い」ということだ。
たしかに人付き合いにおいては広い関係を気付きにくいのかもしれないが、狭くとも深い人間関係が構築されやすいのではないか。
つまり、互いの息がバシッと合った場合はすごく深い絆が生まれ、逆に交通事故のように衝突するときは全然合わないし、互いに合そうともしない。20年ほど前までは、まだ街でオヤジ同士が酔っ払いながら肩を組み合い、そして大声で喧嘩もしている姿をよく見かけたような記憶がある。

おそらくそんな光景が消えて、感情をあらわにする人が減ったのは、そうでない人たちが訴えを起こしてきたからのではないか。感情的は社交的ではない、とでも言った具合だ。主な理由は、威圧的な態度で圧倒されるとどうしようもない。というものだろう。だから特に公の場では、感情を表わにする人が減った。会社や学校現場でも、そのような教育や指導方針は減っていった傾向にあった。

もちろん体罰やパワハラは絶対に良くないが、一方でそういう類のものをはっきり定義づけることが出来ず、なんとなく感情的であることは何もかもダメダメになってしまった。のではないかと僕は思う。

だから、守られる人が増えたという反面、どこか人間ドラマ的な、心の通った熱い物語は社会から減ってしまったのではないだろうか。

感情を表に出しづらくなり、どことなく角のない性格が良しとされ、極端とまでは言わずとも「出る杭」的な考えを持つ人間はどんどん生きづらい社会になった。誰に対しても平等に、尖らず、冷静に接する態度が人々に求められてきた。

確かにこのような傾向にあることは、良い面もたくさんあると思う。例えば人々の争いがなくなり、なんとなく風習でダメなことが増えたため、守られる人たちも多くなった。
一方で自分のうちなる感情をあらわにできる機会は減少し、極端な考えを持っているとすぐに「あの人はああいう人だから」と、蔑んだ目で見られるようになっていったのではないかと思う。つまり、極端とは言わずとも、まん丸ではない人の尖った部分、うちなる感情が表に出辛くなってしまった。

しかし僕が思うのは、「人はまん丸ではない」ということだ。
本当にまん丸な人間なんているのだろうか?と疑問に思う。どうしたって馬が合わない、嫌いになってしまう人だっているし、物事に対しても「これは極めたい、これは無理、やりたくない。」と、どこかしら皆好き嫌いな感情や、尖った思想を保有しており、コンスタントに全てをこなすことなど難しすぎるのではないかとつい考えてしまう。

現実世界では尖った意見をはっきり言えない風潮だからか、ネットでは好き勝手言いまくってる人さえいる。先程挙げたアーティストの例でも、昔の曲の方が直接的な言い回しでの歌詞が多く、表現方法も今より魂で歌ってるような表情の人が多いのは勝手な気のせいだろうか。
もしかすると、そういう人たちが売れていた時代なのかもしれない。

社会は明らかに変わってしまって、表面を見ると過ごしやすい環境になったのかもしれないが、それは本当に人々の心がリラックスしている状態なのかと、ふと疑問に思ってしまう。
心のリラックスというのは、僕は単に争いがなく、ゆったり過ごしているだけではなく、日常において出来るだけ我慢せず、自らを表現し、心の向くままに生活をする、そう言った状態も含まれると思う。もう少し感情豊かになるべきだと思うし、そういう人を許容する社会になってもいいのではないかと思う。

万人に当たり障りないように過ごそうとすると、どうしても誰もが、どこかでストレスを少しづつ抱えてしまうことに繋がるのではないだろうか。

自らの感情を出す人が苦手という人にとっては、一見、皆が感情的である社会はストレスになってしまうように思えるが、それは双方ともに言えることであり、要するに「好きなもの」に触れ続け、「苦手なもの」には接さない、そういう態度で過ごすとそもそも関わる機会がなくなっていいのではないだろうかと考えている。

現代のように、ある思想は何もかもダメと極端に決めつけるのではなくて、いいところもあれば悪いところもある動物、それが人間らしさというものであって、価値観ってそれぞれあるじゃん?的な多様性でありラフな感覚を、もう少し増やせばどうなるのかと思う。

感情豊かな社会になることで、優しさや恥ずかしがらない思いやりという良い現象も増える気がする。