歩く速度
僕は足を前に進める。誰よりも先にいきたかった。誰にも抜かされたくなかった。誰にも負けたくなかった。どんどん足早になっていく。景色が奔っていき、冷たい風が僕の身体を通り抜けていく。
声がする。どこか、遠く。僕のずっと後ろで。
声がする。微かに聞こえた。
あぁ、誰かが僕の名前を呼んでいる。
僕はようやく足を止める。
もう一度、声が聞きたい。
もう一度、名前を呼んでほしい。
「もう、そんなに早く歩かないの。迷子になるでしょう」
僕は振り向いた。
子供の頃、母の存在を確認するときに振り向くように。
母はいなかった。
いるわけがなかった。
これは夢だ。夢なんだ。
夢でもいい。どうか今は醒めないでくれ。
お母さん。
もう迷子なんかにならないよ。
僕は、もう大人だ。
お母さんが知らない間に僕は大人になった。
「もう、迷子にならずに歩けるのね」
寂しそうな母の声。
うん。だから、心配しないで。
「幾つになっても、心配なのよ」
どうして?
「私があなたのおかあさんだから」
おかあさん。
もう一度僕の名前を呼んでくれる?
僕は、そこで目が覚めた。
起きた瞬間頰を伝う涙。僕はそれを寝間着の裾で拭いながら時計を見る。
時刻は6時55分。ヤバイ。もう準備しないと電車に間に合わない。僕は飛び起きて会社に行く準備をする。余韻も何もない。だって今までのはただの夢だ。リアルはこっちで僕はいつもと変わらず働かなくてはならない。
適当に顔を洗い適当に髪をセットしスーツを着る。「よし、これなら余裕で間に合う」ともう一度時間を確認し家を出た。
僕は昔からせっかちだ。毎日何かに追われているように生きてきた。待てないのだ。ほんの少しの時間も無駄になんてしたくなくて。
そういえば、昔はよくショッピングモールとかでも先走って母を置いていってしまって結局迷子になってたんだっけ。
駅まで歩くスピードをほんの少し落としてみる。周りの景色が緩やかに広がっていき、周りの声がよく聞こえてくる。
車が走る音も、鳥の鳴き声も、風が木々の間を通る音だって。
それにしても空はこんなに青かったんだっけか。
そんなことも忘れてしまっていた。
ゆっくり歩いても間に合うくらいの距離なのに、僕はどれだけ早足で生きてきたのだろうか。慣れないことでなんだかもどかしいような気持ちはあるけれど、不思議と気分は悪くない。
僕は足を止めてゆっくり後ろを振り返る。
夢と同じように。どこか遠くで、母が僕の名前を呼んでくれた気がして。
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photo by まるこ
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