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コールドターキー

運ばれてくる風が随分と暖かくなった。まるで手で掴めてしまいそうな生温い風に包まれると私は自分がどこに立っているのかわからなくなってしまいそうになる。どうしてこんなにも初めての季節のように感じるのだろう。どうしてこんなにも、私は泣きそうなのだろう。

あぁ、だから嫌いなんだ。春なんてさ。



「おごるから一緒に飲もうよ」

カウンターの隣にいた男の手が私の肩に伸びてきたのが見えたので阻止するように私は煙草を咥えてライターを探すふりをした。男は少し残念そうにしてから自分のライターを差し出す。私はそれを無視して自分のライターで火をつける。男は不服そうな顔をしているだろう。見なくてもわかる。私だって不服だ。これも見なくてもわかる。でも一人よりはマシなのかもな。そう思いながら煙草のフィルターを噛み締めた。

「機嫌悪い?」

「普通だよ。嫌ならどっか行けばいい」

冷たい言い方なのはわかっている。誰かを責め立ててしまいたい。じゃないと自分を責めて責めて死にたくなる。罪悪感はない。今日会ったばかりの人にかける情けは今の私にはない。

「つめてーな」

「だから、嫌なら消えたらいい」

まとわりつく言葉を遮るように強く言うと男は舌打ちをして席を立った。仲間のテーブルに戻ったのかあざ笑う声と共に「性悪女だった」と愚痴る声が聞こえた。なんだっていい。こんなところで取り繕ってもなんにもならない。ウィスキーが入ったグラスを手に持ち氷をカランと揺らすとむせ返るようなスモーキーな匂いが副流煙と合わさる。まるごと一緒に飲み干すと喉が焼け付くように痛んだ。左手に持ったままだった煙草を揉み消し、もう一本続けて火をつけた。ゆっくりと吸い込むと先ほどのウィスキーが通った道に煙がしみ込んでいく。そういえば、なんか煙草をウィスキーに浸してから吸うやり方とかあったよな、なんてどうでもいいことを思い出した。

お酒を飲んだのは久しぶりだ。煙草に火をつけたのは、もっともっと久しぶりだった。
だからなのかアルコールもニコチンも喉を焦がすばかりで乾いていく一方だ。

「ね、辞めて正解だったでしょ?」

と得意げに言ってくるあなたの表情が今もこんなに簡単に思い出せてしまうことがとても悔しい。

あなたと付き合ってから間違いなく私は幸せだった。寂しさをごまかすためのお酒も、物足りなさを補うための煙草も、あなたといたから必要なくなった。
幸せだったの、ほんとうに。

でもきっとあなたは私が思うより私のことを好きじゃなかった。なんとなく過ごしてきて違和感が出始めたのはいつだっただろうか。「あれ?」と思うようなことが増えていき次第に「なんで?」に変わっていくのが辛かった。責めたくないのにあなたばかり責めてしまうようになった。

大好きだったのに。大好きだったから。

結局、別れを告げたのは私だった。


「もう一杯、同じやつもらえますか?」


バーカウンターの向かいにいる店員にそう伝える。ほどなくしてさっき飲んだのと同じ色の液体が目の前に置かれた。一口飲むと脳の奥まで染み渡り、考えることを麻痺させてくれる。このままあなたの思い出も麻痺させてくれたらいいのに。

あぁ、だめだ。今日は本当にダメな日だ。
忘れるために飲んだ酒も煙草もあなたのことばかり思い出させてしまう。
辞めてしまえたらよかった。酒も煙草もこの気持ちも。

涙を抑えるようにぐいっとグラスを傾けて喉に押し込んだ。燻した香りが鼻の奥を抜けていく。すべて飲み込んでしまうしかない。身体に悪いことはわかっているけれど、今の私に出来ることなんてそれしかない。

二杯目のウィスキーを飲み干すと私はもう一本煙草に火をつけた。これで、本当に最後の一本だ。鼻の奥がツンと痛む。泣いてたまるか。
別れを告げたのは私だ。耐えられなかったのも私だ。変わることができなかったのも、私だ。
泣く資格なんか私にはない。

深呼吸をするように肺に煙を入れていく。紫煙を吐き出したあと指の間で短くなっていく煙草をゆっくり眺め、灰皿に力任せに押し付けて火を消した。「ごちそうさまでした」と店員に声をかけ、支払いを済ます。グラスの横には煙草の箱をそのまま置いた。残り17本。吸った煙草の数より残した煙草の数を覚えていよう、と思った。
お店を出ようと出口に向かっていると慌てて店員に呼び止められる。

「あっ、お客さん!煙草忘れてますよ!」

「捨てちゃってください。もう私には必要ないので」


不思議そうに頷く店員を置いて私は店を出た。扉を開けた瞬間とてつもない強風で髪の毛があおられた。アルコールで身体が熱を持ったせいか、ほんの少し外の風が冷たく感じた。ぶるっとわざとらしく震えて「あぁ、だから嫌いなんだよ」と声に出してみる。

負けじと春も風を吹かせる。

ひとつだけゆっくり深呼吸をする。見えない紫煙が春の風に紛れて、そっと消えていった。


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