見出し画像

名もない日々に(23.6.30)

「永遠は続かない」
こんな言葉をよく聞くけれど、
ここ最近、身をもって実感することが増えた。

ずっと一緒にいられると思っていた、
愛猫の”まぐろ”は昨年11月に天国へ行ってしまった。

それが、当時は、どんなことがわからなかった。

とても悲しかったが、こんなに時が過ぎても
不意に思い出し、会いたくなり、切なくなる。
その温もりに触れられないもどかしさこそ、
「永遠は続かない」ことの痛みというのだと。

1年以上働いていた漢方ショップが閉店するらしい。
併設していたカフェは、2ヶ月後、一足先に閉まる。

それに伴い、いろんなものの最後を見届けている。
「もうスープは入荷しないからこれが最後ね」
「このパンもこれが終わり次第最後」

その「最後」というのは、

朝、スープを温める動作が消える。
注文を受ける動作が消える。
スープを器に入れるその動作も。
パンに具材を入れる動作も。
熱々のスープをメンバーに渡す動作も。
「スープ美味しかった!」と交わす会話も。

当たり前で自然な一つ一つの動作が、
全てこの世から消えて、跡形も無くなってしまう。

カフェだってそう。
例えば、私たちのカフェは何故か、
”再会の場”として使われることが多かった。

「私たち12年ぶりに会ったのよ」
「40年以来の再会なのよ」
「彼25年前に外国に行ったきり会ってなくて」

そんなことを、お客さんは嬉しそうに教えてくれる。
久しぶりの再会の喜びを、お裾分けしてくれる。
それを聞いて働いている私たちメンバー同士
での会話も生まれ、そこには自然な笑顔が生まれる。

カフェが閉まってしまえば、
そんな賑わいも興奮も笑顔も全て消えてしまう。
”場所”という形あるものがなくなるとはそういうこと。

その人たちの会話も、
一緒に交わした会話も。

「カフェは赤字続きだから」という理由で
しまってしまうが、そんなのに比にならないほど
私たちのカフェを愛し利用してくれる人がいた。
そこに一つ一つのストーリーがあった。

私はそんな一見ムダに見えるようなことが
大切に思えてしまう。
むしろ、実はそれで成り立っていたのかとも。

その”賑わいの場”に人が集まり、
その循環が物販に人を呼んでいたのではないか。
賑わいや楽しそうな場から、認知もあっただろうし
人が足を運ぶこともあっただろうし。

お金が全てはないのだと。
どうしても、自分視点になってしまうから。
自分が儲かろうと始めた施策は失敗する。

この世の中に「楽しい場所を作る」
「賑わい活気を作る」というその気持ちこそが大切で。
そういう楽しい場所には自然と人が集まるし、
リピーターや認知に広がり、”結果として”お金が集まる。

世の中そんなもんな気がする。

始まりも終わりもずれたけど。
永遠が続かないからこそこんなふうに自由に
日々思うことを書き留めることにしてみた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?