見出し画像

【長編小説】「彼らには見えているもの」


私が昭和から平成にかけて約十五年勤めていた高校は、すこし変わっている。ごく普通の大学受験を見据えて勉強する科がないのだ。
 デザイン科など美術全般を学ぶ科の他に、インテリア科や印刷科、機械、建築、土木などの専門分野を学ぶ科がある。
 そのような学校はたいてい工業高校と呼ばれているが、この学校は工芸高校、という名で呼ばれている。
 総合でみると、生徒は圧倒的に男子が多いが、こと私が受け持つデザイン科は、男女の比率がだいたい四対六で女子の方がやや多い。
 各クラスが一組から三組しかないので、クラス替えがなく、一組四十名しかいないデザイン科も、三年間を同じ顔ぶれで卒業まで過ごす。
 かくいう私もここのデザイン科のOBで、いま受け持つ彼らと同じ校舎で過ごし、学んだ。卒業後は美大に進学し、理想に近い環境で思うがままに制作に打ち込んだ。
 あのぬくぬくとした制作環境の中で、私はやがて社会に出る現実が待っていることを、受け止められなくなっていった。教員免許を取り、いったんは創作活動を封じることを決意した。
 そうして何かになるわけでもなく、社会に溶け込んだ学友もいる。しかし、私の右手がそれを許さなかった。まだ描きたいものがたくさんあるのだ。たとえ絵を売っただけでは食べていけない日々を送ることになろうとも、私には描くことしかない、と強く思った。私がこの世に生まれた意味がそこにあるのだ、と。
 私は実家に寄生し、昼間はアルバイトをして、夜は制作活動に没頭する暮らしを送っていた。
 そんなある日、この工芸高校の恩師から電話が掛かってきた。自分はもう引退をしたいから、君にその座を譲りたい、と恩師はいった。隙間の時間で創作活動が出来ることと、もし結婚しても家族を養えるだけの安定した給料が貰えること。恩師はその話をさも魅力的なことのように話した。
 恩師の願いを断れるはずがなかった。そうした経緯で、私は自分を育ててくれた母校に就職した。
 恩師は「子供たちからその有り余るパワーを貰うんだ。接しているだけで、彼らが発する熱は風邪のように移る。自らの制作にもいい影響しかない」と語った。そして、恩師の言葉は嘘ではなかった。
 
 デザイン科の生徒が三年間、ここで何を学ぶのかを説明すると、デッサンをはじめ模写、日本画、ポスター制作、染色などの平面デザイン。立体デザインでは木工、鉄工、石膏での彫刻、部屋を使った空間デザインなど、美術と名のつくものはたいてい授業に組み込まれている。選択でカメラも学べる。
 あとはデザイン史を含め、国語や英語などの学科はクラスの教室で大人しく学ぶ。内職や居眠りをしている生徒も多いが。
 平面以外の実技、彫刻や立体の時間は、作業着に着替え、それぞれの設備が整った部屋を使う。木屑や鉄屑が散らばる地べたに座り込んで作業することもあるので、一年生のきれいな作業着も、二年生に上がる頃には汚れが染み付き、まるでどぶねずみのようになる。しかし、それも彼らにとっては勲章みたいなものだった。
 毎年春に、普通学科四教科とデッサンや工作などの実技試験に合格した四十名ほどが新入生となり入ってくる。彼らは新品の絵の具や彫刻刀に目を輝かせている。それらを使い、どんなものを表現してくれるのだろうか、こちらもわくわくする。
 やはり、普通教科だけを学び、偏差値の高い大学へ進むことが目的の子供たちとはちがう。それは良し悪しではない。とにかく自分の中にある創作熱に浮かされているような目をした子供が多く通ってくるのだ。個性と個性のぶつかりあいは避けようがない。しかし、彼らは互いの個性を認め合うキャパシティも持ち合わせている。
 だから、この学校に勤務していたときに、陰湿ないじめを見聞きしたことがない。そして不思議なことに男女で分かれることもない。
 彼らは一人一人が平等であり、性別も個性も垣根を越えて分かち合う。そうでなければ自分自身の能力を発揮できないことを、誰にいわれずとも知っているのだ。
 それは不思議なことではない。送信者と受信者は、いつでもその立場が入れ替わるものだと彼らはとうに知っている。それが循環して発展していくのが、この美術の世界だということを。音楽の世界もまたしかりだろうが。
 しかし、美術という正解のない不確かなものを追求しようとすると、ときおり霧深い迷路をさまよい歩く感覚に陥る。そんな途方のなさにあり、不安を抱き、立ち尽くす瞬間がある。そんなとき、いつも傍らで見ている、同じ志を持つ友同士が助け合う。まったくすべてがすべて、そのような美しい姿だけを見ているわけではないが。
 少なくともここでの三年間は、他では味わえない特殊なものがある。友情などという言葉では簡単にくくれない。
 生徒たちは、何かの縁でとなりに座り、笑い合い、研磨しあい、ときには化学反応を見せてくれる。彼らは、まるで必然のように、どんな場面に出くわしても動じずに受け入れる。
 なぜ、そんな心の声までわかるのか。それは前述したが、私もかつてはその中にいたからだ。時代はちがうだろうが、私も彼らと同じ目をしていたのだ。
 教師という立場になって何が変わったと感じるか、と問われれば、流行のサブカルチャーについていけないだけで、生徒たちの心のくすぶりを肌で感じることができるのは、まったく変わらない。
 美術をひとくくりにして学べる高校というのもそうないものだ。貴重にして稀有な三年間がここにある。通ってくる生徒たちにこだわりが強いのも当たり前だろう。
 そんな生徒たちの中でも、特に印象に残っている子供を何人か紹介したいと思う。彼らからもらった、まるで満天の星空みたいなきらめきを、すこしでもたくさんの人と共有できたらと思う。
 彼らへの感謝も込めて。

1.
「渡瀬智樹」一年生(15)
 彼は、クラスの中で女子に紛れていたとしても何ら違和感のないような、背も低く華奢で、色白な美少年だった。我が学校は、男子が詰め襟、女子が紺のブレザーにブルーのネクタイが定められた制服だ。
 入学式を終え、教室に入ってきたぴかぴかの一年生たちは、まだ友達もいないので、緊張した面持ちで、窓側前列から五十音順に席に座る。
 廊下側の一番うしろに隠れるように座っていたのが渡瀬智樹だった。隠れるように、というのは正しくない。本当に体が小さいので、前に座る生徒たちによって隠されて見えないのだ。
 はやくもとなりの席の生徒と軽口を叩いている男子生徒とはすこし様子がちがうのが、まだ挨拶も始めていないうちから察知できた。そういう意味では、身体的には埋もれがちな彼も、どこか目立つところがあったといえよう。
 私が一年生を受け持つと、最初の朝のロングホームルームで、必ずみなにさせることがある。自己紹介だ。教壇まで出てきて、クラス全員の視線を浴びながら話してもらう。一人の持ち時間は決まっていない。アピールしたいことをアピールしたいだけアピールしてもらう。名前だけいって終わり、では生徒みなが許さなくなるのも面白いところだ。
 たいていは好きな音楽や幼い頃から習い事などで培った得意芸などを話す。好きなミュージシャンが同じ生徒がいると、まるで生き別れた兄弟に再会したかのような喜び方をする。
 最後に渡瀬智樹の番がきた。彼は席を立ち、扉の前まで出てくると、ちょこちょことカニのように横歩きをして教壇にのぼった。その様子を見て、女子生徒たちから「かわいい」と声が上がった。だが、彼は前を見ず、横に立つ私の顔をじっと見上げているので、私は促した。「まず、名前からね」
 ところが彼はしょっぱなからつまずいた。
「あの、わたし、いえ、ぼ、ぼく、えっとおれ······」
 クラスは爆笑に包まれた。彼は頬を真っ赤にして、また私を見た。私は小声で「一人称にこだわらなくていいよ、普段通りで」といった。すると彼はこくりとうなずいて前を見た。
「わ、わたしは、渡瀬智樹です」生徒たちのざわつきは治まった。彼は続ける。「わたしは、クラシック音楽が好きです。三歳からピアノを習っています。好きなアイドルは菊池桃子ちゃんです。あんな風になれたらいいな、と思います」
 教室は波を打ったかのように静まり返っていた。やがて誰かがいった。
「おい、おかまかよ」
 生徒たちがそれぞれに口を開き囁き出した。まじで、おかまだおかま。がちなやつじゃん。
 これはいけない、と私は余計なことと思いながら付け加えた。
「菊池桃子みたいな売れっ子芸能人になりたいってことだよな」
 しかし彼はもう口を閉じ、下を向いて歩き出していた。クラス中の好奇の視線を浴びながら席に着くと、机に突っ伏した。
 彼、渡瀬智樹は、初日から「ももこ」というニックネームをつけられ、クラスでは一番にその存在感を示した。
 繰り返すようだが、渡瀬智樹が女性的な発言や振る舞いをしたからといって、いじめに合うことはなかった。多少いじられることはあったが。がたいのいい男子生徒にお姫様抱っこをされたり、男勝りな女子生徒に制服を取り替えさせられたり、という程度だ。

 一年生で最初に課題として出される実技は平面は人物デッサンで、立体は木工彫刻だ。
 人物デッサンでは、まだ高校生ということもあり、モデルも局部は隠すが、それでも彼らにはなまめかしい男性ヌードだ。
 モデルが教室に入ると拍手と口笛で迎えられ、みなが落ち着いてデッサンに集中するまで、やはり時間を要する。毎回のことながら彼らの興奮を諌めるのには苦労させられる。
 渡瀬智樹は女子生徒同様、顔を赤くし、ちらちらと遠慮がちにモデルを見ていた。しかし彼のデッサンは基礎がすでにしっかりと出来ていて、線に迷いのない安定感があった。
 デッサンが上手く出来ないと、平面立体問わず、良いものは作れない。訓練し磨けばそれなりに腕も上がるが、デッサン力もまた、生まれ持つ才能のひとつだ。ひらめきだけではいつか必ず壁に当たる。ダヴィンチやレンブラントなどは、スケッチブックのデッサンだけでも価値ある芸術品となっていることを見てもそうだろう。ピカソの作品を知っていても、根底にあるデッサン力を知っている人はどれだけいるだろうか。
 話は前後するが、その年の夏休みに宿題として課した「身のまわりにあるもの」のデッサンで、渡瀬智樹は素晴らしい力を発揮したので、私は校長室横の正面玄関にそれを貼り出し、できるだけ多くの人の目に触れさせた。
 一年生最初の立体授業、木工彫刻。まずクロッキー帳にアイデアを描き、担当教師にジャッジしてもらい、オーケーが出て初めて彫刻刀を握ることが出来る。そして数枚の木の板をボンドで貼り合わせ、全体の形を彫り、紙やすりで微調整をして油を塗り、乾かしたら完成だ。
 木を切るときに大小様々な電動のこぎりを使うので、危険がともなう。卓上型などは特に扱いに細心の注意を払わないと、過去には指先を一本切り飛ばした生徒もいた。すぐに救急車で切った指と共に病院に運び、縫い合わせたという痛々しい実例もある。
 その授業期間でのこと。木工担当の教師、石川先生が、やや声高に職員室の私に話しかけた。彼が職員室に来ることは珍しい。いつもTシャツにカーゴパンツ姿で木工室に入り浸って木をいじり、コンビニで仕入れてきたものを食べ、真冬だろうが木工室で寝泊まりすることもある、すこし変わった教師だった。
 その石川先生が、私のデスクに一枚のコピー用紙を置いた。鉛筆スケッチのようだ。
「なあこれ、すごくないか」
 そのスケッチは波のようにも見えたし、恐竜が長い首をもたげた姿にも見えた。
「テーマは?」私は訊いた。
「柔らかさ、だよ」
「ほう」テーマを聞けば、それが具体的な何かではなく、流れたりとどまったりする動きそのもののように見えた。「いいね」答えると彼はいった。
「お前のクラスの渡瀬だよ」
 私は目を剥いた。てっきり三年生のスケッチだと思っていたからだ。へええ、声が漏れた。
「なあ、こりゃすごいのが入ってきたな」石川先生は私の肩を叩いて出ていった。
 
 私はときどき、妻が作ってくれた弁当を持ち込み、我がクラスで生徒たちとしゃべりながら昼食の時間を過ごすようにしていた。
 生徒らもそれぞれに弁当やコンビニエンスストアで買ったおにぎりなどを食べる。食堂にカップラーメンの自販機があるので、それを持ち込んですすっている生徒もいる。まだ、二十四時間営業の今のスタイルで重宝されているコンビニがぽつぽつと出始めた時代だ。
 さっそくみなに聞こえるように渡瀬智樹に話しかけた。
「木工で素晴らしいスケッチを描いたんだってな。石川先生がえらく褒めていたよ」
 渡瀬智樹は弁当を手で隠した。隙間から見えるが、カラフルで小さなおもちゃのような弁当だ。
「ずいぶん小さな弁当だな。そんなんじゃ大きくなれんぞ」
 すると、前の席の安田優里がいった。
「ももこ、自分でお弁当作ってるんだよ」
「本当なのか」
 訊くと、渡瀬智樹はこくりとうなずいた。
「お母さんが作ると、茶色しかないお弁当になるから嫌なんだって」
 安田優里のとなりに座る武藤祥子がいった。
 よく見ると、このクラスにも気の合うグループが出来つつあるようで、机を寄せ合い昼食をとっている。渡瀬智樹はなぜか安田優里や武藤祥子たち女子のグループに属している。しかし違和感を覚えないのも、彼の仕草が美しいまでに女性的だからなのだろう。笑っていると、男子であることを一瞬忘れてしまうほどだ。

 とある日の、模写の授業のあとのことだった。平面の授業は本館と渡り廊下でつづいている別館で行う。その教室のとなりには壁一枚隔てて準備室なるものがあり、私は自らの作品の制作や、キャンバスの置き場などにして私的に利用していた。同じように各準備室を私物化している教師がたくさんいるので、問題にはならない。
 授業が終わって生徒はみな次の教室へ移動したものと思い、作品に向かっていた。衣擦れの音がし、振り向くと、準備室の入り口に渡瀬智樹が立っていた。
「あれ、ももこ、どうしたんだ」夏休み前になるころには、生徒が教師をニックネームで呼ぶのと同じように、教師も生徒をニックネームで呼ぶ。
 ももこは手をうしろで組み、もじもじとしている。何かいいたげだ。
「なんだ? 次の授業遅れるぞ」
「次、プールだから」
 ああ、そうか、私はいった。この学校にも体育の授業があるが、女子生徒が圧倒的に少ないせいで、夏場のプールの授業になると、女子生徒の水着見たさに他の科の男子どもが授業をさぼってまで見学に殺到する。それゆえこの時期のデザイン科の体育は、ほぼ自由時間となっていた。中には暑さをしのぐためにプールで泳ぐ生徒もいるにはいるが。
 黙ってじっと見つめていると、ももこは口を開いた。生徒の個性が掴めてくると、扱い方もわかってくる。ももこは言葉で詰め寄るとリスのように逃げてしまう。黙って見つめるだけでいいのだ。
「きたみん、あのね」きたみんとは私のニックネームだ。苗字が北見だからだ。「いま、ちょっとだけ話していい?」
 いいよ、私は答えてスツールを一脚引き寄せた。
 スツールに座ると、ももこはくっつけた両膝を手でさすった。しばらく何も話さないから、私は作品に目を戻した。
「何の絵?」ももこが訊いた。
「ヴェネチアの街の絵だよ」
「ふうん」ももこはまた黙った。
 ペインティングナイフで絵の具をすくった。
「わたし、恥なのかなあ」唐突にいうから、私はペインティングナイフを握ったまま「何だって?」と振り返った。
「パパがいうの。お前は我が家の恥だ、って」
「ももこは兄弟はいるんだっけ」
「いないよ」
「そうか、まあ恥という言葉は使うべきではないと思うが、お父さんの気持ちはハッピーとはいえないかもな」
「やっぱりそうなんだ」
「いや、ももこがももこであることは否定しないし、それは誰もできない。ただ、認める勇気が、お父さんはまだ持てないのかもしれないな」
「おかまでかたわだから?」
「それはいっちゃだめだ。誰に何をいわれようが、自分だけはいってはいけないよ」
「あのね、きたみんはお父さんみたいでお兄さんみたいだけど、それでね、わたしね、いつか海外で性転換手術するの。そしたらきたみんお嫁さんにしてくれる?」
「本気で手術まで考えているのか?」
「うん」こっくりとうなずいて、ももこはイタリア絵画の天使のような笑顔を浮かべた。
「そうか、本気なんだ。しかしなあ、俺はあいにくの既婚者なんだよ。せっかくのプロポーズ、ありがたいのだが」
 椅子の背もたれに背を預け、腕を前に伸ばした。左手の薬指に銀のリングが光る。
 ももこはくすくすと笑った。「いいよ、きたみんは二位だから」
「なんだ二位なのか」私も笑った。
「本命はね、浩輔くん」
 日比野浩輔か。そういえばよく肩に腕を回されていたな。そういう距離感にやられたか。でもな、あいつはやめておけ。口をつきそうになるが、なんとか腹にとどめた。
「ももこ、面食いだなあ」
「きたみん、それ、自分のことかっこいいっていってるようなものじゃん」
「え? かっこいいから二位なんだろ?」
「わあ、ナルシスト」ももこはけらけらと笑った。

 渡瀬智樹が窓から飛び降りた、という知らせが職員室に入ってきた。ちょうど昼休みも終わり、五時限目の準備をしていたところだ。クラス委員の小田吉也が息を切らせていった。
「北見先生、渡瀬くんが······」
 校舎の前へ駆けつけると、多くの生徒たちが植え込みを囲っていた。割って入り、植え込みを跨ぐと、渡瀬智樹が体を丸めて倒れていた。
「渡瀬!」
 呼びかけると、渡瀬智樹はこちらを見て薄く微笑んだ。見上げると、三階の窓が開いていて、私のクラスの生徒が唖然とした顔で下を見ていた。
「そこからか」
 声をかけると、彼らはそれぞれにうなずいた。
 救急車が到着し、渡瀬智樹は救急隊員に囲まれた。
「名前、いえますか」
 顔をしかめながら彼は答えた。「渡瀬智樹です」
「頭は打ったか覚えていますか」
「打っていません」か細い声で答える。
「どこが痛いですか」
「右足、折れたかも」
 渡瀬智樹は担架に乗せられ、中に運ばれた。私も当然、一緒に乗り込んだ。
 身軽なのが幸いし、渡瀬智樹の怪我は右足の捻挫だけで済んだ。病院に駆けつけたご両親と面会したが、母親は終始身を小さくし私に詫びるだけで、父親はここぞとばかりに息子の悪口を並べ立てていた。
 結局、両親の口から「息子がいったい何を思い悩み、なぜ飛び降りたのか」という言葉は聞くことができなかった。
 固定バンドを右足首に巻いた渡瀬智樹は、翌日から登校し、職員室にきていた。聞くと、治るまでは母親が車で送り迎えをしてくれるとのことだった。
「きたみん、迷惑をかけてしまってごめんなさい」
「怪我が大きくなくてよかったよ」
 教室に入ると、「ももこ~」「心配してたんだよ~」とクラスメートが口々にいった。日比野浩輔は机に肘をつき、窓の外に目をやっていた。
 高校ともなると、生徒間でいざこざがあっても、そうそう教師が首を突っ込むことはない。今回も、渡瀬智樹は自殺をするつもりで飛び降りたわけではない、といっているし、誰かにいじめられている事実もなかった。ただ、渡瀬智樹は日比野浩輔に好きだと告白をし、「おまえは嫌いじゃないけど、セックスができないからなあ」といわれ、恥ずかしくなって咄嗟に飛び降りてしまったというのが事の真相だった。
 なんとなく予見はしていた。生徒間では隅々にまで行き渡っている話だというが、日比野浩輔は女の子に手が早く、デザイン科だけにとどまらず、インテリア科や印刷科の女の子にも被害は及んでいるらしい。被害といっても両者合意のもとでの行為なので、訴えるものなど誰もいない。むしろ自慢気に語る女子生徒もいるらしかった。
 そんな噂を先んじて渡瀬智樹に教えておいたからといって、片想いが消えるわけもないだろう。本人もある程度は耳にしていたと思うし。しかし振られて窓から飛び降りるとは誰が予想しただろうか。

 夏休み明けの初日、我がクラスは騒然となっていた。渡瀬智樹が女子生徒の指定制服で登校してきたのだ。白いシャツにブルーのネクタイ、膝丈のスカート。肩にかかるほど伸びたストレートヘアーの両サイドは、耳の上でピン留めされていた。膝小僧が骨張っているのを見て見ぬふりさえすれば、完璧な女の子だった。
「ももこかわいい!」「学校イチじゃない?」褒められて、首を傾げて笑っている。機械科の生徒だろうか、数人で見に来る始末だ。
 この話は私の回想で、時代は昭和のことだ。渡瀬智樹は即刻校長室に呼ばれ、教頭からこっぴどく叱られ、着替えてくるよう家に帰された。
 その日、再度登校してくることはなかったが、翌日登校した渡瀬智樹は、これまで通りの白い開襟シャツと黒いズボン姿に戻っていた。元号があとふたつほど変われば、何も特別な出来事にはならなかったのだろう。
 服装は型にはめられたものしか認められない現実ではあったが、渡瀬智樹のデッサン力と感性は、型破りなほど他と差をつけていた。
 鉄工彫刻ではいまにも舞い降りそうな躍動感あるペガサスを造り、模写ではイタリアルネサンス時代のフレスコ画を精密に描いた。
 秋になり文化祭の準備に追われる頃、渡瀬智樹はあちらこちらで引っ張りだこだった。科を跨いで「ももこ、こっち」と手を引かれ肩を抱かれている様子が目立っていた。
 看板や内装の手伝いから、インテリア科が手掛けるファッションショーのモデルまで、一手に引き受けていた。ファッションショーではセンターを飾るらしく、ラストは「ももこの結婚式」と題し、ウエディングドレス姿になるという。前もって整理券が配られたのはいうまでもない。

 正月休み、毎年パラパラとだが生徒から年賀状が届く。渡瀬智樹からもきていた。「いまはきたみんが一位だよ」という愛の告白と、表彰台で金メダルを首からぶら下げている私の似顔絵がオイルパステルを用いて描いてあった。はがき一枚にもフィキサチーフできちんとコーティングしてあるのが素晴らしいところだった。
 三学期はやはり一年間の中でももっともぴりぴりするシーズンだ。三年生は就職活動や美大受験を控えているものもいるし、一年生と二年生は進級がかかる学力テストに、実技も難題な課題が待ち受ける。
 平面はオリジナルの包装紙のデザイン、立体は石膏彫刻だ。デザイン科の教師の間でも渡瀬智樹の作品に期待が寄せられていた。その期待に、彼は(彼女というべきか)見事に応えてみせた。
 平面の作品は、包む箱の大きさによって上面にくるデザインされた人間の人数が変わるという包装紙だった。紙の四隅に描かれたものが折り曲げられ上面で合わさったとき、小さめの箱だと猫と子供がいる家族の絵になり、箱がすこし大きくなると猫のいない三人家族に、大きな箱を包むと子供が消え、カップルがあらわれる、よく計算された包装紙だった。
 いっぽう、立体の方は、自らの手を型取り、ピアノを弾く手を石膏で作った。彼らしく凝っているのは、原寸大のピアノの鍵盤まで再現されていて、しかもショパンの「雨だれ」の出だしを楽譜通りに押さえてある、ということだった。デザイン科教員全員脱帽するしかなかった。

 三学期の終業式後、私は自腹でお菓子とジュースを買い込み、教室で「進級おめでとうパーティー」を催した。たまにだが、赤座布団をくらい、追試でも結果が出せずに留年する生徒もいるので、みなが揃っての二年生進級を祝うのだ。
 ポラロイドカメラやコニカのカメラを掲げる生徒がいると、たちまちみなが集合し、ピースサインと笑顔を作る。
 ここでもやはり、ももことのツーショット撮影会の行列ができていた。
 みなの笑顔には翳りがない。彼らの内にはクリエイトする喜びとパワー、生への実感と執着、同志との切磋琢磨の愉しさでぱんぱんに膨れ上がっている。ここから小さな爆発が起こり、やがて宇宙を作り出す。その結晶が、卒業前最後の課題となるグループでの創作、空間アートだ。
 貸ビルのワンフロアを使い、グループごとで空間に高校生活最後の叫びを放つ。毎年カラーの異なるその発表が、私たちデザイン科教師の最大の楽しみでもあった。教師だけではない。卒業生も見に来る。
 高校三年生ともなると、もう落ち着きや、卒業後には社会人デビューをする覚悟のような佇まいを見せる生徒もいるが、いま目の前でげらげら笑っているのはまだ十五、六歳の少年少女だ。腹の中では何を考えているのかはともかく、無垢にも見える。
 ももこが私の方にちょこちょこと歩いてやってきた。誰か女子生徒にされたのか、髪をうさぎのようにふたつに結んでいる。ピンク色のふわふわとした毬藻みたいな髪留めがついているから、首から上だけ見たら、ちょっとしたアイドルのようだ。
「きたみん、ツーショット撮ろうよ」
 そういってももこは私の肘を引っ張った。ポラロイドカメラを手にしている生徒を捕まえ、「ねえ撮って」とせがむ。黒板にはみながそれぞれ好きなアニメのキャラクターやメッセージなどを書き込んで賑やかだ。
 私はももこに引きずられ黒板の前に立った。口笛が飛び交う。私は仁王立ちだが、ももこがポーズを変え、二枚写真を撮った。
 画像が浮かび上がるまで、ももこは二枚のポラロイド写真に息を吹きかけ振っていた。それからにこにことふたつを見比べ、一枚を「はい、あげる」と私に手渡した。見ると、ももこが私の頬に尖らせた唇を近づけてウインクをしていた。女子生徒たちが覗いてきて囁いた。
「これはやばいわ」「まずいっしょ」「禁断の愛だね」「奥さんに見せられないわ」「どうするきたみん」
 どうするもなにもない。これらの写真の類いは記念品として、自宅のクローゼットの段ボールに入れるだけだ。妻も特に興味を示さない。
 五時を過ぎて彼らが帰ったあと、私はひとり教室に残り、手持ちのカメラで黒板の彼らの痕跡を撮影し、黒板消しですべてきれいに消した。それからカーテンを閉め、消灯し、扉に鍵をかけた。

 その次の年度は、私がデザイン科の担任に就くことはなかったが、平面の授業では彼らとは顔を合わせた。
 そしてその翌年に新しく入学してきた新一年生の担任に就き、面白い個性の持ち主たちと一年を過ごした。
 渡瀬智樹は、二年生のうちに身長が十センチ以上伸びていた。きんきんとしたボーイソプラノだった声にも声変わりが訪れ、ざらざらした声でしゃべりづらそうにしていた。
 平面の授業では相変わらず安定した技術を示していたが、優秀作品として教室のうしろに飾られる機会も少なくなっていった。
 翌年のゴールデンウィーク明け、デザイン科三年生の男子生徒たちが作業着のまま、木工室の前の広場で円陣パスをして遊んでいた。取り損なったバレーボールが、歩いていた私の足元に転がってきた。腰をかがめて取ろうとすると、一人のすらりと背の高い男子生徒が駆け寄った。
 骨張った片手でバレーボールを掴むと、「すいません、きたみん」と聞き心地のやいテノールでいった。顔を上げると、顎のラインと喉仏がくっきりと出た顔立ちに爽やかな短髪の渡瀬智樹が口を大きく開けて笑っていた。
「智樹!」円陣の中の一人が呼んだ。
「おう!」渡瀬智樹がよく響く声で返した。
 円陣の中に戻ると、どれが渡瀬智樹なのか、私にはもう見分けることができなかった。

2.
「横山大河」二年生(17)
 横山大河は、一年生のはじめから、その攻撃性をあらわにし、周りを恐れさせていた。
 中高生による校内暴力、家庭内暴力が大きな社会問題とされ、メディアでもよく議論のテーマとなっていた時代。この生徒も一見そんな子供に見えていた。
 ここデザイン科は創造に喜びを見出だし、その世界で生きていきたいという夢を持ち、受験し入学してくる子供たちばかりだということもあり、荒れた生徒や学校はテレビの中のことと認識していた。そういう意味では、時代から隔たった平和な学校だった。
 ところが、横山大河の登場によって、そんな平和ぼけした我々教師は目を覚まさせられ、生徒たちは恐々と日々を過ごさなくてはならなかった。
 入学式、横山大河は丈の長い学ランを着てあらわれた。ボタンをとめず全開していたので、裏地の派手な虎の刺繍がはっきりと見えた。
 校長が話すと、横山大河はぱんぱんと大きな拍手を送り、周囲を見渡しにやりとした。保護者席で頭を下げ、ひときわ身を小さくしている女性がいた。おそらく母親なのだろう。特徴のないグレーのワンピースを着ているが、極端に痩せており、ごぼうを思わせた。
 横山大河がはじめて問題行動を起こしたのは、木工の授業だった。みな、手には彫刻刀を手にしており、けんかをふっかけられた男子生徒とは、一触即発だったという。
 発端は、ある男子生徒が彫っていた木屑を目に入れてしまい、取ろうとしていた顔があかんべーをしたように横山大河には映り、「なんだこらあ! ふざけんじゃねえぞ!」といいがかりをつけ、男子生徒の胸ぐらを掴んだという話だ。
 教師が割って入り誤解を解くと、横山大河は造りかけの自分の作品を外に放り投げて木工室から出ていったらしい。その後、自ら放り投げた制作途中の作品を完成まで彫ることはせず、未完のまま担当教師によって油が塗られ、課題提出の形をとった。
 この学校のデザイン科教師たちは、どちらかといえば温厚な人間が多い。温厚、というのはかなりオブラートに包んだいい方で、要するに、教師たちも現役で活動する芸術家たちばかりなのだ。できるだけ穏便に日々を過ごし、余った時間を一分でも多く自らの創作に費やしたい、個人主義の集まりだった。従って、話し合いを持とうなら、極論ばかりが飛び出してくる。
「退学してもらえばいいじゃないですか。ここは高校で義務教育じゃない。規律を乱すし、そもそもが創作意欲なんてないんだ」
「高校教師が、もう義務教育ではないなんていったらおしまいじゃない。わたしは彼の将来を案じて親御さんと面談をした方がいいと思います」
「そうですよ、追い出せばいいという問題じゃない」
「ぼくは嫌ですね。彼のいる授業をボイコットします」
「他の生徒はどうするのですか」
「テーマさえ与えれば、他の生徒は真面目に課題をクリアしてくれますよ」
「横山大河を隔離するというのはどうですか」
「動物園じゃないんですよ」
「横山大河の性根を根本から変革させるなんて、無理なんですよ。学園ドラマじゃあるまいし」
「彼の性格を変えようって話じゃない、周りにも注意を払い見守ろうって話じゃないのですか」
「なら有志でパトロールでもすればいい」
 この連中の集まりで会議などまとまるはずがなかった。
 その間にも横山大河は傍若無人に振る舞っていた。体育の見学をしていたはずが、教室にいて、男子生徒の制服をすべて窓から投げ捨てていた。社会科の授業になるとカセットデッキを持ち込み、爆音でロックを流した。
 私の平面の授業では、ありがたいことに居眠りをしていた。別棟での、日当たりがよく、となりの敷地から鳥のさえずりまで聞こえてくる静かな授業だ。当然のことながら居眠りしているのは彼だけではなかった。
 他の科、とくに土木科は、どちらかといえば極端に長かったり短かったりする学ランを着たやんちゃな生徒が多く、その連中から横山大河はちょくちょく呼び出されていたという話が耳に入っていた。
 因縁でもつけられているのか、仲間として受け入れる儀式でも行われているのか、どんなやりとりがあるのかはわからないが、殴り合いにまで発展していなければ教師の出る幕ではなかった。
 ある日、横山大河が木工の授業中に、あやまって自分の腿に彫刻刀を突き刺してしまった。作業着が血に染まった横山大河は保健室に運ばれてきた。ちょうど授業がなかった私が対応したが、足の付け根を布で強く巻き付ける処置をし、「いてえ、いてえ」と悶絶する横山大河を抑え込まなければならなかった。
 病院に連れていくために私の車が停めてあるところまで誘導するが、彼はざまあみろといわんばかりに笑って見ている他の科の生徒たちに向かって叫んだ。
「見せ物じゃねえ! おまえら、いま笑ったやつ覚えとけよ、刺し殺してやるからな!」
「わかったから早く乗れ」
「いてえっていってんだろ、おまえもあとで殺すからな」
「わかったわかった、治療したあとでな」
 そういって私は彼を後部座席に横たわらせた。
 病院の処置室から出てくると、横山大河の母親が青ざめた顔で待っていた。
「ああ、お母さん、お呼びだしして申し訳ありません。傷は少々深いですが、二針縫う処置をしてもらいました。この通り、作業着が血に染まってしまったので、新しい作業着を購入して頂けますでしょうか。この件では、私どもの注意が足りず、まことに」
 最後までいう前に、横山大河の母親は息子に向かっていった。
「罰が下ったのよ」
「罰?」私は訊いたが、母親は私の顔など見向きもしなかった。
「ああいうことをすると、こういった天罰が下るの。よくわかったでしょ」
 何のことかまるでわからないが、横山大河は借りてきた猫のように大人しくなっていた。
 翌日、横山大河はすこし歩きづらそうにしていたが、元気に登校した。そしてまた、クラスメイトを恐怖の底に落とし込めていた。数学の授業で、彼は教卓に上り、黒板に向かい小便をした。そらから字の滲んだ黒板を教師に拭け、といったのだ。数学教師は職員室に逃げ帰り、担任と副担任がパニックに陥っている生徒をうしろに下がらせ、雑巾で処理をした。当の横山大河は屋上で摩訶不思議な呪文を唱えていたという。
 横山大河がときどき屋上で唱えている摩訶不思議な呪文については、デザイン科の職員室でも何度か話題にのぼっていた。そのときの彼の表情は、近寄りがたいほど真剣なのだ。何かが憑依しているのではないか、という教師もいた。
 そんな横山大河も二年生に進級し、くじ運の悪いことに(くじで決めているわけではないが)、私が担任に就くことになった。
 始業式最初の日、さっそく横山大河からの挑戦状を受け取った。私の顔は単純で似顔絵に描きやすいのか、生徒たちはとても上手に私を描く。
 黒板いっぱいに描かれた私の似顔絵も、上手かった。首から下はとかげのような体をしており、胸や腹は切り裂かれ、内臓が飛び出していた。似顔絵も上手いが、内臓もまるで解剖にでも立ち合ってきたかのような素晴らしい描写だ。この画力があるから横山大河はこの学校に入学できたわけだが。
「そういえば、俺を殺すっていつだったかいっていたな」
 私はそういってらくがきを黒板消しで消した。すこしもったいない気持ちがしたが、子供の挑戦状をいつまでも残しておくのもよろしくない。あっさりと力作を消されたことに腹を立てたのか、横山大河はつかつかと教壇にやってくると、学ランを脱いで私に思い切り投げつけた。女子生徒の悲鳴が上がる。投げつけられてみて、はじめて刺繍入りの学ランの重たさを知る。
「虎か、迫力あるな。もちろんお前がデザインしたんだろ?」
「はあ?」横山大河は訝った。
「この学校に合格するためにデッサンをたくさんしたんだろ? ここで画力を鍛えるために毎日来ているんだろ? 他人が作った美術品を自慢げにひけらかすことがお前のやりたいことなのか」
 横山大河は黙って私を睨んでいた。そしていった。「ぶっころす」
「ああ、ぶっころせ。それがこの学校に受験してまで入ってきてやりたいことならな」
 横山大河はしばらく私を睨みつけ、教室を飛び出していった。
 私には、ひとつ確信があった。横山大河は何かを破壊しても、決して人には暴力をふるわない。そして、遅刻しようが早退しようが、一日も学校を休んだことがない。もしかしたら彼には、学校しか居場所がないのかもしれない。内にある思春期特有の攻撃性をここでしか出せないのではないか、と。
 横山大河がクラスメイトの弁当すべてにコーラを掛けた、と学級委員が職員室に飛び込んできた。その日、私は教室で手弁当を食べなかった。
教室へ行くと、女子生徒が泣いており、男子生徒は憤然と横山大河を睨みつけていた。
「おまえらの母親の不浄な手で作られた菌だらけの弁当を浄化してやったんだよ」
 彼の言い分はさっぱり理解ができないが、私はごみ袋を持ってきて、コーラに浸った弁当の中身を回収した。そして全員に床の拭き掃除を命じ、五時限目の平面デザインの担当教師に授業を代わって欲しいと頼んだ。担当教師は渡りに船とばかりにこくこくとうなずいていた。
 それから近くのラーメン屋に電話を掛け、ラーメン四十人分の配達を頼んだ。
 ラーメンの香しい匂いにつられ、よそのクラスの生徒たちが覗きにきていた。デザイン科の二年生たちは、さきほどまでの緊迫感から一転して、頬いっぱいにラーメンをすすっていた。横山大河は机の上に配られたラーメンには手をつけていなかった。
「ごちそうさま、きたみん」「ありがとう、きたみん」みなが私に感謝の言葉を述べたので、こういった。
「礼なら横山にいえ。あいつのおごりだ」
 横山大河が立ち上がった。「どういうこったよ! てめえ、ふざけんなよ!」
「ふざけてないさ、お前がみんなの弁当にコーラをかけたのをもう忘れたのか」
 ラーメンどんぶりが教壇に飛んできた。黒板に当たったどんぶりは割れ、スープを吸った麺がぐちゃりと落ちた。飛び散ったスープが前列の女子生徒のスカートにかかった。
「あと、どんぶりひとつの弁償と、秋野のスカートのクリーニング代もな」私は付け加えた。
「やっぱり教師も善人面して、汚ねえんだよ!」横山大河がつかみかかってきた。
「誰も善人面なんかしちゃいない。教師に勝手な幻想を抱くな」私はその腕をうしろに回す。
「おまえもバイ菌だ!」そういって身をよじり抗う。
「バイ菌ってなんだ」襟を握られたので、こちらも襟を握る。
「不浄ってことだよ」睨むその目には、やはり狂気はなかった。
「ああ、この世は不浄だからな。で、説法を説く代わりにコーラをぶちまけたのか」私はグリースで固めた彼の髪をつかんだ。
「やめろ、離せ」
 案の定、横山大河は髪をつかむ私の手を振りほどくのに必死になった。彼が髪型にはこだわりを持っているのは知っていた。雨の日を嫌い、休み時間にはくしで手入れに余念がない様子を見ていたのだ。
 髪型を乱されるのが嫌だろうと見込んだ私の応戦がものをいった。くしゃくしゃになった髪に手を当て、明らかに戦意を喪失していた。
「トイレで直してきていいぞ」私が笑いを噛み殺していうと、彼は舌打ちをした。「それからな、ラーメン代と諸々の請求書はおまえのお母さん宛に送っておくからな」
「どうしてだよ! 母さんは関係ねえだろ!」
「だったらもうするな!」
 もうひとつ確信があった。横山大河はなぜか母親には弱い。当たり前だが、ラーメン代は私の懐から支払った。

 その日、私は定期入れを探していた。むろん、私のではなく生徒のだ。帰りのホームルームを終えると、二人の女子生徒が廊下を歩く私を引き止めた。一人は泣いていた。定期入れをどこかで失くしてしまったという。
 彼女は電車でとなりの市から一時間半かけて通っている。そして今日は塾があるからすぐに帰らなければならない、といったわけで泣きついてきたのだ。私は今日一日の行動を振り返らせ、その二人の女子生徒と共に手分けして探していたのだ。
 屋上に出る扉を開けると、柵の際に横山大河が突っ立っていた。空に向かいなにやらぶつぶつとつぶやいている。
「何をやっているんだ、横山」
 うしろから声をかけると、彼はぎょっとした顔で振り向いた。
「な、なんでもねえよ」
「そうか、ここに定期入れ落ちていなかったか」
 私が訊くと、横山大河は「ああ」と学ランのポケットをまさぐった。「これだろ」と、ミッキーマウスの絵柄の定期入れを私に差し出した。泣いていた女子生徒の名前が記されていた。
「お、ありがとうな」私は受け取った。
 それから二人の女子生徒を探し、定期入れを手渡した。「横山が拾って届けてくれたんだよ、明日にでも礼をいっておくんだぞ」
 女子生徒二人は顔を見合わせた。
 翌日、顔を真っ赤にした横山大河が私のところにやってきてわめき散らしたのはいうまでもないだろう。
「てめえ、わけわかんねえこといってんじゃねえぞ」
「だって届けるつもりだったんだろ」
「そんなこといってねえじゃねえか」
「それなら盗む気だったのか」
 横山大河は押し黙った。まだ顔を紅潮させている。女子生徒からお礼をいわれるなど、彼にとっては屈辱だろう。
「次、物理だろう。講義室にいかなくていいのか」
 しばらく黙って私を睨んでいたが、「覚えてろよ!」と啖呵を切って去っていった。
 横山大河が何を胸に抱え、何に憤りを覚えているのかについて、私は考えることをやめていた。見放しているわけではない。子供の中の宇宙に、大人が介入すべきではない、というのが私の持論だ。
 子供たちというのはそれぞれの宇宙を自由に広げていくものだし、現実との折り合いをつけていくのも一人一人時期もやり方もちがう。それに彼らは大人の都合に関係なく、勝手に乗り越えていくものだ。親ならともかく、いち教師がずかすかとでしゃばる問題ではない。
 しかし、横山大河が母親にひどく気を使っていることは気になっていた。両親に問題があり、学校で教師にしかぶつかってこられないのだとしたら、私たち教師は大きく受け止めてあげる必要がある。だが、それこそ家庭の中身まで、高校教師は覗き見してはならないのが掟といえよう。それが守れない高校教師は、営業マンにでも転身した方がいい。

 横山大河の呪文の謎は生徒間でも広がっており、ただでさえ孤立しているクラスの中においても、彼を警戒する大きな要因になっていた。
 言葉によるいじめはないが、よそよそしく敬遠される、というのも彼の精神にダメージを与えているだろうことがわかる。それが明らかに横山大河の言動にもあらわれていた。
 誰かが笑い声をあげると「うるせえな!」と恫喝する。体育の授業では、敵味方関係なく体当たりをする。また、足をかけることもある。それは大きな怪我にもつながる危険な行為として、体育教師と担任の私とで、横山大河と話をする機会を設けることとなった。
 放課後の教室へ私と体育教師が向かうと、横山大河はひとりで窓を向いて立っていた。適当に机を寄せ合い、腰掛けた。
「本当に待っているとは思わなかったよ」
 体育教師がそういうと、横山大河は憤然としていった。
「おまえらが呼び出したんだろうが、勝手なこといってんじゃねえぞ」
「呼び出されるようなことをしたんだ、反抗するな」私はいった。
「おまえもそう思っていたのかよ」横山大河が私を見た。
「いや、俺はちゃんと待っていると思っていたよ。横山はそんないい加減な人間じゃないこと、知ってるからな」
「気持ち悪いこといってんじゃねえよ、オレの何を知ってるっていうんだ」
 けなそうが褒めようが、つっかかるのは変わらないようだ。私は喉を鳴らして笑った。
「笑ってんじゃねえぞ、ぶっころすぞ」
「これでおまえに殺害予告を受けたのは何度目だっけな、いつ実行するんだ」私はまた喉を鳴らした。つられて体育教師が笑うと、横山大河は頬を紅潮させた。
「ほんとうにころすからな」
「殺せ殺せ、何度でも殺せ。それが正しい反応だ」
「どういう意味だよ」
「横山、おまえいま十七だろ。自分で自分をコントロールできなくて歯痒いのが、だいたいその年齢なんだよ。それが大きいか小さいかは個人差があるが、成長過程としては正しい反応だってことだ。俺にだって覚えがある」
 ふん、と横山大河はそっぽを向いた。
「横山、本当に北見先生を殺そうと思っているわけではないのはわかるけど、クラスメイトに大きな怪我をさせたらどうするんだ。ごめんなさいじゃ済まないぞ」体育教師がいう。
「そうだな、もしそうなったら、横山のお母さんにもお越しいただかなくてはならなくなる」
 お母さん、と私が発するや否や、横山大河の形相が変わった。
「なんで母さんが出てこなくちゃならないんだよ、関係ねえだろ」
「そんなわけあるか」私は噴き出しそうになるのをこらえた。「子供が過ちを犯せば親は監督責任を問われることぐらい、ちょっと考えればわかるだろう」
「でも、母さんは悪くないじゃないか」
「そうだよ、お母さんは悪くない。悪くないのに、子供の行動いかんでは出てきて方々に頭を下げて謝らないとならないんだ」
「そんなことさせてみろ、まじでみんなぶっころすからな!」
「それがお母さんの首をしめることになるのがわからないのか!」
 私が一喝すると、鼻の穴を広げた横山大河は肩で息を吐いていた。
「お母さんにそんなことさせたくなかったら、クラスメイトへの危険な行為は慎むことだ」
 鼻息を荒くした横山大河の口からは、もう何もついて出てくる様子はなかったので、私と体育教師は横山大河を帰し、教室を後にした。
「母さん母さんって、横山もまだ子供なんですね」体育教師がいった。
「そう簡単な話ではないと私は思っています」
 私がそういうと、体育教師は「そうなんですか、どこがですか」と訊いてきたが、私は答えなかった。答えなかったのは、もちろん何も確証がなかったからだが、しかし私にはそう思えてならなかった。
 横山大河が「母さん」というとき、その目には悲しみのようなものが宿るのだ。今回の話し合いで、その感覚だけは確かなものだと実感した。根は優しい子なのだろう。何らかの事情で母親をおもんぱかり、家庭で出せない抑圧された反抗心を学校で解き放っているように思えてならなかった。
 横山大河は弁当を持参したことがない。母親が作らないのか、作っても持っていかないのか。
 たまに弁当の中身を見られるのをひどく嫌がる子供がいる。何が気に入らないのかわからないが、それでも手で隠して必死にかきこむのだ。
 そういうのも面倒な子供は、作ってもらうことを止め、金をもらって買ってきたおにぎりやパンで昼食を済ます。
 中には夕食時にも家に帰らず、マクドナルドで遅くまでねばり、家には寝るためだけに帰る子供もいるという。
 それらの情報も、昼食の時間に生徒が教えてくれるものなのだが、誰とも付き合いのない横山大河の、そこらへんの事情を知るクラスメイトはいなかった。

 染色の授業で、横山大河がその画力を発揮している、という話がデザイン科の職員室で行き交っていた。
 この染色の授業は、まず手拭いのような長さの綿の布地を染液に浸して染める。それから台紙に自分で模様をデザインし、カッターナイフで切り抜く。それを布に押し当てて写し、上からもう一度手染めしていく。時間と根気は要するが、そう複雑な工程ではない。
 横山大河は、切り立った崖に立つ虎の親子をデフォルメさせて描いた。
 父虎は空をにらみ、子虎は首をひねり父虎を見上げていた。父虎の背中には大きな太陽がかかり、降り注ぐ日差しと父虎の虎柄が同化していき、子虎へと繋がっている、見事なデザインだった。バックの色は濃いオレンジで、模様は焦げ茶色。
 私は窓に干されて乾かしている生徒たちの力作を眺めていた。
「オレの虎のだ。他人のじゃなくて、オレが作った虎だ」
 背中に声が降った。振り向くと、横山大河が立っていた。風に揺れる自分の作品を見つめている。
「そうだな、おまえの学ランなんかより、ずっと力強い虎だ」
「あれはオレなんだ」
「子虎か」
「どっちもだ。父さんが虎のように強くなれってオレに大河って名前をつけたんだ」
「ああ、タイガーの大河か。なるほどな、そうだったのか」
 自分の作品に酔いしれたように、薄い笑みを浮かべている。他の作品も出来の良いものがあるが、おそらく優秀作品として飾られるのは横山大河のものだろう。そうして手応えを得て、ひとつずつ自信を積み重ねる。彼がどのような道を選んで生きていくのかはわからないが、この瞬間のことは生涯忘れないだろう。
 デザイン科で三年間学んだからといって、みながみなデザインや美術に関わる道を選んで生きていくわけではない。プロ野球の球場で売り子の仕事をしている者もいれば、ピアノ教室で子供を指導している者もいる。変わり種ではバスガイドになった者だっている。
 子供たちの前には電車の路線図などよりもはるかに複雑な乗り換え地点、選択路線がある。気づいたら南半球で暮らしていた、なんてことだって現実にあるものなのだ。だからこそ、ぎゅっと身の詰まった三年間をこの学校で過ごし、生涯記憶に残る感動を大いに味わって欲しい、と私は強く望む。
 この授業がその後の横山大河を大きく変えたわけではないが、少なくとも私は彼から殺害予告を受けていないし、クラスメイトのうち誰かがなんらかの害を被った報告もない。
 しかし、彼とクラスメイトの間にしっかりと横たわってしまった溝は、簡単に埋まるわけにはいかなかった。
 相変わらず、横山大河は机に足を乗せ、周囲ににらみを利かせていた。
 私はまた手弁当を持ち込んで、教室で生徒と談笑しながら食べていた。
 女子生徒の会話に入ったが、彼女らは最近流行りのバンドの、ただただスイカを売りつける歌について語っていた。とにかくげらげらと笑い転げていて、箸が転がってもおかしい年頃というのはこのことだ、と実感した。
 いっぽう、男子生徒の話に付き合うと、やはり誰がどの女の子のことが好きで、お気に入りのベストスリーは誰か、などという微笑ましい話題で盛り上がっていた。
 恋は良いモチベーションになる。毎日がきらきらと輝いてみえるほどの恋を、大いに満喫して欲しい。
「あれ、横山はどこいった」私は横山大河が教室にいないことにはたと気がついた。
「ここ数日、昼になるとどこかへいなくなるんだよね」
「また変な呪文唱えに行ってるんじゃない」
「悪霊が憑いてるんだよ」
「こら、想像でものをいうな」
 私は食べ終えた弁当箱を包み、教室を出た。行き先は当然屋上だ。屋上の扉を開けると、そこに横山大河の、あぐらをかいて空を見上げている背中があった。
「よこ······」
 そういいかけて止めた。例の呪文がぶつぶつと聞こえてきたからだ。耳をそばだてると、いくつかの言葉が聞き取れた。
「○○様」「お導きを」「母さんに」「······賜らんことを」
 それは呪文というより、祈りに聞こえた。誰かに対して母親を導くよう祈っているようだ。
「お母さん、何か困っているのか」
 うしろから声を掛けると、横山大河は猫のように振り返った。
「盗み聞きしてんじゃねえぞ!」
 よほど聞かれたくなかったようで、耳まで赤くなっている。
「聞こえてきたんだ、屋上はおまえの所有地じゃあないからな」
 口を真一文字にして、いまにも飛びかかってきそうな形相だ。
「誰かに何かを祈っていたのか」
「ちげえよ!」
「信仰の自由は憲法でもちゃんと謳われていることだ、恥じることじゃない」
「ちげえっていってんだろ!」
「イエス様か、それとも観世音菩薩様か」
「だからちがうんだって······」横山大河の語気が弱まった。
「ちがうって何がちがうんだ」
「だから······」横山大河はうつむいた。
「新興宗教か」
 うつむいたまま、彼はこくりとうなずいた。
「······くれよ」
「どうしたんだ」
「たすけて、くれよ······」
「何があった」
 私は彼の肩に手を起き、座るように促し、コンクリートの上で向かい合ってあぐらをかいた。横山大河からは、いつもの虎のような覇気が消えていた。
「前におまえが彫刻刀で怪我をしたとき、お母さんは罰がどうとかいっていたな。あれはどういうことなんだ」
「水流(みずる)様の言葉を守らなかったから、罰が下されたって母さんはいったんだ」
「水流様というのが教祖か」
 横山大河はこくりとうなずく。涙が落ちないように目を細め、必死に堪えているのがわかる。こうしてただ見ていると、図体はでかいが彼もまた幼さが残る少年なのだな、と思う。
「その水流様の教えというのはどういうものなんだ」
「水流様が清めた水で暮らしなさいって。だから母さん、なんでもかんでも教祖から大量に買った水を使って、洗濯も、風呂も全部その水で」
「風呂もか」
「さすがに冷たいし、風邪引くよっていっても、母さん、寒中水泳みたいなものだ、体が丈夫になるって」
「せめて追い焚きで沸かしてくれるとかないのか」
「だめなんだ。水流様の水しか飲んじゃいけないし、飯もその水で清めた生野菜だけで」
「生野菜だけで生活してるのか」
「母さんはね。オレは外でいろいろ食ってるから大丈夫だけど」
「お父さんはなんておっしゃってるんだ」
「父さんなんか、ほとんど帰ってこないし、家にいても母さんに暴力を奮うんだ。高い水ばかり買って、ろくに料理もしないで、わけのわからない宗教にのめりこんで。だからオレが母さんを守らないとならないんだ」
「お母さんはいったいいつからどうしてその宗教に入信したんだ」
「オレがまだ小学六年のときだよ。同じマンションの住人に勧誘されたんだ。この世は不浄で菌に溢れているって。人間の精神もだって。オレ、中一のとき夢精しちゃって、こっそり処分しようとしたら見つかって。なんて不浄なんだ、みっともないって叱られたんだ。それから母さんはオレのものだけ別に洗濯するようになって、しかもマスクしてゴム手袋はめてやるんだ。オレ、そんなに汚いのかなって」
「まあ、夢精は母親によってはおおらかに受け入れられない人もいるだろうな」
「朝と昼と寝る前に祈りを唱えなきゃいけないって母さんにいわれてて、オレ、そんなの恥ずかしくてできねえよってやらなかったんだ。でも、父さんに張り倒されて、離婚だっていわれてる母さんの味方になってあげないとって思ったんだ。ところがさ、ある日母さんが風邪引いて、声が出なくなって祈れないときがあったんだ。そうしたら母さん、全身にじんましんが出て、オレもびっくりして慌てて祈ったんだ」
「ひっこんだのか、じんましん」
「そうなんだよ、ひっこんだんだ」横山大河はこくこくとうなずいた。目が真剣だ。
「おまえが彫刻刀で怪我をしたときは何があったんだ」
「なにもしてない。ただ、ヘッドホンしたまま寝ちゃっただけだよ」
「つまり、お祈りを怠ったから、ということか」
「ああ、でも、天罰が下ったのはそれがはじめてじゃないんだ。前に中学の友達が家にきて泊まったとき」
 横山、と私は話を遮った。「いま、お母さんの健康状態はどうなんだ」そう訊くと、まるで飛びかからんばかりに横山大河はいった。
「母さん、もう手足の皮膚がめくれて、爪も剥がれかけてて、顔も赤いまだらになって大変なんだ。水流様の水をかぶかぶ飲んでるけど、よくならないんだ。だからオレが代わりに祈らないと、母さんこのままじゃ」
「横山!」
 平常心を失いはじめている横山大河の肩を両手で揺すった。
「いいか、それはな、栄養失調だ。放っておくと、そのうち歯も抜けてくるぞ。お母さんに栄養のあるものを食べさせるんだ」
「母さんは不浄なものは食わねえって」
「死なせたくなかったら食べさせるんだ」
 横山大河は黙った。彼の内にいつの間にか染み込んだ洗脳と、底に押し込められ蓋を閉められた危機感が闘っていた。
「世の中にはいろんな宗教や個人の信念があるんだ。信仰上牛や豚を食べてはならない人たちもいるし、あえて菜食主義を貫く人もいる。おまえのお母さんが信じる水流様はどんな人か知っているのか」
「いや、写真でしか見てないけど、健康そのものって感じのおじさんだよ」
「そうだろうな」
「そうだろうなってどういう意味だよ」
「水流様ははたして生野菜しか食べていないのかな。よく考えてみろ。もしかして信者に売りつけている水道水で大儲けをして私腹を肥やし、海外でも観光して贅沢な料理に舌鼓を打っているとしたら? そりゃあ艶のいい健康そうなおじさんだろうな。いっぽう、おまえのお母さんはどうだ」
「そんな、教祖が、そんな。だって母さん、最初は調子よかったんだ。水流様に出会えてよかったって」
「新興宗教の正体ってものはたいていそんなものさ」
「母さん、口内炎がひどくて生野菜も食えないんだ」
「温かいクリームシチューでも食べさせてあげるんだ、牛乳たっぷりのな。きっと美味しい美味しいって喜んで食べてくれるさ」
「食べてくれるかな」
「大河、おまえが虎のように強くなって、お母さんを守るんだろ?」
 横山大河はしばらく考え、そして大きくうなずいた。

 横山大河の在籍する年のデザイン科の生徒たちも、誰一人として留年することなく卒業を迎えた。毎年卒業後は就職する生徒の方が圧倒的に多く、美大に進学する生徒は少ない。
 卒業前の最後の制作、空間アートで、彼らは喜びを、悲しみを、歌声も咆哮もすべて作品に込めて響かせた。チームワークがものをいうので、誰も手を抜くものはいない。
 この年の三年生は、『生きる』をテーマに四つのブロックに分かれ、制作をした。
 植物から海の中まで、まさに地球上の進化や変化を凝縮し表現していた。
 横山大河のグループ制作は全体的にモネ風で、池に橋がかかり、生まれ出た生物が橋を渡りながら死へ向かう過程をあらわしていた。生物は未知のものだが、それは橋のまさに中央で、まるでブラックホールの特異点にでもとらわれてしまったかのような絶望感をその顔に映し、そこから引っ張り出されていく様子が素晴らしく魅力的な作品になっていた。
 年明けの二月、横山大河は美大受験に成功していた。しかも日本画科だ。名前も横山大観という偉大な日本画家と一文字ちがいということもあり、クラスメイトからは「なにかでかいことを成し遂げそう」と卒業アルバムにサインをねだられていた。
 横山大河の母親は卒業式にあらわれ、ずいぶんと血色の良い顔で、息子の晴れ姿を眩しそうに見ていた。
 特に会話を交わすことはなかったが、遠くからこちらに向かい深い一礼をされたので、私も同じように深く一礼した。
                                              3.
「成川結」三年生(18)
 彼女はとんでもなくやる気のない、いってしまえば「落ちこぼれ」だった。
 クラスメイトとは上手くやっているようだが、なぜかときどき、こつぜんと消える。授業に出てこなくなるのだ。一、二時間どこかへエスケープするが、そのまま家に帰ることもなくまた戻ってくる。その間、どこで何をしているのかは、教師も生徒も誰も知らない。
 女子生徒からは「なるぴー」と呼ばれ、男子生徒からは「ゆい」と呼ばれていた。
 成川結の家庭はすこし複雑だった。一年生の入学式に一人で参加し、一人で帰っていったことは、ずっと彼女について回る話となった。
 両親は健在とのことだが、彼女の母親にちょっとした問題があったようだった。というのも、母親はほとんど家におらず、成川結が弁当箱を持参したところを見たことがないし、制服のメンテナンスも行き届いているとは言い難かった。
 しかし、成川結の家に遊びにいったクラスメイトが、彼女の家の豪奢さに驚いていたという。そして、彼女の財布は常に一万円札でぱんぱんだという。
 金持ちで母親不在。一人っ子。小遣いだけはたっぷり渡される。個人が何を求め、何で満たされるかにもよるが、成川結がまだ高校生にして孤独であることは容易に想像できた。
 成川結の性格について述べるなら、人当たりは悪くない、笑顔もよく見せる。しかし、嘘つきではないが、適当に立ち振る舞う不誠実さがあった。それが生徒間で揉め事として表出するわけでもないが、やはり深い信頼や絆を形成するのに、ほんのわずかばかりの隔たりがあるのは否めなかった。
 ある日のこと。その日、成川結は学校を欠席した。早朝に自ら電話をし、「熱が出たので今日は休みます」といったらしい。始業前に成川結の家に電話を掛けたが、誰も出なかった。私は「風邪の具合が気になるから、また終業後に電話する」と留守番電話に残した。
 昼食時、成川結の仲良しグループが話していた。
「なるぴーいないからつまらないよお」
「なんか盛り上がらないよね」
「ノート、次なるぴーの番だしね」
「ノートってなんだ」私は訊いた。
「うちら四人で交換ノートやってて、なるぴーの創作話が面白いんだよね」
「へえ、どんな話を書いているんだ」
 机を寄せ合う三人は、目配せしてにやにやと笑っていた。どうする? 話しちゃう? きたみんだからいいんじゃない? 話し合いは早々にまとまったようだ。
「きたみん、絶対に誰にもいわない?」一人がいった。
「約束できる?」もう一人が横目でにらむ。
「いちおう、約束するよ」
「いちおうってなに」三人が笑う。
 女性に秘密は守れない、といいきってしまうと世の中の女性全員を敵に回すだろうか。しかし、成川結の親友三人も例に漏れず、仲間の秘密をあっさりと暴露した。
 彼女らの話によると、成川結には文才があり、四人で毎日回している交換ノートで、それを遺憾なく発揮しているとのことだ。どんな話を書くのか、と訊いたら、成川結の小さな宇宙の謎が浮かび上がる興味深い話を聞くことができた。
 時は戦国、主人公は「沖姫」という名のとある武将の娘で、政略結婚を拒否した罰として、城のてっぺんに幽閉されていた。城主は冷酷無慈悲な暴君で、戦に出ると、前もって戦場に石油を撒いておき、わずかな兵と戦場に繰り出し、味方の兵もろともみな焼き殺して戦果を上げていた。正室が女の子を産むと子供と共に首をはね、世継ぎを産んでも刺し殺して川に流し、ころころと妻を入れ替えていた。成川結によるその性描写と殺人シーンは生々しいという。
 ある、何番目かの正室が女の子を産んだが、生き残らせたいあまり、「男の子だ」と嘘をつき死んでいった。子供は「浮丸」と名付けられ、乳母によって男の子として育てられた。その容姿はなんと沖姫と瓜二つなのだった。男の子の割にはなかなか体が成長しない浮丸。父親は浮丸に疑いの目を向けた。焦った乳母は、必死に策を練り、十七歳の沖姫と十二歳の浮丸をこっそり入れ替えることにした。
 長い戦いから久しぶりに帰った父親は、浮丸の成長に目を細くし、次の戦いを浮丸の初陣にすると宣言した。初陣に出た浮丸こと沖姫は、前もって油を撒き、父親もろとも全員焼き殺したという話だ。
 聞き終えただけでもぐったりする物語だが、その描きようが面白く、三人はたちまち引き込まれてしまったらしい。その次の作品をいま執筆中で、今度は重度のシャブ漬けが収監されている閉鎖病棟に間違って閉じ込められてしまった男の話だという。これも聞きたいかと問われ、私は「もうじゅうぶんだ」と答えた。
 終業後、成川結の自宅に電話を掛けると、本人が電話口に出た。
「具合はどうだ」
「うん、熱は下がった」
「ひとりか」
「うん」成川結はもったりとした口調で答える。
「いつも一人で不便はないのか」
「ずっとだから慣れちゃった。逆に誰かがいる方が疲れる」
「だからときどき学校でも姿を消すのか」
「まあね」
「どこで何をして過ごしているんだ」
 んー、と成川結はうなった。「更衣室で音楽聴いたり、美術部の部室で本読んでたりしてる」
「教室でだっててきることばかりじゃないか」
「だってさ、あたしの好きな音楽、ヘヴィメタルっていうんだけど、みんなに変わってるっていわれるし、前に教室で小説読んでたら、小山くんに成川が小説なんて読んでるって騒がれたし。ほら、美術オタクばっかじゃん、デザイン科って。だから小説読む人間なんかいないわけよ。あたしゃいつも変人あつかい」
「それは考えすぎだよ。今日だって古谷たち三人寂しがっていたぞ」
「ああ、ほんと」投げやりなあいづちだ。
「明日は来れそうか」
「うん、行ける」
「じゃあ待っているからな。栄養のあるもの食えよ」
 ういーっす。成川結は通話を切った。
 翌朝、成川結はマスクをつけて登校した。小さく咳き込んでいる。息を吸うと、気管支がひゅうと鳴っていた。
「おい、大丈夫か、成川」
 朝のホームルームでそう声を掛けると、成川結は「だいじょうぶ」といった。ところが、一時限目の国語が終わると、職員室に来て「やっぱ大丈夫じゃないんで、早退して病院行ってきます」と息も絶え絶えにいった。
 二時限目が終わるころ、副担任が別棟の校舎までやってきて、扉をノックした。顔を覗かせると、副担任は小声でいった。
「北見先生、成川さんが街で補導されたそうで、親御さんに連絡が取れないから警察署まて来てもらえないか、とのことです」
 あとのことを副担任にまかせ、私は成川結が連行された警察署の少年課に急いで向かった。
 警察署の二階に少年課があり、成川結は応接室で出されたお茶をすすっていた。顎にマスクを下ろしている。
 補導したのは見回っていた巡査だった。午前中から制服を着た高校生が、一人で本屋や洋服屋に立ち寄っているところを補導した、という。成川結は私の姿を認めるなり怒り出した。
「きたみん、こいつら人の話ぜんぜん聞いてくれないんだよ」
「こら、こいつらとはなんだ」私はとなりの椅子にほどいたマフラーを置いた。そして「ご面倒をおかけしました」と頭を下げた。
 若い巡査は真面目な顔で「ごくろうさまです」と私にいった。これは形式的な挨拶だ。ところが成川結が怒りをさらにつのらせた。
「きたみんがあやまることじゃないじゃん。なんであやまるんだよ。あたしはただ」そこまでいって激しく咳き込んだ。
「成川、病院行くんじゃなかったのか」
「だから、その前、に」げほげほと咳き込む。私は彼女に湯呑みを手渡した。気管支のきゅうきゅうとした音がただごとではないように思えた。
「学校さぼって買い物はだめなことだよ。もう高校三年生ならそれくらいのこと、わかるよね」
「だから、病院に行く前に、点滴が長いから漫画買って、あと寒いからマフラー買ってたっていってんじゃん」
「どうしていきなり点滴になるんだ。風邪なら薬を処方されるのが普通だろう」巡査が憮然としていった。
「あんたばか?」
 成川結がいい放った言葉に、若い巡査は頬を紅潮させた。
「申し訳ありません。本当に無礼で。すいません、ちょっと生徒と話をさせてください」
 立ち上がった巡査を制し、成川結の方を向いて小声でいった。
「本当のことを丁寧にゆっくり話してくれないか」
 成川結はマスクで口を覆い、ささやくように話し出した。
「ほんとはね、あたし喘息なんだ。発作がひどくなると病院で点滴受けなきゃいけないんだ。でも、昨日はそんなにひどくなかったから家で寝てたけど、さっき学校行くときにすこし走ったら発作が出ちゃってさ」
「それならどうしてすぐに病院に行かずにショッピングなんかしてたんだ」
「その点滴がいつも長くて長くて。だから漫画読もうと思って買ったんだ。あと、首を温めなきゃならないからマフラーも買ったの。それから病院に行こうと思ってたのに逮捕されちゃったんだよね」
「逮捕じゃないだろう、補導だよ」
「何がちがうの?」
 成川結が喘息の持病があることは知らされていなかった。家庭から記入して提出される生徒の健康調査表にも何も書かれていなかったはずだ。ただ、成川結は一年生のころからよく保健室に運ばれていることは知っていた。母親が電話に一度も出たことがない、と職員室でもささやかれていた。そちらの方に気をとられていて、成川結の体の状態に誰も目を向けていなかった。それはこちらの落ち度でもある。
 今も横で気管支をひゅうひゅうとさせて呼吸している生徒を助けてやらなければならなかった。巡査は両親のどちらかが来ないと引き渡せないという。この生徒の両親は実在するがいないも同然だ。生徒を救うには嘘も方便、神様も許してくれるだろう。
「この子の母親は看護師なんですよ」となりの成川結が「はあ?」といった。私は彼女の背中をとんとんと叩いた。「いまも勤務中で、電話には出られないでしょう。喘息の発作が出たら、必ず母親が勤める病院に連れてくるように言われておりまして、今朝も本当なら私が付き添うはずなのですが、突然鼻血を出した男子生徒の対応に追われているうちに、この子がひとりで向かってしまったのです。ですので病院へ行けば親御さんには会えるという次第です。では、もう連れていってもよろしいでしょうか。早く連れていかないと血中酸素濃度が低くなり、へたをすると緊急手術、ということにもなりかねません。そうなったら、私が責任を取ることになります」
 若い巡査は泡を食っていた。

 十一月に入ったばかりの正午は、まだ日差しにぬくもりはあるが、風が吹くともうすぐそこまで来ている冬の空気の冷たさを感じさせた。成川結がマスク越しにいった。
「あたしの母親、看護師だったんだ。それは知らなかったわ」
「俺も知らなかった」
 成川結がくすくす笑う。
「鼻血出した男子生徒って誰?」
「西尾光」我がクラスの学級委員の名だ。
 成川結は噴き出した。「ちょっとやめてよ、喘息ひどくなるじゃん」咳き込んで、ポケットから取り出した吸入器を振ると口に当て、すううと吸い込んだ。

 高校三年生限定ではあるが、十一月の一番のイベントは、生徒同席の三者面談だ。卒業後の進路についての最後の確認だ。
 母親のみが来る家庭と、両親そろって来る家庭と、公立の高校だが、やはり親の熱心さにはばらつきがある。しかし、この学校の生徒はほとんとが卒業して就職する。他の科も同じだろうが、この三年間で培ったものが即戦力として買われるのだ。
 デザイン科に至っては、企業の方から学校に説明会に訪れ、デザイナーとしてどのようなポジションが用意され、そのニーズがどれほど貴重なのかを説いていく。へたに美大まで行くと、自我とプライドが強くなり、食えない、とスカウトマンは教壇で語る。中には美大進学を希望する者もいるので、苦い笑いが起こる。
 三者面談の希望日を記入する用紙を、成川結は提出しなかった。したがって、別途時間を設け、二人で顔を付き合わせての面談となった。
「率直に訊くが、卒業後のことはどう考えているんだ」
「おお、率直う」成川結が笑う。
「ふざけるな、おまえの将来のことだ」私は真顔でいった。
「へえい」相変わらずつかみどころのない生徒だ。
「はっきりいうが、成川の成績は一番びりだ。この三年間ずっとだ」
 成川結は長い髪の毛先をいじっている。口を尖らせているが、何かいいたげでもなさそうだ。
「現実、就職も難しいな。どの課題でも力を抜いてきたんだからな」
 髪をいじる手を休めることはないが、成川結はぼそりといった。
「日本画、選ばれたじゃん」
 ああ、そうだった。和紙に顔彩を用いて花鳥を描く日本画の課題で、成川結の作品が優秀作品として飾られていた。珍しいことだ、と私も見ていた。
「素晴らしい才能があるじゃないか」そういうしかなかった。
「だから美大の日本画科にいくよ」
「それが本当なら、私も勧めるよ」
 嘘ではなかった。勧めるといっても裏口入学などさせられないが、デッサンさえいまから磨けば可能性はゼロではなかった。どこも拒否するだろう就職口を探すよりは門戸が広い。美大もたくさんあるのだ。現実的に考えて、彼女の意思を尊重する、という形で丸く収まりそうだった。ところが、成川結はいった。
「カフカって知ってる?」
「カフカ?」私は聞き返した。
「やっぱりね」成川結は頬杖をつき大きなため息を吐いた。
「何がやっぱりなんだ」
「こっちの人たち、カフカなんて知らないんだよね」
「こっちとかあっちとか、あるのか」
「あるね」成川結の挑発的な眼差しを、私はこっち側の代表として受け止めた。
「成川が見ているそっち側のカフカとやらを教えてくれよ」
 ふふん、鼻で笑って成川結はこちらを見据えた。
「きたみんさあ、今日の空って何色に見える?」
「空? 秋らしい真っ青じゃないか」
「そう? 真っ青って何色?」
「青だよ、ブルーだ」
「もし、きたみんが見ている空の青と、あたしの目に映る青が同じじゃなかったとしたら?」
 成川結は至って真面目な顔をしている。何がいいたいのか、私には察することができなかった。悔しいが、訊くしかないようだ。
「とんちかなにかなのか。俺にはわからん」
 はあ、成川結は深いため息を吐いた。
「絶望的に接点がないわ」
「おい、ひとりで話を完結させるな。空の青がなんだっていうんだ」
「だからね、ほら、平面の授業でポスターカラーの記号習ったじゃん。色っていう曖昧なものに記号をつけて、なんか意味あるのかなって思ったんだよね。そこに雨粒一滴ほどのちがう色を混ぜたら、もうその記号で呼べないでしょ。色を混ぜて絵を描いていてもさ、途中で色がなくなって、また絵の具を混ぜても全くの同色はもう作れないんだよ。同じ配合がさ。そんな曖昧で繊細なものに名前や記号つけてさ、みんなでそう呼びましょう、ってばかみたい」
「成川、おまえいつもそんなこと考えながら授業受けているのか」
「そんなことじゃないよ。あたしにとってしたら重大だよ。ねえ、きたみんの今日のネクタイは何色?」
 私は首からぶら下がる自分のネクタイを見た。「確かに難しいな。あえていうならあずき色だな」
「そうなんだよ、それをさ、茶色だっていう人もいるだろうし、ピンクなんていい張っちゃう人だっているんだよ、この世の中にはさ」
「成川」私がしげしげと顔を眺めていると、成川結はわざと鼻の下を伸ばして変な顔をして見せた。「おまえ、ずっとそんなことを考えながら生きていたら、しんどくならないのか」
 すると成川結は椅子の上で折り畳んだ膝小僧を抱えた。「なるねえ、そりゃあ」椅子をカタカタと鳴らす。「だからさ、そっち側にいると息苦しいんだよね」
「そうだったのか、すこしわかったような気がするよ」
「わかんないって、そっちの人には」
「わかったわかった。でも、俺はこっち側の岸辺からでもそっち側にいる成川の進路を一緒に考えるお仕事をしなくちゃならん。こっち側に来る気がないならないでいい、そっち側で何か考えている進路希望があったら教えてくれよ」
「どうせ否定するに決まってるよ」
「それは話してみないとわからないじゃないか」
「うううん」成川結はしばらく唸っていた。それからこちら側を上目遣いでにらむように見た。「あのさ、笑ったら叩くよ」
「笑わないからいってみろよ」
「小説を書く大学ってある?」
「小説を書く大学?」私はおうむ返しにいった。
「きたみんもしらないかあ」私の反応に、失望したようだった。「やっぱないよね、そんな大学」
「いや、直接小説家になれる大学はないが、小説なんかを学問として学ぶことができる、文学部のある大学ならたくさんあるよ」
「ほんと?」成川結は身を乗り出した。
「あるにはあるが······しかし、今からでは」
「ほら」
「なにがほらだ」
「やっぱり否定するじゃん」
「否定ではないよ。現実の学力の問題だ。大学に入るにはそれ相当の偏差値がいる。こちらの美大はあまり重要視されないが、そちらの文学部となると、合格するにはそれなりに学力が必要なんだ」
「だからびりのあたしじゃ無理だと」
「受験すること自体は自由だからな。挑戦してみたいならやればいい。ただ、合格となると······。はっきりいうが、成川の偏差値では希望が薄いな。共通一次試験(後のセンター試験)まで猛勉強したとしてもな。もうあまり時間がないから現実的に見ても······」私はうなった。
「きたみん」
「なんだ」
「あたし、実はそんなにばかじゃないんだよ」
「誰もばかだなんていっていない」
「いってるやつもいるんだ」
「誰だ」
「坂本たちのグループ」
 坂本たちのグループとは、いわゆるアニメオタクが集まって、いつも漫画を読んだり描いたりしている、男子生徒の仲良しグループだ。成績は高い子が多い。
「注意しておくよ」
「いいよ。誰にどう思われようが、そんなのどうだっていいんだ。きたみん、あたしの中学時代、知らないでしょ」
「ああ、聞いたことないな」
「成績、よかったんだ。すごくいいってわけじゃないけど、中の上だった。でもさ、この学校に入学して最初のテストで0点とっちゃったんだよね」
「何の教科でだ?」
「デザイン史と数学と歴史」
「三つもか?」
「そう、屈辱だった」そのときのことを思い出したのか、口を歪め、苦しそうな顔をした。
「そんなに難しかったのか」
「ちがうんだ」頬を涙がひとすじ流れた。成川結は咄嗟に前髪で隠そうと下を向いたが、遅かった。「ちがうんだ、きたみん信じてくれるかなあ。あのとき、あたし三十九度の熱があって、でも休んじゃいけないと思ったから頑張って学校来て。んで、テスト用紙に何が書いてあるのかもわからないくらい体がきつくて。あたしバス通学じゃん。バス停でうずくまっていたらいろんな人が心配してくれたけど、学校でも家でも誰も気づいてくれなくって、二日目もそんなんで、下痢もひどくて、テスト中にちょっと漏らしちゃって、トイレにパンツ捨てて帰って、もう、それからは覚えてなくて······」
 私はすすり泣く成川結の横にしゃがみ、肩を抱き締めた。
「テスト返しのとき、もうすでにあたしがたくさん0点取ったことがクラス中にバレてて、坂本たちからしばらくからかわれて、だからあたし一年の最初でもうぽっきり折れちゃったんだよね。そこからは、もうどうでもいいや、って」
「そうか、そうだったんだ。ここまでよく頑張って学校に来てくれていたな、すごいよ成川」
 ふええん、ふええん、と肩を上下させながら、成川結は泣いた。

 卒業式の日、成川結の両親はあらわれなかった。つまり、どの教師も一度もお会いすることはかなわなかった、ということだ。成川結は卒業証書の筒と卒業アルバムを持ち、一人きりで帰っていった。
 生徒に渡される卒業アルバムには、それぞれの就職先や大学名が最後のページに印刷される。成川結の進路には、運転免許を取得する自動車学校の名前が記載されていた。

4.
「キムソヨン」二年生(17)

 キムソヨン、という韓国籍の女子生徒がいた。父親が仕事で日本に転勤してきたのが、娘ソヨンが中学一年のときだった。ゆえに、この学校生活では、すでに言語でのコミュニケーションに不都合はなかった。
 私はキムソヨンが二年生のときに担任に就いた。しかし彼女が一年生のときには平面の授業で接していたので、おおよその性格はわかっていた。
 キムソヨンは常に明るく、おしゃべり好きで、誰とでも仲良くしていたように見えた。
 国民性なのか個人の持ち前なのかどちらかはわからないが、感情の起伏が激しく、喜怒哀楽をはっきりと表情と言葉で相手にぶつけ、嬉しいとハグをし、怒りを持つと顔を真っ赤にし、拳を握る。
 表情が乏しく何を考えているのかわからない者よりかは、素直に表現する者の方が、やはり気を使わなくていいせいか、キムソヨンは教室でも常に輪の中心にいた。
 いっぽうで、平面や立体の授業では四苦八苦していたようで、教師の手を借りないと期限内までに課題提出の形をとることができなかった。私が見ていたデッサンやポスター制作なども、基本的なことすら一人でできなかった。
 デッサンでは、まず構図をとることからつまずいていた。奥のものは奥に起き、手前のものは手前に描くことができず、すべて横並びで扁平になってしまうのだ。私も手を貸す前段階で、頭を抱えていた。ポスター制作にいたっては、イラストのアイデアひとつ捻り出せず、クロッキー帳といつまでもにらめっこしていた。
 彼女がなぜこのデザイン科に入学できたのか。その年は受験生が少なく、キムソヨンは補欠合格だったのたが、合格者の入学辞退者が多く出て、補欠の彼女が繰り上げ合格となったのだ。厳しいいい方をすれば、キムソヨンは画力で入学を勝ち取ったのではなく、運で滑り込んだのだ。
 では、さらに彼女はこのデザイン科に入りたかったのか。キムソヨンは日本の漫画が大好きで、漫画家を目指したいそうだ。このデザイン科には漫画の授業はないのたが、ここに入れば漫画家への道がひらかれていくのだろう、と勘違いしていたようだった。
 英語や数学などの普通教科の成績はとても良かった。普通の高校に通っていれば、あるいは早稲田大学あたりでも狙えたかもしれない。会話のテンポの早さを見ていても、頭脳は明晰に思える。
 ゴールデンウィークを目前に控えたある日のことだった。廊下を歩くデザイン科の男子生徒が頬に傷を負っていたので、私はどうしたのかと尋ねた。彼はいった。
「引っ掻かれたんです」
「誰にだ」
「キムソヨン」彼はふてたようにいって頬を手で押さえた。
「なんでそんなことになったんだ」
「知らないけど、巻き込まれたんです」
 その男子生徒はそういって走り去った。私は教室に行き、にぎやかに笑っている女子生徒の輪の中にいるキムソヨンの肩を叩いた。キムソヨンは振り向いて私を見た。
「北見先生」
 その顔にはいままでたたえていた笑みをまだ残していた。私は一瞬、先ほどの男子生徒が嘘をついているのではないかと疑った。人の顔を引っ掻いてすぐにこんな風に笑えるものだろうか、と思った。私が手招きをすると、まだ笑みのままのキムソヨンがあとをついてきた。
「石川の頬を引っ掻いたというのは本当なのか」
 私がそういうと、キムソヨンはやっと笑みを引っ込めた。そして何かを決意するときのように、こくりと大きくうなずいた。
「なぜそんなことをしたんだ」
 私の問いに、キムソヨンはすこし苦しそうに口を結んでいたが、やがてこういった。
「水野さんを傷つけたから」
「石川が水野を? どういうことだ」
「水野さんが大山くんのこと好きだって知っていて、わざと大山くんとわたしが話しているのを冷やかしたんです。わたしと大山くんが付き合ってるって」
 よくある場面だ、と正直思った。細かく突っ込んで聞いていたら次の授業が始まってしまうだろう。
「理由はどうあれ、石川の顔に傷をつけたんだ。きちんとあやまれよ」
「石川くんが水野さんにあやまってくれたらわたしもあやまります」キムソヨンは憤然といった。
「石川は水野に手を上げたのか」
「手は上げていません。でも、水野さんの心を傷つけました。だって水野さんは一年生のときからずっと大山くんのことが好きだったんです。デザイン科のみんな知っています。たからわたしと大山くんがただ話しただけで冷やかすなんてひどいと思ったんです。どうしてそんなにデリカシーに欠けることができるんだろうって、わたし腹が立ったので」
「わかったわかった、もういい。とにかく暴力はふるった方が全面的に悪い。石川にあやまって、それから水野に対してあやまってもらうんだ、わかったな」
 キムソヨンがまだ何かいいたげにぶんぶんと首を振ったので、私は「いいな」と念を押し、教室を去った。
 その後、その件がどのように落ち着いたのかは知らないが、石川賢吾の頬には絆創膏が貼られたまま、ゴールデンウィークに入った。

 じめじめとした梅雨の時期、まだ学校にエアコンという設備も整っていなかった時代、窓を開け放しているから、教室内も湿気による不快さで生徒の集中力も奪われていた。
 そんな中で、デザイン科の生徒の傘がなくなった、という小さな事件がクラスを揺さぶっていた。
 なくなった傘は今井真理という女子生徒のもので、濃いピンク色の花柄という話だ。柄の部分に飾りが下がったわかりやすい特徴があるという。
 今井真理は「間違うはずがない、誰かが意図的に隠したか持っていったのではないか」と主張した。買ってもらったばかりで、母親からも「なくしちゃだめよ」と強くいわれていた、と涙ぐんでいた。私は今井真理に、学校以外で傘を持って立ち寄った場所はないかと訊いたが、ない、と首を振った。
 数日経ち、クラス内で噂話が持ち上がっていた。キムソヨンが今井真理の傘を盗んだ、とデザイン科の複数の女子生徒がいいだしたそうだ。耳に入った以上は見過ごせない。私は噂を流した女子生徒三人と放課後に話をした。
 彼女たちはそれぞれ別々に「ソヨンが下駄箱で柄に飾りのついたピンクの傘を差してくるくると回しているのを見た」と異口同音に語った。確かにキムソヨンだったのか、と訊くと、三人はこくりとうなずいた。ピンクの傘を回し、その後はどうしたのか、と問うと、「知らない」と三人ともが答えた。
「それじゃあソヨンが盗んだ証拠にならないじゃないか」
「だって、人の傘を回していたから羨ましかったんじゃないかと思って」
「しかし、持ち去る場面を見ていないのだから、盗んだという噂を流すのは軽率だと思うぞ。もしちがったらどうするんだ」
 女子生徒三人はしばらく押し黙っていた。やがて一人がいった。
「ソヨン、大山くんのことが好きなんです。大山くんもソヨンが好きだから、前に二人でじゃれあってて、水野さんの前でよくやるなって思って」
 またその手の話か。私はため息をついた。
「それと今回のことは、何が関係しているんだ」
「そのとき、ソヨンが石川くんを引っ掻いたじゃないですか」
「ついこないだも大山くんとじゃれあってて、松本くんがいったんです。韓国人のくせに恋なんかしてるんじゃねえって」
「そうそう、そうしたらソヨン、松本くんをグーで殴ったんです」
「だからそれとこれとは何が関係しているんだ」
 再度問うと、彼女らは互いに顔を見合わせた。
「だって、感情的ですぐに手を上げるから、そういうことも簡単にするんじゃないかって思ったんです」
「なのにみんなソヨンソヨンって、ソヨンの周りに集まって、なんでソヨンなの」
 要するに嫉妬か。「とにかく不確かなことを、さも真実のことのようにふれまわるのはもうやめるんだ、いいな」
「はい」三人は渋々同意した。
 私は次の日にキムソヨンを呼び出した。キムソヨンは心なしかしょんぼりとしているように見えた。
「ソヨンが下駄箱で今井の傘を回していた姿を見た者がいるんだが、本当か」
 キムソヨンはみるみる顔を紅潮させ、わっと泣いた。
「わたし、回していたけど盗んでいません」
「そうだよな、見たといっても回しているところだけで、持ち去るところは見ていないらしい。俺はソヨンを信じるよ」
 私がそういうと、キムソヨンは顔を手で覆い、またわっと泣いた。
「なぜ人の傘を回していたんだ」
「可愛かったから。だめなんですか?」ソヨンが涙目で小首を傾げた。
「すくなくとも家族兄弟でなければ、この国では他人のものに触れるときは、本人に許可をとらなければならない」
「手続きが要るんですか?」
「いや、ひとこと断りを入れるだけだよ」
「断りを入れるってなんですか? 何を断るんですか?」
「そうじゃなくて」私は苦笑した。「見せて欲しかったら見せて欲しいというだけだ。難しい話ではないだろう」
「それは韓国も同じです」
 私は噴き出してしまった。「そうだろうな、世界中どこでもそうだろう」
「でも、わたしがやったということでもいいんです」彼女は決然といった。
「どうしてだ、盗んではいないんだろう」
「クラスの誰かが盗んでしまったとしたら、ばれたら可哀想だから」
「うん、それはどうかな。誰のためにもならないと思うな」
「どうしてですか? わたしは犯人でもいいんです」
「何度も訊くが、ソヨンは盗んでいないんだろ?」
 私がそう問うと、彼女は大きくうなずいた。
「わたしではありません。でも、盗んだ子には悪気はないです。いま、とても後悔していると思います。それだけで許してあげることが必要です」
「ソヨンの心情はわかるよ。では、今井は傘が出てこなかったことをどう思うかな」
「可愛い傘はたくさん売っています」
 私はたまらず笑ってしまった。「ソヨンの正義の前には、降参するよ」そして両手を上げた。
 キムソヨンはおもむろに立ち上がり、「北見先生だいすき」と私の肩に抱きついた。
「こら、やめろ。また変な噂を流されたら困るだろう」彼女の腕の力が思ったより強かったので、私は抵抗した。
 最後に今井真理と話さなくてはならなかった。今井真理にこれまでに聞いた話をすると、彼女は緊張した面持ちを解いて、「なあんだ、ソヨンもひとこといってくれたらよかったのに。よかった、盗んだのがソヨンじゃなくて」といって笑った。
 
 梅雨も明け、本格的な夏が訪れたころ、立体の課題では、ティッシュボックス大の箱に糸を通す、ささやかな空間デザインの授業を行っていた。
 キムソヨンは、今回に至っては、教師の手を借りずに色とりどりの糸を通し、楽しんで制作していたようだった。
 平面では、鉛筆での模写が課題だった。各自持ってきたモノクロの写真や絵画を、トレーシングペーパーを使って大まかなラインを画用紙に写し、鉛筆で精密に模写をする。これが得意な生徒は、一見どちらが本物かわからないほどの力を発揮する。
 こちらもキムソヨンは自分の力で課題に向かっていた。モチーフは漫画の一ページなので、欧米の街並みやアジアの建物などを描いている生徒の作品と比べるとかなり見劣りするが、それでも自力で制作に向かえるようになったことは、大きな進歩といえた。
 課題の提出期限内に仕上がらない生徒は、放課後に居残る。家へ持ち帰って作業する者はほとんどいない。
 居残りをする生徒たちは、腹が減るとじゃんけんで負けたものが数人で外出し、ポテトチップスやクッキーやジュースなどを買い込んで空腹を満たす。遅くまでしゃべりながら作業をするが、男女が分かれることもなく、みな楽しげに笑っている。
 キムソヨンは、ときどき口をついて出るおかしな日本語で笑われいじられていた。そんなとき、キムソヨンは真っ赤な顔で反論する。そんなキムソヨンの姿を傍で黙って見つめる大山涼介に気がついた。大山涼介は温厚で大人しく、派手に笑い転げたりする性格ではないが、その包むような眼差しには、特別な光が宿っていることが私にも理解できた。いつか聞いた女子生徒の話は本当のようだ。
 キムソヨンがいうには、水野彩花は大山涼介に恋心を抱いている。しかし大山涼介はどうやらキムソヨンを好きなようだ。キムソヨンはそのことに気がついているのだろうか。気がついていて、その上で大山涼介の気持ちを払うように水野彩花の後ろ楯をしているのか。キムソヨン自身の気持ちは大山涼介にあるのではないだろうか。そこまで考え、何も私が心配することではないだろう、と自分を笑った。

 夏休みの宿題として、私はスケッチブック一冊分の人物デッサンを生徒に課した。ペットもありか、と尋ねる者がいたので、それも良しと答えた。
 一ヶ月以上の休みは有り難かった。自らの作品制作に時間を費やせるからだ。妻と二人で住んでいる三LDKのマンションの、洋室一室をアトリエにしている。
 日展に出すこともあるが、いまは個展を開くための制作をしている。大きい作品は最低でも五点は描きあげたい。小さな作品は持ち帰りができるので、その場で売れてもいいように複数点用意する。売約済みの札を貼ることもあるが、すぐに持ち帰りたい客のために、入れ替える作品が必要なのだ。
 妻には申し訳ないが、ここぞとばかりにアトリエにこもる。妻はときおり映画や買い物に付き合って欲しいとごねるが、私の活動を疎むことはない。
 妻は私の絵画を何点も購入してくれた顧客の娘だった。旧家の一人娘だった妻は高校を卒業すると、ずっと家の中で料理をしたり、花を生けたりしながら暮らしていた。父親から家に招かれ訪れたある日のこと。父親は「うちの娘をどう思うか」と私に問い、私は「美しい方だと存じます」と答えた。そこから半年ほど交際し、結婚の約束を交わした。
 そうした出会いもあって、妻は私がアトリエにこもるのは当然のことと考えてくれていた。
 たまのことだが、生徒に配られる緊急連絡網に私の家の電話番号がさらされているおかげで長い休みの中、生徒から電話がかかってくることがある。特別な用事などない。「きたみん元気?」「きたみんが寂しがっていないかと思って」要するに冷やかしだ。慣れると、こちらもあしらい方を心得てくる。課題の進捗状況を具体的に聞き出そうとすると、都合の悪い彼女らはそそくさと電話を切る。
 あっという間に長い夏休みも明け、また四十人の生徒たちと顔を合わせる。日焼けをし、ずいぶんと健康的になった生徒、髪型を変えてイメチェンをした生徒、なぜ夏休みは終わるのか、と釈然としない顔をしている生徒、様々だ。
 九月初旬の空はいまだ入道雲が盛り上がり、湿度も下がる気配はなかった。下敷きをうちわ代わりにして扇いでいる生徒も多い。
 新設された別棟はエアコンが備えついているので、平面の授業は生徒たちにとっては、いささかの救いだった。しかしそれは生徒に限ったことではない。コンクリートの照り返しがもろに当たる灼熱地獄の木工室や鉄工室とうってかわり、空調の利いた過ごしやすい環境下で授業ができるのだ。平面の教師にとっても有り難いと思うのが正直なところだった。
 教室の横の準備室で、夏休みの宿題として生徒に課したデッサンのスケッチブックをめくっていた。特別に秀でたものはなかったが、みなさすがに安定した腕前を見せていた。
 その中で異質なデッサンを展開していたのは、キムソヨンだった。一筆の線が細く、何重にも神経質に描き、光と影を表現せずに描いているせいか、一種の創作だった。それでも半分描いてよしとする生徒もいる中で、一冊分しっかりと描ききっているのは、評価すべきところだった。
 キムソヨンがあと一年半、このデザイン科で学んでいくのなら、このデッサン力ではついていけないだろうと思った私は、キムソヨンに放課後居残ってデッサンの個別特訓を受けてもらうことを伝えた。キムソヨンはしばらく考えて、アカベコのようにうなずいた。キムソヨンだけでなく
放課後の特訓を受けたい者は自由に参加してもよし、と全員にも伝えた。
 特訓初日、お祭り好きが多いのか、半数ほどの生徒がクロッキー帖を机に、私を待っていた。キムソヨンのための居残り特訓でもあるので、モチーフは簡単なものを用意した。まず最初は紙コップだ。模様のない白いものだ。上面の円を斜めに見たときにどのような楕円になるのか、底も上面と同じく見えない部分も楕円に描くこと、立体感を決める光と影の描き方、ひとつひとつを噛んで含むようにキムソヨンに教えた。デッサン上級者は「紙コップだけ?」とせせら笑い、ものの十分で見事に描いてみせた。
 キムソヨンは細かな線でコップの輪郭ばかりを描いていたので、ある程度の形がとれたら影になっている部分を塗ることを教えた。根が真面目なキムソヨンは、いわれた通りに影を塗った。
 次に、紙コップの上の出っ張っているところの厚みを楕円に沿って描くよう伝えた。影を濃く描き、光の当たる箇所は練り消しで白を表現する。手本も見せて教える。
 もう描き終えた生徒は、おしゃべりや帰り支度をしている。
 キムソヨンは頬を紅潮させ、鉛筆を動かしている。この生徒は一生懸命になると顔が真っ赤になる。そして手に汗をかく体質のようで、ひっきりなしにハンカチで手を拭う。そんなキムソヨンのクロッキー帳を覗き、松本拓也がいった。「へたくそだなあ」
「こら、そんなことを」
 私がいい終わらないうちに、キムソヨンのビンタが松本拓也の左頬に入った。
「いてえな!」松本拓也が叫んだ。
「ソヨン、それはだめだ」
 また私がいい終わらないうちに、キムソヨンがいい放った。
「あんた何様なの」
 キムソヨンの言い分はわかるが、それでも暴力の方がまかり通らないことを教えてあげなければならなかった。ところが、松本拓也がいった。
「だから韓国人はいやなんだ」
「松本!」私は叫んでいた。松本拓也がびくりと体を震わせた。キムソヨンがわっと泣き出した。
「松本、ソヨンにあやまるんだ」
「なんでだよ、叩いたソヨンが悪いんだろ」
「それはそうだが、それ以上に差別的な発言は許されん。あやまりなさい」
「いやです」松本拓也はそういうと通学カバンを手に教室を飛び出した。キムソヨンはわんわんと泣いている。
「松本にはあやまるように俺がいっておくから、あやまったら許すんだ、いいな」
 キムソヨンは小さな子供のように身をくねくねさせた。
「どうして、どうしてあんな悲しいことがいえるの? こういう思いをしている韓国の人が世界中にたくさんいること、どうしてわからないの?」
 この日、キムソヨンは泣きながら学校から帰っていった。キムソヨンの母親から苦情の電話がかかってきたのは当然のことだろう。私は母親にことのなり行きを説明した。母親は片言の日本語で「ソヨンをもう学校に行かせない」と声高にいい、通話を切った。
 私は松本拓也の保護者にも連絡をしなければならなかった。松本拓也の母親が電話口に出て、私が話したことについてこういった。
「北見先生のおっしゃることはわかります。でも、順番としては、まずキムさんがあやまるべきですよね。拓也の頬は赤く腫れているんですよ」
「そうですが、偏見や差別は目で計れるものではないので、その言葉の重みを拓也くんにわかってもらわなければなりません。反省を促していただけますでしょうか。キムさんが叩いたことは、キムさんにきちんと反省してもらいます。どちらが先にあやまるかではなく、自らの言動についてそれぞれ考えてもらいたいのです」
 私がそう話すと、松本拓也の母親はしばらく考えたのち、「わかりました」とくぐもった声でいい、通話を切った。キムソヨンの母親にもう一度説得を試みたが、同じ台詞で通話を切られた。
 翌日、キムソヨンは登校していた。母親との間には意識の相違があったのだろう。何にせよ、登校してくれたことはほっとした。
 いっぽう、松本拓也は左頬に傷当てのパットを貼り、謝罪を拒否する姿勢を示した。
 点呼が終わると、キムソヨンが挙手をした。
「どうした」私が訊くと、彼女は席を立ち、発言した。
「昨日のこと、考えました。叩かれたら痛いこと、わかったので、松本くんにあやまります」
 そして松本拓也に向き直り、いった。
「松本くん、ごめんなさい。わたしが悪かったです」
 すると、一人の女子生徒が挙手し、すうっと息を吸い、のっぺりといった。
「ソヨンは悪くないと思いまあす。松本くんが低レベルだと思いまあす」
 その生徒に追随するように発言者が出てきた。「あたしもそう思います」「松本くんの人種差別発言はよくないと思います」「松本くんがソヨンにあやまるべきです」
 次々と挙手する生徒が後を絶たなくなり、私は諌めた。
「どうだ松本、このままだと四面楚歌だぞ。何かいいたいことがあれば、いまいっておいた方がよさそうだぞ」
「わかったよ」松本拓也は頬のパットをぺりっと剥がし、立ち上がった。「悪かったよ」そう重々しい口調でいった。

 キムソヨンへの個別特訓は続いていた。他の生徒も何人か参加していた。彼らは一様に「家に帰りたくない」といっていた。家庭に問題があるのかと探りを入れてみたが、そうではなく、ただ単純に口うるさい親がいる家より友達がいる学校が好きなだけだ、と吐露した。
 デッサンのモチーフも少しずつ難易度の高いものになっていた。今日はフェイスタオルだ。布を描くのは本当に難しい。やりがちなのは、輪郭や折り目をくっきりとした線で描くことだ。キムソヨンもはじめはそう描いていた。私が折り目の描き方の手本を隅に描いてみせた。「影を描けば必然と立体感が出るんだ。鉛筆で塗ったところを指で伸ばし、濃淡をつける。こうだ」
 キムソヨンは折り目の影の部分を塗りはじめた。
 モチーフが簡単すぎることと、立体の課題の提出期限が迫っていることで、参加者も数人だけに減っていた。このにわかデッサン教室に参加しているのは、キムソヨンと仲の良い女子生徒ばかりだ。
 それにしても、キムソヨンは多数の女子生徒からとても慕われているようで、一人で行動しているのを見たことがない。むろんすべてを見ているわけではないから、そうではない場面もあるのかもしれない。しかし、私が校内でキムソヨンを見かけるときは、常に六、七人の女子生徒たちが従うようにくっついて歩いている。人望が厚いようだ。
「みな、立体の課題は出来たのか」キムソヨンの取り巻きに訊いた。
「まだ」「正直やばい」「だってもう間に合わないんだもん」彼女らは答える。
「デッサンなんかやっている場合じゃないんじゃないのか」
「ソヨンがひとりになっちゃうじゃん」望月梨沙子がいった。
「ひとりになったらいけないのか」
「だって、ね」今井真理の歯切れが悪くなった。周りは目配せをしてうんうんとうなずく。
「なんだ、どういうことだ」
「きたみんしらないんだ」中谷貴子が机に頬杖をついていった。
「しらないとはなんのことだ」
「ソヨン、印刷科の女子から目の敵にされているんだよね」高田直見が前のめりになり、秘密でも打ち明けるようにいった。
「なぜだ」
「たぶんだけど、印刷科の男子にもソヨンのこと好きな子が多いからじゃない」
「インテリア科にも機械科にもいるよ、ソヨンファンの男子」
「ソヨン、モテるんだなあ」
「きたみん、そんな呑気な話じゃないのよ」
「そうそう、印刷科の女子の殺気だった目から、ソヨンを守ってあげなくちゃならないんだから、わたしたち」
「いつリンチに会うかわからないじゃん」
「リンチ? ずいぶんと物騒だな」私は少し笑った。
「笑ってる場合じゃないんだって、きたみん」
「わかったわかった。それじゃあこういうのはどうだ」私は鉛筆を握った手を上げた。「このデッサンの特訓中は俺がソヨンを守る。だから君たちは木工室で課題を仕上げる。作業が終わり次第、ここに戻ってくる。それでどうだ」
 彼女らは顔を見合せ、こまかくうなずいた。どうやら立体の課題に対して危機感は抱いているようだ。そういうことなら、とキムソヨンの護衛たちは木工室に行くことを決めた。
「ソヨンがんばってね」と声をかけ、教室を去る女子生徒たちは笑い声をあげ、楽しげに廊下を歩いていた。
「ソヨンは幸せ者だなあ、あんなに心強い味方がいて」
 缶コーヒーを描く手を止め、キムソヨンはいった。
「わたし、ほんとうはとても孤独です」
 小首を傾げるキムソヨンの顔をあらためて見てみると、特別美人ではないが、切れ長の目と血色の良いつやつやとした唇が、彼女を魅力的に写していることがわかる。例えるなら、山口百恵を元気いっぱいにした、という感じだろうか。これでは男子生徒を振り向かせることも容易いだろう。
「みんな、ほんとうは、わたしを見張っているんです」
「見張る? どうしてだ」
「わたし、韓国ではそんなことなかったのに、日本に来てから、男子に告白されるようになりました。もしかしたら、それは好きではなくて、外国人が珍しいからかもしれません。あの子たちはみんな、それぞれ好きな男子がいます。だから、その男子たちとわたしが仲良くしないように、バリアを張っているんです」
 キムソヨンの言い分に、私は違和感を覚えた。
「みな、ソヨンを守っているといっていたじゃないか」
「そういうことにしているんです。正しい理由を作るために」
「ソヨンは友達を信じていないのか」
「あの子たち、友達なのかなあ」
「どうしてそう思うんだ」
 キムソヨンは鉛筆で下唇を押し上げた。そしていった。
「本当の友達なら、日曜日に遊びに行くときも誘ってくれるはずです」
 私の胃がずしんと重たくなった。日曜日に限っては、キムソヨンは仲間から冷たくはじき出されるのか。一人の生徒に肩入れしてはならないが、このケースばかりはキムソヨンに同情を抱かざるを得なかった。おそらく彼女らにとり、キムソヨンは場合によっては重荷なのだ。それを知っていて、キムソヨンは人気者を演じていたのだ。笑顔で取り囲む人間の、目に見えない敵意から自分を守るために。
 子供だから高い適応力と柔軟性で、大人より容易く馴染んでいけるのだろうと考えるのは早計なようだ。目の前の、異国で孤独と闘う生徒の苦悩が痛々しかった。
「でも、みんな優しいから、わたしは大丈夫です。わたしの知っている韓国人の友達は、もっとひどい目に合っています。話しても聞こえないふりをされています。この学校の先生も生徒も、とても優しいので、わたしは頑張れます」
 キムソヨンは頼りなげな笑みをたたえていた。その笑みがあまりに儚げなので、私の胸が痛んだ。
 にわかデッサン教室を設けて二週間になるが、キムソヨンのデッサン力は大きな上達はなかった。しかし、多少なりとも進歩があった。細かな線を神経質に引くことはなくなっていたし、影は線で区切るのではない、という意識が植えつけられた。それだけでもじゅうぶんだろう。私はいつこの特訓を切り上げるか考えあぐねていた。
 キムソヨンは打てば響くと表現すればいいのか、会話にテンポが生まれ、話していて心地がよかった。それに「まじ」や「やばい」などの俗っぽい言葉は使わず、正しい日本語で話そうと心掛けているのが伝わってくる。
 それにしても、なぜキムソヨンは手が出るのが早いのか、本人に訊いてみたら、面白い答えが返ってきた。
 兄とじゃんけんをして勝った方が相手に何をしてもいい、というゲームで日常的に遊んでいて、兄が意地悪なことばかり吹っ掛けてくるので、キムソヨンが勝ったときには思いきりビンタをくらわすのだという。
「そんなに叩いてばかりじゃあお兄さんも痛がるんじゃないのか」
「兄はクッションでガードします。チャンスは一度きりなので、二回は叩けません。だからなるべく素早く、頬に当たるように狙うのが大切です」
「あの敏捷性はその賜物なんだな」私は笑った。
「敏捷性ってなんですか」
「すばしっこいってことだよ」
「賜物はなんですか」
「おかげで身についたっていう結果だ」
「良いことですか?」
「反射神経が磨かれたことは良いことといっていいが、人をひっぱたくのは良くないな」
「そうですよね、痛いことは心も体も同じです。もう兄以外は叩かないようにします」
「お兄さんもできれば叩いてほしくないと思っているだろうな」私は苦笑を隠しきれなかった。
「意地悪なことをやめたら考えます」
「あとな、俺の考えだから頭から否定しないで聞いてもらえたらと思うんだが」
「なんですか?」キムソヨンが小首を傾げる。
「今井たち、真剣にソヨンを守ろうとしてくれているんじゃないのか。友情を抱いているからこそ、ずっと一緒にいるんじゃないのかな」
「そうなのかな」
「そうは思えないか」
「大人の目からはそう見えますか」
 私はうなった。「そうだなあ、裏はないようには見えるな」
「そうですか」そういって憂いを含んだ笑みを浮かべた。「そうですね、北見先生がそういうなら、信じることにします」
 余計なことをいってしまったかと一瞬悔いたが、キムソヨンの心がすこしでも晴れればと思っての助言だ。異国の地で孤独に耐えながら日々を過ごすのも苦しいだろう。特訓が終わるころには今井真理たちもキムソヨンを迎えにくる。もし彼女たちに敵意なるものがあるのだとしたら、毎日律儀に迎えにくるだろうか。そう思いたいのは私だけかもしれないが。

 キムソヨンと深く関わるようになってからの私は、ときおり上の空になる、と妻がいった。
「どうすれば異国の少女の心が晴れやかになるのか、考えているんだよ」
「それはわかるけど、あなたが思い悩むことじゃないと思うわ。これまでのあなたは生徒との間にきちんと線を引いていたじゃない。子供たちは勝手に成長するって。いったいどうしちゃったの」妻は湯飲みを両手で包んで、向かいに座る私を見ていた。
 妻のいっていることはもっともだった。私は生徒たちと馴れ合いにならないよう、用心深く接していた。しかし、今回ばかりは生徒の心中を推し量っていた。何故だろうか。妻が見てもわかるほど、私はいつもの調子を狂わされていた。
 私はキムソヨンのためのデッサン教室をなかなか切り上げられないでいた。せめてこの時間だけでも孤独を忘れられるように、などというセンチメンタルなものではない。私の精神の底に焦りのような泡がぷつぷつと立っていた。ちょうどフライパンの上の、裏返したホットケーキの表面のように。
 妻の作った弁当を持って、教室で昼食をとっていた。男子生徒は野太い声で歌い出したり笑い合ったりしている。女子生徒は数人のグループに分かれ、なにやら秘密でも交換しているように囁き合っている。キムソヨンも今井真理たちとテーブルを寄せ合い、笑い声を上げていた。良く見ると、一人だけ見慣れない顔があった。誰だったかな、としばらく考えて、印刷科の女子生徒だということに気がついた。なぜ、この時間に印刷科の生徒が紛れ込んでいるのか。
「印刷科の鈴木だったかな」
「遊びにきちゃった。べつにいいですよね、きたみん先生」彼女は抜け目のない笑顔を見せた。
「別に構わんが、どういうつながりがあるんだ」
「つながりもなにも、鈴木さんはソヨンにいろいろ相談に乗ってもらっているんだよね」中谷貴子がいった。
 おや、と私は思った。つい最近、いつキムソヨンが印刷科の女子生徒からリンチにあうか恐々としている、と聞いたのは夢だったかな。
「文通ならぬ落書き通」望月梨沙子がキムソヨンの机を指で差した。
 覗くと、キムソヨンの机の上に敷かれたランチョンマットの下には、鉛筆やカラーボールペンで書かれた文字が見え隠れしていた。
「読んじゃだめ」今井真理が私の視線の先を手でふさいだ。
 私は首をひねりながら教室をあとにした。なんだか狐にでも化かされたような気分だった。誰の視点で放たれた言葉を信じればいいのか、ここでいったん立ち止まり、考える必要がありそうだ。 
 放課後、デッサン教室の開始時間よりすこし前に、私は教室に来ていた。キムソヨンの机の上を見るためだ。落書き通とは何かを確かめるべく。
 廊下側の前列から四番目がキムソヨンの席だ。覗くと、小さな丸い文字がびっしりと書かれてある。
『伊藤くんはなおちゃんのこと大事に思っているよ、きっとね』癖のあるキムソヨンの文字だ。なおちゃんとは昼に遊びに来ていた鈴木七緒のことだろう。
 文字を追っていくと、つまりこういうことらしい。鈴木七緒には付き合っている彼氏が印刷科内にいるが、何股もかけられているらしい。好きだから別れられない、ということだ。それにしても今どきの高校生は手を繋ぐだけではおさまらないのだな、といささか呆れた。何にせよ、キムソヨンがリンチに合う心配は要らなさそうだ。
 廊下から賑やかな声がし、キムソヨンと取り巻きたちが教室に入ってきた。キムソヨン以外は作業着に着替えている。今井真理らはそれぞれ通学かばんを手に持つと、「ソヨン頑張ってね」と言い残し、木工室へ向かった。
「さて、そろそろこのデッサンの特訓も終わりにしようかと思っているのだが、どうだ、すこしは腕が上がった実感はあるか」
 キムソヨンは首をひねった。「どうかなあ、自分ではよくわかりません」
「そうか、俺の感想だが、形を取る基本は身についたように思えるな。そこから先は、自分で磨いていくことだ」
「はい」キムソヨンは固い笑みを浮かべた。
 私はキムソヨンの前の机の上にハサミを置いた。
「ハサミは刃の金属の部分と柄のプラスチックの部分と、異なる質感を表現するのが難しい。それを意識して描くんだ」
 キムソヨンはうなずいた。鉛筆を走らせる音を背に、私は窓の外を眺めた。ここは二階で、サッカー部とラグビー部の練習が見渡せる。ミントタブレットのような白いラグビーボールが宙で弧を描いていた。
「北見先生」背中で声がした。振り向くと、キムソヨンが思い詰めた顔でこちらを見ていた。
「どうしたんだ」私は彼女の席の傍に寄った。クロッキー帳を覗くと、まだ全体の輪郭もとれていなかった。「難しいか」問うと、彼女は首をぶんぶんと振った。
「わたし、もういいなりになること、やめます」
「いいなり?」
「はい、真理たちのいいなりです」
 私はキムソヨンのとなりの席の椅子を出し、腰掛けた。
「どんなことを強要されているんだ」
「強要はされていません。ただ、みんなの中で作られたソヨンがあって、わたしがそれと合わないことをいったりしたりすると、みんなが嫌な顔をします。だからわたしはみんなの顔を確かめながら発言します。それはとても疲れることです」
「そうだろうな」私は相槌を打った。
「わたしはもうすぐ韓国に帰ります」
「そうなのか、いつ頃だ」
「お父さんは昨日一人で帰りました。わたしたちはもう少し準備をします。準備ができたらみんなで韓国の家に帰ります」
「そうだっのか、急だな」
「だから、わたしは本当のわたしに戻ります」

 翌日、キムソヨンの母親から学校に電話があった。
「夫の会社が戻ったので、私たちは韓国に帰ります。ソヨンをありがとうございました」
「ご主人は韓国に勤務が戻られたということでしょうか」
「ああ、はい。会社が戻りました。ソヨンの学校も決まりました。今週の土曜日に飛行機で帰ります。ありがとうございました」
 それ以上は詳しく聞き出せそうもなかったので、通話を切った。土曜日というと、今日は火曜日なので、キムソヨンがこの学校に通うのも、あと三日しかない。例の出所のわからない焦りが、私の体温を上げていた。
 朝のホームルームで、キムソヨンが韓国に帰ることを生徒たちに告げた。すでに本人から聞いていたのか、生徒たちに驚いた様子はなかった。キムソヨンが挙手をしたので、私は前に出るよう促した。彼女は教卓の横に立ち、話し出した。
「卒業までみんなと一緒に勉強できなくて、とても残念です。みんなが優しくしてくれたので、楽しいこといっぱいありました。韓国に帰っても忘れないです。みんな本当にありがとう」
 キムソヨンがぺこりとお辞儀をすると、拍手が起こった。今井真理や中谷貴子たちは涙を流し、頬を拭っている。
「明日から引っ越しの準備をしますから、みんなといられるのも今日までです」そういいだしたので、私は面食らった。
「もう登校しないのか」
「はい、今日が最後です」
 そういったキムソヨンは、まるで解放されたかのように満面の笑みをたたえた。それを見た瞬間、私の中の焦りがすうっと薄らいだ。これてやっとキムソヨンは本来の自分を取り戻せるのだ。そんな晴れ晴れとした表情だった。
 この日は授業どころではなかったようで、松本拓也がキムソヨンに告白をしたと大騒ぎだった。
 その話を聞いたとき、私は笑いを覚えずにはいられなかった。好きな女の子の前ではその気持ちと裏腹な態度をとってしまう。これまでのキムソヨンに対する言動は、幼い愛情表現だったのだ。当のキムソヨンは周囲の冷やかしにも笑うだけで、松本拓也には何の言葉も返さなかったらしい。

 キムソヨンが中学を含め、高校生活を通して、あとで振り返れば懐かしい思いを抱ける年月となったかは、推し量ることはできない。キムソヨンの最後に見せた晴れやかな笑顔が、私の内にいつまでも居座るものとなった。

5.
「辻真太」一年生(15)

 しんた、みなにそう呼ばれていた十五歳の輝かしい生の証を最後に語りたい。
 いま、見上げている夜空に輝く星々は、その光を何億光年も前に放ったのだという。そしてやっとこの星に光が届いているいま、もしかしたらもう燃え尽き、存在などしていないのかもしれない、ともいう。辻真太の人生はどんな星々よりもひときわ輝いていた。いまでも、彼のくしゃりとした笑顔は私の中から薄れることがない。
 彼は奇妙な子供だった。陽と陰、正と負であれば、つねに後者を好む傾向にあった。この年頃にあってそれが珍しいということではないのだが、辻真太の心を奪うものはまがまがしいまでに醜いものばかりだった。
 最初にそれに私が気づいたのは、まだ桜からハナミズキへと季節がわずかに動いただけの、入学から間もない頃だった。
 辻真太は、まだ真新しいぶかついた詰め襟のポケットに手を突っ込んで足元の何かを見つめていた。なんとなくだが、それは粘土でこしらえた変わった生物に見えた。木工室の裏側の、生徒があまり立ち入らない場所だったので、私は「おや?」と思った。すると、辻真太はおもむろにその生物を踏みつけたのだ。
「辻、どうした」私は声を掛けた。
 すると、辻真太はいたちのようにぬるっと身を返し、走り去っていった。彼がいた足元には踏みつけられて形の残らない粘土があった。
 またある日、男子生徒が数人で職員室の私を訪れ、いった。
「北見先生、男子トイレのひとつが詰まっているんです。どうしたらいいですか」
 どれどれと見に行くと、確かに一番奥の個室の便器に水が溜まっていた。用具室からラバーカップを持ち出し、便器に当て吸い出したてみた。水面が上がったままびくともしない。私はゴム手袋をはめ、その上からごみ袋をぐるぐると腕に巻き付け、便器に手を入れた。
「どうですか」
 生徒たちが心配そうな、また苦そうな顔で覗き込んでいる。
 指先に何かが当たった。「何かあるぞ」突いてみると、石のような固さの物体がパイプをがっちりとふさいでいた。手を便器から抜いて確認すると、指先に泥が付着していた。こするとぬるっと溶けた。
「石じゃないな、こりゃ粘土だ」
 私は粘土を少しずつかいて出し、生徒が持つバケツに入れた。おそらく一袋、一キログラム分が詰められていたのだろう。私は汗だくになっていた。ひと通りかき出し、あとの掃除を生徒に任せトイレを出ると、ポケットに手を突っ込み壁にもたれていた辻真太がこちらを見て、ふわっと揺れるように笑った。
「おい辻、まさかおまえじゃないよな」
 私がそう訊くと、肩をすくめ、教室へと入っていった。
 そのまた後日、我がクラスの学級委員が職員室に飛び込んできた。男子同士でけんかになっているという。けんかくらい好きにしろ、といったんは学級委員を突き放したが、殴り合いに発展し、流血沙汰になっているという。私はやれやれと腰を上げた。
「誰と誰だ」教室に向かいながら訊いた。
「辻くんと八代くんたちのグループです」
「なんだ、タイマンじゃないのか」
「でも、仕掛けたのは辻くんです」
「それにしても一人を多勢でぼこぼこにするのはちょっと卑怯じゃないのか」
「ちがうんです。やられてるのは八代くんたちです」
「なんだって?」
 教室につくと、辻真太が顔から血を流し、体をがんじがらめに押さえ込まれ、多勢から蹴られている光景があった。
「おい、やっぱり一方的じゃないか。理由はどうあれ卑怯だぞ」
「だって辻くんが次々と殴っていくから、みんなで対抗するしかなかったんです」
「しんたの方が悪質だよ」
 囲って見ていた女子生徒も加勢する。
 私が割って入ると、彼らは辻真太から離れたが、なおも睨みつづけている。良く見ると、廊下側で伸びている八代はじめ四人がいた。鼻血を出している者、口や目の端を切っている者もいるが、完全に戦意喪失している姿から、辻真太に打ち負かされたのだろう。
 いっぽう、うずくまる辻真太を取り囲む人数はざっと見たところ、残りの男子生徒全員だった。
「卑怯だと思わんのか、おまえたち」私がいうと、一人が口火を切った。
「見ていられなかったんだ、八代くんたちがかわいそうで」
「ギブアップしても殴りつづけるからさ」
「しかもげらげら笑いながら殴るんです」
「やめろっていってもやめなかったんです」
 彼らは次々と発言する。
「しかし、いまおまえたちはそれと同じことを辻にやっていたんだぞ。笑ってこそいないだろうが」
 そう返すと、彼らは二の句が継げないでいた。辻真太の傍にしゃがむと、彼は腫れ上がったまぶたを押し上げて私を見た。にやりと嬉しそうに笑ったその表情に、私はぞくりとした。
 辻真太と八代良孝、他三名を保健室に連れていった。保健室にはベッドが五人分あるわけがなく、並んで座らせ処置をした。保健室の村上先生は「あらあら、派手にやったのね」とにこにこしていた。
「ぼく、最後でいいから」そういった辻真太は、どこに隠し持っていたのか、インスタントカメラで自らの顔を写真に撮りはじめた。八代たちは苦虫を噛み潰したような顔でそれを見ている。
「それで、けんかの発端は何なんだ」
 私が訊くと、八代良孝と他三人は目配せをして、ちらりと辻真太を見やった。
「しんたが殴ってきたんだ」内海岳人がいった。唇の端を切っている。
「そうだよ、いきなりなんだ」止血のために鼻に綿を詰められた森本侑李が辻真太を指で差した。
「いきなりっていっても何か原因があるはずだろう」
 問うと、八代良孝が目尻に消毒の綿を当てられ顔を歪めながらいった。
「しんたがよく作っている粘土の人形、北見先生知っていますか」
「ああ、なんとなくだがな。それがどうしたんだ」
「気味が悪いって杉野がいったんです。そうしたら、ぼくら全員殴られて」
「だって気味悪いじゃん」杉野豊が女のような口調でいった。名は体をあらわすというが、杉野豊はじつに豊な体をしている。しゃべると頬の肉で眼鏡が押し上げられるのが漫画みたいだ。
「そうなのか、辻」
 私が振り返ると、その瞬間をインスタントカメラで撮っていた。
「ああ? そうだっけ」
 瞳がいやに大きくひょろ長い体と、揺れるような仕草は、本当にいたちによく似ている。その粘着質な笑い方も、大人の私から見ても気持ちのいいものではなかった。
「言い分があるならいってみろ。八代たちにこんな怪我を負わせて許される言い分があるならな」
「言い分なんてないっす。うれしくて」
「うれしい?」
 私が訊くと同時に八代たちがざわめき立った。
「ぼくの作品を褒めてくれたから。気味が悪いって」
 しばらく沈黙が支配したのはいうまでもない。
「それで殴ったとでもいうのか」
「そうっす」口の中の切れた部分を撮影しながら辻真太は飄々といった。
 そのときの八代たち四人の形相は、なんとも表現しがたいものだった。
 幸い、誰も大きな傷を負っておらず、骨折も裂傷もなかった。ただ顔に決め手にもならないパンチをいくつか繰り出しただけの辻真太も弱々しいが、それらであっさり伸びてギブアップした八代たちも情けない。殴り合いのけんかを推奨するわけではないが、子供たちは時代とともにけんかの仕方が下手になっているような気がする。それで友情が薄弱になるわけでもなく、心の中まで立ち入らせない個人主義でも、少なくとも学校では友達として毎日を過ごしている。この年頃で人は人、と個人主義で生きるのも一抹の寂しさを覚える。尊重といえば聞こえはいい。しかし平成に時代は変わり、ご近所関係も家族間ですらも濃い交わりを嫌う現代の人びとのスタンスは、冷ややかでもあり、薄ら寂しいと感じるほどである。
 すでに生まれていた私の娘も、やがて高校に上がると、短いスカートで恥もなく脚をさらけ出し、夕食にも遅れて帰ってくる。かけを訊くと「過干渉だ」と反撃をくらう。友達もメンバーが一定ではないようで、どこの誰と共に過ごしているのかも掴めない有り様だった。
 妻は「女の子だから行動範囲は狭いわよ」とたいして気にしていない。だからか、理解ある親と認識し、娘は母親とは上手くいっている。まあ、女同士仲が良く、父親がないがしろにされる家庭なんていうのも、どこもかしこも同じだよ、といわれればそうかもしれないが。
 私の愚痴はここまでにして、話を当時に戻そう。辻真太が粘土でなにやら怪しげなものを作っては壊しているのを目撃した者は多い。完成させるや直後に踏みつけ形を残さないので、行為を見ても作品を見るものはまれだろう。であるならば、八代たち四人は、完成品を目の当たりにした数少ない証言者だ。私は四人から話を聞いた。
「あれは怪獣だよ、しんたオリジナルの」
「いや、妖怪だね。あんな奇形は妖怪しかいないよ」
「とにかく気持ちが悪いんだ」
「この世のものではないよね」
「いや、わからないよ、案外人間の醜さを表現しているのかもしれない」最後に八代がいった。
 実際のところ、そのどれでもなかった。今度は辻真太と放課後に話した。
「あれね、北見先生には何に見えましたか?」
「俺が見るのはいつも踏まれてしまったものだからなあ、わからんな」
「作って見せましょうか」まるで手品師のような口調だ。
「お、見せてくれるのか」
 辻真太はくねくねと机を避けながら歩くと、自分の机に手を突っ込み、粘土を持ち出した。教室の後方のすこし開けたスペースで袋を破ると、粘土を床に叩きつけた。それからしゃがむと手のひらの根で粘土をほぐしはじめた。親指をずらしながら押していくと、そこに波かうろこのような模様が出来ていく。やかてとぐろを巻いた太い尻尾があらわれ、苦しみに歪んだマントヒヒのような顔と、顔をかきむしらんとしている指のいやに長い両手が作り上げられていった。それはあっという間の行為で、作業は実に早いものだった。なるほど、これは確かに醜い生き物だ、と感想を抱いたその瞬間に、それはぐしゃりと辻真太によって踏まれた。あ、と私が声を発したが、彼は足を揺らし、形が残らなくなるまで破壊した。
「どうして壊すんだ」
「ここまでが作品なんだ」辻真太はサーブが決まったテニス選手のように笑った。
 そんな得意げな笑みを向けられても、私には納得がいかない。もっと作品をじっくりと見たかったのだ。
「なんだよ、壊しちゃあ評価できないじゃないか」
「だからさ、破壊行為が作品なんだよ」
「どういうことだ」
「作品は、ぼくなんだ」
 これは新種があらわれたな、と思ったのが正直なところだった。もっと話を聞かなければ彼の宇宙は垣間見えない。だが、辻真太は試合を終えたテニス選手のように清々しい顔で帰り支度をしている。仕方なく私は見たものを家に持ち帰り推理をしなければならなかった。

「ショーなんじゃない?」妻の意見だ。「醜いものをやっつけるぼくはヒーローなんたぞ、っていう。ほら、男の子はみんな観に行くでしょ、ヒーローショー」
「なるほどな、そう考えるとやっていることは幼稚園児だな」
 自分でそういっておきながら、そう片付けたくない神秘性を、あの行為に感じとっていた。辻真太は、まさに作品が壊れた瞬間を、見る者の鼓動が脈打つ決定的なものにしたのだ。あれは、何かに似ている。その引っ掛かりは魚の骨のように喉の奥にいつまでも刺さっていた。

 夏休みが明けると、真っ黒に日焼けした生徒たちとの久々の再会だ。
「きたみん会いたかったよお」なんて抱きついてくる女子生徒もいる。もちろん彼女らは私をからかっているのだ。それくらいはわかっている。
 辻真太はもっぱら室内で過ごしていたようで、肌が真っ白だ。相変わらず大きな黒い瞳をぽっかりと開けて、周りを見ていた。
 ホームルームの最後にプリントを配った。九月の大きなイベントの社会見学、つまり遠足の要項が書かれたものだ。高校にもなって遠足、と思うかもしれないが、このデザイン科の遠足は、毎年神社仏閣を訪れ、建築様式から本尊の造りまでを勉強する機会になっている。当然、レポートも提出させるし、テストでも出題する。しかし、バスに乗りおやつ持ちで遠出するのだ。彼らの気分は楽しい遠足以外のなにものでもない。
 今回の見学は、日本刀造りのショーと、修道院だ。刀とキリスト、このミスマッチは、地理的に近いから、という理由だけだった。
 途中、道の駅のレストラン二階を貸し切り、昼食をとる。昼食のところに(鰻)と記入してあるのが彼らをいっそう興奮させていた。
「鰻アレルギーいないな」
 私がそういうと、いませーん、いたらおれが食ってあげまーす、あたしお腹の皮がきらーい。彼らはそれぞれに答えた。
 夏期休暇が終わると、九月は社会見学、中間テストがあって、十月は文化祭、十一月には二者面談があり、師も走る十二月。別に走り回りはしないが、期末テストののち成績表を作り冬期休暇まで、本当にあっという間だ。
 そんな調子で社会見学の日もまるで数日後のようにやってきた。
 朝八時に学校で集合し、点呼をとってバスに乗る。若いバスガイドだと男子生徒のテンションもかなりちがう。過去には男子生徒がこっそり連絡先を交換して、のちに会っていた、なんていう事例もあるから、同行する教師も目を光らせる。たいてい「わたしバスは酔うんです」と申告する女子生徒も、乗ってしまえばばか騒ぎの中にいる。
 バスが発車し高速道路に入ると、恒例のカラオケ大会が始まった。歌い終わったら、次に誰に歌わせるか指名する。指名された者は断れない。カラオケが苦手な者は、周りに手伝ってもらいながらワンフレーズ歌い、また次を指名していく。過去に一度、生徒がバスの運転手を指名したら、律儀にも運転しながら短く歌声を披露してくれ、おおいに盛り上がった。
 何人かが流行りの歌を歌い、次へとマイクを渡していく。八代良孝が尾崎豊を歌って口笛を浴びていた。歌い終わると八代良孝は「次、しんた」といった。車内はざわついたが、辻真太は「おう」とマイクを受け取った。
「音源、たぶんないからアカペラで歌うよ」そういうと、辻真太はいきなりシャウトした。マイクのハウリングも重なり、皆が耳を手でふさいだ。
 あとで知ったのだが、辻真太が歌ったまがまがしい歌詞とメロディは、hideというロックミュージシャンの歌ということだった。X-JAPANのメンバーだったといえばわかりやすいだろうか。このミュージシャンが若くして不審な死を遂げ、日本中の若者を混乱の底に落とした出来事はあえて語るまでもない。

 先に日本刀造りの見学をした。古民家風の建物の中で、刀工が数人で工程ごとに刀を作る姿をショーのように観ることができる。
 鉄炉の熱さと火の粉が飛んでくるので、あまり近くには寄れない。
 熱した玉鋼を刀鎚で叩く鍛練の工程、切り目を入れて折り返し、大鎚で叩く工程、棒状になったものを叩く工程、刀匠が一人で打つ火造りの工程になるとほぼ刀の形になる。あとはヤスリがけの工程までが見学できる。汗だくになりながら真剣に鉄を打つ刀工たち。生徒も無駄話などせず、写真を撮ったりノートに書き記したり、黙々と見学する。刀匠と弟子の刀工たちが音を合わせて玉鋼を打っていくことから「相槌を打つ」という言葉が生まれた、との話も聞くことができた。
「ありがとうございました」生徒たちは大きな声で礼を述べ、そこをあとにした。
 道の駅に寄り、待ちに待った昼食。生徒たちのボルテージも上がる。レストランの二階では、長いテーブルに定食が乗った四角いトレイがいくつも並べてあった。奇声を上げながら席に着く男子生徒がいたので、ひとつ注意をした。
「昼食に二十分、トイレや土産物に二十分、四十分後にバスに戻ること、いいな。土産は修道院でも買えるから、ここで小遣いを使いすぎるなよ、わかったな」
「わかったから、うなぎ逃げちゃうよ、きたみん」
「そうだよ、冷めちゃうよ」
「ようし、手を合わせて」と私がいうと、全員が「いただきます」の合唱をした。
 近くに大きな川があり、そこで採れる天然の鰻ということもあって、生徒たちも「美味い」と嬉しそうに頬張っていた。ほうとうの鍋もそれぞれについており、結構腹が膨れた。それでも食後にソフトクリームをちゃっかり食べている女子生徒がいるのには驚いた。
 日本刀を見学したからか、男子生徒が日本刀のキーホルダーを買い、丁々発止とやりあっている。殺傷能力こそないが、人の目には向けないように強くいっておいた。
 点呼を取り、全員確認すると、バスは次の目的地へ向かった。
 次に見学する修道院は、誰にでも開放されているとはいえ、実際ミサも行われ、修道女たちが物静かに暮らしていることもあり、騒がないようあらかじめ注意をしておいた。
 昼食後の眠気も誘う気だるいバスの中、突然数名の女子生徒が小さな悲鳴を上げた。
「どうした」
 振り返ると、辻真太の席を周囲が覗き込んでいた。膝の上に何かが乗っている。席を立ち見に行くと、わざわざ持ってきたのか、粘土でまたもやまがまがしい生物を創作していた。
 膝の上のスケッチブックに乗っているそれは、目玉がぎょろりとした生物で、片目と大きく開けた口の奥と、尻にある雌とわかる性器に、それぞれ容赦なくキーホルダーの日本刀を突き刺しているものだった。
「しんた、こんなところまで来ても創作とはその熱心さは評価するが、たまにはうさぎでも作れ。この狭いバスの中で粘土臭はきついぞ、誰かが吐いたらどうするんだ」
「その汚物をこれにかけてやる」辻真太は赤い舌を出して笑ってみせた。
 私は辻真太の作品を一時預かり、副担任の荷物からフェイスタオルを出してもらってペットボトルの水で濡らし、粘土だらけの生徒の手を拭かせた。
「きたみん、わたし吐きそうかも」辻真太の後ろの席に座る安達洋子がいった。また副担任にエチケット袋を出してもらい、安達洋子に手渡すと、吐くまではいかなかったが、しばらく苦しそうにえずいていた。
「ほらみろ、責任とって介抱してやれよ」
 私がそういうと、辻真太は口に指を入れ、吐く真似をした。辻真太の作品は、ゴミ袋で丁寧にくるみ、荷台の上に保管した。
 このデザイン科に入ったら、教科書に描き込んだ落書きでも作品と見なす。他の教師がどう思っていようが、私は彼らに常々そう伝えている。だから彼らも全力で落書きを描く。緻密なアニメーションばりのパラパラ漫画を分厚い教科書一冊分に描いた生徒もいる。
 歴史で習った秦の武将たちをイケメンに描いた漫画研究部の生徒がいた。とても出来がよかったので、学校側からオファーし、漫画でストーリーを起こしてもらい、全生徒にテキストとして配ったこともある。だから、おもちゃの日本刀でめった刺しにされたかわいそうな生物の彫刻も、作品として保管し、解散時に返すつもりだ。それを辻真太がどうするかまでは預かり知らないが。
 修道院は小高い山道を登ったところにあった。かなり古く、ロマネスク様式の立派な建造物だ。私が引率でここを訪れたのは今回で二回目だ。山の中腹を拓いて建てたらしく、ここだけがヨーロッパの一部のような異空間に感じる。バスを降りた生徒たちもみな感心したようにため息を吐いていた。
 声はてきるだけ小さくしゃべること、礼拝堂には一般の信者も祈りにくることもあるから邪魔をしないこと、やたらめったら手で触れないことなどを前もって伝え、錆びた鉄の物々しい門の中に入った。
 入り口にひとりの修道女が立っていた。背の低い初老の修道女は、淡いブルーグレーの修道着に身を包み、全体的に丸いフォルムはまるでマトリョーシカみたいだった。笑みを浮かべ、「ようこそ、みなさん」と生徒を出迎えてくれた。
 修道女はまず、建物の裏にある中庭を案内した。コの字型になっている建物の中庭は驚くほど広く、そこここに可愛らしい子供の天使像がぽつぽつと置かれていて、女子生徒も声を上げて写真に収めていた。この街に住む彫刻家が寄贈した天使像だ、と修道女は語った。
 葡萄のなる棚もあり、まだ収穫されていないものが幾房もぶら下がっている。これらは修道女の手により葡萄酒に加工される。
 吹きだまりのところで、腰を曲げた修道女がくまでで落ち葉を掻いている。こちらもゆっくりとした動作がぜんまい仕掛けの人形みたいに見えた。窓を横切る影も多く、建物の中にはおそらく厳しさこそあれ、慎ましやかな生活が営まれていることが窺える。
 中庭の散策が終わると、礼拝堂に案内された。一歩入ったら私語は厳禁だ。前列でうつむいて祈りを捧げている一般の信者が二人いた。正面の祭壇には、ぐったりとしたイエス・キリストが貼りつけられた十字架がある。修道女が一人一人に冊子を配った。冊子には、この修道院が建てられた時代やこれまでに訪れた災難、そこからの修復など、紆余曲折が書かれてある。そうとう歴史的にも価値ある建造物だ。生徒たちはステンドグラスや二階にあるパイプオルガンをしげしげと眺めていた。
 礼拝堂を出て扉を閉めると、生徒たちは息まで止めていたかのように大きなため息を吐き、一気にしゃべりはじめた。
 立ち入り禁止の札があるところ以外は自由に見学していいことと、修道女の手作りの菓子やグッズなども置いてあるから、土産物屋にもぜひ寄ってください、と修道女はいい、案内役を終えた。
 バスの前で待っていると、手に土産物の袋をぶら下げた生徒たちが順々に戻ってきた。ところが点呼をとると、三十九人しかいなかった。
「あれ、一人足りんぞ」私はもう一度点呼をとった。いないのは辻真太だった。
 生徒たちをバスの中で待機させ、私は踵を返した。裏庭と礼拝堂を確認する。そこには辻真太はいなかった。先ほど案内してくれた修道女に声を掛けたが、見ていないという。
「大変申し訳ないのですが、間違って立ち入り禁止の中に紛れ込んでしまった可能性もありますので、お手数ですが探していただけないでしょうか」
「はい、では少々お待ちくださいね」修道女はいやな顔ひとつせず、探しにいってくれた。
 ほどなくして修道女は戻ってきた。なぜかにこにこと相好を崩している。修道女はいった。
「先生、ご安心ください。生徒さん、おられましたよ」そういって私を手招きした。
 ついていくと、立ち入り禁止の区域内の暗い廊下の突き当たりで、辻真太はこちらに背を向けて立っていた。近づくと、壁にはとても大きな絵画が飾ってあるのが見えた。横にある階段の上の窓からしか採光がなく、目前までいかないと何の絵なのか判然としない。近づくと、やがてそれは大天使を描いた宗教画だということがわかった。
「しんた、集合時間だぞ」
 声を掛けるが反応しない。絵画に魅せられたように黙って見上げている。
「この絵が気に入ったのか」問うと、辻真太はこくりとうなずいた。
「先生、信じてくれますか」辻真太はぼそりという。
「なんだ」
「この天使、ぼくの夢に出てきたんだ」いってから横に立つ私をちらりと盗み見た。私が笑うのではないかと思ったのか。
「それはすごい夢を見たな。大天使ミカエルが登場とは」
「大天使ミカエル?」
「ああ、この天使はキリスト教の中で信仰の対象になっている三大天使の一人、ミカエルといってな、悪魔をやっつける一番かっこいい天使なんだよ。正確には聖書の『ヨハネの黙示録』に出てくるのだが、天で起こった戦いで、大天使ミカエル軍勢が人間を惑わす存在、サタンを地上に投げ落とすんだ。だからこのように醜い獣のようなものを踏みつけ、剣で刺そうとしている姿の絵画がたくさん描かれているんだ」そこまでいって、私ははっとした。
「しんた、まさか、このミカエルのように······」
「うん」辻真太は神妙な面持ちでうなずいた。
 そうか、だから辻真太は夢で見た大天使ミカエルを真似て、グロテスクな生物を粘土で作っては踏みつけていたのか。やっと府に落ちた。あれは奇行などではなく、この絵画をあらわした「瞬間」だったのだ。夢に出てくるとは不思議なこともあるものだ。あるいはこの類いの絵画を無意識のうちにどこかで目にしていたか。
「正義のヒーロー大天使ミカエルが、しんたに何か語りかけていたのかもしれないな。とても貴重な体験だ」
 うん、辻真太は黒目を光らせてうなずいた。
 生徒を見つけてくれた修道女に礼をいい、バスに戻った。バスの中のクラスメイトの歓迎は荒々しいものだったが、辻真太は「ごめんごめん」と謝って入っていった。
 後日提出された辻真太のレポートは、すべて大天使ミカエルについて調べたことで埋まっていた。

 それ以来、辻真太の言動にも変化が感じられた。ときどき見せる奇妙な変顔も、粘土を踏みつける行為もなくなっていた。その代わりに、いつもスケッチブックを開き、絵を描くようになっていた。いうまでもなく大天使ミカエルの絵だ。熱に浮かされたように、ただ大天使の絵を描きつづけていた。
 授業中だろうが昼食時だろうがまるでお構いなしな辻真太を見ていると、声を掛けずにはいられなかった。私は彼にこういった。
「しんた、ミカエルをモチーフに、何かひとつ作品を作ってみないか」
「何かって?」
 昼休みで男子生徒はほとんど教室にいない。おそらく木工室の前の広場で円陣パスか体育館でバスケットボールでもしているのだろう。教室にいるのはおしゃべりか漫画に夢中な女子生徒ばかりだ。その中で辻真太は机にかじりついていた。
「その何かを一緒に考えよう。油絵でもいい、立体でもいい」
「立体かあ」にやにやと嬉しそうだ。
「立体がいいのか」
「そうっすね、どうせなら立体にしてみたいです」
「石膏はどうだ。いくらでも修正がきく」
「でも、もろくないっすか? 羽根とか」
「お、いい着眼点だな。針金と紙で骨格を作っておいてから上から石膏を塗るという手があるぞ」
「石って難しいですか? 彫刻っていうとほとんど石じゃないですか、大理石とか」
「石か、いきなり難易度を上げたな。それこそ羽根が途中で割れたらアウトだぞ」
「ミケランジェロみたいに彫りたいなあ」
「まず、ひとつ作品を完成させることに意味があるんだ。ハードルをいったん下げて、いまの自分の力でなら完成まで持っていける素材にするんだ。それから徐々に難易度を上げていけばいい。時間はたっぷりあるから、考えてみるといい」
 うん、辻真太は顔をくしゃくしゃにして笑った。

 私がこの学校の教師時代を通じて感じたことがある。それが天賦の才がどうかは卒業後の人生までは関わらないのでわからないが、他の生徒と感性が異なる、ある意味特殊な子供は、とても幼く見えるのだ。純真無垢というのともすこしちがう。精神年齢が低いまま身体だけが成長したようなのだ。だから、どこか奇異に感じるが、しかし知能の障がいがあるわけではない。接していて、言動や表情が単純に幼い、という以外いいようがない。辻真太もそんな顔をして笑う。

 また手弁当を持ち込んで教室での昼食時、家でひと口クレープを作ってきたという女子生徒が、それを周りに配っていた。その女子生徒、中村礼子は私にもひとつくれた。ラップに包んだクレープは、生クリームとスライスしたバナナとイチゴが入っていて、さっぱりとした甘さが美味かった。そういうと、中村礼子は恥じらうように微笑んだ。将来きっといい母親になるのだろうな、と私は思った。
 弁当を食べ終わると、いつの間にか辻真太が私の横に立っていた。いつから立っていたのか、気配をまるで感じなかったので、すこしばかり驚いた。
「北見先生、ぼくまだ木工しか習ってないから、木工でのミカエル像に挑戦してみようかなあって思うんだ」
「おお、そうか、木工か。いいじゃないか」私がそういうと、辻真太はねっとりとした笑みを浮かべた。嬉しそうだ。さっそく、放課後に木工室で落ち合う約束をした。
 辻真太は三冊のスケッチブックを持ってきた。いわずもがな、すべて大天使ミカエルの勇姿で溢れている。中にはパステルで色づけされているものもある。正直、そのスケッチブックだけでもじゅうぶん作品になり得る力作ばかりだった。全体の躍動感はもちろんだが、醜い生物を踏むミカエルの眼差し、唇に薄くたたえた笑み、高貴ささえ感じる。
「さて、しんたの構想を教えてくれるか」
 辻真太は頬を紅潮させていた。
「うん。えっと、先に粘土で腕と羽根以外を作る。木を貼り合わせていって、粘土像通り採寸する。それを下から彫っていく。ざっくり顔まで彫れたら、腕、剣、羽根を別個に作ってボンドで貼りつける。で、最後に顔を細部まで彫り上げて完成、です」黒目を輝かせ、興奮気味に語る。
「よく練ってあるじゃないか。すごいな」
「粘土像なら二日あればできるから、家で作って持ってきます」
「ちょっと待て、持って歩けるほど小さいものを作るのか」
「いえ、だいたい八十センチくらいを考えてます。ぼくチャリ通学だから、荷台にくくりつけて持ってきます」
 うんうん、素晴らしいじゃないか。私はうなずく。
「色はどうするんだ。木目のままで完成にするのか」
「彫り上げたら考えます」 
「それもそうだな」
 その日の打ち合わせはそれだけで終わり、辻真太はスケッチブック三冊を抱え、帰っていった。
 翌日、驚いたことに、辻真太は粘土像を持って登校した。職員室にあらわれ、私のデスクの上で大きな包みを広げた。宣言通り、それは八十センチほどの粘土像だった。
 デザイン科の教師たちが私のデスクを囲み、しげしげと眺めている。私と辻真太がこれから何をはじめるのか、木工室を使わせてもらう以上は許可を得ないとならないので、各先生には話してある。全員が辻真太の挑戦をわくわくと、人によってはギブアップを楽しみにし、見守るといってくれた。もちろんこの制作は授業外のことなので成績には響かないが、創作意欲はすべての実技課題に良い影響をもたらすだろう。それが彼の将来にまで繋がってほしい、と願うのは高校教師として無責任だろうか。
 たしかに画家や彫刻家だけをなりわいとして生きていける人間は、多くの美術の学校を卒業しても一握りしかいない。ここにいるデザイン科教師たちのように、本業と制作を分けて活動していかないと食べてはいけない。しかし、自分の生徒から希有にも天才的芸術家があらわれることがないとはいえない。その芽に気付いてあげることが私たちデザイン科教師の役目なのではないか、と常々思う。
 その日から放課後に私と辻真太が何やらはじめたことはクラスにも広がり、しばらく興味津々の見学の輪ができていた。というのも、となりの部屋で石膏彫刻の課題の居残りをしている生徒が結構いたからだ。彼らは辻真太の粘土像についてあれやこれやと意見を述べている。当の辻真太は、そんな外野の声など気にすることもなく、木の板を貼り合わせたり、電動のこぎりで切り落としたり、マイペースに作業をこなしていた。
 これまでの辻真太はどちらかといえば情緒が不安定で、平面の課題の模写やパステル画もモチーフがグロテスクなものばかりで、奇行も含め、卒業後を案じる教師が多かった。ところが、あの修道院で大天使ミカエルの絵画に出会ってからの彼は、不気味なほどの落ち着きと正気を保った振る舞いがあった。そしてこの年齢にして、多くの芸術家に共通して見受けられる深遠な眼差しをすでにたたえていた。付き合う私が気圧されるほどであった。
「先生、サタンの口から舌は出した方がいいかな、安っぽい表現かな」
「そうだな、そう見えるかもしれんな」
「牙はどうかな」
「狂気じみて見えるのは牙のほうがいいだろうな。しかしどんな牙かにもよるな。例えば大型犬の牙、ワニの牙、あと猿の牙。しんたにはどう見える?」
「ワニは怖くない。犬は逆に弱さを感じる。猿は人間に近いから、人間の野性をむき出しにしたように見える」そういって彼は何かを考えていた。そして宙を見た。「そうか、サタンは堕天使だから、醜い動物を真似てもだめなんだ。人間のように見えた方がより狂気さが増すんだ。先生、ヒントをありがとう」
 人間の狂気、人間だからこその狂気、辻真太はしばらく呟いていた。
「やってますか」
 廊下側の扉からではなく、開け放たれたグラウンド側から八代良孝とその取り巻きがあらわれた。手にはレジ袋を持っている。
「差し入れです」
 彼らも居残りで作業着姿だが、みな途中で腹が減るので、近所のコンビニにポテトチップスやらジュースやらを買い出しに行く。八代良孝たちもその帰りなのか、手に持っていたレジ袋のひとつをテーブルの上に置いた。
「ああ、サンキュー」辻真太が八代良孝に笑みを向けた。いつの間にか二人の間にはささやかな友情が生まれていたようだ。
「頑張れよ」「ああ」「また覗きにくるからな」そんなやり取りがあり、八代良孝たちが出ていくと、辻真太は緩めていた顔を引き締めた。
 この日、辻真太はミカエルに踏みつけられたサタン部分をある程度形作った。そこより上は、まだ貼りつけられた木の塊だ。どこをどう彫るのか、鉛筆でいくつも線が引かれ記されている。頭の中ではもうミカエル像が出来上がっているのだろう。かのミケランジェロは、はじめから石の塊の中に自らが彫り起こすべき人を見出だしていたらしい。
 制作は当たり前だがすべて順調に進むことばかりではなかった。ミカエルの脚部を彫り進めたはいいが、削りすぎて左右の太さに極端な差が生じ、また木の板を貼り合わせるところからはじめなくてはならなかった。作業の手が早い辻真太は、愚痴ひとつこぼさず、根気よく何度でもはじめから彫った。
 繰り返すが、辻真太は作業のスピードが早い。集中力もあると思うが、何より彫刻刀の扱いがとても上手い。刃の入れ方、力加減が素晴らしく、見ていると吸い込まれていくほどだった。
 私は平面の教師なので、彫刻の技術的なアドバイスはできないが、時々様子を伺いにくる木工の石川先生は、辻真太の手さばきを見て唸っていた。
 しかし、手さばきはいいのだが、先のイメージに添わなくなると、彼もさすがに癇癪を起こすようになった。焦る気持ちもわかるが、そこは辛抱が必要だった。
「最初から完璧を求めるな。作品が形になる前にメンタルがくたびれてしまうぞ。しんたはこれから同じモチーフで何度も作品制作に向かうだろう。もしこれからも大天使ミカエル像を彫りつづける、描きつづけるのなら、多様な表現力を必要とされる。この一つ目がその始まりなんだ。腰を据えて落ち着いて臨むことだ」
 私が話し終えると、辻真太はぷいと横を向き、立ち上がって木工室から出ていった。木の塊からはまだ誰とはわからない足首に踏まれたサタンしかあらわれていなかった。同じところで足踏みして進めないもどかしさはわかる。辞めるも続けるも彼の自由だ。付き合うか見放すかもまた私の自由でもあるのだが。
 ここで辻真太の内の情熱が冷めてしまうのか、癇癪も落ち着いたらまた戻ってくるのか、私は一時間ちかくそこで待ち、時計の針が十八時を示しているのを確認すると、辻真太を探すために立ち上がった。
 十月に入ってすこしずつ日が陰るのが早くなっていた。校舎内は蛍光灯が寂しげに灯り、大人の私でさえ人気のない廊下を歩くのは気味が悪い。
 まず、下駄箱に見に行った。辻真太の名前が書かれた上履きがあれば、もう学校にはいないことがわかる。デザイン科一年生の下駄箱を覗く。辻真太の上履きがそこにあった。私は木工室のとなりの鉄工室で居残りをしている生徒たちのところに顔を出した。
 彼らはみな、地べたにしゃがみこんで、石膏を溶いたり削ったりしていた。顔に白いものが付着している生徒も多い。
「あれ、北見先生、しんたは?」
「うん、すこし疲れたみたいだから休息さ」
「もう文化祭の準備もはじまるのに、休んでていいのかなあ、しんたのやつ」
「文化祭がいい気晴らしになるかと思うよ。あまりしんたを急かさんでやってくれよ、頼むな」
「わかってるって、先生」八代良孝は石膏にまみれた白い手でピースサインを作ってみせた。

 今年のデザイン科一年生の文化祭の出し物は、教室を迷路にする、というのが多数決で決まったようで、石膏彫刻の課題提出も終えた生徒たちは和気あいあいと準備に取りかかっていた。
 辻真太はあれから放課後の木工室に来ることはなかった。私も押し付けがましく声を掛けることはしなかった。彼はみなに混じり出し物の制作をしている。もう大天使ミカエルへの情熱が消え失せてしまったとは思いたくなかった。お祭りが終わったら、また黒目に光を宿して木工室にやってくると信じたい。
 教室に仕切りが立てられ、黒い布が貼られた。私は念のため、お化け屋敷ではないのだろうな、と確認をすると、彼らは「迷路だって、心配しなくても変な仕掛けとか作らないから大丈夫」ときっぱりと否定した。
 なぜそのような確認をしなければならなかったのか。というのも、数年前に土木科ではあるが、お化け屋敷を出し物にし、入ってきた女子生徒に仕掛人の男子生徒が抱きついて体を触ったことが大問題になったのだ。それ以降、文化祭での出し物のお化け屋敷は禁止になった。
 準備に手間がかかっていて、文化祭前日になっても作業が終わらず、生徒たちは夜まで残っていいか、と許可を求めてきた。遅くても二十時には切り上げることと、家に連絡を入れることを約束し、許可を出した。
 生徒が残っている以上、私も帰ることはできない。腹が減るから買い出しにも行くだろう。私は買い出しに行くのな車で送迎すると申し出た。
「わあ、きたみんの車に乗りたい!」
「え、あたしも!」
 挙手する生徒が多く、じゃんけんにもつれ込んだ。結局、女子生徒二人が勝ち残り、私は校舎裏の教師専用の駐車場に二人を連れ、後部座席に乗せた。
「へえ、これがきたみんの車なんだあ」
「イメージとちがうよね」
「どうちがうんだ」私は訊いた。
「がちがちのグレーのセダンってイメージ?」
「あーわかる。いわゆるおじさん車って感じだよね」
 この年頃からはそんな風に見られているのか。私は笑った。
「このハッチバックタイプは、画材をたくさん積み込むことができるんだよ」
「きたみんの絵見たいな」
「見たい見たい」
「来年中には個展を開く予定だから見にくればいい」
「いくいくー」
「招待状送ってよ」
 近くのコンビニで、彼女らはカゴ三つ分のお菓子と二リットルサイズのジュースを買い込んだ。支払いはいうまでもなく私のポケットマネーだ。
 結局、二十一時までの延長を泣きつかれたが、それでも仕上げまでに至らず、未完のまま私はクラスの生徒を帰らせた。
 翌朝の文化祭当日、早くから生徒たちは登校し、仕上げの作業をしていた。私が顔を覗かせると、「きたみんは入っちゃだめ」と追い出された。出来上がった部屋で迷路を楽しんで欲しい、と彼らは含み笑いを浮かべていた。
 毎年この時期になると思うことだが、クラスやグループで一体になり作品をクリエイトする達成感が、のちの卒業制作の基盤になる。価値観のちがう相手との折り合いのつけ方も学ぶ。それは社会に出たときに一番必要な要素となる。才能や実力は二の次だ。だかるか、文化祭の前と後ではクラスの雰囲気も大きく変わる。
 頃合いを見て、デザイン科の教室を訪問した。たどり着くまでに他の科の出し物を覗いてみる。海岸沿いにありそうなカフェでバンドの生演奏を楽しめる機械科の出し物。絵や色を使った心理テストの部屋はインテリア科。人間がピンになり大玉を転がしてぶつけるボーリングは土木科。楽しげな笑い声や案内のきんきん声で賑やかだ。
 デザイン科一年生の教室に着くと、郡司譲と松島薫のクラス委員コンビが受付にいて、「いらっしゃいませ」と声を揃えた。
「何名様ですか」松島薫が真顔でいう。
「何名か見ればわかるだろう」私は笑う。
「お一人ぼっち様ですね」
「寂しい独身お一人様なわけですね」郡司譲がいう。私が既婚者だとは知らないようだ。それもそうだろう、中年太りした指にサイズが合わなくなった結婚指輪を、私はとっくに外していたからだ。
「独身は寂しいぞ。郡司もそうならないように将来はきちんと身を固めろよ」私はそういってにかっと笑った。
「それではこちらの迷路の説明と注意をいたしますので、よく聞いて守ってください」松島薫が真面目くさった口調でいう。
「二つに分かれた分岐点では、正しい道を選ばないと行き止まりになります。分かれ道は全部で三つあります。このカードにそれぞれのポイントに設置してあるスタンプ台でスタンプを押してください。行き止まりにもありますので、正直にスタンプを押してください。出口に着きましたら、スタンプに応じた景品を差し上げます。繰り返しますが、行き止まりのスタンプも必ず押してください。以上ですが質問はありますか」
「はい」私は手を上げた。「びっくりさせるような怖い演出はありませんか。私は心臓が悪いので」
「それはお答えできません」郡司譲が涼しい顔でいった。
「なんだよ、それなら俺はやめておく」私がそういうと二人は泡食った。
「待ってよ、きたみん。そんなにびっくりはさせないから」
「怖いっていっても、小さな子供でもそんなに驚かない仕掛人だから大丈夫です」
「お願いだから入ってよ」
「みんな一生懸命作ったんだ。きたみんが入ってくれないと僕らがあとでみんなに怒られるよ」
「わかったよ、入るよ」
 私は松島薫からカードを受け取り、入り口をくぐった。おい、きたみんがきたぞ。きたみんだって。ひそひそ声が聞こえている。私は笑いをかみ殺す。
 黒い幕で覆われた壁が複雑に折れ曲がっていた。すこし先を行く参加者の小さな悲鳴と笑い声が聞こえてくる。
 最初の分岐点で私は右を選んだ。角を二つ曲がると、最初から行き止まりに当たった。全身黒い衣装をまとった人物が待ち構えていた。顔まで布を被っているので誰かはわからない。木工室から持ってきたのか木のスツールがスタンプ台になっていた。スタンプに手を伸ばすと、黒い人物がおどろおどろしい声を発した。
「間違いの道を三回選ぶと地獄に堕ちるぞ」佐々木裕平の声だ。「スタンプを押していけ」わはははは。デーモン小暮の真似た笑い声。
 引き返して先ほどの分岐点を今度は左へ行く。角にまたスタンプ台があり、横に天使に扮した女子生徒が迎えてくれた。なかなかよくできた扮装だ。背中に羽根もあり、頭に輪っかのついたカチューシャをはめている。
「岡本加奈だな」私が笑うと、「なんのことじゃ、さあ、正しき道を進むといい」と天使が促してくれた。
 結局、私は三つの分岐点ですべて間違った道を選び、六マスあるスタンプカードを隙間なく埋めてしまった。出口ではまた生徒が二人待っており、私のカードを見て笑い転げた。
「きたみん、だめだめじゃん」「全部間違えるのも珍しいよ」
「景品はなんだ」
「全滅の人はこれ」
 私はハッカ飴をひとつ受け取った。
「しらけてるなあ、間違えないで迷路から出てきたら何がもらえるんだ」訊くと、生徒は「コーラ味のチュッパチャプスです」と答えた。
「なんだ、どちらにしろ飴じゃないか」
 スタンプカードをポケットに突っ込み、教室を後にした。他にもデザイン科一年生の出し物があり、そちらにも寄った。体育館横では屋台がずらりと連なっていた。他校の生徒や一般客が大勢訪れており、たいした賑わいだ。呼び込みの生徒が私の姿を見つけると、手首を引いた。
「きたみん、食べていって」
 屋台にはカラフルなポップが貼ってあり、さすがと唸る画力を示している。チョコレートがかかり、割り箸に突き刺さったバナナが並べてある。生徒が一本手渡してくれた。
「いくらだ」ジャケットのポケットマネーをまさぐると、「いいよ、きたみんからお金受け取れないよ」「食べてよ、きたみん」「何本でも食べていいからね」そういってくれる彼らの好意に甘えることにした。チョコバナナをかじりながら周りをよく見ると、パスタを出す店や冷たいうどんを出す店、それぞれ凝っている。
「美味かったよ、水分はまめに摂るんだぞ」
 今日はピーカンなので、熱中症には注意しないとならないくらいだった。
 職員室に戻り、ポケットにしまったスタンプカードをあらためて眺め、私は驚きを覚えた。スタンプは手彫りで、画風から察するに辻真太の作品のようだ。細部に至るまで妥協しない天使と悪魔のスタンプだ。彼の器用さがよく出ている。私は辻真太が反発して放課後の木工室に来なくなったと考えていたことを恥じた。このスタンプ制作に打ち込んでいたのだ。文化祭が終われば、彼は何事もなかったかのように木工室にあらわれるだろう、と確信できた。
 休み明けの放課後、木工室へ行くと、すでに辻真太が作業着に着替えて座っていた。彫りかけの像を手で回している。
「しんた、はやいな」
「もう待ちきれなくてうずうずしてたんだ」そういうと、顔をくしゃくしゃにして笑った。
「ようし、始めるか」
 その日、わずか二時間ほどで大天使ミカエルの腰あたりまで彫った。脚も左右のバランスがとても良い。身にまとう衣服の細かなディテールは全体像がざっくりあらわれてから彫り込んでいく。
「すごいな、しんた」
「文化祭の準備しながら頭の中でイメージしていたんだ。サタンを踏む足はふくらはぎの筋肉を強調して、右足の方はこういう角度で、って」
「なるほどな、右足の角度に安定感がある。スタンプ彫りでさらに腕を上げたな」
 私がそういうと、辻真太は目を丸くした。
「どうして僕が彫ったってわかったんですか」
「そりゃあわかるさ。あれを彫れるのはしんたしかいないよ」
「先生、すげえ」辻真太は口を歪め、粘着質な笑顔を作った。
 驚くべきことに、辻真太は三日でミカエルの胴体を彫り上げた。もちろん髪の毛や顔の造作は後回しだ。肩からの両腕と羽根はそれぞれ別々に彫り、胴体の細部まで彫り込んだら、貼り合わせる。辻真太のスケッチによると、右手に剣を持ち、左手は天を指すようにまっすぐ伸びている。
 辻真太は右手を先に彫った。剣を握る手が上手く決まらず、何度も彫り直した。指を一本一本彫っていくと彫刻刀が入らない箇所が出てくる。仕方なく、全部の指を折り曲げる形にした。
 いつの間に持ち込んだのか、カセットデッキで音楽を流している。がなるように歌う声の主はhideというミュージシャンだと教えてくれた。社会見学のバスの中で歌った曲も入っている。サウンドを歪ませ、歌詞がなんともまがまがしい。四畳半の畳部屋が目に浮かぶフォークソングばかり聴いていた私にはいささか刺激的だったが、辻真太はときおり歌を口ずさみ、調子良く手元を動かしていた。
 良く考えたもので、羽根の内側は、数枚まとめて彫り、貼っていく手法をとったおかげで、羽根が持つふくらみと柔らかさを上手く引き出していた。
「全体像がくっきりしてきたな。あとは要のミカエルの表情だな」
「うん、やっとここまでこれたよ、先生ありがとう」
「礼など要らん。しんたの根気と技術の賜物だ」
 季節は冬に入っていた。石川先生のストーブを借りて暖をとり、コンビニで買ってきた肉まんをふたりで頬張った。他の生徒は期末テストの勉強のために早く帰っていた。
 ストーブを挟み、私と辻真太はたわいない会話をしていた。先ごろ読んだ本の話や、いまハマっている五目並べの話など。五目並べは六歳下の弟とするそうだが、兄が勝ってばかりだと弟が泣くので、ときどきわざと負けてあげている、と話した。辻真太の意外な優しさを知る。両親は離婚しており、母親が夜遅くまで働いていることと、高校卒業後は就職して、すこしでも母親を楽にしてあげたい、とも語った。
「ぼくが画材費のかかるこの学校に通ったから無理をさせてしまって、母さんには恩返ししなくちゃって思っているんです」
「しんたが就職することを、お母さんはどう思っているのかな」
「やりたいことをすればいいって。養育費もそこしもらっているから、大学の学費の心配はするなって。でも、ぼくは早く働きたい。美大に行ってまでやりたいことなんてないし」
「しんたは何故この学校を受験したんだ」
「小さい頃から絵ばっかり描いていて、それを専門に学べる高校がある、って中学の先生が教えてくれたんだ」
「そうか、だが美大に行けばもっと自由な創作活動ができるんだ。魅力的には思えないのか」
「このデザイン科に入ってみてすぐにわかったんだ。趣味だから楽しいんだ、職業にして生きていくのは大変な覚悟が要るんだって。ぼくにはそこまでの覚悟はない。絵は楽しい趣味にするのが一番なんだ」
 ここまでの感性と技術を持っているのに、なんてもったいない。そう口をつきそうになったが、なんとかとどまった。私が口出しすることじゃないからだ。
「さて、もうあと数日あれば仕上がりそうだな。しんたも明後日からのテスト勉強をしないとならんしな。今日はここまでにしておこう。続きはテスト明けだ」
 私はストーブを消し、木工室を施錠した。
「先生、ありがとうこざいました。さようなら」
「車に気をつけて帰るんだぞ」
「はい」

 翌朝、辻真太は自転車での通学中、交差点で左折してきたトラックに巻き込まれ、命を落とした。クラスの全員が通夜に訪れたが、棺桶の中に横たわる辻真太は、当たり前だが真面目な顔をしていた。こんな顔立ちをしていたのだな、と変な言い方だが、発見があったような気がした。生徒たちは力を失うように泣いていたが、彼らに慰めの言葉をかける辻真太の母親の気丈さには頭が下がった。
 期末テストは予定通りに実施され、生徒らは辻真太の葬儀に参列することはかなわなかった。私は校長と参列したが、出棺前に挨拶をする辻真太の母親は声を震わせていた。それでも最後まで涙は見せなかった。

 木工室に飾られた辻真太の未完の遺作に、生徒たちは菓子やジュースを供えた。遺作になってしまった大天使ミカエル像は、あと顔の造作を彫り込めば完成だった。しかし、すこし前傾した上半身と羽根のふくらみが躍動感をもたらし、定まらない目の焦点がかえって不気味さを感じさせ、このままでもじゅうぶんに作品と成し得た。はじめて本腰を入れて作ったとは思えない安定感があった。むろんプロの彫刻家から見れば、拙いものだろう。だが、この彫刻に込められた情熱とひたむきさは見過ごすことはできない。辻真太は確かにここに居て、ミカエル像に若さのすべてをぶつけていた。
 私は重い腰を上げて、彫刻に油を塗ろうと棚から下ろした。
「僕らにも手伝わさせてください」
 振り向くと、八代良孝たち四人が扉の横に立っていた。
「ありがとうな、しんたも気になっているだろうからな」
 私と生徒四人は、まるで赤ん坊の入浴のように丁寧に彫刻を扱った。
「しんたのお母さん、大丈夫かな」油を刷毛で塗りながら八代良孝がいった。
「お母さん、泣くの我慢してたね」森本侑李が鼻をすすりながらいった。
「かえって見ていられなかったね」と内海岳人。
「おれが泣いてたら背中さすってくれたんだ」杉野豊。
「お母さんにこれ見せてあげたいっすね」森本侑李が油を塗る手を止めていう。
「そうだ。北見先生、これ僕たちでお母さんに見せてきてもいいですか」八代良孝が真っ赤な目で私を見た。
「いや、この彫刻はしんたの存在そのものだ。見せるというより、お母さんにお返しするのが本当だろう。届けてくれるか」
 うん、とうなずく四人の目は奥深い光を宿していた。


いまでも彼らの笑顔は私の中に染み付いている。前にも語ったが、特殊な何かを持っている子供は、本当に幼い表情で笑う。クリエイティブなものに取り憑かれ、社会に適応できない苦しみも、創作することで自己肯定感を高めていく。決して自分が変なのではない。自分が新しいものを生み出すのだ、と使命感を持ってこの学校で研磨する。
 そんな人間が急にぽいと社会に落とされたとしたら、彼らはただ自己顕示欲だけが強い社会不適合者、と異端児でも見る目で弾き出されるかもしれない。それでもこのクリエイティブな世界で勝負していくことを決めたのなら、人の価値観に屈せず、自分を信じて創造者として降りてくるものを素直に取り込んで活動していって欲しい。
 企業に就職する者も、画家や彫刻家で一本立ちを目指す者も、また会社を起こす者も同じく、そうであって欲しい。
 私事で恐縮だが、同じクリエイトの世界に身を置く人間から痛烈な言葉を浴びたことがある。私の作品のみにあきたらず、創作の姿勢を批判されたのだ。作品の意図しているものが、他者には理解を求められないと捉えられ、それがいささか横着で人を見下している態度に映ったらしい。「理解できるかどうか試しているのだろうが、それは独りよがりだ」ともいわれた。もちろん私にすれば思いもよらない言いがかりだ。すべての作品を大真面目に創作している。それらの他者の意見を人に話したことがあるが、それは嫉妬だろう、と分析された。
 そういえば思い出した。私がまだこの学校の生徒だったとき、当時の師はいつもいっていた。
「創作は苦しい。だが、楽しい。その揺れの中にいられることをおおいに楽しめ。苦しんだ先で見つけたものを掴んで離すな。力いっぱい引っ張り寄せるんだ。逃したら、次にいつ出会えるかわからない」
 恩師もまた、創作熱の内から抜け出せない一人の画家だった。
 私が絵を描くときは、誰かに見せることを前提にすることはない。私の上から降り、右手に通電するままを、基本的に描く。現実に見たいけれど見られないものをモチーフにする場合もある。だから、私を謗ったその人たちが見られなかった世界を、その目に見せてあげたいと思う。嫉妬心というつまらない感情に支配されるより、感動を味わった方が幸せになれるからだ。
 私の生徒たちにもそう伝えてきたし、あの校舎で学んだ日々を忘れないで、先に続く道を歩んでいって欲しい。
 そうして歩んでいく過程で、出会った人々と刺激を与え合って研磨して欲しい。
 人生のほんのわずかな時間、三年間で少年から青年になる年齢特有の危うさと、不確かなものに挑む大胆さ、そして結晶のような輝きを放つ、その一瞬を共に過ごすことができたのは、私にとってなによりも素晴らしい財産になった。
 彼らにあらためていいたい。ありがとう。そして、決して何かになっていなくてもいい、どうか幸せであれ。

                   完

この記事が参加している募集

#スキしてみて

529,721件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?