早く起きること 習慣を持つこと
早く起きることが大切。
よく言われていることだと思う。なので、最近は早起きをしている。やってみると、午前中の時間が増えることは大切。頭がぼんやりとしていることもあるので、うまく言葉を紡げないこともあるのだけれども。それでも時間が沢山あるのは良いことだなあと思う。
習慣に落とし込むこと。それを続けられればいい。惰性はすぐに自分の中に入ってきて、自分の心を支配してしまう。その惰性から逃れるには、肉体を意図的に動かして、迫りくる惰性を振り切るしかない。
心は本当に自由で、とらえどころがないもの。自由な想像性を持つけれども、その柔軟さゆえに色々な力の影響を受けやすい。雑念は容易に自分のセキュリティーを突破してくる。
雑念の侵入を許せば、思考はその場で止まる。思考と創造性は結びつきのは当然なので、思考が止まれば創造性は阻害される。
音楽にはレガートという概念があって、2点の音を滑らかにつなぐことを指す。大切なことは「連続」すること。切れ目なく、終わりなく。もちろん、音楽は「休符」がある。そこには一旦の隙間があるけれども、内なるエネルギーは常に持続していなければならない。
雑念は休符ではない。雑念は、楽譜に入った綻びである。音楽からそっぽを向いた瑕疵であり、空隙を作るものではなく、音楽の運びそのものを不純にする。
雑念を削ぐには、その綻びをすべて消すほかない。綻びを発見し、修正するには日々の点検が不可欠だ。点検とは定期的に行わなければならない。連続した定点観察の中でこそ、連続たる物事の不可避的な欠損を発見することが可能になる。
この定期的な点検こそが、習慣であり、その習慣が自身を内側からのリペアを可能にするものだ。惰性は隙あれば自分自身の中に入り込んでくる。それは次第に自身の行動を蝕んで行くだろう。
それら惰性に蝕まれていく行動を習慣によって位置づけ、定期的な観察を可能にする。
人間は自由で、柔軟だ。それは逆を言えば脆く、儚い。誰にだってスタイルが必要で、鋳型が必要だ。「型を持つこと」と「指示を待つこと」はまるで違うことだ。習慣とは束縛ではない。
習慣とはすなわち、自分の能力を水に例えた時に、それを注ぐ容器のことだ。注ぎ方は自由だ。しかし、かならず容器の大きさに収まる。注ぎ方を縛られてはいけない。水差しを持つ手を痛めるだけである。
毎日、自分自身をその容器に注ぐ。次第に、その容器では物足りなくなるはずである。そうすれば、より大きな容器に自分を注ぎ込むだけである。習慣を持ち、自分を注ぐ。日々を重ねていく。
日々精進。これしかない。