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歌に関しての考察メモ①

 歌うときに大切なことは「呼吸」である。一般的にはブレスコントールという形で、語られる事が多い。
 しかし、「呼吸」はコントロールできない。それは誰もが理解していることだ。試しに、全速力で走ってみるといい。何本もその行いを経たあと、元通りの呼吸を取り戻すのは容易ではない。
 高鳴る心臓の音が、元の運動に戻るまでには、少なくない休憩時間が必要となる。体が静まり、平生の呼吸を取り戻した時、人は「元通りになった」と感じるのだ。
 この時、肉体は支配されていない。内部の暴走は、人間の意図しない範囲で行われる。それは人間の持ちうる能力の限界を越えた後にやってくる反動である。
 人ができるのは、この反動に耐えうるように、自身の肉体を強化することだけだ。
 それは支配ではないだろう。コントロールではないだろう。それは忍耐であり、忍耐の領域を拡大していくことだけが、体に係る負荷に圧迫されないための方法である。
 もちろん、肉体の連動の上で、その負荷を分散する方法もないことはない。しかし、それもまた、力をいかにして受け流すか、という観点にこそ重みがあり、それは自在に肉体を「制御」するという範囲を明らかに超えていると言わざるをえない。
 肉体は、ただそこに「ある」。生活の必然に従って、反応を起こしていくだけである。それは、制御を超えた、生理であり、それは肉体の上の自然である。
 肉体は、要請によって必要な動作を繰り返し、また、また要請によって非必要な動作を排除する。前方にあるのは意志であり、後方にあるのもまた意志である。
 動きとは常に、個人の意志の上で行われるが、精緻な肉体の構造は、意志を全領域においてまで介入させることはない。つまり、肉体には、制御できないネガとしての存在がそこにあるのである。


 陰(ネガ)としての存在は「見えない」しかし、「ある」。それを見えるものとして、あるいは、触れられるものとして扱おうとすると不都合なことが起こる。
 すなわち、意志と制御との「隙間」が、意志と「制御の結果」との落差を生み出してしまう。
 また、その落差への無理解が、「ブレスコントロール」の前のめりな解釈に繋がっていくのだろうと思う。
 制御している、そう思っていても、それらの陰(ネガ)の部分が、不可避的に肉体への硬直へと関与する。


 「制御」とは、肉体の精妙な働きの前では、力を行使できない。必要なことは、制御できない陰(ネガ)の動きに対して、知覚を働かせていくことである。その意味で、肉体は自由でなければいけない。その自由を獲得することが、逆説的に「制御」するということであり、肉体の束縛を解くことなのだと思う。
 少しずつ、制御できるものとして歌唱技術に位置づけられた呼吸の在り方について考えてみたい。

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