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物語ること 自分と出会うこと

 小説を書くことは、無意識の中の自分の感覚をさらうことです。自我の中に小さく降り積もった瑣末な感情を、物語に仮託して体外に排出します。

 言ってみればゴミ拾いです。自分無意識という部屋に溜まった拾っていく。でも、一つ一つ全部拾っていくのも大変だし、小さすぎて見えないものもある。

 そういう時、物語という装置は役に立ちます。一人の主人公に仮託して、自身の心情を投影することで、自身の中にある瑣末な感情を上手い具合に処理できます。

 たとえ、自身に冒険が少なく、退屈な毎日が続いたとしても、物語を起こし、彼らを遊ばせることはできます。ただ、それがここで言うゴミ拾いの意味ではありません。小説の中でキャラクターを遊ばせることによって自身の冒険心が満足するかというと、当然そんなことはありません。

 物語を書いた結果として、自身の満足を得ることはなかなか難しいことです。おそらく専業作家でもそうなのではないでしょうか。

 では、なぜ物語なのか。大切なことは物語の内容によって自分が満足することではなく、自身の中にそのようなある意味での「欲求」があり、外在化することによって、可視化することで、自身を把握できる。それがとても大切なことです。

 物語の中に現れる人物は自分の分身です。自己は生きる中で、些細な出来事で細かく分裂していきます。世の中に多重人格という人もいますが、その領域にまで話を広げなくても、多くの人間は細かく分裂し、多元的な性格を備えます。

 家の中の自分、会社にいる自分。同じ人はきっといないはずです。会社の中でも多元的な自分を使い分けているはずです。大きな枠でいえば、社会人、民族、人種、様々諸条件の中の軋轢から、人の心は傷つき、その傷は時間に飲み込まれ、過去になります。

 一旦、過去に格納された傷を後から、取り出すことは難しい。「あの時、こんな嫌なことがあった」と書いたところで、その不動の事実を再認識するだけでしょう。

 見ることは許されても、触れることは許されない。過去は観念でしかないのだからそれはある意味で当然のことです。しかし、過去は厳然としてそこにある。過去は消えないのです。当然、傷も消えない。

 自身と癒着した過去にできた炎症をうまく緩和する方法。それが、物語ることなのです。先ほど、内容には満足しないと言いましたが、では何に満足するのか。すなわち、「物語ること」そのものに対して満足します。

 瞬時に物語られた世界は、自身の内奥を反映します、その意味で小説の登場人物は自身の分身だと言えます。「こんなこと言わないよな」。登場人物の言葉にこう思うこと少なくない。

 しかし、その言葉は自分の中に漂っている言葉であり、またそれでいて自身では言葉にできない言葉です。それらを発見したとき、その発見にこそ僕らは満足を得るべきなのです。

 直接的に語れないことを間接的に語る。それが小説の妙です。自身の中にあり、それでいて論理だけではさらえないもの。近くて遠い、そんな屈折した内世界に手を伸ばす。物語を通して語られたものを客観的にみれば、自意識を捉える良い機会になります。

 その意味では瞑想などといったのものと似通った部分もあるかもしれません。直線的な論理と婉曲的な物語。物語ること、それは、自分の中の「自分」に出会うことに他なりません。

 物語の名を借りて、見えない自分をおびきだしてあげること。物語ること、それは同時に自分を告白することでもあります。内容には満足しないとは言いましたが、もちろん、優れた内容ならなお良いだろうし、読み物として形にするならば、それらをまとめあげていく技量も必要なのだと思います。

 今回は物語を経由して、自分を把握していこう、という試みについて話ました。閉塞していく世界で、肉体が圧迫される中、物語が改めて求められているように感じられます。

 内側にとどまり、化膿していく無意識の自分を物語ることで外在化させ、自由にする。個々人が内々に持つヴォイスを、物語を通して誘い出すことが必要なのだと思います。その意味で、小説を書くこと、そしてもちろん読むことも、自分を知り得る有用な手段なのだと考えます。


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