小説 月明りから逃げて
光が追いついてくる。闇夜を厳かに照らそうとする。影は、ビルの隙間に隠れた。
肉体がほどけていく。実体が欠けていく。
もとから実体なんてないじゃないか。影は小さく呟く。
俺は死んで、影になった。影でも生きていたかったのだ。世界への未練、残された、君。
「あなたは、いつも遠くを見すぎるのよ。未来を見るのはいいと思う。大切なこと。でも、足元をもうちょっと見てもいいのかなってそう思う時もたくさんある」
女の顔が思い浮かぶ。あいつの名前はなんて言ったか。記憶は消えていた。
残っているのは本能だけだった。
そうだな。その通りだった。おまえの言葉の通りだ。
影は走りだす。月の光を避けて。
地下へ逃げた。そこにあるのは闇と臭気とネズミの気配だけだった。
俺は、死んだ。いや、まだだ。肉体を奪われただけ。月は死者の国だ。彼らが、俺を月へと呼び寄せようとして、俺の命を、俺の体から抜いた。
影は、疲れを失った体で走り続けた。
俺の肉体がまだ残されているのならば、まだ、命を取り戻せる。
月の光が街を照らす。
本能でわかる。月の光は、俺を殺そうとするだろう。影は新月をまった。夜がすべての色を失う瞬間を待った。
それまで肉体が保存されているか、いや、されているはずだ。
月に肉体は連れていけない。連れていけるのは、命だけだ。その命は影として逃げ回っている。肉体から命を抜いたときに、俺をすぐに確保しなかったのが運の尽きだ。
新月がやってきた。
街は息を止めたように静かになった。影は、地下からすっと顔を覗かせ、街のネオンを見た。くだらない光だ。あの光じゃ、俺を殺せない。
俺の体を手に入れる。影は、病院へと向かった。
影は、安置室へ行き、自身の体と対面した。生気のない体がそこにあった。
影は肉体をそっと見た。かつて自分であった存在が、妙に滑稽に映った。その時、肉体の眼光がぱっと開いた。光が飛び散って、部屋へ拡散した。影は反射的に逃れ、壁と同化した。
やはりか。
この場所は、狙われていた。月の使いが俺を狙ってきている。
影は息をひそめ、隠れた。
一人の男が扉を開けて、安置室へ入ってきた。男はメスを握っていた。遺体の前にたち、メスを持った右手を高く上げた。
俺の体を狙う気か。
月の光に狂気を植え付けられた男だ。しかし、影は言葉を持たない。影は口を持たない。あるのは思念ばかりである。
メスで肉体が刺された。影は痛みを覚えた。なつかしい、これが痛みだ。随分昔に覚えた感覚だったような気がする。
もう一度、遺体の目から光が溢れた。なるほど、これは俺の遺体じゃない。影はそのダミーを見抜いた。メスを持った男は、メスをじっと見つめた。血はでていない。メスは光っていた、樹脂のようなものがついていて、それが闇の中であざやかな光を浮かべていた。
「影が、来ている。近くに感じる」
怪しいな。影はその場を去ろうとした。病院の廊下を走った。
メスを持った男は、先回りをしていたらしい。二人は廊下で対峙した。
「来たな。うまく逃げたようだが、ここに潜む場所はないぞ」
男はメスを突き出し、構えた。メスは光っている。あのメスで切られれば俺の体は消えてなくなるだろう。影を殺す、月の光だ。
しかし、逃げるわけにもいくまい。こいつを、潰すしかない。
お前なんかに、殺されてたまるか。
影は、すばやく男の腕をつかんだ。瞬間、男の手は消えた。あるのは、虚空ばかりだった。影はすぐさま引いた。
「実体がないのは、君ばかりではないよ」
男は言った。不敵な笑みを浮かべたのを見た。
「死んでくれ。いや、もう、死んでいるか」
冗談だろ、まだ、生きているぜ。影は頭の中でつぶやいた。戻るべき理由がある。
あの女の顔、片隅に残るほのかな香り。
きっと、それが俺が進むべき理由なのだ。理屈を超えて、そこにある感情。
言葉を失っても、感情は残っているんだな。影は笑いたくなった。笑う口を持っていなかったが。
一時的に影になれても、永遠にはなれないだろう。影は、改めて男に接近した。影は男の背後から首を締めた。男はすぐさま肉体をほどき、脱出しようとした。そして、実際に肉体を影にして、闇の中へ消えた。
「簡単なことだな。コツをつかめばな」
男の声だけが響いた。しかし、肉体は戻ってこなかった。
「おかしい。何か変だ」
影は何も言わなかった。男が影として自身を分割した時に、影は自分の一部をそこに与えた。不協和音を覚えた影は、別の概念だ。もう、もとの形態へと戻ることはできない。
永遠に、闇に消えろ。
次第に男の声は聞こえなくなった。自我も、なくなったのだろう。
メスだけが落ちていた。月の光も次第に力を無くした。
影はそこに座り込んだ。
俺も、いずれ自我を失っていく。狂ったまま、永遠の時間を彷徨うのだ。
それでも、月で暮らすよりはよっぽどましだ。狂ったままでも、俺は俺としての意味を全うしたいのだ。
影は立ち上がり、病院を出た。
どこへ向かうと言うのだ。俺の肉体は、どこへ?
街は暗かった。そして、静かだった。
待たなければならない。再び自分が自由に動ける時間が来るのを。
影は地下へと潜った。
それから三日は何も考えることをしなかった。
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