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鎌倉・地獄と極楽の旅 感ずること、思い出すこと(後編)

 鎌倉の旅から数日が経った頃、私は今回の旅行記を書くために、改めて巡った場所に関する情報を検索して集めていた。鎌倉の霊界を巡って、なんだか「夢幻能」みたいだね、などとみんなで話していたことを思い出して、これは書かなければいけないと思っていたが、なかなか繋がりが見えなかったのである。それで調べていたら、こんな記事を見つけた。

 それは月影地蔵にまつわる伝説についての記事である。載っていたサイト自体は個人ブログのようで、形式から見ると古い情報のようだ。しかし今回の旅行記を書くにあたって、この記事を読んだときに我々の旅の意味が直感的に理解できたので、ここに概略を示しておく。


 鎌倉時代、露という名前の娘がいた。彼女の母親は北条業時に仕えていたが、性が悪く、自らが不手際を犯した際に、娘の露にその罪をなすり付けようとした。孝行娘として知られていた露は、業時に「母の仕業だろう」と問い詰められたが、「母を罪人にするなど思いにも及ばない」と言って譲らないため、業時は二人に暇を出したという。

 それを知った母親は、自らの罪であることを白状したが、時すでに遅く、母は追放、露は身元の確かな人に預けられる。露はこの時、業時からとても高価な小袖を授けられたのだが、その小袖は何者かに盗まれてしまう。露は預けられた先で大切に育てられるが、母との別れの悲しみから身体を病み、幼くして亡くなる。

 後に、辺りの人が彼女のことを憐れんで、月影ヶ谷の戸屋に小さな墓を立ててやったのだが、そこには苔がびっしりと生え、露が着れなかった小袖を着ているようだと噂されるようになった。

 露の墓は、江戸時代に再建されたものが、現在の西ヶ谷の月影地蔵堂にもあるそうだ。我々が訪れた時、それは見ていた墓石の中にあったのかもしれない。


 孝行娘露の伝説は、確かなものかどうか定かではない。しかしここで大切なのは、我々が旅を終えた後に、この伝説を知った、ということである。

 本旅行記の前編において、我々は月影地蔵堂で出会ったおばあさんを、夢幻能に出てくるシテのように感じた、と書いた。そして夢幻能では前半で、旅人の前に現れた「ある人」が、その土地の伝説を語って聞かせ、自らはその主人公であると言って消える。後半で、旅人の夢にありし日の姿で現れた亡霊が、自らの妄執や思いを舞として表現する、という筋であると述べた。

 ここで興味深いのは、地蔵堂で会ったおばあさんは前半のシテで、後日調べる中で見つけた孝行娘の露は後半のシテである、と考えることができる点である。つまりおばあさんを通して我々は知らないうちに、露の伝説に導かれていた、ということである。

 では、露にはどのような思いがあり、我々に何を伝えたかったのであろうか。


 もう一度、露のことを振り返ってみると、彼女は自らの罪を娘になすりつけるような母であっても嫌うことなく、まっすぐな気持ちで思い続け、遂に別れた悲しみから病になり、死んでしまう。このことから、露にとって母親とはどんなに酷くても、自らを理解し認め愛情を注いでくれる存在であるとともに、どんなに酷いことをされても、一緒にいたいと思える存在であることがわかる。

 つまり露の無念は、母と一緒に過ごせず、その愛を受けれなかった、という点にあると解釈できる。そしてそのように捉えると、我々の脳内には様々なことが思い出されるのである。


 思い出されることのひとつに、あの六国見山の稚児の墓がある。

 由比ヶ浜に住んでいた有力者、染屋時忠の娘が3歳の時、大鷲に攫われて行方がわからなくなった。しばらくして、その遺骨とされるものが見つかると、時忠は見つかった場所に供養塔を建て、丁寧に弔ったという。そのひとつが稚児の墓であるとされている。

 この稚児の墓伝説は、露の伝説とは構造的に似ているところがある。親子の話ではあるが、主人公は露のような子供ではなく、親の立場にある染屋時忠である。3歳の娘が大鷲に捕まってしまい、いなくなってしまう点は、母の科で離れ離れになってしまう露親子と似ている。そして時忠が娘のことを思い続け、丁寧に供養する点は、露が母への思いを抱いたまま、若くして亡くなる点と通じるところがある。

 このような共通点は、果たして偶然の産物なのであろうか。私には露が、何らかの意図を持って導いているように感じられる。


 そしてもうひとつ、思い出されることがある。それは木曽義高と大姫のことである。この二人には許嫁としての悲恋のほかに、それぞれのドラマがある。

 義高は木曽義仲の息子である。彼は父親である義仲の人質として、頼朝のいる鎌倉に連れて来られていた。そして政略のために頼朝の長女、大姫が許嫁となる。この時義高は11歳、大姫は7歳という幼年であり、年齢的には露と何ら変わりはない童である。

 義高は義仲が粟津の戦いで討ち取られた後、頼朝から危険分子と見做されて追討の命令が下される。それを知った大姫は人知れず義高を鎌倉から逃すが、武蔵国で捕まり、その生涯を終える。彼の生涯は父への信頼と共に、無念のうちに死なざるを得なかったという点で、露の人生と重なるところがある。

 大姫もまた、自らの愛した人を親に殺され、心に大きな傷を持ってしまう。彼女の母である政子は、何とか義高が死んだという事実を隠そうとしたが、ついにそれは大姫の知るところとなり、思慮が足りなかったとして討ち取った御家人を処罰する。親子の歪な愛の形は、露の伝説以上に悲痛な側面があり、思いを馳せるにも心苦しい。


 我々が今回の旅で巡った史跡に通じる、親子の愛の物語は、一様にその無念を晴らしきれず、やりきれない思いを感じさせる部分がある。露の伝説は、我々にそのことを知らしめ、この思いを我々が知ることにより、少しでもその無念を晴らして浄化させようとしたのではないだろうか。この点で、我々が今回の旅に夢幻能のような趣を感じたことは、必然のことだったのかも知れない。


 我々は鎌倉の旅を通じて、童たちの無念を無意識のうちに感じ取ってきた。そしてそれはどこから始まったのかを考えると、旅の初めに常楽寺の裏山で出会った、あの園児たちにたどり着く。

 我々の目の前には、遠足で山登りをしていた園児たちがいた。彼らはおそらく年少組であろう、無垢な眼差しで、思い思いに自由活脱としていた。彼らは、童という年齢区分としては幼くして亡くなった露や染屋時忠の娘、木曽義高や大姫と変わりはないのである。

 それに幼児というのは、「七つまでは神のうち」と言うように、まだ生まれて日が経っていないため、彼岸とのつながりが深いと宗教的には言われている。我々はあの園児たちに道を開けてもらい、そのすぐそばにあった大姫の墓へ向かった。

 我々は園児という、彼岸と此岸との境目に生きる存在を越えることによって、彼岸の世界に足を踏み入れ、露の声を知らないうちに聞き、その鎮魂として旅をしたのではないだろうか。このように考えれば、この旅で経験したすべてのことは、偶然ではなく必然として捉えることができる。そしてそのように理解した我々は、さらに人の愛情や人生について、今を生きる者として、無念のうちに亡くなった彼らの経験を生かすことができる。

 彼らの思いを受け止め、より良い日々を生きていくことが、彼らの無念を鎮魂させ、この夢幻能に花を成就させることになる。

 鎌倉・地獄と極楽の旅は、ひとつの謡曲を完成させることにより、童たちを西方浄土に導くことで、その帰結となるのである。


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