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あの夏の白い息



2019年7月18日、30歳を迎えた誕生日の朝のこと。
オーストラリア、南オーストラリア州、アデレード。

この地で、私は人生二度目の迷子になっていた。
ただし今回は、Google Map上の話だけど。

私はたった一度だけ、海外に行ったことがある。高校2年の時、初夏だった。私の通うコースでは、修学旅行として14日間の短期留学に行かなければならなかった。
もともと慣れた場所から離れるのが苦手なタイプで、当然行きたくなかったのだが、参加を選んだ。理由は覚えていないが、両親がアメリカに住んでいた経験があり、その流れで自分も小さい頃英会話を習っていたので、英語圏の土地に抵抗がなかったからかもしれない。

オーストラリアに降り立ちそれぞれのホストファミリーと会って、初日は解散だった。家へ向かう車の中で、何か洋楽が流れていた。その雰囲気がアヴリル・ラヴィーンの曲調に似ていて、未だにアヴリルの曲を聴くとその車に揺られて見た景色が思い出される。
私のホストファミリーは、記憶が正しければお父さんがイタリア系で、お母さんがフィリピンの方だった。娘が二人、犬が一匹。2階建てのお家に、ベランダにはプールがあった。そしてお父さんはアジア系の人が大好きだと言って、私の他に2カ国のアジア系留学生を住まわせていた。お父さんは、バスの運転手の仕事をしていた。鼻の頭がつやっと赤く光る、笑顔のあたたかい人だ。お母さんは料理が上手で、しかも頻繁にお米を出してくれた。渡航前食事をすごく心配して、テーブルマナーを練習したし洋食に慣れるか不安だったのだが、滞在中の食事はいつもとても美味しかった。特に、トマトスープで煮込んだやわらかい鶏肉に、細くてちょっと芯のあるお米を浸して食べた料理を思い出す。美味しかったなあ。

はじめの二日間くらいは観光に連れて行ってもらったと思う。が、ホームシックがひどく、日本にめちゃくちゃ帰りたかった。ホストファミリーどうしが近所の同級生が多かったなか、私だけ離れた住所だったので、完全に日本人がいなかった。
動物園を見て回ってお土産に動物のシールとコアラのぬいぐるみを買ってもらったり、夕暮れの海沿いの街に降り立って海に突き出した果てしなく長い桟橋を歩いてみたりした。
すごくよく覚えているのが、その桟橋で見た海が怖かったこと。底も見えないほど深い夕刻の海は、桟橋の上であってもどうしようもなく心細く、大きく黒く波打って、簡単に私を飲み込もうとしてくるようだった。当時日記をつけていたのだが(すでに葬ってしまって手元にない)、「海は生命が誕生した場所なのになぜ命を奪ってしまうのだろう」と書いた記憶がある。それをもとに、帰国後書いた曲がある。(※次のアルバムに入ってます)

家では、すでに住んでいた某国の女の子と同じ部屋になった。私たちは滞在中、現地の中学に通わせてもらうことになっていたが、彼女は違うキャンパスに通っていた。すごく頭が良かったと思う。
通学初日、彼女に付き添ってもらいバスの乗り方や道順を教わった。バスは今迄見たことのない形で、2つの車両を繋いだような長い車体だった。繋ぎ目がアコーディオン状になっていて、カーブの時ぐいんと曲がるのが面白かった。チケットも時間内なら乗り降り自由だったような気がする。バスのナンバーをしっかりメモしたし、そんなに難しくないと思った。


しかし通学二日目にして、彼女から「課題の関係で忙しいから帰り道に付き添えない」と言われ、たった一人で帰ることになったのだった。いきなりの一人ぼっちに戸惑ったが、大丈夫だと思った。学校の前のバス停からまず、Paradise Interchangeまで向かう。そこで家に向かう方角のバスに乗り換えれば良いのだ。
こういう事は案外よくあると思うのだが、その時私は妙な自信を持って、全く違うバスのナンバーを、正しいと思い込んでいた。メモを見ればすぐに気付けたはずなのに、なぜか疑いもなく記憶を頼りにしてしまったのだ。


そしてバスへ乗り込み、運転手の真後ろの席に腰掛けた。しばらくは窓からの景色を楽しんでいたのだが、徐々に、うろ覚えとはいえ景色が前日と全然違うような気がしてきた。そして、どんどん知らぬ景色に進んでいくうち、あーこれ、間違えたな、とすごく冷静に悟った。しかし、途中のバス停でポツンと降り立っていいものか。右も左もわからぬ土地で、焦って飛び出してしまうほうが危険ではないか、と本能的に思った私は、仕方なくそのまま乗り続けた。私以外の乗客は一人、また一人とみんな降りていき、景色は自然いっぱいになり、ついにはうねる山道を進み始めて、そして山の上のバス停でもう誰もいなくなった。ひと仕事終えたな、という表情の運転手が外の空気を吸おうと立ち上がった時、私は勇気を出して彼に話しかけた。「Excuse me」と言った瞬間の彼の顔を今も覚えている。真後ろに私のような小さな乗客(身長150センチ)がまだ隠れていたなど、思ってもみなかっただろう。上陸数日で英語は高1レベル、頭の中で文章を必死に考えたのでよく覚えている。私はつたない発音で「I mistook a bus.」と言った。それが運良く通じ、彼が「英語は話せる?」と聞いてくれたので、覚えたての「a little bit」を使う。家の住所を聞かれ、持たされていた住所の書いたメモを彼に見せると、「これから向かうインターチェンジがあるから、そこで○○番のバスに乗り換えれば大丈夫だよ。今から乗せていってあげるね」と親切丁寧に教えてくれたのだった。それからインターチェンジで無事正しいバス停を見つけて、帰路に着き事なきを得たのだった。(帰宅後事情を知ったお父さんが、同室の彼女にお説教をしていました笑)


何度思い返してもこの経験は、一歩間違えば命を落としていたかもしれない大変危険な出来事で、未だにゾッとしてしまう。途中のバス停でむやみに降りていたら?運転手が良からぬことを考える人物だったら?山の上で降ろされ、見知らぬ人にさらわれていたら?私は本当に運が良かったなと思う。今ここに生きていることが、奇跡と思えてならない。

そんな事件が冒頭にあったものだから、残りの期間はすっかり冷静だった。
私の過ごした家の前には大きなスーパーやドラッグストアが並んでいて、放課後よく一人で出かけた。お気に入りのスポットだった。スーパーで雑誌を眺めたり(買おうと思ったが読みきれる自信がなかったので我慢した)、雑貨屋さんでお土産にミント味の歯ぐきの形をしたグミを買ったり(帰国後友人と前歯に付けてプリクラを撮った)、ドラッグストアでRIMMELだったかのマスカラを買ったりした。商品を眺めているだけでとても楽しく、一人気ままにじっくりと見てまわった。
それで買い物に慣れたのか、休日に街へショッピングに出かけ、小さな服屋さんでアクセサリーを買った時、書いてある値段と違ったので勇気を出して話したら、ちゃんと言いたいことが伝わって、正しい値段で打ち直してくれた。私みたいな英語の拙い子どもの話に、きちんと耳を傾けてくれたことがありがたい思い出だ。
他の休日にはホストファミリーの親族か友達のホームパーティーにも連れて行ってもらった。座布団より大きな四角いケーキにキャラクターのイラストがほどこしてあって、とにかくカラフル、ブルー、ピンク、イエローの生クリームにびっくりした。ご馳走でいっぱいだったがなかでも印象的なのが、弾力のあるお米をかためた茶色い甘いケーキのようなもの。調べてもよくわからなかったが近いのはフィリピン料理のBikoとよばれるお菓子のようだ。パーティーには子どもたちもいっぱいいて、広い芝生のお庭で凧あげをして遊んだ。

日本では暑くなり始めていたのに、オーストラリアはその時期冬の始まり。夜は冷え込み眠る時寒さを感じたので、毛布が欲しかったが長文を口頭で話す自信がない。だから、紙に書いて要点をまとめ希望を伝えた。かしこまった文章になってしまったのか、お父さんはクスッと笑っていたっけ。
それに持っていった服も足りなくて、帰り道にバスで通るTea Tree Plazaというショッピングモールで降り、長袖を2枚買った。もう消耗し捨ててしまったけど、気に入って日本でもずっと着ていた。


短期留学に行く前の授業で、オーストラリアは日本と違い水不足だから、シャワーを短く済ますようにと指導があった。私は中学から伸ばしていた長い髪をバッサリ切り、自宅でシャワーを素早く終わらせる練習をした。おかげで今も、5〜10分以内で終わる。私のホストファミリーからは特に水の使い方について指示はなかったけど、後から他の生徒に聞いたら、水を大事にするあまり食後の食器の汚れは振り落とすだけの家庭もあったとか。借りていたバスルームは広く、清潔で、いつもカゴいっぱいに可愛らしいせっけんが積んであって、とてもいい匂いがした。今も時々、似たようなせっけんの匂いがすると、あの白いバスルームが浮かぶ。
夕食後は部屋にこもり家から持っていったカセットプレイヤー(私は時代遅れだったのでMP3全盛期にまだカセットを使っていた)で大好きな曲を聴きながらベッドに寝ころび日記をつけていた。きっと心細くなるから元気のもらえるお気に入りを持っていこうと決めていたのだった。確か「桜の木の下(aiko)」「musiQ(ORANGE RANGE)」「LOVE PUNCH(大塚愛)」だったような。話は逸れるがカセットって曲ごとで飛ばせないからアルバムを曲順にじっくり聴けたよね。ただ再生してる時「ウイーン」ってテープまわす音がうるさいから恥ずかしいんだけどね。


時々、ホストファミリーや同室の彼女に日本語を教えた。彼女は太ってはいないがよく食べるらしく「私は豚だ」ってよく冗談で言っていたので、日本語に訳して発音を教えてあげたら、気に入ってしばらく言っていた。教えるのが上手だと褒めてもらえた(その経験はアルバイトで塾講師をした時に役に立った)。それから、彼女は源氏物語が好きだったので、逆に私がストーリーや相関図を教えてもらった。

食事についても断片的に思い出があり、キッチンの戸棚を開けるとたくさんお菓子や食べ物が入っていて、朝ごはんにはいかにも海外って感じのするシリアルに牛乳をかけ電子レンジでチンして食べたり、お昼ごはんにアジア系の赤いヌードルを食べたり(ダイニングの白いクロスにこぼして大急ぎで部屋に走ってトランクから洗剤を持ってきて落とした思い出)、冷蔵庫を開けると必ず入っているTim Tamをつまんだりした(今もついカルディで買っちゃう)。
学校に行く日は一緒にキッチンに立ち、茶色の食パンにチーズを挟んだサンドイッチを作った。お昼の他におやつの時間があって、お母さんがいつもビニール袋に入れておやつを持たせてくれた。シリアル系のお菓子やリンゴまるかじりなど。あとはリンゴ味のジュースだけど容器が独特で、飲み口がスポーツドリンクのボトルみたいに吸い出さないと出てこないので、なかなかコツが掴めなかった(文化部出身なので・・・)。

学校では同じ地区に滞在する同級生にも会うことが出来て安心したし、現地の学生たちがみんなフレンドリーで優しく愉快で、毎日楽しかった。休憩時間には中庭に面した廊下のベンチに集まって、日本では見ないような独特なお菓子、細長い形の甘ーいグミとかクッキーとかいろいろ分けてもらった。
私は同じ家の子が中学にいなかったため、学校にいる間は別の子がバディになってくれた。明るい髪色のポニーテールが似合う女の子で、穏やかで優しく、なにかしらお礼を言うたびに「It’s OK!」とさわやかに軽く返事をするのがとても可愛かった。
授業では英会話はもちろん、「猫の恩返し(たしか英語版)」のビデオを観たり、他の学校を訪問してスポーツをしたり(現地の人にとって日本の女子生徒は小学生くらい幼く見えるから痴漢に遭わないよう十分注意しろと言われた)、街に出て博物館めぐりをしたり。博物館では巨大なダイオウイカの模型?を見たのを覚えている。縦に展示してあって、上から覗いたと思う。
余談だけれど、毎日インターチェンジで見かけるカッコいい男の子がいてひそかに楽しみにしていたのだが、実は学校で過ごす友達のグループに彼がいて徐々に距離が縮まり、最後の登校日の帰りのバスでついに隣に座って帰れたという、甘ずっぱい思い出もあった。何の食べ物が好き?と聞かれて「fruits」と答えたのに発音が悪くて伝わらなかったのが今でも悔しい。

帰国の日にはホストファミリーに英語で手紙を書いて渡した。「広い地球上で皆さんに出会えたことが嬉しい」と書いたら、お父さんが涙を流してくれた。最後まで優しく温かいファミリーだった。今思えばおとなしくこもりがちな変わった子供だったろうと思う。あちこち連れて行ってくれ、美味しい食事にあたたかな寝床を与えてくれ、感謝の気持でいっぱいだ。伝えることはかなわないが、どうか、いつまでも幸せに暮らしてほしい。


そして地図をにらみ続けて3日目、ついに私はやり遂げた。ホストファミリーと過ごした家を見つけたのだ。中学の名前、バスの乗換え、ショッピングモールまでは覚えていたがその後の道順がさっぱりで、バス停沿いに進んでは郊外に行き過ぎてまた戻る、を繰り返した。目印になったのはやはり、家の前にあったお店の並びだった。ストリートビューで降り立ったときの震えるようなこみ上げる嬉しさ。まるで実際に降り立ち歩いた気分にさせてくれた。笑ってしまうのが、最初に追ってみたバスナンバーがどうやらあの日間違えたものと同じだったこと。何故か惹かれてしまう数字なのか。山の上の道に着いて、思わず吹き出した。そしてついでに、乗り換えをしたインターチェンジも見つけることが出来た。

これはまた別の話になるのだが、私は高校の時、あまり友達がいなかった。この短期留学がきっかけだったのは間違いない。帰国の日空港で離れ離れの地域に分かれていた他のクラスの同級生と再会したのだが、みんながぞれぞれ駆け寄るなか、私だけそれを喜び合う相手がいなかったのだ。誰も悪意はないのだけれど、それは当時の私にグサッと突き刺さるショックな出来事だった。単に気が合う人が見つけられなかっただけなのだが、当時はやっぱり一人で行動出来るほど自立心もなく、友達とたむろしていないことで浮いてしまうのが気になる年ごろだった。高校は卒業するまで苦痛だったし高校時代のものはほとんど捨ててしまった。当然留学のこともいい思い出とは感じられず、それに関する資料はみな処分した。ちなみに私は携帯電話もデジカメもない女子高生だったので、留学中の写真はたった1枚しかない。

しかし今回、記憶という財産で大切な思い出を探り当てることが出来た。もはや意地とか執念だ。
当時は慣れない土地でのストレス、英語を話すのに一生懸命で、おまけに同級生には壁を感じ、ただただ「孤独」だけを感じた、つらい思い出だった。
だけどたまらなく歩きたいのだ。夕暮れの海沿いの街。大きな博物館の並び。アジア系の調味料や食品が並んだ狭い店。目うつりするほどつややかで美しくキュートなお菓子の店。カラフルなポストカードを買った雑貨屋。家の前の広い車道。早朝に見上げた、薄暗い空にのぼる白い息。大人になるにつれそれは色濃く確かに、ふと頭に思い浮かべてしまうようになり、まるで写真みたいに景色が鮮明に蘇る。
なぜ私はこんなにも、あのたった14日間の日々を、恋しく懐かしく感じてしまうのか。

もしかしたら、人生で初めて独り立ちした瞬間があったから、といえるかもしれない。実家でぬくぬくと育っただけの16歳の私を想えば、めちゃくちゃ褒めてあげたいくらい、りっぱに異国の地を生き抜いたのではないか。たかが短期留学だが、あの日々は観光旅行ではなく確かに「暮らして」いた。帰るまでには自然に英語で会話していたし、オーストラリア・ドルで買い物していたし、道も店も覚えて必要なものを選べていたし、現地の人々と仲良くなれた。そもそも家族のいない外泊をしたことがなかったのに、いきなり言葉の通じない知り合いもいない土地とはとんだ荒療治だが、間違いなく自分の中に眠る何らかのポテンシャルが引き出されたんじゃないかと思う。それは、大人になってから自己嫌悪でくじけそうな時なんかに、自信を取り戻すだけのちからのある経験だった。

生きているうちにいつか、この思い出の地に降り立ってみたい。
いや、実際には二度と行けなくてもいいかもしれない。あの日々の街の空気が、空の色が、食べた味が、生まれた勇気が、私のからだには生涯流れつづける。
そのひとつひとつが、大人になった私の、負けそうな日、心が折れそうな日を、支えてくれているのだろう。

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