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摂食障害:食事量の比較Q&A

こんにちは。私は摂食障害はじめ、精神疾患経験者で経験談から考え方、メンタリティーについて X @mgmgpai で質問やお悩みを頂いて Ameba blog @konpaichan でお答えさせて頂いています。

今回は頂いた質問に答えるnoteです。摂食障害の回復期では多くの方が「悩み」や「不安」を抱いて体や心の変化に戸惑いを持って治療しています。私の経験談と重ねて、考え方の選択肢の一つにしてもらえたらと思います。

Ameba blog @konpaichan ではこれまでのQ&Aのpostを載せているので合わせて読んで下さると嬉しいです。



頂いた質問


食事量の比較

摂食障害の渦中や回復期は、自分の食事だけでなく周りの友人や家族などの食事量や容姿の変化に繊細になる方が多いです。これは症状の一つであり、それだけ関心が高く敏感で繊細な事と言えます。

特に回復期は「自分だけが悪い方向に進んでいる」という不安な思いが強まってしまい、他人を巻き込む(合わせてもらう)事で同じ安心感を得て気が紛れたり、自分も誰かも変わること(見た目の変化)が許せない気持ちになるのも摂食障害の症状です。

自分が頑張って「痩せようとしているor回復しようとしている」のに側で気にせず食べたりダイエットしている人がいると、自分と重ねて考えてしまい
気持ちを裏切られたように思ってしまうのです。

また、近しい家族に「共感・理解」を態度で示して欲しいと思う気持ちが「食事」という行為に重なってしまいます。同じ量・同じペースで食べたいと思ってしまいます。

当事者も悪気があって「思う」のではなく仕方なく湧き上がる「感情」に近いものであり、健康へと回復していくステップの中でこうした感情にも冷静になって改善していくものです。(心の回復)


どうしたらいいのか?の答えは「気にしない自分と比較しない事」という答えになります。

が、それができたなら悩んでいませんよね。じゃあどうやって気にしないでいられるか?というと、比較しない理由に納得してもらうしかありません。

私なりの意見なので鵜呑みにしなくても納得できなくても当然です、考え方の選択肢の一つになればと思います。


考え方を手放す


「太っているor痩せている」の二択で、考えるのを"手放す"ところから始めてみるのはどうでしょうか?

今はそう思う「考え方」や「行動」から "自分を解放していく時間" なのですが、待っているだけでは変わらないので「意識してみる」のも回復期のステップ(手段)なんじゃないかな?と思います。

どれだけ、好きなように食べて健康でいられても二択で考えてしまえばせっかくの幸せもキャッチし辛く、誰かの食事量に心も体も支配されたままになります。

家族という近い存在だからこそ、折り合いが付かないと今の悩みのように回復の妨げになる原因にもなってしまいます。せっかく「回復」を見据えた心
に、これ以上負担を背負って欲しくないとも思います。


家族という存在

お姉さんにはお姉さんの心と体があって自由です。家族だからって"一心同体"でもありませんし、質問者様の支配下にある"もの"でもありません。

人には人の自由があってそれぞれの「人生」を生きています。こだわり深いものも、注意していることも、お金や時間をかけて大切にしている事も、何を切り取っても人は違う自由を歩んでいます。

見た目なんて、ランダムな世の中です。肌の色や目の色、髪の色が違う人間の中で私達は島国で同色人種が多い国で過ごしています。ですから些細な違いに目が向けられますが、その違いに「良い・悪い」はないはずだし自由であるべきです。

皆んな一緒の方がおかしい、皆んな違くて当たり前なのがこの世界なんだと思います。

家族は近くにいる存在だから一人一人違う人間だという大前提は忘れてしまいがちなんです。でも、違う心と体を持った別の人間です。そして、誰かの「こうあるべき」を押し付けられたら嫌な気持ちになってしまうのは皆んな一緒なんじゃないかと思います。

お姉さんに「痩せないで?太っていて」とお願いしても変わってくれるのでしょうか。恐らく、他人を変える力って自分にはあまりないような気がします。私が誰かの意見に従えないように、お姉さんにも心があると思うんです。

家族も1人の人間。それを再認識することで自分と家族の上手な距離感を私は保てるようになりました。


比較しない考え方

質問者様も質問者様の心と体があって自由なんです。そこで摂食障害という病気になってしまった「心の問題」があるならそれは「お姉様と比較」するのではなく「自分の心と向き合うべき事」だと思います。

人は自分の自由を生きる権利あって、ライフスタイルも価値観も違っています。そこで生じた問題の根本は「誰か」にあるのではなく「自分」にある事もあります。

だったら、それに苦しむ自分を解放してあげられるのは自分だけだなって思います、摂食障害問わず対人関係で私が思う事です。

違いを受け入れるのは「諦める」ではなく「私も自由なんだ」と距離感を作る意識だと思って、私も摂食障害の思考の癖や、考え方を手放していきました。


お姉様が痩せていても太っていても質問者様の人生には直接的な関係はないはず。今、質問者様が「体型」に強いこだわりがあるから重ねてしまうだけで今までもこれからも、お姉さんは自分のペースで自由に暮らしているだけんだと思います。

自分の願望の先にある「答え」もお姉様にはありません、自分の中にしか自分の正解はありません。それを「良い・悪い」と判断するのも自分が決めていい自由で、誰かに判断されたり、誰かに決めてもらうものでもありません。

質問者様は質問者様の「人生」を歩んで欲しいです。だから目の前の「病気」と向き合うために「自分の心」にある「問題」を他の人のペースや価値観に合わせないで、比較しないで向き合って欲しいと思います。

比較しても、違うは違う。で、それ以上も以下もない。から、答えとか現状に納得いくように物事や他人をコントロールするのはとっても難しいと思います。

比較するべき点ではないんだなと納得できたら楽なのかもしれませんが私なりの考え方なので質問者様の望む答えではないかもしれません。考え方の一つとして読んで下さると嬉しいです。


思考の偏り

今、誰かに対する容姿や食事のこだわりは「自分のルール」に重なっていませんか?自分だけが違う・変わる事が許せないと自分にも厳しくなってそれが近くにいるお姉さんに投影されていませんか?

これは摂食障害の思考の偏り、症状の一つです。心が苦しいから共感して欲しいし同じペースで歩んで欲しいと願う気持ちの現れではないのかな?と勝手ながら推測しています。

仮の話のまま、話を進めてしまって申し訳ないのですが私も母親に対して見た目や食事のこだわりが強い時期がありました。

少しでも母が母自身の容姿にネガティブな発言をすると、まるで自分に言われているように感じたり。母も年齢や持病があって健康のために食事に気を遣っているだけなのに、私も同じように気を付けなきゃと意識してしまい思うように食べられなかった事があります。

先程書いた通り「心も体も違う人間」という大前提の「差」と私は「摂食障害という病気」で「回復期(治療中)」である前提もすっ飛ばして考えが飛躍していたように感じます。

思考の偏りが苦しみになって誰かに強制感まで投影させてしまう「症状」と自覚して、それを手放す時間だから気にしない心掛けを毎日練習していました。

待っていても、変えようとしても「あまり効果はない」と私は感じました。

自分から行動に移したり(健康に近付くとか)考え方を少し変えてみる事で自分の負担が減って、自分が今やるべき事をやれたように思います。


最後に

比較や誰かの存在によって苦しみを感じて、回復の行動に支障が出ているなら私は応援したい気持ちから経験談で「意識してよかった」と思う事をシェアさせてもらいました。

何か思うことや抱く感情は「悪い事」ではありません、それこそ仕方のない事なのです、それが摂食障害なんです。

そこからどうやって自分が変われるか?は自分の中に答えがあるものだと思います。

自分を責めないで、そして誰かも責めないで。誰も悪くない、ただ歯車が掛け違えて今上手く動かない"時期"なんだと思います、これが一生続く訳がありません、きっと大丈夫。

質問者様だけが悩んでいることでもありません、私も他の方も家族との比較や他人の生活に自分を支配されてしまう事ってあるんです。

一つ言いたいのは「どうでもいい」と思っていたら何の興味も関心もなく悩みも不安も嫌気も感じなかったはずです。今それだけ苦しいのはたくさん向き合っている証なんです。

何か参考になったら嬉しいのですが、質問者様の気持ちが納得になるまで自分の考えと向き合ってみてください、これも私という誰かの考え方なので鵜呑みにしなくても(力になれなくて申し訳ないのですが)理解できなくても良いんです。

私が今も大切にしている考え方は「各々の自由を尊重して自分の心と体と向き合う」事です。

質問者様と同じように、他人の生活に自分を重ねてしまった時期があったからこそ得られた考え方です。参考になれば嬉しいです。





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