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摂食障害と家族

こんにちは。私は摂食障害はじめ、精神疾患経験者で経験談から考え方、メンタリティーについて X @mgmgpai で質問やお悩みを頂いて Ameba blog @konpaichan でお答えさせて頂いています。

摂食障害になって過ごした4年間と回復期の中で当事者である私が「家族」に感じた事や関係性の変化について書くnoteです。

家庭の空気感や親子の相性なんてバラバラ。精神疾患もそれぞれに心の違いがあって、お手本はありません。複雑で難しい精神疾患と親子の関係ですが私が個人的に「こうしてよかった」と思うことを書いていこうと思います。


会話する

これは親子関係だけでなく対人関係の基本として大切にしている心掛けです。精神疾患を繰り返し発症した私が学んだ気付きでもあります。

歳を重ねていくと「家以外」のコミニュティー(学校や仕事など)で過ごす時間が増えていきます。気が付けば「会話」が減っていました。

言葉にして伝える時間が必要。相手に話を聞いてもらい、関心を持ってもらう事は簡単ではありません。

更に「理解を得る」なんて、もっと時間をかけて言葉を交わさなければ難しいとも思います。ちゃんと言葉にしている意識を持って話す姿勢も大事です。

散り積もった不満や怒りの端っこを掻い摘んで話しても「なぜ?・いつ?・どこで?・どう思った?」が「伝わっていない」ことがあると感じます。すれ違いです。

「聞いてもらえない・理解されない」という葛藤。期待を裏切られたような、損失感。話をしても無駄だと感じていました。

心の過程を話さずに、結論だけで「0から100を理解しろ」というのは誰でも困難です。

同じ心や考え方を持っていない人間同士であり、精神疾患という共通した経験がない事は理解が困難であって当然な気がします。

私は気が付いたら、会話の時間も短かく言葉の数も足りていないのに、理解を期待して急かしていました。


例えその場で理解や関心が感じられなかったとしても、本心で無関心なのではなくって、単純に人の考え方の違いから「言葉が足りなかった」とも言えるし「汲み取り方が違った」とも言える、そう思います。

精神疾患の経験がないのも一つの「差」の原因であり、育った時代背景も年齢という経験の数も「差」があります。その「差」に同じ姿勢で向き合うのは、基本はハードルが高くて自然だと思っています。

どちらが "良い・悪い" とかではなく、コミニケーションって常にどんな関係性だろうと相手の答えを知るのに時間がかかります。違っていて当たり前だからです。

「親だから」の前提に「人間だから」の大前提があることを私は見失っていたんだと思います。


私も個性的な人間です、誰に理解されなくても近しい親には理解されたい気持ちがあってもどかしかったのです。が、「基本的な違い」を認識して言葉にする事で自分のもどかしさが解消されるとも気が付きました。

「会話する・言葉にする」この作業を勿体ぶらない事。最初から理解されないと決めつけてしまうのは、良い事がないと感じました。


説明する

会話の中で意識した「説明」の気持ち。これは「親(大人)だからなんでも知っていて教養がある」という偏見を取っ払って、今の私を丁寧に伝える事(説明)が親にとっての「新たな学び」になる事なんだと感じます。

余裕がない事もあるので、常に完璧で自分が上手く立ち回ろうなんて意識は不要です。感情的になる事が悪いことではありません。

ですが、自分と同じように精神疾患という病気に対して「右も左も、何が正解か?間違いか?」がわからない気持ちは親も一緒であるはずなんです。

そこがお互いの共通認識だとしたら、そこにフォーカスして互いに理解を深める心構えも、良いのではないでしょうか?

「なんで、知らないの?分からないの?」なんて、私はよく言ったり怒ったりしていましたが、私も私の事や病気に対して理解できていなかったのです。

考えている事も、頭の中だけで言葉を並べても相手には伝わらないので一緒に整理していくにも、理解してもらうのにも、話す事や説明するステップをまずは行動に移す事が大事。

心配している事や愛している気持ちも同じです。「(心配しているから)〇〇はダメ・良いよ」と、()の中の感情を省略しても本意が相手に伝わないと思います。

親も子も「どういう気持ちで」の心の温度感を説明してみると次に話す言葉の理解がグッと近まるかと思います。

今の私の気持ちや病状の辛さを説明できるのは「担当医」ではありません、私自身です。

知ってもらう、話しながら互いに病気について理解を深めていく為にも一夫的な会話より「説明」の気持ちを持って言葉を選んでいました。


怒る

先程もチラッと書いたのですが「完璧」は追求しないこと。まずは闘病中の自分の心を労って自分最優先でいいはずです。

余裕がないし辛くて苦しいから、怒ったりして、悲しんだり落ち込むけどそれは「仕方ない事」です。今はそういう時期なんだから、親にも「良い子であろう」なんてお利口さんはしなくてもいいのです。

親には「怒りを真摯に受け止めてほしい」気持ちと「怒りは病気の別人格が出している感情なのだと聞き分けて欲しい」気持ちの半々です。


気持ちが昂るというのはそれだけのエナジーが湧き上がっているタイミングだと感じます。どうでもよければ、怒りも悲しみもありません。

見えない怒りの地雷を踏まないように歩く事に慎重になるよりも、その地雷がどこにあるのか探っていく事に慎重になって欲しいと思います。

「怒った」→「耳を塞ぐ」ではなく「怒った」→「ここが苦しみなんだ」の理解の変換にして欲しいと個人的に思います。


本人、当事者の私も言葉にしようとしてもできない心の「SOS」がたくさんありました。それを唯一伝えられたのが「怒りの感情に身を任せた時」です。

思ってもいない事や乱暴になって、必要以上に暴れてしまいましたがそれは心の苦しみを体現していて、それだけ辛いという事なのです。


説明と重なりますが「伝える」気持ちについて、私の場合は「怒り」に任せると薄れてしまいます。一方的になります。なので、怒りの感情が鎮まってからでも相手に「どうして怒ったのか?」を説明できる時間があればいいと思っています。

こちら(当事者)から切り出すのも難しいので、聞き出してくれるきっかけを作ってもらえたら嬉しいと感じます。

「怒る+説明」「怒られた+訳を聞く」のセットと考えます。怒っているから無視しようとか謝るまで待っていよう、という姿勢の方もいらっしゃるかもしれませんが「怒る」の感情には、複雑な理由が潜んでいます。

「怒り」を「会話のチャンス」と捉えて理解が深まる時間にしていけた事が私と家族が向き合えたきっかけになったと思っています。

怒ってしまった自分に罪悪感は感じなくても良いとも、お伝えしたいです。


学ぶ

会話も説明も怒りも、自分の事を自分の言葉で説明している状況ですが客観的な意見も大事なコミュニケーションだと捉えています。

精神疾患の症状は「心」にあって、同じ摂食障害という病気でも心の違いがあって症状も思いも治療の過程も異なります。

本人の気持ちを汲み取る事に自分自身も親もフォーカスするのが「家でできる事」だとして、解決には「知識の学び」が家での過ごし方や家族のサポート、そして自己理解の一つの考え方の選択肢になると思います。

自分の事も病気の事も完全に理解できている訳ではないので、今の自分がどういう症状に当てはまり、どういうアプローチで治療したり寄り添っていけるのかは専門的な知識が必要です。

通院などしている場合でも、家で過ごして家族と居る時間が圧倒的に長いのですから家での過ごし方や家族の関わり方を重視していました。

本を読む、こういった誰かの経験談を参考にする、などが客観的な意見だとして。それを自分達なりに「解釈」していく事で初めて「学ぶ」と言えると思います。

母は勉強熱心に摂食障害について学んでいました。が、私に重ねるというよりは「こういう病気だから…」と解釈する事が多く私の気持ちや "こうしたい"とは反対の事を言われたりする事がありました。

結局、母のアドバイスも私は聞き流す対象になってしまい、母も私も頭に入れた知識を「自分に重ねて解釈」するまでは摂食障害についての「会話」ができませんでした。

誰かの意見を鵜呑みにしてもそれは知識止まりになってしまいます。実際に自分達の生活に取り入れて行動したり、それで"上手くいかないな"と失敗する事も含めて「経験」に変わり「学び」になりました。

間違いや会話の中での失言を恐れて「何もしない」というのが1番避けたい状況です。"何もしない=何も変わらない" だと私は思います。

学んだ事が全てではありませんが、今どうやって状況を変えられるのか?やり方として、右も左も分からず何もできていないのなら「学ぶ」という事は当事者や家族の過ごし方に変化を与えてくれる客観的な意見だと思います。


最後に

長くなってしまったので、ここで終わります。具体的なエピソードは続きに書こうと思いますのでチェックしてください。

書き出してみて、思った事。それは「当たり前の事」のようで「忘れてしまう事」が多いんだなと思いました。

友達や恋人には見せない姿も "見られたくない・知られたくない事" も良くも悪くも「共有」しているのが家族なんだと思うんです。

仮にこちらが共有する気持ちが無かったとしても、育ててくれた親や過ごしてきた時間の長さというのは特別なもの。だから親子関係って対人関係とも思い辛く「複雑」なんだと思います。

好きとか嫌いとかで、距離を置いたりできるような関係性でないから少しの期待を抱いてしまったり、求めてしまう事が多くなってしまう。

忘れたらいけないのは、「私も1人の人間であるように、親も1人の人間」である事だと思います。

精神疾患は時に「別人格」を生み出してしまうから当事者の本音と病気の声を聞き分けるのが難しいのです、当事者も家族もそれは同じなんだと思います。

聞き分けるにも、そこから理解するにも、そして良くなる為にも「言葉」は必要不可欠で大切なツールです。言葉と会話の重要性を重点的に書いてみました。

考え方の選択肢一つとして参考になればと思います。






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