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しなかった後悔よりも

 自分が31歳になった時・・「ああ歳を取ったなあ」と思った。そして35歳になった時「31歳って、若かったなあ。なんでもできたな、やろうと決心さえできたら」と思った。そして、40歳になった時「わあ、もう年齢は誰にも言いたくない」と思った。でも45歳になった時「40歳ってめちゃくちゃ若かったんだなあ。何にでも挑戦できたんだ、決心さえできたら」と思った。そう。決心さえできたら。

 40代でなんとなく悶々とする日々を送っていた頃、あるアメリカ人女性のインタビューを読んだ。 ”それまでは全く別の仕事をしていたのですが、初婚の相手と別れた後、40歳で弁護士になろうと決めて大学に入り勉強して弁護士になったのです。その後、人生で最高の人に出会い二回目の結婚をしました。今が最も幸せです” 。なんちゅうかっこよさ。「いやいや、アメリカだからできたんやな・・だって教育制度も社会もまったく異なるから・・」と自分に言い訳をした。が、私は別に弁護士になりたいと思っていたわけではない。ミドルエイジクライシスと呼ばれる『これで自分の人生は良かったのだろうか・・』とうろたえる時期にいたのだと思う。

 私の愛した作家、森瑶子さん(1993年没)がよくこう書いていた。「しなかったと後悔するよりは、してしまったと後悔する方がずっといい」。文字通りではないけれど、そういうことを彼女はいつも書いていた。今の私はこれについてどう思うか?その通りだろうと思う。

 自分の夢さえ見出せない(実は、あえて見出そうとしない、なぜならそれに向かって飛ぶことが怖いから)人がいる一方、自分が何をしたいか、何を欲しいのかを心の深みで知っている人はいる。何がしたいか、何が欲しいのかを知っているなら、じゃあ、それを選ばずして何が人生だろう? 人生が何回もあると思っているなら別だけれど、まあしかし、残念ながら人生は一回きりなのだ。
 
 私も、たくさんたくさん失敗をしたなと思う。失敗・・というか、思うようには進まなかっただけ・・と言えばいいかもしれない。予期せぬことが起きたり、あるいは自分の忍耐がぜんぜん足りなかったせいで、チャンスを永遠に失ってしまったことが何回かある。でもじゃあ、トライしたことに後悔があるかと言えば、まったくない。
 だって、エイっと飛んでみて、雨や嵐にやられたりして、けっきょく思い描いてはいなかった別の街に降り立っただけで、べつに落下して死んだわけではない。仮にあれらの経験を「落下」と呼んだとしても、落下後の怪我はけっきょくのところなんちゅうことはないのだ。たとえ大骨折をしていたとしても、時が薬となった。残ったのは、トライしてよかった、すべてが人生の糧になったという感覚。

 だけど、今も悔しい思いが残っていて、つまり後悔していて、いまさら詳しく書きたくないことが、実はひとつある。それは、目前に明らかにチャンスがあったのに、それをつかみに出ることが、なぜかどうしてもできなかった経験だ。もしもあの時、思い切って、運命を信じて決断できていたならば、自分の人生は変わっていたのではないか・・・? そんなことを、今でもふと思うことがたまにある。

 つかみたいものがあるならば、勇気を出してつかみに出たらよい。いつか人は死んでしまう。それならば、あの時ああしていたらよかった…という後悔はないほうがいい。臆病さを振り切り、自分の深みを直視し、そこから漕ぎ出す。自分の人生の歩みを決めるのは自分だ。下唇を血がにじむほど噛んでも、エイっと飛んでみるのは、案外できる。だって、よくやったね自分、と、言ってあげたいではないか。よくやった。よくやった、それでよかったんだよと、両腕を広げて自分を抱きしめたいではないか。