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『いつものやつで』 # たいらとショートショート

「先にお飲み物お伺いしましょうか」
そんな感じじゃないんだよなあ。
そんな店でもないし。
いつもなら、
「ビールでいいでしょ」とさっさと持ってきてくれるのに。
そして、こっちは、
「あと、いつものやつで」
となるのに。
なのに、こっちまでかしこばっちゃって、
「え、ああ、ビールでお願いします」
だなんて。

どうして、こうなったんだろうなあ。
そもそもは、僕の転勤の話からだ。
昨日、急に辞令が出た。
地方への転勤だったが、その内容を見ると栄転だった。
そこで頑張れば、戻ってくる時には、ツーランクかスリーランクはアップ間違いない。
同僚の羨ましそうな目が今から想像できる。
もちろん、社宅も利用できる。
その間取りを見て、浮かんだんだ。
彼女とのそこでの暮らしが。

帰って、早速彼女に話をした。
彼女は喜んでくれていたんだ。
間違いない。
で、僕も話を続けたんだ。
よかったら、ついてきてくれないかって。
それは、つまり、プロポーズでもあったわけなんだけれども。
もちろん、指輪パカっとかはないけどさ。
そんなことにこだわる彼女じゃないんだ。

転勤先が海に近い町で、食べるものも美味しいこと。
都会と違って、物価も安いこと。
何よりも古い町だから、彼女の好きな名所もいっぱいあること。
彼女は歴史好きなんだ。
僕は、そんなことを立て続けに話していた。
そして、ついにその時が来たんだ。
口が滑っちゃったんだよ。
心もないことを、口が勝手にしゃべっているっていうやつだ。
僕の口は、言ってしまった。
「君の仕事なんて、すぐに辞められるだろ」
「わたしの仕事なんて? それ、どういうこと? 」

あれ?
ピールが遅いぞ。
後からきた隣のやつにはもう出ているのに。
もちろん、悪いのは僕さ。
自分の口の失敗だからって、その責任は僕にある。
わかっているさ。
だから、用意してるんだよ、今日は。
仕事を理由つけて少し早退までしてね。
あの、指輪パカってできるように。
ポケットにね、あるんだよ。
なのに、この仕打ちはないだろう。
あの、よそよそしい言葉づかい。
いくら客とはいえ、一緒に暮らす仲じゃないか。

でも、まだ大丈夫だ。
彼女がビールを持ってきたら、その場で、指輪パカだ。
もちろん、後で死ぬほど謝るよ。

よしよし、彼女がジョッキを持って近づいてくる。
指輪を用意だ。
タイミングが大事だからな。
彼女がジョッキを置く。
目が合う。
まだ、少し怒っているだろう。
指輪をパカっ。
一瞬の沈黙。
状況を理解して涙ぐむ彼女に、「いつものやつで」
上手くいけば、店を巻き込んでスタンディングオベーションだ。
うん、、これしかない。

彼女がジョッキをドンと置くのと、指輪ケースを開くのが同時だった。
ジョッキから勢い余って溢れ出たビールが、指輪をケースごとびっしょり濡らしてしまった。
「あら、お客様、失礼いたしました」
彼女は、片手でテーブルを拭きながら、もう片方の手で、指輪をエプロンのポケットにサッと入れてしまった。
そして彼女がこう言った時、僕は「おすすめは何ですか」なんて聞いてしまったんだ。
「いつものやつで」と返すはずだったのに。
彼女はこう言ったんだよ、すました顔で。
涙だけはしっかり流しながら。
「ご注文はいかがなさいますか」


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