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『歌舞伎町のミキちゃん』

「ここだったんだよね」
妻に言う。
「この新しいビルに建て替えられてしまったんだよ」
娘が就職をして東京で働くことになった。
その準備をするために、久しぶりに東京にやってきた。
ついでに、昔よく行った店を訪ねてみたいと妻に頼んだ。
すっかり変わってしまっているが、僅かな面影を頼りに探し歩いた。
路地は間違いなかった。
建物は変わっても、通りは路地にいたるまで変わっていないようだ。
しかし、目的の店はなかった。
新しいビルを見上げながら立ち尽くしていた。
自転車で通りかかった男が不審そうに睨んでいく。
「ここだったんだけどね」



その店の名は「ミキちゃん」と言った。
歌舞伎町の細い路地の中にある小さな店だった。
小さな看板には、ピンク地に黄色い文字で「ミキちゃん」と書かれていた。
小さいドアがあるだけの、知らなければ入りにくい店だった。

普通なら、そんな雰囲気の店には金のない学生は入らない。
その日はかなり酔っていた。
夕方になって演劇部の友人に呼び出された。
いろいろと話があるので飲まないかと。
内容を聞いても、会ってから話したいとしか言わない。
言わなくても、だいたいわかっていた。
どうして、演劇部の奴らは、こんなにも青春したい奴らが多いのだろう。
会ってみると、案の定、人生とはというお題を酔って語りたいだけだった。

飲んでいるうちに、僕もとことん付き合ってやろうという気になった。
何軒かをハシゴして、肩を組んで歩いていた。
背の高い、スカートを履いたお兄さんを避けるようにして迷い込んだ路地に「ミキちゃん」はあった。
しっかり閉じられたドアの前で、僕たちは顔を見合わせた。
一瞬のシラフを、また酔いがかき消してしまう。
カランカランと音の出るドア。
カウンターの向こうで、ミキちゃんはニコッと笑った。

その後、演劇部のやつは学校を辞めて、どこかの劇団に入った。
つまり音信不通になった。
当時は珍しいことではない。
女に養ってもらうことになったと、いわゆるヒモとして大学を去った奴も、間も無くどこかへ消えてしまった。

僕は、コンパの2次会などで新宿に繰り出した後は時々「ミキちゃん」に寄るようになった。
客はいつも少なく、値段も学生に優しかった。
ちょっとした隠れ家だ。
それに、ミキちゃんの話は面白かった。
しかし、就職すると、年に数回しか訪れなくなってしまっていた。

ある時、同僚だけが昇格したことがあった。
どうにも我慢できずに「ミキちゃん」のカウンターで愚痴をこぼしていた。
僕の前に何杯目かの水割りを置くと、ミキちゃんは僕の煙草を一本抜き出した。
「やっぱり、運なのよ。何でもね」
煙草に火をつけてひと口吸い込むと、僕に差し出した。
「でもね、運も実力って言うけどさぁ、あれって、あれじゃない?
   実力がないのに運だけ良かったやつと、
 実力はあるけど運の悪いやつがさあ、
 あれなのよ、
 お互いに薄い膜を反対側からぺろぺろって舐め合ってるだけなのよ。
 そんな気がするわ。
 その膜は、薄いけど、絶対に破れないんだろうね」
少し気持ち悪くなったけど、僕の愚痴は止まった。

僕は会社を退職して、故郷に帰ることになった。
まもなく30歳になろうという頃。
ミキちゃんは、自分のメンソールの煙草に火をつけた。
その頃には、僕はもう煙草をやめていた。
「ふるさとっていうのはね、捨てるものだと思ってるでしょう?」
返事の代わりに水割りを飲んだ。
「みんな、東京に来るやつは、ふるさとを捨てた気になっているのよ。
 だから、失敗したら、帰ればいいやと。
 でもね」
そこで、少し宙を見つめた。
「でもね、本当はね、捨てられてるのよ、ふるさとにね。
 それに気がつかないの。
 だから、帰ったって、歓迎なんかされないの。
 なんだ、こいつって。
 もう、よそ者と一緒よ」
そう言って、僕の方に額をグッと近づけた。
「だから、そのつもりで。
 帰るんじゃないの。
 行くのよ。
 新しい次の土地に行くのよ」
ミキちゃんは、カウンターにリザーブのボトルをどんと置いた。
僕がキープしているボトルだ。
飲んでしまえということだろう。
1,000円のリザーブなんて、中身は怪しいものだ。

僕はカウンターで目覚めた。
時計を見ると、間も無く夜が明ける。
隣で、ミキちゃんが突っ伏して眠っている。
僕が立ち上がると、ミキちゃんは口だけ動かして言った。
「ツケでいいよ」
「ありがとう」
今度この店に来ることはあるのだろうか。
「もう行くよ、新しい土地に」
ドアを開けた。
カランカランと音が鳴る。
そろそろ髭剃った方がいいよ。
それは言わずにおいた。



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