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『鬼のため息』

彼は、月明かりに青白く光る体を引きずるようにして逃げていた。
近くでまた銃声と悲鳴がした。
最初は、仲間と連絡を取り合って、誰がどこで狙われた、どの方向が安全かなどと情報交換をしていたが、今はもうそれも繋がらなくなった。
みんな、自分が逃げおおせるので精一杯だ。
仲間がどれくらい生き残っているのかもわからない。
とにかく、逃げて明日まで生き延びるしかなかった。
サイレンの音が響き渡るが、あれが自分たちを守ってくれるものなのか、それとも、追い詰めようとしているのか、その目的はわからない。
わからないものからは逃げるしかない。

彼は公民館前広場のベンチに片手をついて息を整えていた。
腕時計を見ると、まだほとんど時間は経過していない。
それでも、あと数時間だ。
あと数時間、逃げ続ければ、また一年間は楽しく暮らすことができる。
それだけを今は考えようとした。
その時、広場の向こうの路地から幼い子供が飛び出してきた。
その子供も自分と同じように青白く光っている。
その後ろから数人の若者が飛び出してきた。
1人が子供の髪の毛をつかんで、また路地の中に引き摺り込んでいく。
一瞬、その子と目が合ったような気がして顔を背ける。
そこに、眩しい光がつき刺さった。
「いたぞ」
「どこだ」
「あそこだ」
いくつもの懐中電灯の明かりが彼を照らし出した。
彼は、ベンチを飛び越えて走り出した。
銃弾が耳元をかすめる。

大通りを避けて細い道を選ぶ。
追いかける足音は少し数が減ったようだが、1人でも、たった1発でも撃ち抜かれれば終わりだ。
細かく曲がりながら走り続けた。
もちろん彼らも情報は共有しているから、挟み撃ちも気をつけにければならない。
案の定、正面からこちらに向かう明かりが見えた。
左の路地に飛び込む。
彼は、そこにあった大型のゴミコンテナに飛び込んだ。
足音が近づいてくる。
「どこに行った」
「あっちか」
「ちくしょう」
誰かが腹いせにコンテナを撃ったが、幸いゴミの中を貫通してくれた。
足音が十分に遠ざかったのを確認すると、彼はコンテナから這い出した。
頭の2本の角に絡みついた残飯を払いのけると腰を下ろした。

今に始まった事ではない。
この国では、年に一度だけ、毎年この日には彼ら鬼を襲撃することを許可していた。
普段は銃器の使用は認められていないが、この日だけは許された。
いや、それはむしろ推奨されていた。
この日には、老若男女を問わず、みんなで鬼を退治しましょうというわけだ。
一匹でも鬼がいなくなれば、それだけ皆さんの家には幸福が舞い込みますよ。
国民を幸福にするのは、国の責任なのに、それを鬼のせいにするなんて。
「それに」
と彼はため息をついた。
「今さら、俺たちが福だと言っても誰も信じまい」
角を触る。
昨日の深夜、今日に日付が変わったところで伸びてきた角。
あと数時間逃げ切れることができれば、また短くなって頭皮の中に埋もれてしまう角。
月が雲に隠れた。
彼はゆっくりと立ち上がり、歩き始めた。
自分には年に一度角の生える日がくることを知った、幼い日のことを思いながら。

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