『漂流する家』
明かりを消して、ベッドに横になる。
目が少しずつ暗闇に慣れて、天井が浮かび出てくる。
不規則な模様。
じっと眺めていると、それらが結び合わさって何かに見えてくる。
多いのは、人の顔だ。
誰の顔ということはない。
単純に、目と鼻と口。
時には、動物であったり、見たこともない化け物のようだったりする。
こんな現象に名前があったはずだ。
明日にでも調べてみよう。
これは、心理学の分野だろうか。
ドアの外を誰かが通り過ぎる。
子供の頃には、よく想像したものだった。
夜、布団にくるまり、この家は今、大海原を航行しているのだと。
絶滅した国を脱出して、私たち家族は今どこかに向けて波の中を進んでいるのだと。
窓の外には、暗い海が広がっているに違いない。
きっと沈んでしまったら、絶対に底までたどりつけない深い深い海。
その上を私たち家族は漂っている。
二段ベッドの下の段で妹は眠っている。
いい気なものだ。
でも、子供だから仕方がない。
下の部屋から漏れてくる父と母の声が私を力付ける。
きっと作戦会議に違いない。
もう少し大人になれば、私も会議に呼んでもらえる。
でも、それまでにこの船はどこかにたどり着くだろうか。
新しい国で、新しい生活を始めているのだろうか。
新しい家で、新しい友達と、新しい学校、新しい教科書。
父と母は、新しい会社に勤める。
新しい車で、新しい道をドライブする。
新しいカフェで休憩をする。
そこからは、海が見える。
あちらの方から来たのよ。
母が妹に説明している。
私は、水平線の向こうから、新しい家族が、家形の船でこの国にやってくるのを眺めている。
彼らがこの国に着いて、私と同じような子供がいれば、色々と教えてあげよう。
いい子だったら、友達になる。
その子の新しい国の最初の新しい友達に。
少しだけれども、この国のことは私の方がよく知っているから、あちらこちら案内する。
でも、と私は考える。
この船はどこにもたどり着かないかもしれない。
ずっと、いつまでもこの広い海を漂い続けるのだ。
夜も、もう明けることはない。
朝はもう来ない。
暗闇に包まれた、暗くて深い海を私たち家族は漂い続けるのだ。
怖くはない。
父と母がいる。
それに、私には妹がいるから、私がしっかりしなければならない。
波の音が聞こえるような気がする。
父と母の声はまだ続いている。
そんな幼い私の夜の想像は、少しだけ現実になった。
広いデッキで、朝のコーヒーを飲みながら考える。
昨夜は、どうしてあんなことを思い出したのだろうか。
いや、今まで思い出さなかったことの方が不思議なのかもしれない。
そうだ、あの夜の私の想像は少しだけ現実になった。
国という国が、ほぼ絶滅したこと。
人間が、船で生活するようになったこと。
もうひとつは、この船はどこにもたどり着かないこと。
想像と違ったのは、この船は家というにはあまりにも巨大だ。
学校もある。
いくつかの企業もあり、経済活動が行われている。
広い農園もある。
観客席付きのグランドも数カ所。
もちろん、映画館や劇場もある。
この船で生活するのは、生き残った者全員だ。
でも、いちばん想像と違ったのは、私の家族がこの船にはいないことだ。
「船長」
静かな海を見つめたまま、一等航海士の報告を聞く。
昨日と変わりはない。
恐らく、明日も。
「あれ」
私は手すりにとまった白い鳥を指差した。
航海士は手元のマイクで指示をする。
警官がやって来て、白い鳥を撃った。
「ありがとう」
航海士は去る。
残酷だが、汚染された鳥は乗せるわけにはいかない。
そう、鳥だけではない。
人間もそうだった。
汚染された人間は乗せるわけにはいかなかった。
乗船前に、生き残った人間の最終チェックが行われた。
事前に何度も検査はしていたので、形式的なものだった筈だ。
私は、甲板から双眼鏡で家族を探した。
父と母と、2人を支えるようにして妹の姿が見えた。
3人の順番が来て、並んで探査機の前に立つ。
突然、ブザーが鳴り響いた。
誰もが、何故ブザーが鳴っているのかわからないようだった。
まさか、ここで汚染者が発見されるなどとは思ってもいなかったのだ。
少しして、3人は列から離されて、埠頭の端の透明なハウスに隔離された。
ハウスに押し込まれるその一瞬、3人はこちらを見た。
その時の私の気持ちを強いて言えば、怒りだったろうか。
何故だ。
何故、もっと用心しなかった。
「どうする」
担当大臣は聞いてきた。
それは、儀礼的なものに過ぎない。
選択肢はひとつしかない。
長い時間の後に、乗船完了の連絡が入った。
私は、ブリッジに上がり出航の指示を出した。
巨大な船は、大陸が移動するようにゆっくりゆっくり埠頭を離れた。
同じように、家族や友人と別れた者たちが、手すりにしがみついて泣いている。
どうして泣くのだ、何故怒らないのだ。
私が泣いたのは、何日かして陸が見えなくなってからだった。
遠くで銃声がした。
また、渡鳥でも撃たれたのだろう。
コーヒーカップを持ったまま、ブリッジに入る。
もうすぐ、あの港が遠くに見えてくる。
もう何度目だろうか。
幼い子供たちが、保育士に連れられて甲板に出てきた。
手の甲を伸ばして増えた皺を見つめる。
この船はどこにもたどり着かない。
そのことに、何らかの感情を込められる人も、いずれいなくなるだろう。
そして、漂流する家のことなど、誰も想像もしなくなるのだ。
水平線の向こうに小さな屋根が見えたとしても、それは雨雲にすぎない。
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