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『ロングシュート』

日本が強豪国に逆転勝ちをした。
そんなニュースに日本中が沸き立った翌日、週3日で通う管理人のシフトは休みだった。
朝から、テレビもネットニュースもその話題で持ちきりだった。
シュートを決めた選手の両親や兄弟。
学生時代の恩師。
小学生の頃の友人まで。
関係者は引っ張りだこだ。
頭越しに飛んできたパスをトラップして、そのままゴール前に。
キーパーとゴールポストのわずかな隙間を狙ったボールはネットに突き刺さった。
何度も同じ映像が繰り返される。

午後からは、妻の買い物に付き合った。
郊外のショッピングモールに車で向かう。
退職金で買った新車だ。
2人の息子も独立して2人きりの生活。
もう小さな車でもいい。
若い頃は、歳をとったら高級なクーペを買って日本一周しようなどと話をしていた。
あらゆるグラフは右肩上がりだとみんな信じていた。
しかし、そうではないからグラフはあることに気づく日がきた。
どちらからともなく、そんな話はしなくなった。
それでもここまでやってこられたのは運が良かったのだろうか。
お隣さんがやはり退職して、外車のセダンを購入した。
それに対抗したわけではないだろうが、妻は国産ではあるが高級車に入る車種にこだわった。
家庭のことは、家計も含めて妻に任せきりだ。
妻がよしと言えば、我が家の家計はそれを買っても大丈夫なのだろうと信頼はしている。
妻がショッピングモールで買い物をしている間は、1階の広い駐車場に面して作られた明るいカフェで待つ。
窓際の席で、いつもと同じブレンドコーヒーのホット。

その頃の花形といえば、野球部だった。
練習でも、常に何人かの女子が見学していたし、練習試合ともなれば黒山の人だかりだ。
当然、狭いグランドで、サッカー部の練習は休みになる。
サッカー部も練習試合はするが、そんなに見物人が集まることはない。
せいぜい、グランドの使えない野球部の連中が冷やかしで見学しているくらいだ。
それに、田舎の中学生のサッカーに特別見るべき技術などはない。
ボールを持てば、フォワードであろうが、バックであろうが、行けるところまでドリブルで猛進する。
敵もお互いにそんな繰り返しだった。
パスで攻め入る戦略などはない。
我慢できずに放ったシュートがたまたま決まる。
そんな試合にドラマなどあるはずもなかった。

相手のシュートはゴールを外れゴールキックになった。
中学生のキーパーなどというのは、遠くに蹴ることしか考えていない。
遠くに蹴れば蹴るほど、自分の安全な時間ができる。
たが、その時のそいつは、何を思ったか、センターバックのこちらに短いパスを送ってきた。
ボールを受け取ると前を向いた。
敵が、ほぼ全員、こちらに突進してくる。
ボールを蹴って走り出した。
1人を交わす。
2人目を、足の甲で外に蹴り出すという覚えたてのフェイントで抜いた。
とこかで味方がパスを要求しているが、そんな技術と余裕はない。
スライディングして来た奴を飛び越える。
次に来たの体の小さな奴だったので、そのまま体当たりで切り抜けた。
そろそろだ、そろそろだ。
そんな声が体の内側から聞こえてくる。
今だ。
思い切り蹴る。
ボールはぐんぐん伸びた。
見上げる味方の視線の先を過ぎ、飛び上がる敵の頭上を超え、横っ飛びするキーバーの指先を掠めてネットを揺らした。
試合後、校舎の裏の水飲み場で顔を洗っていると、タオルを差し出された。
そろそろ、水道の水が冷たく感じられる季節だった。
「超ロングシュートだったね」
そのシュートはその後の人生で、ことあるごとに頭の中で再生されることになる。
できるだけ尾鰭のつかないように慎重に。
時に誇らしく、時に悲しく。
彼女も、その時には、それが生涯で唯一の得点になるとは思わなかっただろう。

ふと気がつくと、同じ顔がガラスの向こうから呼んでいる。
そして、まるで蕾から開花までを高速で見るように、現在の顔に変わっていく。
いくつかの袋を下げて、帰りますよと、口の動きが言っている。
過ぎ去れば、膨大な時も、もうそれは一瞬の出来事でしかない。
その一瞬の小さな断片が記憶の中を漂うだけだ。
得点を重ねるだけが生きることではない。
たとえ、たった1点でも、それを守り続けることもまた…
しかし、果たして自分は守り続けることができたのだろうかと考える。
まだそんなことに思い至るはずもない、あの時の彼女は笑顔でこう続けた。
あの頃は、時間とは、何か希望のようなものに向かって流れていくはずだと信じて疑わなかった。
できうれば、その後の、それを疑い始めた頃の自分に言ってやりたい。
君は間違ってはいないと。
そして、あの時の彼女にも。
水飲み場の彼女は言った。
「次も、その調子だよ」
ガラスの向こうの妻は、こちらが立ち上がるのを確認すると、すこし微笑んで背を向ける。
ゆっくり歩き出す後ろ姿をみて、今でもいい女だなと思った。

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