見出し画像

『3月11日 14:46』

タクシードライバーの朝は早い。
一昼夜勤務ならそうでもないが、彼の場合は日勤、つまり朝から夕方までの勤務だ。
家を出る時には、大学生の娘はまだ眠っている。
特に、この時期は既に春休みに入っているので、毎日遅くまで起きているようだ。
昨年、奨学金を条件に入学を許した。
許した、そう考えることに何となくやましさを覚えるのだが。
朝食の準備だけして家を出る。
その前に、妻の小さな写真に手を合わせるのが日課だった。
今日はいつもよりほんの少し長く手を合わせた。

午前中の売り上げはまずまずだった。
彼は昼食までの売り上げ目標を決めていて、それに達するまでは昼食をとらないことにしている。
今日は昼前には、その目標をわずかだがクリアしていた。
ただ、こんな日は逆に午後からの売り上げがさんざんなことがよくあるので要注意だ。

昼食をいつもの定食屋ですませて、午後の営業に出る。
どうしても外食は揚げ物が多くなりがちだが、ここは魚や野菜、肉を出してくれるので、彼のようなタクシードライバーや、トラック運転手、営業マンに人気だ。
ペットボトルの水をひと口飲んで、エンジンをかける。
ふと、今夜の娘の予定を聞いていないことに気がつく。
何をしていてもいいが、夕食がいるかどうかだけはいつも確認している。
携帯からメッセージを打つ。
どうせすぐには返事はこないので、とりあえず発進する。

若い女の子が手を上げた。
多分娘と同じくらいだろうが、髪の半分を金髪に、もう半分をブルーに染めているのではっきりはわからない。
携帯で話をしながら乗り込んできた。
行き先の駅名を伝えて、また話し込んでいる。
「とりあえず、この道を…」
言いかけたところで、客が片手を手の甲をこちらに向けて振ったので、彼は発進させた。

恐らく相手は同じ女性なのだろうが、言葉使いが悪すぎる。
やたら語尾を引っ張って、意味のわからない略語を多用する。
こんな髪の毛で、どんな仕事をしているのだろう。
娘と同じ学生だろうか。
それにしても、と彼は思った。
親の顔が見てみたいもんだ。
共通の知り合いの男の悪口を言っているようだ。
しかし、どちらかが付き合っていたのかどうかは、話の内容からは判断できない。
彼はまた考えた。
うちの娘は、あの子は、まさかこんな会話をしていないだろうな。

目的地に着いた。
料金を告げて、先にレシートを印刷する。
女の子は、
「少し待って」と言って、携帯を置いた。
デコレーションされた長く伸びた爪。
続いて目を閉じたので、それが電話の相手に言ったのか、自分が言われたのか、彼は一瞬判断に迷った。
そして、彼女の目を閉じているのが、彼が迷った一瞬よりもほんの少し長いことに気がついた。
レシートを見た。
「3月11日 14:46」

この記事が参加している募集

#私の作品紹介

96,516件

#眠れない夜に

69,460件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?