見出し画像

『泪橋』

妻が孫娘の手を引いている。
時々立ち止まり、孫娘のマフラーを巻き直す。
坂道はまだもう少し続いている。
2人の歩みは遅い。
そして、私はそれよりもさらにゆっくり歩いている。

年明けももう遠く感じる1月の終わり。
風は冷たく、雲は低く垂れ込めたままだ。
遠くの山の辺りは雪かもしれない。
空を覆う雲よりもさらに低く黒い雲が山の頂を飲み込み、少しずつ市街地にも迫っている。

孫娘が振り向いて、早く来いと手を振る。
私は片手を上げてそれに応えるが、歩みが早くなることはない。
もう、この歩みが早くなることはないだろう。
妻が振り向いて、うなづいた。

首筋に冷たいものが当たる。
年甲斐もなく大きな声で、孫娘に伝える。
孫娘は、妻の手を振りほどき、両手を上に上げて飛び跳ねている。
妻は手袋で舞い落ちる雪片を受け止めている。

妻と目が合う。
こんな時に、夫婦が同じことを考えているなどということはまずあり得ない。
長く共に暮らしていれば、ますますその隔たりは大きくなっていく。
それでもと、私は思った。
立ち止まる妻との距離を縮めながら。
それでも、妻が今同じことを考えていてくれたら…
遠い、あの日のことを。
もうどれくらい前かなどと数えるのも億劫になる、あの日…



左フック一発。歓声はその瞬間に消え、世界は真っ白になった。
深い深い穴の底に落ちていくようだった。

目覚めた時には控え室のソファに横たわっていた。
この試合でダメなら諦めろ。
そう言われて、組んでもらった前座試合だった。
コーチは黙って額のタオルを替えてくれた。
この人は、今まで何人くらいのボクサーの額をこの控え室で冷やしてきたのだろう。
俺が初めてじゃない。
そう思うと少し気が楽になった。

会場の裏の公園で彼女は待っていた。
イヤーマフをして、薄いピンクのダウンジャケット。
この季節はいつも変わらない。
手袋をした両手で口元を覆っていた。
「負けちゃったよ」
「そっか」

ゆっくりと小さな川沿いの道を歩いた。
歩きながら、もう引退するよと話した。
「引退って言うほどでもないんだけどね」
彼女は黙って聞いていた。
だから、一緒になれないよ。
それは言い出せなかった。
今言うべきなのか。
「ちゃんとした仕事を探すよ、食っていかないとな」
だから何だ。

小さな橋の袂で立ち止まった。
川面を吹き抜ける風は冷たい。
彼女がダウンジャケットのポケットから両手を出した。
出したなと思っていたら、突然殴りかかってきた。
咄嗟に、スウェーバックでかわした。
「おっ、やるじゃないか、お若いの。あたいと組まないかい?」
そういうと、彼女はその小さな橋を走って渡った。
「この泪橋を逆に渡ろうじゃないか。あたいと2人で、明日のために」
彼女はあのアニメのキャラクターのダミ声を精一杯真似していた。
2人で笑った。
薄暗い街灯に照らされて、雪が舞い始めた。
そして、滲んだ…



あの橋がどこだったのか、今では思い出すべくもない。
しかし、あれ以来、私と妻は何度も何度もその泪橋を渡ってきたような気がするのだ。
時に私が先に渡り、時に妻が先に渡り、そして時に2人並んで。
その袂で、多くの人を見送ってもきた。
きっと戻ると言った彼らがその橋を再び渡ることはなかった。
彼らもどこかで自分の泪橋を渡り続けているのだろう。
流れ着く先もわからない川、そこにかかる小さな橋を。

雪は本格的に降り始めた。
「早く帰りましょう」
「ああ」
私と妻は孫娘を間に挟んで、ゆっくり坂道を登り続けた。

この記事が参加している募集

#眠れない夜に

69,460件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?