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『静かな人生』

私は父に引きずられて、2階の寝室まで連れて行かれた。
父は、痛いと泣く私の腕を引っ張って階段を上った。
一段ごとに段差が体に当たり、私は泣きわめく。
無力感がさらに私の泣き声を大きくする。
廊下の突き当たりは父と母の寝室。
父がドアを開けると部屋はカーテンが引かれたままで真っ暗だった。
それとも、もうそれは夜の出来事だったのだろうか。
暗闇の中を父は進んだ。
フローリングの床は、足を突っ張ろうとしても滑ってしまう。
ベッドの左側のドアの向こうはクローゼットだ。
主に母の洋服や靴ばかりで、私はほとんど入ったことがない。
そこは窓もなく、寝室以上に暗い、まさに漆黒の闇だった。
父は私をそこに投げ入れるように押し込むと、ドアを閉めた。
その一瞬に見た父の顔は、目が吊り上がり、絵本で見た鬼のように赤かった。
何か大きなものが床の上を動いてドアにぶつかった。
きっと、ベッドでドアを塞いだのだ。
さらに、大きなものが倒れる音。
何かが壊されている。
そしてまた、ドアを激しく叩く音。
いや、何かを打ちつけているのだ。
あれは、釘を打つ音だ。
私は閉じ込められた。
その時にもまだ泣いていたのだろうか。
ああ、私はここで死ぬのだと、妙に冷静に考えていた…

翌日、私は警察官に助け出された。
ベッドの上には母がうつ伏せに倒れていた。
背中には、台所にあった包丁が突き刺さっている。
その向こうでは父が数人の警察官に囲まれて俯いていた。
婦人警官が駆け寄って来て私の顔を手で覆うと、そのまま私を抱えて部屋の外に出た。
家の前の広い道路には、何台ものバトカーが止まっていた。
そして、大勢の人。
隣のおばさんもいた。
私は、婦人警官に抱えられたまま救急車に乗った。

当時の私は何も思い出せなかった。
まわりの大人もそれを受け入れてくれた。
何を聞かれても、うつむいて首を横に振ることしかできなかった。
再び言葉を発したのは、父方の叔母に引き取られてしばらくしてからだった。
「さむい」
それは、その時の寒さと同時に、クローゼットの中のことも言いたかったのだろうか。
あの中の寒さが記憶によみがえってきた。
あれが冬のことだったと思い出すのは、もう少し後のことだった。
ただ、私の体がクローゼットの中で震えていたのは、寒さだけではなかったはずだ。

父は、まず2階の寝室とは反対側にある、自分が書斎として使っていた部屋に母を閉じ込めた。
それから、一階のリビングで遊んでいた私を引きずって階段を上り、寝室の奥のクローゼットに押し込んだ。
ベッドでドアを塞ぐと、同じく寝室にあった小さなサイドボードを床に叩きつけて解体した。
そして、さらにその板をドアに打ち付けて私が完全に出られないようにした。
その間に書斎のドアを壊して廊下に出た母は、寝室に駆け込んだ。
そこに父がいるとは知らなかったのだろう。
驚いて逃げようとする母を父は捕まえて、ベッドの上にうつ伏せに押し付ける。
そして、その背中に包丁を突き立てた。
包丁には母の指紋も検出されたが、それは揉み合った時についたものであるとされた。
それに、元々は台所にあった包丁なら、それも不思議ではない。
弁護側、検察側ともに精神鑑定を行なったが、どの判定も、父の責任能力を認めていた。
父は黙秘したまま、判決を受け入れた。
病弱だった母を疎ましく感じての犯行。
マスコミはそう書き立てた。
しかし、裁判では、動機については最後まで触れられることはなかった。

あの家は、事件の後、売りに出された。
ほとんどの手続きを叔母がしたのだろう。
今ではどうなっているのか。
そこそこの広さはあったので、小さなワンルームマンションになっていると聞いたこともある。
自分では確かめたこともないし、そうしようとも思わない。
そこに立ったとしても、時が戻るわけもない。
戻ったとして、どこまで戻せばいいのか。
それに、家族間のこのような事件など、その後もいくつも発生している。
私のような子供も何人もいるに違いない。
今更、人々の記憶をかき回すこともない。
私も、いつまでも暗さんな事件の犠牲者でいるわけにはいかない。
社会に出ていかなくてはならない頃には、世間の興味も無くなっている。
狭い部屋にも少しずつ慣れた。
それでも、その部屋のドアを閉められるようになるにはまだ時間がかかった。
そして、部屋のドアを閉めて、灯りが消せるようになった時には、人生の半分を過ぎていた。

熱いお茶を入れて、私と夫と、父の前に置く。
2人は同じような仕草で湯呑みを口に運ぶ。
湯呑みで両手を暖めるように包み込んでいる。
血のつながりはなくても、一緒に暮らすと似てくるのだろうか。
こんな時間を幸せだと思うこともできる。
しかし、失ったものが大きすぎると、ある一点から上の感情にはなれないものだ。
それでも、時々、笑うことはある。
父も、自分が笑ってもいいのだろうかというように私と夫の顔を見て、それから少し微笑むようになった。
この先の私たちの人生が、静かなものであればいい。

夫には全てを話している。
それは、私のような人間にとっては義務でもあり、人並みに愛を得たければ、乗り越えるべき試練でもあるのだろう。
ただ夫が知っていることは、世間に知られていることよりも、ほんの少し多い。
私が、事件に関して、最後に思い出したこと。
それは、父が黙秘したことでもあった。
父が語らなかった以上、私も話すべきではないと思った。
ただ、刑期を終えた父と同居するにあたって、夫にだけは知っていて欲しかった。
私は、父と私しか知らないことを夫に話した。

…私はこのクローゼットの中で死ぬのだろうか。
その時だ。
何かがぶつかる音に続いて、私の名前を呼ぶ母の声。
それは、いつもの優しい声ではなかった。
さながら、獲物に向かう獣の咆哮のようだった。
ドアに打ち付けられた板を剥がそうとする音。
「やめなさい」
父の声がする。
「やめないか。あの子はそこにはいないよ」
父は何度も母に呼びかける。
ドア全体が激しく軋む。
「出てこい」
叫び続ける母。
「みんな一緒だ、お前も、お前も」
「わかった。話をしよう。だから、それを渡しなさい」
説得する父。
「さあ、それを渡しなさい」
もみ合う音。
「だめだ」
鈍い響きが聞こえた。
急に静かになった。
世界でたったひとり、取り残されたような心細さ。
その時間は永遠のように長かった。
しかし、実際にはほんの一瞬だったのだろう。
父のむせび泣く声が聞こえるまでの時間は。


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