見出し画像

『学生街の居酒屋で』

居酒屋というのは本来、会社帰りのサラリーマンが仕事の愚痴をこぼし合い、明日からまた頑張ろうという、そんな場所だ。

これがひと昔前の学生街の居酒屋ともなると少し様相が違ってくる。
あちらの席、こちらの席で、人生論だの、恋愛論だの、もしサラリーマンがうっかり看板に釣られて迷い込みでもしたら、うるさくて仕方ないだろう。
大体、サラリーマンにとって何々論などは、毎朝通勤電車に揺られて職場に行き、上司の機嫌をとりながら、決められた業務をこなす上で、何の役にも立たないことは、彼らは嫌というほど思い知らされている。
中には、何々論に熱くなる学生たちを眺めながら、世代論を戦わせるサラリーマンもいるにはいたが。

さて、その学生街のある居酒屋。
あの古本屋街にほど近い学生街の居酒屋といえば、わかる人にはわかるだろう。

その居酒屋の片隅に、そのおじさんはいた。
毎晩、入り口から一番遠い隅の席に1人でいた。
隅の老人というほどの歳ではないが、もう若くはなかった。
入り口に背を向けて、1人で何かを飲んでいる。

1人なのだが、たまにというか、そこそこ頻繁に、向かいの席に誰かが座っている。
時には、行列とまではいかないが、誰かが後ろで順番を待っていたりする。
まさか、新宿の母ならぬ、〇〇の父ではないだろう。

ある時、カウンターの中にいる大将に聞いてみた。
「まさかまさか、占いなんかじゃありませんよ」
そう言って、大将は声をひそめた。
「かと言って、人生相談でもないのですね」
では一体何なのだ。
学生相手に進路相談でもあるまい。
「あの人はね」
大将はさらに声を落とした。
「悩みや心配事を聞いているのですよ」
では、人生相談と同じではないか。
「いいえ、相談じゃない。あの人は聞くだけです。聞いて、ぶつぶつ言いながら旨そうに飲むだけです」

なかなか理解できなかった。
ある日、そのおじさんにほど近い席に陣取って様子を伺うことにした。
ほどなくして、1人の女子大生が、おじさんの前にやってきた。

小さな声でよく聞き取れなかったが、どうやら彼女は、失恋のあげくに死を選ぼうかどうしようかという話をしていた。
いきなり深刻な内容にこちらが緊張したが、おじさんは黙って聞いていた。

ひと通り彼女が話し終わると、おじさんはこれも小さな声で話し出した。
それは、なるほど独り言を呟いているようだった。
「どうして生きなきゃならないのかね。そんなことを言われても、口ごもるしかない。誰がいなくなろうが、世の中は気にすることなく流れてくよ。今更命が尊いものだというのも白々しい。あなたは、シミにもならずに消えていく青春のニキビみたいなものだ。そんなあなたの嘆きを肴に旨い酒が飲めるのも、生きていればこそだ。ありがとう。生きているだけでいい。生きている方がなんぼかいい。よく考えて、本当に死にたくなったら、その前に必ずここに来て教えておくれ。おじさんに旨い酒を飲ませてくれ。人の不幸は一番の酒の肴さ。生きてるものへのご褒美だ」

女子大生は、頭を下げて帰って行った。
彼女はまた、やってくるだろう。繰り返し、繰り返し。
そして、いつか誰かの不幸を肴に一杯やっているかもしれない。
そんな気がした。
おじさんの席の周りには、いつも通り何々論で盛り上がる学生たちがいた。
彼らもまた、青春のニキビみたいなものなのだろう。

お間違いのないように。
これはあくまでも、ひと昔前の学生街のあの居酒屋のお話だ。
ひと昔というのは、あのおじさんはもう誰かの酒の肴になっただろうなあと思えるくらい、昔ということ。
訪ねて行っても、もう誰もいやしない。
でも、もし隅の席に痩せた背中が見えたら、その時は声をかけて欲しい。

この記事が参加している募集

眠れない夜に

ほろ酔い文学

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?