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歴史は世界の履歴書ではない

2022年 ロシアのウクライナ侵攻

何十年か後には、世界史の教科書にはこのように記載されるのかもしれない。
そして、中学生や高校生はこう思うのだろう。
「当時の人たちは、なんて好戦的で野蛮だったのだろう」
「誰か、反対する人はいなかったのだろうか」
「他の国は、なぜ何もしなかったのかな」
「あんなに簡単に人を殺したり、殺されたりする時代に生まれなくてよかった」
そして、この一行を暗記して教科書を閉じる。

僕たちが、今どんな気持ちでこのニュースを見ているか。
この歯がゆさ、無力感。
そんなことは、教科書には記載されない。
ロシアが民間施設を攻撃したことも、ウクライナの人が避難する様子も記載されない。
一歳の子を亡くした母親のことも記載されない。
多くの人が戦争反対の声をあげたことも、記載されることはない。

かつての僕もそうだった。
歴史を学びながら、
「すごいなあ、当時の人はこんなに簡単に殺し合いができるなんて」
「昔の人は、野蛮だったんだなあ」
「こういうのを命知らずというのかなあ」
「こんな時代に生まれなくてよかったなあ」
そう思ったものだ。

しかし、多分そうではなかっただろう。
どんな争いの影にも、今と同じように、それを憂えた人はいた筈だ。
反対の声をあげた人も少なからずいただろう。
着の身着のままで我が家を後にする人もいただろう。
犠牲になった我が子の前で泣き崩れる母親もいただろう。
お互いに恨みはない敵兵を前にして、震えながら剣を突き刺した兵士もいただろう。

もちろん、そんなことは教科書には記載されない。

この国とこの国が戦ってこうなりました。
そして、こんなふうに別れて、またこことここに戦いが起こりました。
こうして、こうくっついて、こうなって今に至ります。

それも大切だ。
しかし、それだけが歴史を学ぶ目的ではないはずだ。

その一行の裏に隠された、ひとりひとりの苦悩や悲しさ。
そこにまで踏み入らなければ意味はない。
ウクライナやロシアというのは単にその地域の名前だ。
そこに住むひとりひとりの人間がいるだけだ。

もちろん、教科書に載せなくても、それはしばらくは語り継がれる。
しかし、人は死ぬものだ。
物語も少しずつ短くなり、やかで教科書の一行に落ちついてしまう。

かつての日本の戦争も、もう孫の代から先には語り継がれることはないだろう。

限られた授業時間の中で、そこまで踏み込むことは現実的ではないのかもしれない。
確かにそうだ。
古代の争いから、ひとつひとつ文献を紹介し、議論をしていては前に進まない。
そうであれば、せめて、本当はこれで終わりではないのだよというくらいは教えておくべきだ。
君たちの学ぶべきは、この教科書の向こうにあるのだと。
人間というのはいつの時代も、君たちと同じように生きていたのだと。
同じように、死を恐れ、悲しみ、嘆き、喜んでいたのだと。
同じように、愚かなことを繰り返してきたのだと。

そして、僕たちは、せめて生きている間はそれを語り継ぐべきなのだろう。

例えば、2022年、ロシアがウクライナに侵攻した、その時の子供の涙を、母親の絶望を、老人のあきらめを、そして、流された血を、失われた命を。

やがて、それも忘れ去られて、また愚かなことが繰り返されるとしても。

それは、歴史の価値観とは違う話だ。

歴史は、世界の履歴書ではない。

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