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人類の育てた果実(自分探しの旅の果てに)


★宮沢賢治の言葉

世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない
自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する
この方向は古い聖者の踏みまた教へた道ではないか
新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある
正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識して
これに応じて行くことである
(宮沢賢治『農民芸術概論』より)

「はじめに」

この『人類の育てた果実(自分探しの旅の果てに)』は、2002年6月18日から2002年11月26日の約半年間にわたって、「自分探し」をテーマに発行させていただきましたメールマガジン《🐢自分探しの旅 with マーキー🐢と【💐世界を平和にしない愛💐を合体させた作品です。

週に一回のペースで、二つのメルマガを同時に発行して、同時に24回で終了しました。

なぜ二つのメルマガかと言うと、この二つの「自分探し」は別々のところから出発し別々のルートで山の頂上を目指すものだったからです。
一つは「科学」というルート、もう一つは「愛」というルート。
(*このメルマガが元になって、後に「分身主義(Bunshinism)」が生まれます)

2002年11月26日の終了後、二つのメルマガを合体した、この『人類の育てた果実(自分探しの旅の果てに)』は、PDFファイルにして自分のホームページ上で無料公開していたのですが、それを今回、ここ(note)に投稿するために、加筆修正して再編集しました。

「自分探し」というのは、往々にして自分の幸福を探すために始めるものですが、個人の幸福とは、僕の尊敬するあの大詩人、宮沢賢治さんが言うように、最終的には世界が平和になり、地球上のすべての人たちが幸福になった時以外にあり得ないと考えています。

何が幸福かというのは、一人ひとりみんな違っていていいと言う人もいますが、だとしても「これだけは絶対に間違っている」という幸福があります。

それは、優越感に根ざした幸福です。これは実にたちの悪い幸福です。

人間とは愚かなもので、他者に対して優越感を持つことで幸福に感じることがあります。
これは、自分よりも不幸な状態の人がいてこそ成り立つ幸福です。

でも自分より上の人は必ずいるもので、他人との比較の上で幸福を感じてしまいやすい人は、逆の立場になったら屈辱を感じてしまうわけですから、一時的な幸福でしかないことはわかります。

それに、優越感を持たれている立場の人からは、妬まれたり恨まれたりして、最終的には陰口や誹謗中傷を受けたり、仲間外れになったり、極めつけは暴行を受けるようなことになったりして、やはり幸福ではありません。

世界を見ていると、このような感情的なレベルでの不公平感・不平等感が爆発して内紛や戦争が起こっていることが結構多いような気がします。

結局は、世界中の人の心の中から不公平感や不平等感が消失し、誰もが優越感や劣等感とは無縁になり、仲良く助け合って生きれる社会が来ない限りは、決して個人も幸福にはなれないのです。

だから「個人の幸福=世界平和」と言ってもいいと思うんです。


「科学の視点」で自分探しを始めるメルマガ《🐢自分探しの旅 with マーキー🐢ですが、こちらの執筆者はマーキー君ということになっています。
実は、彼は僕の書いた物語『アラスカの風に乗せて』の中の主人公で、その中でしか実在しないのですが、みなさんの案内役として登場してもらいました。

もう一つのメルマガ【💐世界を平和にしない愛💐ですが、こちらは、愛の視点で、というか科学とは対照的な「感情を持った人間的な視点」で自分探しを始めます。執筆者は、僕自身、徳永真亜基です。


それではまず《🐢自分探しの旅 with マーキー🐢》の執筆者、マーキー君から始めてもらいます。
自然界から謙虚に学ぶ「科学」というルートで登るので、少し険しい岩場に出くわすかもしれませんが、足元に気を付けてゆっくりと登り始めてください。



《🐢自分探しの旅 with マーキー🐢》NO.1 自己紹介から

いつの頃からか
自然界からはぐれて迷子になってしまった僕たち。
今では、人間界という荒海の中で
誰もが溺れまいと手足をバタつかせて
必死にもがいて生きているみたいに見えるんだよ。
ねえ、みんな、全身の力を抜いて
僕たちを産んでくれた自然界というこの大きな海に
あお向けにゆったりと全身をゆだねてごらん!
こんなにも気持ちよく浮かぶことを知るから‥‥。


■ マーキーから一言

始めまして、僕は『アラスカの風に乗せて』という物語の中の主人公、マーキーだよ。

その物語は、僕がある日「自分探し」のために、アラスカで知り合った女性に「内的な告白」の手紙を一方的に送らせてもらうことを思いついたところから始まるんだ。

それを承諾してくれた彼女に、ひたすら手紙を書き続けて、最終的にはものすごい量になっちゃうんだけど、それをそのまま小説の形にしたものがその『アラスカの風に乗せて』という物語。

だけど、書き続けているうちに、ついには主人公のこの僕がある思想に到達することになるんだ。

作者である徳永真亜基という偉い、えら~い先生は、本当は、僕がそんな思想に到達することなんて、初めはこれっぽっちも予想していなかったんだよ。


ある思想というのは、僕が「唯向論(ゆいこうろん)」と名づけることになるんだけど、僕がいなければ、実際、彼には何にも考え出せなかったと思うよ。
こちらのメルマガは、僕がその物語の中で、いろいろ考えたことを元にして作成していこうと思っているんだ。

だから、こちらのメルマガの著者は徳永真亜基ではなく、僕、マーキーだよ。自慢するわけじゃないけど、絶対僕の方が説明がうまいしわかりやすく書けると思うんだ。

著作権もこちらは、僕、マーキーに帰属します。(エヘン)

決してあいつ、いや、あの先生には著作権なんてありません。彼はそれを泣いて主張するかもしれないけどね‥‥。
でも、せめて彼の名前は、発行人として残しておいてあげることにします。

このメルマガを最後まで読んでくださった方は、きっと最後には、不思議な体験をされるはずです。 (*^_^*)
それは、最後まで読んでくださった君に、僕からのプレゼントです。

■ マーキーから二言

今日は、記念すべき創刊号ということなんで、もう少し僕の紹介をさせていただきます。
‥‥と、あらたまると、何を話したらいいのかよくわかんないや。

そもそも僕は『アラスカの風に乗せて』の主人公なんだけど、作者先生が僕のキャラをちゃんと設定していないんでよくわからないんだ。
それに、あの物語は最初から筋をしっかり考えて書き始めたわけじゃないみたいだからね。
まったく、とんでもない話だよ!

でも不幸中の幸いと言うか、その結果として僕が想定もしなかった場所に辿り着けることになるんだけどね‥‥。



■ マーキーから三言

最後に、僕の産みの親、徳永真亜基先生のことをちょっとだけ書いておこうと思う。ちなみに、彼は先生になろうと思っていたくせに、先生と呼ばれるのが大嫌いなので、わざとそう呼んでやるんだ。
せんせーい (=゚ω゚)ノ ---===≡≡≡ 卍

と言うか彼は21年前に美術の先生に採用が決定していながら、迷いに迷って、ついには教育委員会の人からの三度目の催促の電話で辞退して、こっぴどく怒鳴られてしまった煮え切らない奴なんだ。

彼は自分が考え出した思想でもないのに、有頂天になって、「唯向論」こそ世界を平和にする思想だ、などと騒いで、みなさんに大変ご迷惑をおかけしています。
でも、世界を平和にする思想だというのは間違いないと思うんだ。

君に聞くけど、世界が平和になるとはどういうことでしょうか?

世界中のみんなが裕福な暮らしをするようになることでしょうか? 

全然違います。

世界中のみんなが病気もしない健康な身体になり、長生きすることでしょうか? 

絶対絶対違います。

戦争がなくなることでしょうか? 

半分は正解ですが、半分は違います。

戦争がなくなっても、本当の意味で平和とは言えないよね。

僕は、平和とは、世界中の人たちが仲良しの人間関係でつながることだと考えてるんだ。
  
貧しくったって、健康じゃなくったって、そんなものよりも、もっともっと大切なものがあるんだ。

人間の本当の幸せは、人間同士の「共感」、それにつきると思う。

だから世界中の人が共感でつながることができたなら、その時初めて世界平和が実現したと言えると思ってるんだ。
それは少しも難しいことじゃないし、決して不可能なことなんかじゃない。


唯向論は、人類を共感でつなげてくれるものだから、その意味から言うと確かに世界を平和にする思想と言うことができる。

でも、このメルマガは、唯向論のことを書くために作成するのではないから、唯向論については、また機会があったらお話させていただきますね。

ああ、真亜基先生のことは何にも書かずに終わってしまった。

まあ、いいか。
彼のことは、ホームページ『アラスカの風に乗せて』の「始めまして」を読んでみてね。まだ閉鎖されていなかったらの話だけど、そこに自己紹介のようなものが書かれているはずだから。
それでは、僕と一緒に自分探しの旅に出発しましょう!
(つづく)

次週のタイトルは「自分探しのための方法論」です。



【💐世界を平和にしない愛💐】NO.1 愛の正体

この世は 世界を平和にしない愛であふれています
世界を平和にしない愛は
あなた自身をそして周囲の人を無意識で深く傷つけています
傷ついた心たちを癒すことのできる愛だけが
世界を平和へと導いてくれる愛です
深い安心感に包まれ 癒されていく愛を最後に感じとってください


★ 発行者の自己紹介

始めまして、僕はこちらのメルマガの発行者、徳永真亜基です。
このメルマガは、僕が書いた『アラスカの風に乗せて』という物語の中の主人公がたどり着いた「唯向論」という思想を元にして作成します。
(*この唯向論は、その後「分身主義(Bunshinism)」というものに発展していきます。ちなみに分身主義は唯向論のような思想ではありません。これは科学が僕たちを導いてくれていた、世界平和に通じる重い扉を開けるための鍵のようなものです)

『アラスカの風に乗せて』という物語は、マーキー君が、ある女性に「自分探し」をテーマとした手紙を送り続けるという構成で書き始めたのですが、書き進めていくうちに、その物語の中の主人公は作者である僕の手を離れて、予想もしていなかった場所に導いてくれました。

僕は、その体験をあなたにもしていただきたいと思い、このメルマガを発行することに決めました。

それではさっそく始めます。記念すべき第一回目のメルマガです。


★★★ 愛の正体 ★★★

愛という言葉を聞いて皆さんがイメージされるものは何でしょうか? 優しさ、清らかさ、笑顔、ハートマーク‥‥。
いい感じのもの‥‥、癒されそうな感じ‥‥、優しい気持ちになれそう‥‥、タンポポの綿毛のようにふんわりしたもの‥‥、暖かく包んでくれそう‥‥、みんなの心が一つになれそう‥‥、世界を救ってくれそう‥‥。

何だか、愛という言葉は万能薬のようなもので、それさえ付け加えておけば何事も丸く収まるもののようです。「愛は地球を救う」と言えば、それだけで何かを救ったような気になってしまうから不思議です。(^-^ )

それとも「愛」という言葉を聞くと反吐(へど)が出そうになる人もいるかも!?

でも、この愛に翻弄(ほんろう)されて、あるいは、この美しいイメージに縛られ、僕たちは無意識で自分自身を深く傷つけ、周囲の人間を傷つけ、世界から平和を遠ざけています。

まず最初に、「愛」の正体は何? という問いを投げかけたいと思います。

僕の考えた結論から言います。
「愛」の正体は、「差別」ではないかと思います。

ゾウアザラシという動物がいます。
以前テレビで見たのですが、この動物は、たくさんの群れの中で生活しているにもかかわらず、母親は自分の子供をちゃんと見分けられる(嗅ぎ分けるだったかもしれませんが)のだそうです。

もし自分の子供以外の子供が側にきても、知らん振りなので、場合によっては彼女の重い体重で踏み潰してしまうこともあるそうです。

この時、母親が自分の子供を見分けられなかったら、大切な我が子であっても踏み潰してしまうことになりかねません。そうしたら、とっくにゾウアザラシは絶滅していたことでしょう。

僕は動物本来に備わっている、この「差別化する能力」こそ、愛の本質ではないかと考えています。

差別という言葉からイメージされるものは、愛とは全く逆のものでしょう。でも本来、「愛」とは、「差別」と親類関係の言葉だったと思うのです。
今、世界のいたるところで平和が叫ばれていますよね。でも、平和にはなりません。

何故でしょうか?
それは、平和にするためには「愛」が必要だと考えているからです。
でも、愛とは平和のために必要なものではなく、むしろ戦争を引き起こしかねないものです。

何故なら、愛を守り、愛を貫(つらぬ)き通すために、場合によっては「他者」に攻撃をしかけなければならないからです。
雄々しく戦う必要が起きてくることもあります。
時には凶暴な獣(けもの)と化すこともあります。

それは、愛の本質が「差別」であり、「自と他との差別化」をした上で生まれてくる感情であるということの証明でもあると思います。

そして、いくら僕たち人間には理性があると言っても、この「自と他との差別化」は、自分の中から排除することはできません。差別とは生きることの本質でもあるからです。

もし差別ができなければ、人間は何事にも優柔不断で、永遠に迷い続けなければならないからです。


次週のタイトルは、「愛の一般的な定義」です。
(つづく)




《🐢自分探しの旅 with マーキー🐢》NO.2 自分探しのための方法論


■ 自分探しのための方法論

人間が自分探しをする理由を、「結局は、自分の生きている価値を見つけるためじゃないかなあ‥‥」と答えた人がいた。

なかなかうまいことを言うなあとは思ったけど、僕の場合は自分の価値なんかどうでも良くて「自分が幸福に生きるため」なんだ。
もちろんそのためには、大前提として、世界が平和にならなければいけないんだけどね。

他にも人によっていろいろな理由があるとは思うけど、理由はどうであれ、人間は「自分は何?」と考えなければいられない動物であるということも事実だよね。
と言うより本当は、たまたま、何かを考えてしまうような脳を持ってしまったから、と言った方がいいかもしれない。

それは他の動物と違って、言葉という「音刺激」が、むやみに脳内を駆け回っているせいだったんだ!

まあ、結論じみた話は最後にまわすとして、早速、今日の話を始めるね。

自分を知る方法は、大きく二つに分けられると思う。

1、非合理的思考方法
2、合理的思考方法


非合理的思考方法は、人間ととても相性がよく、その方法論から生まれた代表的なものは、宗教とか占いとか、くだけた心理テストなどだよ。
なぜ人間と相性がいいかというと、自然を解釈する上で、いくらでも自分たちに都合のよい、心地よい解釈が可能だからだ。

例えば、人間は実際には見たこともない神様の姿を自分たち人間に似せて作ったし、占いや心理テストに関しては、都合のいいことだけ「うん、なかなか当たってる気がする!」って信じたりするじゃない。(*^_^*)

ところで、今日から出発するこの「自分探し」の旅は、合理的思考方法による自分探しなんだ。
ここで言う合理的思考方法とは、そもそも科学的思考方法のことなんだよ。

科学とは


上図のように、数学や経済学なども広い意味で科学と呼ばれているようだけど、僕が扱うのは特に、赤枠で囲んだ「自然科学」のことなんだ。


ところで、まず初めに君に覚えておいてほしい言葉がある。
それは、「言葉は偏見を記述したものに過ぎない」という言葉なんだ。これはとても大事なことなので、絶対に忘れちゃだめだよ。

じゃあ、その言葉も偏見の一つじゃないかって!? 
そう、その通り。(^-^)

簡単に言うと、君のことを説明しようとして僕がどんなにたくさんの言葉を用いたとしても、それは僕が勝手に感じている君を記述しているに過ぎないということなんだ。それって言い換えれば僕の偏見でしよう!?

科学とは言葉や記号を扱うものだけど、自然界を人間の偏見でもって解釈、あるいは説明しようとするひとつの方法論に過ぎない、ということなんだ。

簡単な例を挙げると、月にいるのが兎(うさぎ)であるのか、それとも単なるクレーターであるのか、それは自然を解釈する方法が違うだけで、どちらも偏見に過ぎないということ。

だから、最初に断っておくけど、僕は、自然界を解釈する方法論として、宗教などより科学が上だと考えているわけではないんだよ。
決して科学万能論を説くつもりはない。
それは宗教が一つの偉大なる偏見であることと全く同じように、科学も一つの偉大なる偏見に過ぎないからなんだ。


それに、宗教には科学にない良い面もたくさんあるよね。

例えば、「無邪気な思い込み」だよ。(^-^ )

非科学的なこの「無邪気な思い込み」って、人間には実はとても大切な要素だし、とても相性がいいんだ。
言葉を持ってしまった人間は、何らかの物語にすがらないと生きられなくなってしまったからなんだ。

そして、無邪気にその物語を信じていさえすれば、その人の心を癒してくれるし、信じている者同士を強いきずなで結び付けてくれる。
「信じるものは救われる」って言われるようにね。


だけど、科学にも宗教にない良い面がたくさんあるよね。

この自分探しの旅で、科学的思考方法を採択する最大の理由は、科学は実証の学問だからなんだ。

観察と実験を繰り返し、それが実証できるまでは安易に正否の判断を下したりしない。そして、誰が見ても同じ納得がいく客観的な答えを導き出してくれる。

例えば、人類がロケットを作って月に着陸し、実際に月の表面に立って、その映像を僕たちに送ってきたら、誰もが「月にいるのは兎ではなくクレーターだった」と認めなきゃならないわけだものね。


月着陸


ちなみに真亜基さんは、テレビで人類初の月着陸のライブ映像を見た世代らしいんだ。

そして科学という偏見の一番すごい所は、人間が科学的方法を通して得た一つの偏見が、本当にこの自然界で通用するのかどうかを、実際にモノを作ることで証明して見せてくれるところなんだ。

例えば、今、例に挙げたロケットだけど、それが実際に飛んで月着陸を成功させたということは、「あなた方が得た偏見は、この自然界という私の姿を正確に見ていましたよ」と自然界様が満点の評価をしてくれたということだからね。

僕たちをこの地球上に産んでくださった自然界様に太鼓判を押してもらえたということなら、僕たちは水戸黄門様に印籠を突き付けられたみたいに、もう誰もがこの偏見を「ハハーッ」って受け入れて共有せざるを得ないじゃない!?

このことはとても重要だよ。

なぜって、例えば、今まで宗教間の対立は、様々な偏見の違いによって起こっていたわけだけど、科学はこれを克服して世界が一つになれる可能性を秘めているということだからね。

僕は、人類はもう宗教を捨てなければいけないなんて言ってるんじゃないよ。
異なる宗教の人たちでも一つになれる可能性を秘めている、と言いたいんだから誤解のないようにね。
だってどんな宗教の人でも、今では分け隔てなく、科学が作った機器や交通手段なんかを疑うことなく利用しているでしよう!?



前回のメルマガにも書いたけど、人間の本当の幸せは、人間同士の「共感」につきると思うんだ。

共感は何よりも強いんだ!
これは人間にとって、ほんとに何よりも一番なんだ!

どんな悲しみもどんな恐怖もどんな苦しみも、共感さえあれば人は乗り越えていけるんだ。
君がどんな不幸に見舞われたとしたって、共感さえあれば、そんなもの笑い話になってしまうくらいに、それほど僕たちに必要なものなんだ。

そして、世界中の人たちが「同じ偏見」を共有し、互いに「共感」し合って強く強く生きられる場所に、本当は科学はもう僕たちを導いてくれていたんだよ。
それを本当の幸福と言わずに、一体何が僕たちの幸福だというんだろう!

後はみんながそのことに気づきさえすればいいだけなのに。
そうすれば、世界中の人がすぐにでも共感し合って、仲良く手をつなぎ合って、一つになることができるというのに。
そうすればすぐにでも、世界が武器もお金も必要のない平和な世の中になるというのにね。

でも最初に言っとくけど、残念ながら科学者たちでさえ、それぞれ自分の分野の研究で忙しくて、「そのこと」に少しも気づいていないんだ。(;-_-) 

僕が自分探しの旅でたどり着いた時に発見した不思議な木にはね、今まで食べたこともないような果実がなっていたんだ。
でも僕がこれから君をお導きできるのは、その場所までだよ。後は、君自身の手でもぎ取って味わってみて欲しいんだ。不思議な果実の味を‥‥。

そして、まだ誰も味わったことのないその果実の味を、みんなにも教えてあげて欲しいんだ。
(つづく)


次週のタイトルは「宇宙で一番小さい単位」です。



■編集後記
前回の記念すべき創刊号を見てくれた発行人は、先生と言われたのがよほど腹が立ったらしく「僕のことは金輪際、先生とは呼ぶな!」と怒鳴るんだ。
頭にきちゃうよ。

それならどうして美術の先生になろうなんて考えて、一生懸命勉強したのかねえ。そして、せっかく受かったのに今度は断ったりして。
完璧主義すぎて何事にも決断できず優柔不断で、石橋を叩き過ぎていつも壊してばかりいるんだ。もう面倒見きれないよ。

きっと僕がいなければどこにも渡れない奴なんだ。

わかりましたよ、先生。もう二度と先生のことは先生と呼ばないようにしますよ。ねっ、せんせ~い。せんせ~い。それはせんせ~い。♪
ああ、すっきりした。



【💐世界を平和にしない愛💐】NO.2 愛の一般的定義


★★★ 愛の一般的定義 ★★★

愛って何? と聞くと、愛は理屈じゃないわよ! って答えが返ってきそう。ねえ、そんなに難しく考えないで!
どうして難しく考える必要があるの?
もっと、ロマンチックに愛をとらえられないのかしら?

僕には人々が、愛を考えることを避けているように思えてなりません。
まるで、寝ている子を起こさないように、愛をそーっとしておこうとしているみたいです。
愛を考えることを避けるというより、愛を考えることで、その先にあるものを見てしまうことを恐がっているのかもしれません。

でも、僕がこれからメルマガでやろうとしていることは、愛という魔法の言葉で封印された箱をこじ開けて、その中身を覗き見るようなことです。

そんなのって、ちっともロマンチックじゃない。詩的じゃない。でも、やらなければいけないことだとも思うのです。
世界を平和にする愛を知るために。


今、虐待に苦しんでいる子供たちがたくさんいます。
虐待をしてしまう、その親も苦しんでいます。
一人の人を愛してしまったことで、苦しんでいる人たちがいます。
自分の愛する国を守るために苦しんでいる人たちがいます。
大人も子供もみんな苦しんでいます。
でも、その苦しみの原因は誰にもわかりません。わからないからよけいにイライラします。

それはきっと、誰かが、その原因を箱の中に押し込め、そして愛という魔法の呪文で蓋をしてしまったからなのではないでしょうか。

その箱は、愛という魔法の言葉のせいで、まるで宝飾品が入っている箱ででもあるかのように綺麗です。
僕はその綺麗な箱の中身を知りたかったのです。
愛という魔法の言葉でごまかされたくなかったからです。

そして、その箱の中身を知った今、何故、誰かが封印しなければならなかったのかわかりました。

今、その中身は、数千年の眠りから覚めて僕たちの前に姿を現します。
数千年経った僕たちがやらなければいけないことは、愛という魔法の呪文で、もう一度封印することでしょうか?

違います!!


数千年の間に、僕たちはその中身とうまくやっていけるだけの知恵を身につけました。
もう、ごまかす必要はない、僕は今そう感じているのです。

愛という魔法の言葉はやっかいなもので、箱の中身を美化することができるだけでなく、愛という言葉そのものまでをも美化する力があります。

それは、一般の社員だった人がある日、課長に任命され、課長になったことで一般の社員ではなく課長的な人間になっていくのと同じようなことかもしれません。

愛は愛であることを求められ、そのことによってさらに愛的な愛になっていったのです。
愛という言葉は、世界中の美しいものの代名詞ででもあるかのような愛になっていったということです。

僕たちが「世界を平和にしない愛」に気づかないのは、そのせいなんだと思います。だから、愛を考えることにまで蓋をしちゃうと、永遠に救われないと思いませんか!?

そこで、まず、一般的な愛の定義から始めます。


愛とは「甘えたい欲求と甘えを許すことができる心が出会った時に起こる感情である」と定義します。

たとえば、ある暴走族の少年がいて、テレビの取材で「君たちは社会の迷惑というものを考えないのか?」と聞かれた時、「自分が楽しけりゃいいんじゃねえの?」と答えたりしているのを見た視聴者は「ふざけんな甘えやがって!」
と憤るわけですが、その時、暴走族の甘えを許せない視聴者は、彼に対して、当然、愛はありません。

ところが、その少年には真面目な彼女がいて、彼の行為に対しては批判的な言葉も吐くのですが、それでもどこか放っておけない、つまり、彼をその容認されない行為もひっくるめて広い心で包んでいるとします。

そこに愛が存在すると思うのです。

ここから「愛とは、甘えたい欲求と甘えを許すことができる心が出会った時に起こる感情である」という結論を導きだしました。

「愛とは、甘えたい欲求と甘えを許すことができる心が出会った時に起こる感情である」
と書いてしまったので、愛よりも前に、甘えについて書かなければならなくなりました。

僕が土居氏の『甘えの構造』という本に出会ったのは、10年以上も前のことです。
その頃僕は、先ほど書いたように、

* 愛とは‥‥甘えたい欲求と甘えを許すことができる心が出会った時に起こる「感情」である。

* 甘えとは‥‥本能の求める欲求を押し通そうとすること、あるいは本能が最も居心地がよく感じる状態を維持しようとすることである。

‥‥という自分の考えを検討中でした。
そんな最中に図書館で偶然見つけたのが、この『甘えの構造』だったのです。

甘えの構造



だけど最初に断っておきます。

もしあなたが、精神医学者、土居健郎(たけお)という人の「甘え」に関するたくさんの書物の中の一つでも読んだことがあり、彼の見解を何の疑問も持たずに受け入れている人なら、これから僕が書くことになる最終的な「甘え」の結論は、全く彼の見解と逆であることに違和感を持たれるかもしれません‥‥。


最初に土居健郎氏のことをご紹介します。
1920年生まれの精神医学者で、30歳の時アメリカに留学したのですが、その際に受けたカルチャーショックがあまりにも強烈で、その経験から、ルース・ベネディクトの『菊と刀』のような日本人論を書こうと思ったそうです。

そして日本にあって欧米にはない言葉「甘え」を発見し、それを研究することで日本人が理解できるのではないかと考えました。

甘えという言葉を無理やり英語に訳すと、wheedle(ねだる)とか、 dependence(依存)などとなり、アメリカ人が最も恐怖する状態だそうです。

つまり、自立を標榜(ひょうぼう)するアメリカ人には、年を取って他人に依存しなければならなくなる状態というものが、恐怖にも値するということです。

それに引き替え、日本は「甘え」というものに寛容な(持ちつ持たれつといった)文化だと主張します。
彼に言わせれば、例えば、「義理」、「人情」、「遠慮」などが古くからの支配的なモラルであるということは、日本がいかに甘えの瀰漫(びまん)した社会であるかということの証明でもあるということです。


僕は彼の「甘え」に対する洞察力の鋭さに、ただただ感服し、全てを肯きながらため息をつきつき繰り返し読んだものでした。

ところが、何度も読んでいるうちに、彼の見解「日本は甘えの瀰漫した国。欧米は甘えを恐怖する国」というのは全く逆だったと、ハタと気づくことになるのです。
(つづく)

次週のタイトルは「土居氏の日本人論と甘え論」です。

★編集後記
創刊号を読んで、メールをくださった方ありがとうございました。
楽しみにしてくださっている方もいらっしゃれば、中には厳しいご指摘をされる方もありました。
まだ始まったばかりですから、一を聞いてすぐに反論されるのではなくて、最後まで気長にお読みくださったら嬉しいです。
みなさんのご意見は、ご期待に沿えるよう、このメルマガに必ず反映させていただきますので最後までよろしくお願いします。



《🐢自分探しの旅 with マーキー🐢》NO.3 宇宙で一番小さい単位

■ 宇宙で一番小さい単位

今日はちょっと難しい話をするけど、とっても大事なことなんでよく聞いてね。

現代科学が解明している最も小さい単位ってなんだか知ってる?

例えば、残酷のようだけど、僕たちの身体の手や足や頭をどんどんバラしていって、その手や足や、それに髪の毛なんかももっともっと細かく切り刻んでいくと、ついには細胞というものに分解され、細胞もどんどんバラしていくと分子というものになり、その分子もバラしていくと原子になり、原子もバラしていくと原子核と電子に分かれるんだよ。

そして、その原子核は陽子と中性子からできている。

素粒子


電子はマイナスの電荷を持ち、原子核の周りを動き回っている。この電子が動き回っている範囲が山手線くらいの広さだとすると、原子核はリンゴの大きさくらいだと考えられているんだ。

このリンゴをもっと小さくして直径1ミリの砂粒だと考えたら、電子は直径100メートルのグラウンドの中を動き回っている計算になる。
原子の中って隙間だらけなんだね!

しかも、100メートルのグラウンドの中を動き回っている電子の質量といったら、陽子や中性子の2000分の1くらいしかないんだ。

人間はそんなものを発見しちゃうんだから、凄いと言えば凄いよね。

原子核は陽子と中性子からなり、陽子が電子と同数のプラスの電荷を持っているので、互いに引きつけ合っている。
でも、陽子と中性子はそれぞれもっと小さなクォークという素粒子で構成されていることがわかってきた。
さっきの図の最終的に行き着いたところだよ。


ちなみに、先生、、、いや、真亜基さんはクォークなんて知らなかったらしい。もしかしたら彼がちゃんと勉強しなかっただけかもしれないけど、陽子と中性子までしか学校では習わなかったと言ってる。
40歳間近にもなって、初めてクォークを知った時の彼の間の抜けたような驚いた顔、見せて上げたかったなあ。(^-^ )


それまで陽子にプラス1という最小の単位をつけていたのに、クォークが出現しちゃったため、クォークにはマイナス3分の1とかプラス3分の2などという半端な数をつけなければならなくなっちゃったみたいなんだ。

だから、今後もっと小さな粒子が発見されれば、もっと半端な単位が出てきてしまうことになる。

あーあ、だんだん計算が難しくなっちゃうなあ。‥‥って僕が計算するわけではなかった。

現在最も小さい単位、つまり、素粒子(それ以上分割できない、内部に構造を持たない点状粒子をイメージしたもの)と言われるものは、このクォーク(6種類あると言われています)と、電子を含むレプトン(これも6種類あると言われています)と、このクォークやレプトンの間に働く力を媒介するゲージ粒子たちだよ。

6つの素粒子



僕たちの身体や地球、そして宇宙に存在する全ての物質が、元はと言えば、これらを組み合わせただけでできあがっているわけなんだ。
しかも、全ての物質を構成するために使われている力は、今のところたった4つだと考えられている。

ちなみに、その4つの力とは、クォーク同士を結びつける「強い力」、電子と原子核を結びつける「電磁気力」、原子核の崩壊などに働く「弱い力」、全ての物質に引力として働く「重力」、この4つだよ。


宇宙の始まりは、一つの力だったものが4つに枝分かれしたのではないかと考えられているため、現在、この4つを統一する大元の力を科学者たちは探しているところなんだ。

物質が宇宙を作っているという言い方もできるけど、この4つの相互作用が宇宙を作っていると言い変えることもできる。

何故かと言うと、物が存在するには相互に働く力があるからで、僕たちが物を見ることだって実は物と物との相互作用なんだ。
物から飛び出した光子、あるいは物の表面で反射された光子が、人間の目の中の細胞を構成する分子と相互作用をしているわけだよね。


さて、現代科学は、陽子、中性子、などを構成しているもっと小さい単位、クォークやレプトンという素粒子にまでたどり着いているという所までお話ししたよね。
難しい名前やその分類は別にして、僕たちの身体や地球、そして宇宙に存在する全ての物質を作っている最も小さい単位を突き止め始めているということなんだ。

古代の哲学者デモクリトスは、驚くことに、現代の原子論にも通じる理論(アトム論)を打ち立てていたんだ。
アトム(原子)というのは、もうそれ以上分割が不可能なものという意味で、モノだけでなく色や味や魂なども目に見えないほど小さなアトムの組み合わせによる変化に過ぎないと彼は考えた。

デモクリトス

これは、現代科学が到達している考え方と同じだよね。

しかも、アトムが渦巻きのように集まって、そこから球形の組織ができてくるという、星雲説(せいうんせつ)の元祖のような世界生成論(せいせいろん)さえ唱えていた。

だけど、万人を説得する根拠はどこにもなかったんだ。

実証できなければ単なる信念に過ぎない。

現代科学と古代哲学の最も大きな違いはこの点なんだ。
彼ら(古代哲学者たち)は、頭の中であれこれと考えるだけで、自然を観察したり実験したりして実証しようとしなかった。

実験するための大掛かりな装置がなかったし、自然を観察するには時間が足りなかったということもあるけど、それよりも何よりも純粋に、考えることが楽しくてしょうがなかったのかもしれないね。

ところで、僕たちは高性能の電子顕微鏡を使っても、やっと原子の配列を見ることができるくらいで、誰もその内部を見たことがないのに、どうして真中に原子核があって、その周りを電子が回っているという構造がわかるのでしょうか?

それは、たくさんの実験から得たデーターを元にすると、そのような構造であることが予測できるということなんだ。

また、分子の構造を図で説明する時、よく陽子や中性子や電子を丸い粒として描くけど、誰一人としてそんな形を実際に見た者もいない。

例えば、電子などの素粒子は実験から得たデーターを元にすると、粒状であると考えられるけれども、波の性質も兼ね備えているということもわかっている。

確かにそれは存在するんだけど、実体は未だにはっきりしない、というのが本当のところじゃないかな。

それに素粒子の世界は、常識では考えられないことがたくさ~んあるみたいなんだ。
そこから不確定性原理とか、確率解釈という考え方も生まれてきた。
これは、実に興味深い話題だし、僕たちがこれから自分を知るためにはどうしても乗り越えなければならない壁でもあるんだ。

なんと、科学者でも乗り越えていない壁を、僕たちはこれから乗り越えようとしているんだよ!


でも、そこを通過する前に、僕たちは一旦、宇宙の始まりにまで遡(さかのぼ)って、この旅を順序よくだどってみることにしようね。
(つづく)

次週のタイトルは「宇宙の始まり」です。


■編集後記
今回は難しい名前がいっぱい出てきたけど、このメルマガは別に物理学の講義じゃないから、みんな忘れちゃってもかまわないよ。

僕たちは、その中から、自分探しの旅に大切なエキスだけを抽出すればいいんだ。

今日のテーマでの大切なエキスは、「ええーっ、現代科学は、ついに宇宙を支配していた究極の単位を発見しちゃってるんだ、すごいなあ!」ってことでもいい。(^-^ )

全ての物質やあらゆる現象を作っている根本を発見しちゃっているんだ。
でも、もっと大切なことを見落とさないでね。

ここに到るまでの道は、決して平坦なものではなかった。
同じ科学者仲間の疑い、からかい、妬み、中傷、そういったものを乗り越えてきたからこそ、万人を納得させるだけの「偏見」を打ち立てることができているんだ。

疑い、からかい、妬み、中傷‥‥、それらを悪いと言っているんではない。
今、僕たちが自分探しの旅で一番学ぶべきものは、むしろ安易に他人の言うことを鵜呑みにしない、科学者たちのその疑い深い態度なんだ。

創刊号で宗教の良い面を「無邪気な思い込み」と言ったよね。でも、今日はそれが宗教の悪い面だと言っている。

一体どっちなんじゃー! なんて怒んないでね。

僕たちの科学はもう始めてしまったということなんだ。疑うことから‥‥。

以前は「信ずるものは救われる」と言われていたよね。
今では、疑うことこそ、僕たちを真理へと導いてくれる最短距離となってしまったんだ。
なぜなら、世界が科学的自然解釈方法を推し進めている昨今、真理とはその結論のことだから、、、、、。

今では、宗教は科学に力量の差を見せ付けられてしまった。
宗教は、まるで赤子(あかご)が手をひねられてあがいているかのように僕には見える。
でも、初めに言ったように、科学も一つの偏見であることを決して忘れないでね。
つまり自然を解釈するための一つの方法、一つの偏見に過ぎないんだ。

科学的思考方法や実験から得た「偏見」は、自然界でちゃんと機能するモノを作ることで初めて「偏見」から卒業して自然界に認められることになる。

それに、人間が自然界の現象を認識し、そしてそれを言葉や記号というものに置き換えたものはすべて偏見である以上、正しい偏見も間違った偏見もない。

「偏見」は、ある目標を設定したときだけ、良いか悪いかの判断ができるだけなんだ。

例えば、「世界平和」という目標を掲げると、その偏見は良いか悪いか判断できる。

どうやら、宗教は世界平和には向かない偏見だったようなんだ。世界中の万人を納得させるだけの客観性に乏しかったからなんだよ。(v_v)



【💐世界を平和にしない愛💐】NO.3 土居氏の日本人論と甘え論

★★★ 土居氏の日本人論と甘え論 ★★★

土居氏は、西欧にはない言葉「甘え」を使って日本人が理解できるかもしれないと直感したわけですが、その直感を支えていたものは次のような考え方だと思います。

「日本的思惟(しい)の特徴については諸家(しょか)がいろいろな説を述べているが、畢竟(ひっきょう)するに西洋的思惟に比較して非論理的直感的であることをいうものが多いようである」(『甘えの構造』P.38)


土居氏は、日本的甘えの世界を批判的否定的に見れば「非論理的、閉鎖的、私的」であり、肯定的に見れば「無差別平等を尊び、極めて寛容」であると考えているようです。

この日本的な思惟、「難しいことを言わずにみんな仲良く許しましょう」って感じのものに「甘え」を直感的に重ね合わせてしまったのでしょう。

うーん、その直感、わかるような気もしますよね。何か、なあなあで、甘え合っているようにも見えなくはないですから。


ところで、精神医学者というのはなかなかの文学者でもあります。
というより、言葉というのは人間の心理を直接表すものだから、言葉に敏感でなければ精神医学者は務まらないのでしょう。
言葉の中には人間の心理が刻み込まれているからです。

土居氏の着眼点は、僕のようなものが言うのも何ですが、確かになかなか鋭いものでした。
「甘え」というのは、人間の心理を知る上でまったく魔法の言葉のようなものです。僕たちはこんなに簡単な言葉で人間のほとんどすべての心理を説明できるのです。

例えば「ひねくれる」という心理を土居氏が小説を書いたなら次のように書いたかもしれません。

「和夫は、小学二年生になるとすっかりひねくれてしまった。ひねくれるとは、ねじけてすなおでない態度をとることであるが、その原因は、大好きだった渡辺先生とのその一件だった。学校にも行かず、彼女にまったく背を向けてしまったかに見える和夫ではあるが、ひねくれるというのは、根本に彼女に対する甘えがあったのである」

これは僕が勝手に想像して書いた小説風の文章ですが、小説ってあんまり心理を説明し過ぎるとつまらないものになりますね。(;-_-)
ひょっとしたら、「つまらない」という心理も根本には「甘え」があるのかも、、、。


僕は、土居氏の「甘え」に関する他の本も読んでみました。

いたる所で、その洞察力の深さに驚嘆させられ、全てに関して肯定(うなず)かされました。

例えば、土居氏の著書の中から僕が読書ノートに抜き書きしていたものをいくつか列記してみます。

* 甘えという言葉には、甘美で何でも許せるような雰囲気が伴っているが、英語で相当する言葉‥‥dependence(依存)など‥‥にはそういう感じがない。

* 甘えとは、愛されたい大切にされたいという人間の欲求であり、他人の善意(好意)をあてにして、それによりかかる(依存する)ことのできる特権(あるいは個人の能力)である。

* 「とりいる」は、「甘える」ことへの渇望(かつぼう)が、他人に満足を与えて恩義を感じさせることによって、偽(いつわ)られている。

* 「ひがむ」は、自分の甘えの当てが外れたことに起因する。

* 「すねる」は、素直に甘えられないからそうなる。しかもすねながら甘えている。その結果、「ふてくされる」「やけくそになる」。

* 「うらむ」は、甘えが拒絶されたことで相手に敵意を向けること。憎むよりも纏綿(てんめん)としている。

* 「人を食った態度」「相手を呑んでかかる」「相手をなめてかかる」は、甘えの欠損をカバーするために現れる態度。人を呑んだり、食ったりしている者は、表面的には威勢がよさそうに見えるが、内心は孤立無援なのである。彼らは、「甘えの欠損」をカバーするためにこのような行動に出ると考えられる。


ここに挙げたものだけでなく、精神医学用語で使われているたくさんの難しい言葉も、甘えという簡単な言葉をちょっと応用させるだけで、十分説明できるものがたくさんあります。

僕はこの「甘え」自体に対する彼の洞察は、優れたものであると認めます。

しかし、ある日を堺に、彼の見解「日本は甘えの瀰漫した国。欧米は甘えを恐怖する国」というのは全く真逆だったと気づくことになったのです。
(つづく)

次週のタイトルは「日本人は本当に甘えているの?」です。


★編集後記
ちょっと難しい内容になってきました。こんなメルマガとは思わなかった、などとすぐに登録解除しないで下さいね。(v_v)

甘えを考えることは、なぜ、愛が世界を平和にしてくれないのかを考えるために必要な通過点なのですから。

ところで、僕が書いた物語の主人公マーキー君が執筆しているメルマガ《🐢自分探しの旅 with マーキー🐢》で、彼は、前回なかなかうまい表現を使っていました。

僕が自分探しの旅でたどり着いた時に発見した不思議な木にはね、今まで食べたこともないような果実がなっていたんだ。
でも僕がこれから君をお導きできるのは、その場所までだよ。後は、君自身の手でもぎ取って味わってみて欲しいんだ。
不思議な果実の味を‥‥。


悔しいけど、僕の書きたいことをうまく書かれてしまいました。やっぱり僕の方が、クソ真面目で文章が下手なんだと思い知らされました。

僕と彼とは、結局は同じ山の頂上に違うルートで登ろうとしているようなものなのです。
だから、僕たちはきっと、最後には彼と同じ場所で落ち合うことになるでしょう。

それが彼の見つけた不思議な木が立っている場所です。
あなたが途中ではぐれずに、ちゃんとその場所に辿り着けることを願っています。



《🐢自分探しの旅 with マーキー🐢》NO.4 宇宙の始まり

■ 宇宙の始まり

夜空に輝く満天の星空を眺め、僕たちの遠い祖先は何を思ったのかなあ?
神話として語り継がれる神々の姿を見たのかもしれないね。

僕たちの運命を自在に操る神の存在に畏怖(いふ)と畏敬(いけい)の念をこめて祈らずにはいられなかったかもしれない。

だけど、現代の科学者たちは、そういった見方とは全然違う見方をしたんだ。


高倍率の望遠鏡の開発により、エドウィン・ハッブルという人が緻密な観測の結果、近い銀河より遠くの銀河ほど、早いスピードで我々の地球から遠ざかっていることを突き止めたのは、1929年のこと。

ハッブル


その意味を論理的に考えていき、彼はついに、この宇宙は膨張しているということを発見したんだ。

そうすると、この宇宙は以前はもっと小さかったということになるよね。

はるか昔には、もっと密度が高く、気の遠くなるほどの高い温度の火の玉だったんじゃないだろうか、それが大爆発することによって宇宙は始まったに違いないと考えた人がいたんだ。

その仮説が原子物理学者ジョージ・ガモフの、有名な「ビッグバン理論」と言われるものなんだよ。

彼は、もしこの仮説が本当なら、宇宙には火の玉の名残(なごり)のエネルギー、宇宙背景輻射(ふくしゃ)があるはずだと言ったんだ。

でも、その理論はあまりにも画期的で証拠もなかったので、なかなか受け入れられなかった。

「ビッグバン」という言葉も、そもそも反対派の学者から、からかいの意味で付けられた名前だったんだよ。


ところが、その仮説から16年後(1965年)、全くの偶然なんだけど、宇宙のあらゆる方向から24時間休むことなく送られ続けてくる謎の電波が、電波望遠鏡で捕らえられ、それが宇宙背景輻射に他ならないことがわかり、「ビッグバン理論」は証明されたんだ。

その後も、このビッグバン理論を証明する観測結果がたくさん報告されているんだよ。

ビッグバン


科学は安易に仮説を信じ込むような愚かな真似をしない、という好例だよね。
そして、誰が見ても同じ納得がいく客観的な答えを導き出してくれて、誰でもが同じ一つの見解にたどり着ける可能性を秘めている、という好例でもあるよね。


ビッグバン以前の宇宙には、「無からの宇宙創生論(そうせいろん)」とか、「無境界仮説」とか、「インフレーション理論」とか、「超ひも理論」とか、「膜宇宙論」とか、たくさんの仮説があるけど、これらはまだ仮説の段階なのでここでは話題にしないよ。

でも、とてもスリリングで面白いよ。
興味があったらいろいろな本を読んでみたらいかがでしょうか。今では、わかりやすく書かれた本もたくさん出ているからね。
(つづく)

次週のタイトルは、「そして‥あらゆる元素(げんそ)が作られた」です。


■偏見とは
NO.2のメルマガで、「言葉は偏見を記述したものに過ぎない」と、僕は言ったけど、偏見という言葉を辞書で引くと

(1)かたよった見方。
(2)ゆがめられた考え方や知識にもとづき、客観的根拠がないのに、特定の個人・集団などに対して抱く非好意的な意見や判断、またそれにともなう感情。

とあるんだ。
要するに、「不適切なものの見方を指す言葉」という意味合いもあるんだけど、僕は不適切なものの見方という意味で使っているわけじゃないので、誤解しないでね。

単なる(1)の「.かたよった見方」という意味で使っているんだ。しかも、それは自然界の宿命であると捉えている。

どの偏見が適切なのかは、その偏見を主張する人が単に適切と思い込んでいるだけだから、あんまり合理的ではないよね。

僕が「偏った見方」を自然界の宿命と捉える理由は、動物も人間もみんな偏りの中で生きていると考えるからなんだ。
というより、偏りがあるから生きていけると言い換えた方がいいかもしれない。

「偏り」がない状態というのは、それはまるっきり「無」の状態のことだものね。そうでしょ!?
「偏り」は生物の本質、生きることの本質でもある、と言えると思うんだ。


動物が右足をちょっと動かす動作だって、それは、自然界に常に生じているちょっとした偏りに反応したわけだよね。
あるいは、自然界の偏りに反応した脳に、ある種の化学反応的偏りが生じ、それによって右足が動かされた、と言ってもいいと思う。

そもそも、この宇宙さえも「偏り」があって生まれてきたわけだよね。

何らかの偏りがなければ、プラスとマイナスが同数で均衡(きんこう)して打ち消しあっているゼロの状態のものから、何らかの変化が起きるなんてことあり得ないじゃない。

これは、宗教や哲学の話なんかじゃなく、現代科学が解明しているものなんだよ。(もっともこの現代科学も、いつも言うように一つの偏見なんだけどね)

そして、「言葉は偏見を記述したものに過ぎない」と僕が言う場合、生きているから生じる偏り(あるいは偏りから生じた生)を人間が認識して、それを言葉という記号に置き換えたものに過ぎないという意味なんだ。

下記の編集後記を読んでいただければもっとよくわかってもらえると思うよ。


■編集後記
今日の自分探しは宇宙の始まりのビッグバンにまで遡(さかのぼ)ったけれども、ビッグバンが宇宙の始まりなんかじゃないことは、君だって気づいていると思う。

そんなものでごまかされないぞ! って感じだものね。

僕たちが知りたいのは、始まりの始まりのその始まりは何なのか、ということだよね。

でも、もしそれを説明できたら今度はその始まりの始まりは何? ということになっちゃうので永久に疑問は解けないことになってしまう。

もしかしたら、科学的自然解釈方法ではどうしても解けない問題なのかもしれない。科学的自然解釈方法の限界なのかもしれないよね。

科学的自然解釈方法とは、自然そのものではなく、自然を言葉や数字に置き換えているに過ぎないわけだから、すでにそこで誤差が生じているとも言える。

ジェームス・マクスウェルという科学者がいたんだ。
1831年エジンバラで生まれた人で、電磁気の研究などで有名な人なんだ。
彼の残した言葉を紹介するね。
僕が大好きな言葉なんだ。

「科学こそ学問の真実に到る王道(おうどう)である。どこかで間違っても自然がその誤りを指摘するからだ」


皆さんは、彼の科学に対するこの信奉(しんぽう)をどう思いますか?
実に、た、だ、し、い、言葉だね。

学問の真実、と言っているところがミソなんだ。
逆に言えば、科学が真実を解き明かしたとしても、それは学問的真実でしかないとも言える。

僕はいつも、自然を解釈する方法はたくさんあるけど、科学はたくさんある一つの方法論に過ぎないと言っているよね。
どんなにたくさんの言葉や数字を並べても、それは決して自然そのものにはなり得ないんだ。

君を説明するのにたくさんの言葉や数字を用いても、それは君自身ではないのと同じことだよ。

それに君を説明する方法だって、無数にあるということ。

ところで、その科学が解き明かしてくれたすごい真実をご紹介します。 エヘン。

それは、「全ての現象には原因がある」ということです。

たとえ、この先ビッグバン理論がくつがえされようと、宇宙の始まりがついに解明されようと、それが科学的思考方法を元にしている限りは、この言葉だけは真理と言えるんだ。

科学が僕たちに与えてくれた最大の功績、それが「全ての現象には原因がある」という真実なんだ。


これがどんなに凄い気づきであるか、後でわかってくるよ。



【💐世界を平和にしない愛💐】NO.4 日本人は本当に甘えているの?

★★★ 日本人は本当に甘えているの? ★★★

「持ちつ持たれつ」という言葉が典型的な日本人のイメージです。
当の日本人は、その言葉に対してどんなイメージを持っているでしょうか? 日本人だって、決していいイメージを持っていないし、誇りを持って使っているとも思えません。

土居氏は「甘え」という言葉は欧米人にとって悪いイメージを持っているようなことを書いていますが、考えてみれば、日本人も「甘え」という言葉をいい意味で使うことはあまりありません。

母親が自分の子供のことを「この子は六歳にもなるのに、まだ甘えん坊なんですよ」と他人に言う場合、決して自慢しているわけではないはずです。


実は、日本こそ、本当は甘えを容認しない社会だったのです。
土居氏は、「義理」、「人情」などという言葉は日本が甘えを容認している社会だから生まれた、と言っていますが、僕は、日本はむしろ「甘え」が容認されない社会だから生まれた言葉だと思います。


例えば、「義理の柵(しがらみ)」などという使われ方をしますが、これは、人を束縛する義理を柵(さく)に見立てたものです。
義理などという言葉が存在する日本は、甘えが容認されている国とは言いがたいと思うのですが、いかがなものでしょう。

それと、「困っている人を助けるのが人としての人情だ」などという使われ方をしますが、これはむしろ「甘え」ようとしている人を見捨ててしまう社会に歯止めをかけているのではないかという気がするのです。

「人情」という言葉には、「人」という字が入る分、安心して心を通わせられないような、ほんの少し距離を置いた感があります。

その証拠に、親子や兄弟の間柄では、ただ「情」というだけで、「人情」などと大仰(おおぎょう)に言う必要もありません。

人情とは辞書によると「人がもともと持っている思いやり・情(なさけ)などの感情」とありますが、僕に言わせると、「人がもともと持っている血縁者に対する情(じょう)を、他人にまで拡大しようとする無意識の善意から、もともと持っていると思わされている感情」となります。

実はありもしない感情を、社会生活を円滑ならしめるために、人が元々持っているかのように使われ出しただけではないでしょうか?

辞書における意味は、そこの表層的な事象だけをとらえた解釈だと思います。


人情の薄い国民性、などとどこかの国民性をたとえる場合もありますが、それこそが素(す)のままの人間の姿であって、人情味がある人というのは、そのような躾(しつけ)を受けて育ったのではないかと考えるのです。

人情とは、相手の「甘え」に対して手を差し伸べる思いやりの心です。

日本という国は、この言葉でもって、困っている人を見捨てようとする人に対して罰する意味合いを持たせたり、また手を差し伸べた人を褒める意味合いを持たせて、社会を円滑にするための不文律(ふぶんりつ)の規範を作らねばならない国だったんじゃないでしょうか。

日本が、むしろ甘えに対して厳しい社会であったことは、僕たち日本人が一番よく知っています。
「武士たるもの甘えるわけにはまいらぬ」とか、「男子たるもの甘えてなるものか」みたいな倫理観が日本にはありますが、自分に非常に厳しくする社会です。

戦国時代には肉親であろうといつ殺されるかわからない社会だったし、政治や商売のため家と家の政略結婚(愛のない結婚)を強いられた社会、家においても厳しい縦の戒律があった社会、そういった歴史を経過してきた日本でした。

日本人特有に見られる「遠慮」も、後天的なしつけに負うところが大きい意識です。つまり日本人が遠慮深い国民性であると言うより、遠慮しなければいけないような風潮の中で育てられているわけです。

日本は、甘えに対して厳しく律するようにしつけられる社会だったわけです。

でも、他人に甘えないということは、逆に言えば他人を避けているとか、他人を信用していないということにもなり、それが過度になると社会全体がギスギスした関係になり過ぎるので、駆け引きとしてある程度他人に甘えることが社会を丸く納めるコツだよ、みたいなバランス感覚が生じてきたのでしょう。

「まあ、ひとつよろしくお願いします」と頭を下げて甘えてみて、甘えられた方はちょっといい気持ちになり、「よっしゃ、よっしゃ」などと言って、これによってお互いの関係が丸くなり、交渉もうまくいくといった感覚です。

そこのところだけを見て、土居氏は「日本の社会構造は甘えの心理を許容するようにできあがっている」と見てしまったのではないでしょうか。

まさに、日本人の甘えは、社会的に作り出された「甘え」ということができると思います。人間に本来備わっている甘えを、社会的に抑制し過ぎたせいで、人間関係にも摩擦が生じてしまい、その摩擦を緩和するために生まれた甘えなのでしょう。

あからさまな論争は避け、あるいは覆い隠して、公私において社会的な調和を重んじるこのような日本人の態度は、フランクな対人関係を好む欧米人と違い、そのようにしなければ調和を保てないほどギスギスした(あるいは自分を厳しく律した)対人関係を結んでいる社会だったからです。

僕がそのように考える理由は、欧米人が理解に苦しむ商売上の「持ちつ持たれつ」といったバランス感覚も、我々日本人が生来(せいらい)持ち合わせているものではなく、また決して潔(いさぎよ)い気持ちからでもなく、心のどこかで自分の「持ちつ持たれつ」の行為を恥ながらも、生きる知恵として用いていると感じているからです。

その証拠に、日本人である我々だって、子供の頃は、大人たちの「持ちつ持たれつ」が理解できなかったではないでしょうか!?
(つづく)


次週のタイトルは「欧米人は本当に甘えないの?」です。


★編集後記
愛についてのメルマガですが、なかなか愛という言葉が出てきません。もう少し甘えについて書かなければならないのです。

愛という魔法の言葉で封印された、箱の中身を覗き込む必要があるからです。
我慢してくださいね。(v_v)




《🐢自分探しの旅 with マーキー🐢》NO.5 そして‥あらゆる元素が作られた



■ そして‥あらゆる元素が作られた

大事なことなので、もう少し宇宙の話をさせてね。

ここでは証明された理論、ビックバン理論以降のことを考えていこうと思う。
ビッグバンの最初には、NO.3のメルマガでお話した素粒子、つまりクォークとか電子とか光子などしか存在しなかったんだ。

その直後、計算では1000分の1秒後ということだけど、このクォークが三つずつ結びついて、陽子や中性子ができたんだよ。

クォークには性質の異なる二種類のクォークがあるんだけど、それをアップクォークとダウンクォークと呼んでいるんだ。

アップクオーク・ダウンクオーク


ちょっと細かくなるけど、アップクォークはプラス3分の2の電荷(でんか)を持ち、ダウンクォークはマイナス3分の1の電荷を持っている。
アップクォーク2個とダウンクォーク1個で陽子ができ、アップクォーク1個とダウンクォーク2個がくっついて中性子ができるんだよ。

それぞれ計算すると、陽子はプラス1の電荷、中性子は0になることがわかるでしょう!?
計算が得意な人はやってみてね。

要するに、人間がわかりやすいように勝手に陽子とか中性子とか名前を付けただけで、実はその中身を詰め替えただけのものなんだ。

このようにしてできた陽子は水素の原子核そのものだし、陽子二つと中性子二つがくっつくとヘリウムの原子核ができる。

さて、宇宙の温度はビッグバンから生まれた宇宙空間の膨張とともに下がり始めるよ。

ある程度下がると、それまでプラスの電化を帯びていた原子核とマイナスの電荷を帯びていた電子が結びつき、電気的に中性の「原子」が作られる。
それが、ビッグバンから30万年後と考えられているんだ。

つまり、宇宙最初の原子、水素やヘリウムの原子ができたのは、ビッグバンから30万年後ということなんだよ。

ビッグバン


中性の「原子」ができることで、それまで原子核や電子に散乱されていた光の粒子(りゅうし)は直進できるようになり、宇宙は「晴れ上がり」という状態を迎えることになる(上図参照)。
この「晴れ上がり」をもってビッグバンは終わりと言われているんだ。


ところで、この宇宙の膨張と並行してどんどんと温度も下がっていくわけなんだけど、ここに疑問点が出てくる。

原子核はプラスの電荷を持っているので、本来はそれぞれ反発し合うはずなんだ。

この反発力に逆らって原子核同士をぶつけるには、温度を高くして原子核に速い速度を与えなければいけない。

ビッグバン直後の超高温・超高密度の状態があったから融合(ゆうごう)が可能だったわけで、宇宙が膨張とともに温度が下がるにつれて原子核は融合しなくなるはずなんだ。
だから理論的にはヘリウムより重いものはできないことになるんだよ。

では、実際に存在するたくさんの元素は、一体どこでできたのでしょうか? それは、超高温・超高密度がほぼ一定に保たれている天体の中。

天体は、今まで見てきた水素やヘリウムの原子が、宇宙に存在するダークマターという謎の領域に引きつけられてできたのではないかと考えられているんだ。


さて、太陽のように自分自身で輝いている星を恒星(こうせい)と言うんだけど、これは水素の原子核が融合してヘリウムの原子核を作る「核融合(かくゆうごう)反応」によるものなんだよ。
太陽よりも8倍以上重い恒星は、この反応が進んで中心部に重い元素がたまっていく。

例えば、三つのヘリウム原子核が融合して炭素原子核(陽子6個、中性子6個)を作る。

次に、この炭素の原子核とヘリウムの原子核が融合して酸素の原子核(陽子8個、中性子8個)を作る。

というようにして、ネオン、マグネシウム、ケイ素、硫黄(いおう)、カルシウム、‥‥鉄などと、鉄よりも軽いほとんどの元素が次々と作られたんだ。

そして、鉄はもう核融合をしないので、やがて重力と圧力のバランスが崩れ爆発が起きる。

この爆発を超新星爆発(ちょうしんせいばくはつ)と言うんだ。

僕たちの目には今まで見えなかった星が急に輝き出すので、新しい星という意味で「新星」などと呼ばれるけど、本当は星の最後のことなんだ。
この爆発によって、今度は鉄よりも重い元素が生まれることになる。

君も見たことのある元素の周期律表(しゅうきりつひょう)に載っている様々な元素が、こうしてできあがったんだよ。
地球が生まれる前のずっとず~と前に、すごいことが起こっていたんだよね。

周期律表


爆発した星の中心には中性子星(ちゅうせいしせい)かブラックホールができると言われているけど、爆発で飛び散った元素は、次の星ができるまでガスや塵(ちり)などの星間物質(せいかんぶっしつ)として待機していた。

そして、お互いに重力によって寄り集まったりしながら、銀河ができたり新たな天体が生まれたりして、現在の宇宙の構造ができあがったんだ。
‥‥ってかなり割愛(かつあい)したけど、これは別に宇宙論のメルマガではないので‥‥(汗)


太陽と地球は、この超新星爆発の時に飛ばされていた元素が濃縮されたガスによって、今から46億年前に作られたと考えられているんだ。

そのように考えると、僕たちの骨の中のカルシウムも、血液中の鉄も、身体の組織の炭素も、微量なあらゆる元素も、全てどこかの超新星が爆発して飛んできたものだと言えるんだよ。

大事なことなんでもう一度言わせてね。

君の体を作っている骨の中のカルシウムも、血液中の鉄も、身体の組織の炭素も、微量なあらゆる元素も、全てどこかで爆発した超新星から飛んできたものだと言えるんだ!

宇宙にある原子の総数はビッグバン以来一定だという学者がいるけど、それが本当なら、我々が死んだら、宇宙はその原子をリサイクルしてくれているということなんだね。
でも全く当たり前のことのように僕には思えるんだ。

だってこの宇宙が膨張しているということは、宇宙というのは風船のように閉じられた世界だということだよね。その閉じられた世界の中にある原子の総数は同じだと考えるのが普通だものね。


蛇足だけど、今から約50億年ほどで、太陽は燃料が尽きて赤色巨星(せきしょくきょせい)となり爆発を起こしてしまうそうなんだよ。
残念ながら、君も僕も後40億年以上はこの地球にいられないのは確実のようだよ。
ああ、これも全く当たり前のことだった。(^-^ )
(つづく)

次週のタイトルは、「ビリヤードってやったことありますか?」です。


■編集後記
今日も難しい名前がたくさん出てきたけど、興味がなかったらそんなもの覚えなくたって、まったくかまわないよ。

なぜなら、そんなもの人間が勝手に名前をつけて呼んでいるだけなんだもの。僕たちはもっと簡単に考えればいいんだ。もっと効率的に自分探しをしていかなくちゃ時間がいくらあったって足りやしない。

要するに、難しい名前の元素も、見方を変えれば、それを構成している陽子と中性子の数が違うだけ‥‥もっと言えば、その陽子と中性子を構成しているクォークや電子の数が違うだけ、つまり中身を詰め替えただけ‥‥。
ねっ、簡単でしょ!(^-^ )

でも、単純化することって、本当は自分探しにはとっても大切な要素だったんだ。



【💐世界を平和にしない愛💐】NO.5 欧米人は本当に甘えないの?

★★★ 欧米人は本当に甘えないの? ★★★

土居氏が、なぜ「甘え」という言葉が英語にはなく日本語だけに存在するかと考えて、その結論として、「日本社会は依存が容認され助長(じょちょう)されさえもするが、欧米社会は自立を強調する精神風土の中で、甘えのような感情は注目されず、したがってそれに相当する言葉も生まれる必要がなかったから」
と書いていますが、僕にはむしろ欧米社会の方が、ずっと甘えの心理を許容するようにできあがっているように見えます。

日常の挨拶でも、親子や知人と平気で抱き合ったりキスしたり、会話をしながら相手の身体に接触したり、あるいは恋人と人前でもキスしたり、「愛してるよ」とうるさいくらいにささやいたり、それを常に口にすることを要求したり‥‥日本人であるあなたは、そんな振る舞いが自然にできますか?


僕は、それを自然にできる欧米人が羨(うらや)ましいです。

日本は、前述したように社会を円滑にするために獲得した「甘え」ですが、欧米は理屈抜きの「甘え」です。
だからこそ、英語にはそれに見合う言葉も不必要だったのではないでしょうか?

今ここに欧米人の人がいたら、次のように話して聞かせたいと思います。

「日本人は、小学校に上がったら、母親や父親に体温があることをもう忘れてしまいます」
挨拶で親と抱き合うどころか、もう親の手に触れることさえためらわれるのです。そして、次のようにも言いたいです。

「結婚しても『愛してる』などという言葉、口が裂けても言ってはならない言葉でした。もし、それが言えないために別れることになっても、日本人はそちらを選択したでしょう」
確かに僕の父ならそうしていたでしょう。

欧米人には僕たち日本人のこんな悲しい性(さが)を理解できないでしょう。
欧米人の挨拶はすばらしいものです。世界平和に必要なものです。
僕は日本人だから自分を厳しく律して、心に固い壁を作っているので、互いの心が溶け合うような挨拶が生涯できません。

今でこそ日本人でも平気で握手をしますが、昔の日本人は相手の手に触れる「握手」という挨拶でさえためらっていました。

それは、僕たち日本人には「こだわり」という感情があるからです。

「こだわり」とは、土居氏に言わせると「気難しく、近寄りがたく、付き合いにくい態度をすることで、(心の中では甘えたくても)相互に甘える必要があることを否認しようとする感情」です。

こんなにもひねくれた精神構造の社会で、我々日本人は健気(けなげ)に暮らしていたのです。(泣)


日本は甘えが瀰漫(びまん)した社会だとか、欧米は甘えという言葉すら存在しないくらい甘えない社会だとか、そんなの大嘘です!

土居さん、それはまったく逆だったのです!

欧米人には甘えという言葉など不必要なくらい、甘え合うのは当たり前の営みだったのです。

英語では「ご自由にお召し上がりください」を "Please help yourself."
と言い、それを日本語に直訳すると「ご自分で助けなさい」となり、それじゃあんまり思いやりがないじゃないか、人情が薄い国民だ、と日本人である土居氏が感じるのは、我々日本人が「甘え」に飢えた人種だからです。

甘えに対して過敏過ぎるわけです。

貧しい国の人ほど「お金、お金」と言うのと同じです。

もう一度土居氏の言葉に着目してみます。
「欧米社会は自立を強調する精神風土の中で、甘えのような感情は注目されず、したがって、それに相当する言葉も生まれる必要がなかった」
さて、この「自立」という言葉‥‥実は、これこそ本当の意味の「甘え」ではないでしょうか!?

「欧米社会は自立を強調する精神風土」だとしたら、 "Please help yourself." は、彼らに取っては「自分でやらせてくれるんですか!? ありがとうございます」となるはずです。


竹が何にも遮(さえぎ)られずにすくすくと伸びるように、ありのままの自分が欲する方向にまっすぐ向かおうとすることを、自分に対する「甘え」(が容認されている状態)と解釈すると、実は欧米人の「自立」とは、それこそ、ありのままの「甘え」であったことがわかります。

日本とアメリカの大学生の比較文化的研究を行なったバーンランド氏は、「自分をどのように感じているか」という質問を彼ら自身に投げかけて、両者の間に次のような気持ちの持ち方の違いがあることを発見しました。

ちょっと古い資料ですが、現在でもそれほど違ってはいないと思うので、ご紹介します。

・日本の学生──遠慮がち、堅苦しい、無口、慎重、回避的、生真面目、よそ
よそしい、依存的(甘えというより他人まかせ)

・アメリカの学生──自信家、率直、くだけている、自発的、話し好き、自己をよく表現する

このことからも、アメリカの方が甘えが許容されている社会だと言えないでしょうか。

自分に自信を持ち、率直によく表現し、自立できるためには、社会にそのようなものを受け入れるムードがなければなりません。

日本は、自信家や、自己主張をする人や、出しゃばりや、馴れ馴れしい人を罰する雰囲気がありました。

バーンランド氏が書いています。
「(日本では)ことば以外の方法による直感的なコミュニケーションが賞賛され、尊ばれる。ものをはっきり言う人、特におしゃべりな人は、愚かだと見られ、危険とすら見られる。雄弁であるがために、権威や影響力のある地位につけないことすらある」

つまり、竹がすくすくと伸びようとすると上から抑えつけられるような社会だったわけです。
日本人の平均身長が欧米に比べて低かったのがそれを証明しています‥‥??
(つづく)

次週のタイトルは「甘えの結論」です。


★編集後記
愛についての連載なのに、甘えのことばかり書いてきました。
来週で「甘え」の話も終わり、その後はイヤになる程「愛」という言葉が出てきます。
もう「愛」はいらない、なんてことにならなければいいのですが‥‥。と、今から心配してしまいます。

でも、世界を平和にしてくれない愛なんて、ない方がいいのでは!?




《🐢自分探しの旅 with マーキー🐢》NO.6 ビリヤードってやったことありますか?


■ ビリヤードってやったことありますか?

「ハスラー」って映画知ってる?
若かりし頃のポール・ニューマンさんが主演した、1961年に製作された映画で、ビリヤード対決をする勝負師さんたちの物語らしいんだ。

以前、僕の産みの親、真亜基さんがぼやいていた。

ミーハーな彼は、「ハスラー」っていう映画の紹介に「煙草の煙の向こうから立ち現れるポール・ニューマンが、めちゃくちゃカッコイイ」って何かに書いてあったのを読んで、これはもう観るっきゃないって思ったらしいんだよ。

ハスラー


「スティング」(1973年)で渋さを見せたポール・ニューマンさんに憧れていた彼は、イメージを膨らませつつ「ハスラー」をビデオ屋さんから借りてきて、その部分ばかりを今か今かと期待しながら観てたらしいんだけど、その部分が、どこの部分?って感じであまりにも短かすぎて、がっかりしたんだって。
そのせいで、肝心の内容が全然わからなかったというのも彼らしいよね。

彼は、人喰いザメのジョーズが独特のテーマ曲に乗って現れるようなスリルを期待しすぎてたんだと思うよ。

「あれだったら、『第三の男』の中で、ビルに隠れているオーソン・ウェルズの顔に車のライトがあたる時の表情の方がずっと印象的だ」なんて力説してたけど、僕はどっちも観てないんでよくわからないんだよね。


それに、僕はビリヤードって一度もやったことがないんだけど、プロの妙技なら何度かテレビで見たことがあるよ。
あれはきっと、玉を突く時の方向と力と、それによってもたらされる玉の回転なんかにその後の全ての運命が決められる競技なんだね。


ビリヤードは日本語で撞球(どうきゅう)とも書くので、本当は「球(たま)を撞(つ)く」と書くのが正しいのかもしれない。でも、難しい字なので、ここでは「玉を突く」と表記するね。

なぜ今回はビリヤードの話かというと、現在、膨張しているこの宇宙が始まった瞬間を、ビリヤードの玉が突かれた瞬間だと想像してみて欲しいからなんだ。

 僕たちの住むビッグバンから始まったこの宇宙は、始めに玉が突かれた強さや回転や方向などによって、この宇宙としてのその後の性格の全てが決定づけられた、ということが言いたいんだよ。

つまり、どこまでも過去へとたどっていけば、僕たちのビッグバンから始まるこの宇宙を支配している全ての法則、そして、それによってもたらされる全ての現象は、まさにビッグバンという玉を突いた瞬間に決定づけられた、ということが言いたいんだ。

昔の人々は、玉を突いたその人を神と呼んだのかもしれないね。



さて、過去から現代に至る探究心旺盛な研究者たちによって、現在では数々の自然界の法則を解明し、それを応用した様々な「モノ」が作られているよね。
例えば、君の目の前の驚くべきこのパソコンやスマホ!

でも、これは誰かが新しく、何もない所から作り出したモノなんかではなく、自然界の法則やそれに伴って起こる現象を利用して、自然界にある物質を組み合わせて作られただけのものだよね。

そして、もっと言えば、誰かが作ったものなんかじゃなくって、誰かが、このビッグバンから留まることなく伝えられてきた方向性を持った力に作らされただけのものなんだ。

この意味をわかってもらえるかな?

今はまだ納得がいかなくてもいいよ。
今日までの難しい、あるいは君の興味を引かない話題も全て忘れてしまってもかまわない。
ただ一つ、前にも言ったけど、これだけは覚えておいてほしい。

「全ての現象には原因がある」

この真理こそ、科学が僕たちにもたらしてくれた、最大の功績と言ってもいいものなんだ。
一見、当たり前に聞こえるかもしれないけど、科学は実験や観察によって、この言葉を、まさに揺るぎないものにしたんだ。


例えばビリヤードの台の上に、今、A~Eの五つの玉が置かれているとするよね。初めにも言ったけど、僕はビリヤードのことは全く知らないのでルールは無視してね。

ある人がAの玉を突いて、それがBの玉に当たり、それがCの玉に当たり、それがDの玉に当たり、それがEの玉に当たってEの玉がポケットに落ちるとするよね。

では、Eの玉がポケットに落ちた原因をさかのぼると、Eの玉がポケットに落ちるような条件でDの玉が当たったからで、そのDの玉がEの玉に当たったのはCの玉がその動きをもたらすような条件で当たったからで‥‥と必ず原因があるはずだよね。


その原因を遡(さかのぼ)ると、最終的には、ある人がAの玉を突いたから、と言える。

つまり、ある人がAの玉を突いた瞬間の力と回転と方向などが、Eの玉をポケットに落としたということだよね。

これは、現在このビッグバンから始まる宇宙で起こっている全ての原因を遡っていくと、たった一つの原因に到るということを意味しているんだ。
そう思わないかい!?

それと、今、A~Eの五つの玉で説明したけど、そのうちのCの玉がなかったらEの玉はポケットには入らなかったわけだよね。


例えば、君が僕の記述した文章を今読んでいるのは、僕がメールマガジンを配信したからで、僕がメールマガジンを配信したのは○○○○○○だからで、その原因は○○○○○○だからで、その原因は○○○○○○だからで、と遡っていくと、ある一時点では、1856年の2月9日7時32分に、ニュージャージー州のトーマスが眠い目をこすりながら小屋の壁を修繕しようとして、誤って自分の指を金槌で打ちつけたからで‥‥などという原因も通過するかもしれない。

そして、ずっと、ずーっと遡っていけば、ついには、現在このビッグバン宇宙で起こっている全ての現象の根源、つまり、この宇宙ができた瞬間のビッグバンに到着するはずだよね。

ここまでは、いいよね?

つまり、ビッグバンから連綿と途切れることなく引き継いで作られている環境が、君に僕の文章を読ませていたということになるんだよ。

そんな話、信じられない!  と君は言いますか?

それではご自分でいろいろな物事の原因を遡ってみてくれるかなあ。どこかで途切れますか?

ちなみに、人間の死というものだって、そこですべてが終わって途切れてしまったかのように見えるけれども、それは、ビッグバンから連綿と続いてきた方向性を持った力が一時的に見せている現象に過ぎなくて、この宇宙が収縮してなくならない限りは、全てのものは絶え間なくつながって、その後の宇宙を作り続けて行くんだ。

次週のタイトルは「僕たちの前にレールはない!」です。


■編集後記
科学が実証した「全ての現象には原因がある」ということから導かれる真実。これは、当の僕だってにわかには信じられないものだったんだ。

だって、トーマスさんが指を怪我しなかったら僕も存在していなかったなん
て! なんだか頭が混乱しちゃうよね。
それじゃあ、今までのことを全部整理してみよう。

宇宙は偏りによって始まり、その偏りがあらゆる現象を生み出している。
そして、その偏りを人間が知覚したものが偏見(偏ったものの見方)であり、それを記述したものが言葉である。
ここまではいいよね。

偏りをどのように知覚するかは動物によっても違うし、人間だって一人一人みんな違う。人はそれぞれの偏見で生きているんだ。

だけど、その偏見を説明しようとすると、何かの基準を作らなければ無理だよね。その基準、というか約束事が言葉なんだ。

言葉が生まれて、人間はいろいろな自分の偏見を説明してきた。その説明に対しては正しいも間違いもないんだ。

例えば、真亜基さんが敬愛する誇り高き狩人(かりうど)時代のイヌイット(=エスキモー)には、厳しい自然の中を生き延びるためのたくさんの知恵や風習などがあったらしいんだけど、彼らは彼らなりに自然を解釈し、そしてそれは彼らが生きる上では正しい信念だったわけだよね。

だけど、彼らの偏見ではパソコンもロケットも作れない。

その逆に、科学という頭でっかちの偏見には、いきなりイヌイットのような厳しい自然の中に放り出されても生き延びるだけの体力や知恵はないかもしれないけど、少なくともパソコンやロケットを作れる。

要するに、科学は、自然界の中でちゃんと機能する何かを作るためには適した偏見だったということなんだ。

よく「科学は物騒な兵器をたくさん作ったから嫌いだ!」とか、「科学は人間味を感じられなくて冷たい感じがするから嫌いだ!」みたいなことを言う人がいるけど、それは科学が悪いわけじゃなくて、科学を利用して兵器を作る人や、たまたま冷たい人間が科学をしていただけのことなんだ。
それを勘違いしないでほしいな。
科学に善悪を押し付けるのは酷というものだ。

そういう意味から言うと、実は科学は、良心的に行動しようとする人が用いるなら、ある意味、世界を平和にするための、世界中の人たちが幸福に生きるための「ものの考え方」を示してくれてもいたんだよ。

僕たちのこの旅は、それを知る旅でもあるんだ。



【💐世界を平和にしない愛💐】NO.6 甘えの結論

★★★ 甘えの結論 ★★★

土居氏は、甘えという言葉は欧米社会には存在していなくて、もしそれを無理やり英語に訳すと、wheedle(ねだる)とか、dependence(依存)などとなる、と言っています。

しかし、「甘え」を「dependence(依存)」と訳すからいけないのです。

「dependence(依存)」とは他人に頼ることだから、他人に頼らず自分でやりたい、自立心旺盛な人たちから見れば、「依存」は「甘え」ている状態ではなくて、むしろ「自身の甘え」が阻害されている状態ですよね。

例えば、「幼児がスプーンで食事を食べさせて貰うような行為」を「依存」と呼ぶのでしょうが、ある程度年齢が進むと、子供というのは自分でやりたがるのではないでしょうか?
しかし、この「自分でやりたい」欲望を妨げられてしまったら、それはむしろ甘えが阻害されている状態になるわけです。

しかし、幼児ではなく成人した男性が恋人に「甘え」て、スプーンで食べさせてもらうことは「依存」とは言いません。こちらは「自身の甘え」を心地良く容認してもらっている状態です。
つまり、「甘え」と「依存」は全く別物です。

「甘え」を「dependence(依存)」と訳したことが、そもそもの間違いで混乱を招く原因だったのです。


そして、自立できる社会というのは、むしろ甘えを許容している社会だから可能だったわけです。
欧米こそ、個人の甘えに対して寛容な社会だったということではないでしょうか。

このように見てくると、土居氏が「日本は甘えに寛容な社会」と使う場合の「甘え」とは、処世術としての甘えであったことがよくわかってきます。

自分を厳しく律することを強制される厳しい社会環境の中で、そのせいで人間関係もギクシャクしてしまう弊害を緩和させるための処世術を、日本人は無意識で身につけていたということだったのです。

それを土居氏は、日本にあって欧米には存在しない「甘え」として捉えていたのです。


しかし、これまで見てきたように「甘え」にはもう一つの側面、つまり欧米には存在しない言葉であるけれども、むしろ欧米人の方が持っている「甘え」がありました。

その甘えこそ、この連載のNO.2に記述した「甘えとは、本能の求める欲求を押し通そうとすること、あるいは本能が最も居心地がよく感じる状態を維持しようとすることである」という定義につながっていくわけです。

さて、ここまで読んでいただいて日本人であるあなたはどんな感想を持たれましたか?

どちらの社会がいいか、一概には言えません。
日本のように、人目を気にして他人との関わりの中で自己の行動を決定していく社会には、大きな犯罪は起こりにくいかもしれませんが、精神的に健全だとも思えません。

欧米のように精神的に健全にすくすくと育てようとする社会は、対人関係
の摩擦(まさつ)を生み、また、ナルシシズムの問題も持ち上がってきたり、そこから特殊な犯罪が起こったりします。

でも、そんな論議を待たずに、今や日本は確実に欧米的な甘えに向かって進んでいます。

もう子供の中で、「注目される人間になって、お金を儲けて、お城のような家に住みたい」とか、「私のチャームポイントは目です」などとはっきり自己主張する人も増えています。

僕が子供の頃は、ちょっとでも目立った行動をしようものなら、無意識に身体がカチンカチンに凍りついてしまったものです。

「君のチャームポイントを挙げてください」などと聞かれたら、「一つもありません」と答えることで、むしろ深い自己満足を感じていたでしょう。

今の子供たちは、そんな時代があったことをきっと不思議がるでしょうね。
(つづく)


次週のタイトルは「愛の分類」です。いよいよ愛について始まります。
様々な愛の形に、僕の定義する「愛とは、甘えたい欲求と甘えを許すことができる心が出会った時に起こる感情である」が成立するかどうか検証していきたいと思います。

それによって、愛の本質がよく見えてきます。


★編集後記
ところで、僕がこの連載を始めたのは、社会を傍観してただ嘆くためでも批判するためでもなく、学者のように文化的差異を研究してそれで満足するためでもありません。

そんなことをしている暇は僕たちにはありません!

僕たちは、この混沌(こんとん)の時代で迷子になりそうな自分の心を救い出さなければならないのです。
そのためにするのが本当の勉強であり、本当の科学の研究であり、本当の哲学であり、本当の宗教ではないでしょうか?

押し付けられてする勉強、科学者のための科学、知識としての哲学、金持ちと盲目を作るだけの宗教‥‥そんなもの、僕たちにはもう必要ありません!

僕は、『アラスカの風に乗せて』という自分探しの物語を書き始めました。
そして、ついにその中の主人公は、真っ暗な海で溺れそうになっている僕を救い出して、安定して航行する船へと導いてくれました。

その船は、今、うっすらと見え始めた希望の灯りに向かって進んでいます。

この、愛についての連載で、あなたをその船にお導きできるかどうかはまだわかりませんが、少なくともそれを目指しています。




《🐢自分探しの旅 with マーキー🐢》NO.7 僕たちの前にレールはない!

■ 僕たちの前にレールはない!

今回のメルマガは、ちょっと長くなってしまうと思う。
だけど、とても大事なことを話すので途中で諦めないでちゃんとついてきてね。

前回、君が僕の文章を読んでいる原因を遡っていくと、「1856年の2月9日7時32分に、ニュージャージー州のトーマスが眠い目をこすりながら小屋の壁を修繕しようとして、誤って自分の指を金槌で打ちつけたから、という原因も通過するかもしれない」と言ったよね。

これは、どういうことかというと、この世の中で起こっていることは、ビリヤードの玉の行方(ゆくえ)のように、全てが自然界の法則に則って、結果的に見れば(何度も言うけど、この「結果的に見れば」という言葉、とても重要だよ)それ以外のことは起こり得ないほどの100パーセントの確率で起こっていたし、全てがつながっていたということなんだ!

信じがたいかもしれないけど、はるか過去に遠い異国で起こっていた戦争と、今の君とは決して無関係ではないということも言えるわけなんだよ。

例えば、下のような図で表現したのが今までの僕たちの意識だよね。
一番上のビッグバンの一点から始まって、そこから約140億年もつながって一番下の現在「君が今僕の文章を読んでいる」という現象Aが起こっている。

すべてつながっていた1

でもこの図をよく見ると、「トーマスが自分の指を金槌で打ち付けた」ことも、「遠い国で起こっていた戦争」も、現象Aの「君が今僕の文章を読んでいる」という現象には関係していないで、途中で途切れてしまっているよね。
これが今までの僕たちの意識だと思う。

でも、本当は下のような図が正しかったと言いたいんだ。全体がビックバンという一点から始まって大きな川の流れのようなイメージを持って欲しいんだよ。

すべてつながっていた2

この図は、「トーマスが自分の指を金槌で打ち付けた」ことも、「遠い国で起こっていた戦争」も「君が今僕の文章を読んでいる」という現象につながっていて、途切れていないよね。

ちなみに、現象Aと現象Bの2つしかないのは、わかりやすくするために激しく割愛(かつあい)してしまっただけの話だよ。
本当は今この瞬間に世界中で起こっている現象が、いや、そればかりか宇宙中で起こっている現象全てが、大きな川の流れのようにつながって起こっていることだったんだ。

ビッグバンという最初のビリヤードの玉が突かれた瞬間から、ひとときも休むことなく流れ続け、そして全部がつながっている。

このことは、「君が今僕の文章を読んでいる」という結果から見れば、「トーマスが自分の指を金槌で打ち付けた」という原因は100パーセントの確率で起こっていた、避けられない現象だったということ。

これを、真亜基さんが、囲碁というゲームで説明している文章を引用しておくね。

「囲碁というゲームがあります。
あれは簡単に言えば陣地取りで、より多くの陣地を取った方が勝ちというものなのですが、効率良く、だいたい四隅(よすみ)から打っていきます。
初心者の頃は、今自分が打っている場所の石を取られないようにすることや、相手の石を取ることで精一杯で、とても盤面全体を眺める余裕などありません。
しかし上級者になると、盤面の右下隅の一手を打つ時、まだやりかけになっている左上隅や、将来的に埋められていく真ん中に与える影響や、それこそ盤面全ての影響を考えて一手を決定します。
どんな一手も、その後の模様に必ず影響が出てくるからです。
何故なら、一つの盤上では全部がつながっているからです。

同じように、この宇宙という一つの盤面上で打たれたどんな一手も、実は必ず全てのものに影響を与えているのですが、人間にはそれが実感できないだけなのです。それで、例えば、自分たち人間の自己中心的な感覚や価値観によって犯罪や戦争の原因もランク付けしてしまいます。

だけどそれは目先の原因でしかないから、本当の解決策は見つからず、それでいつまでも繰り返されてしまうのです。
本当は犯罪にしても戦争にしても被害者も加害者もありません。しいて言えば、この宇宙の万物が加害者となって一つの犯罪や戦争を引き起こし、同時にこの宇宙の万物がその犯罪や戦争に関しての被害者なんです」


偉そうに言っている真亜基さんだけど、お父さんがまだ生きていた頃、時々囲碁をやったそうなんだ。
その対局中にさんざん「大局を見ろ!」と注意されても、最後まで大局を見れるようにならなかったらしいよ。

それと同じように、僕たちは自分の身の回りのことしか見えていなくて、とても宇宙という盤面なんて見ることはできないし、実感すらできないよね。

それで、犯罪や戦争も誰か一人やどこかの国に罪をなすりつけて、解決したように思ってしまっているけど、本当はこの宇宙の万物が加害者で万物が被害者だったということなんだね。

例えばヒットラーとユダヤ人の関係で見れば、ヒットラーは加害者でもあり、ある意味、時代の被害者でもあった。そしてユダヤ人は被害者でもあり実はあの状況を作った加害者の一部でもあった、ということ。

この視点は今までの僕たちには全く欠けていたものだけど、本当は、僕たちにはその関係性が見えていないだけで、それが実感できるようになることが世界が平和になるためにはとても必要な視点なんだよ。

つまり、僕たちは最後まで囲碁の初心者から抜けられなかった真亜基さんと同じように、この宇宙の中では初心者みたいなもので、そのつながりがわからないだけなんだ。


たった一度の玉突きによって、その後のあらゆる現象が、それ以外には起こり得ないという100パーセントの確率で起こっていた。
もしこの言葉が間違いだったとしたら、科学が発見した「全ての現象には原因がある」という真理も、科学が解明してきたすべての法則もでたらめで当てにならないということになっちゃうよね。

だって、そもそもなぜ科学の法則が成り立つかと言うと、ガチガチの因果関係が存在するからだよね。
ガチガチの因果関係がないとすれば、そもそも科学が作るモノなんてこの宇宙で機能したり機能しなかったり、それこそ危なっかしくて人は使えやしないよね。
飛行機も恐くて乗れないし、パソコンだって電子レンジだってクーラーだって冷蔵庫だって信用できない。


素粒子の世界で使われる言葉なんだけど、「トンネル効果」って聞いたことあるかい?
例えば、コップの中に小さな玉を一つ置いたとしても、コップを動かさない限りは玉はそのままだけど、電子という素粒子を一つ置いておくと、翌日見たらコップの外に飛び出しているかもしれないという不思議な現象のことなんだよ。

これをトンネル効果と言うんだ。

1973年にノーベル賞を受賞した江崎玲於奈(れおな)さんは、このことを利用してエサキ・ダイオードを発明したんだったよね。

エサキ‐ダイオード
〘名〙 (Esaki diode) 半導体ダイオードの一つ。昭和32年(1957年)、日本の江崎玲於奈(れおな)が発明。活性不純物を多量に含む半導体PN接合のトンネル効果を利用したもので、電圧を増していくと電流が減る負性抵抗をもつ。小型で、動作が速く、発振器、増幅器などに広く用いられる。トンネルダイオード。江崎はこの発明で,1973年にノーベル物理学賞を受賞した。

素粒子は、人間には予測ができない非常識な振る舞いをすると考えられている、と主張する物理学者たちがいる。
素粒子の位置というのは、この場所にいる確率は20%、あの場所にいる確率は40%というような確率でしか言えないと考えられているんだ。

これは僕たちには観測ができないから確率でしか答えられないという意味ではなくて、イメージしにくいかもしれないけど、僕たちが観測しない限りは、実際にそのような状態で存在していると彼らは考えているようなんだよ。
そもそも、そのように解釈しなければ理解できない実験結果が得られたからなんだけどね。

図で説明すると、Aの位置にいる確率は20%、Bの位置にいる確率は40%
そして僕たちが観測した瞬間、その可能性の波は一気に“収縮”し、電子は粒の状態になってどこか一カ所(下・右図C)に発見される‥‥というんだよ。

素粒子の位置


間違いなく、物事には原因があって結果があるわけだけど、素粒子の世界はそういう因果関係に支配されてはいなくて、あくまで確率的だとその物理学者さんたちは主張するんだよ。

これって、どう思う!?

だって江崎玲於奈さんが発明したエサキ・ダイオードも、因果関係に支配されているからこそ商品化できているわけだよね。
そうじゃなきゃ、そんな確率的な商品、危なっかしくって使えやしない。

アインシュタインさんという人は、後の量子力学(りょうしりきがく)の考え方の基礎ともいえる、光量子(こうりょうし)などという重要な考えを打ち出した人なんだけど、この確率的な考え方には納得できず、実は我々がまだ知らない隠れたパラメーター(変数)があるに違いないと批判した。

そして、確率的に考える量子論を批判して「神は決してサイコロ遊びはなさらない!」と言ったのは有名な話だよね。

サイコロ遊び


君はどう考えますか?

僕はアインシュタインさんの意見に、ある意味賛成なんだ。

ただし、彼の言う「我々がまだ知らない隠れたパラメーター(変数)」なんてものは、どんなに高性能のスーパーコンピューターが現れようとも、永遠に我々には見つけることはできない複雑極まりないパラメーターだと思うけど、と付け加えておきたい。

では、人間には永遠に見つけることができないこの複雑極まりないパラメーターのことを、違う言葉で言い換えるとしたら何というだろう?
それは、もう「偶然性」と言っていいと思わないかい?

先ほどの図の中で、イギリスの理論物理学者スティーブン・ホーキングさんは、「神はむしろギャンブル好きで、ありとあらゆるところでサイコロ遊びをしている。証拠という証拠がそれを物語っているじゃないか」とアインシュタインさんに反論している。

ホーキングさんは、この世は偶然としか思えない出来事で満ち満ちていると言いたいわけだよね。

この世で起こる現象は、結果から振り返って見るとすべて必然であったと言えるんだけど、現在からまだ起こっていない未来を見たら、我々がそれを予測できない限り、「偶然としか言えない」と言うしかないんだよ。つまり「確率論的にしか言えない」ということだね。

ガチガチの因果関係で成り立っているはずだと主張するアインシュタインさんだって、決して運命論的な意味で言っているのではないと思うよ。

運命論というのは、宿命論とも言われるけど、「この世の現象は、あらかじめ運命によって決められていて人間の努力ではそれを変更できない」とする考え方のことだよね。
これってなんだか夢も希望もないって感じだよね。

運命論の特長は、「偶然性」をまったく排除しているところなんだ。
だけど、「結果的に見ればすべてが必然だった」という科学の因果律は偶然性を排除しているわけではないと思うよ。

運命論は我々の前にはガチガチのレールが敷かれていて、10年後の君の姿も完璧に決まっていると言っているわけだけど、科学は一言も「僕たちは決められたレールの上を走らされている」なんて言ってない。

レールは僕たちの前には存在しないんだよ!



前回、宇宙の始まりをビリヤードで説明したよね。

その時は、AからEのたった5つの玉だけしか登場しなかったけど、その何兆倍の何兆倍のそのまた何兆倍もの玉が、ひろーいビリヤードのテーブル上にばら撒(ま)かれていると考えてみてくれるかな。

それが僕たちのビッグバンから始まった宇宙だと想像してみてね。

さて、誰かが初めの一つの玉を、無意識に、ある力で、ある回転数で、ある方向性で、突いたとするよ。
それが、テーブル上にばら撒かれている全ての玉の動きの今後を決定する。ここまでは、問題はないよね。

初めに突いた瞬間の作用が、全てを決定的に支配している。
その「すべてを決定的に支配している」ものを、現在の我々が解明して、一つ一つに「○○の法則」と名前を付けているんだよね。

でも、‥‥でもだよ。
我々の宇宙はこんなビリヤードの玉で説明できるほど単純ではないんだよ。 なぜなら、Aという玉がBという玉にぶつかると、AとBという玉は、Mという玉になってしまったり、その性質までも変えてしまったりもするんだ。

ただし勘違いしないでほしいんだけど、自然界の大元の法則自体を変えてしまうわけではないよ。自然界の法則の中に、AがBにぶつかるとMに性質を変えてしまうという仕組みが、最初の一突きの力に既に含まれていたということなんだ。

しかも、Aという玉が始動したとたん、その後、Aに他の玉が跳ね返ってくる可能性は無限に存在してしまうことになるよね。

これでは、ものすごく頭のいいコンピューターにも、その後の全ての玉の動きをシミュレーションしてもらうことは無理と言わざるを得ない。
これはもはや「偶然性」と呼ぶしかないじゃないか!?

つまり、我々の前にはレールは存在しないという意味なんだ。

なぜなら、今言ったように、未来のレールを作りながら宇宙は進行しているからなんだよ。
たとえ全知全能の神にも予測ができないほどの「偶然性」でね。

先ほどの、囲碁初心者の真亜基さんが偉そうに語ったことだって、確かに一つの盤面上で打たれた一手はその後の全ての模様に影響を与えるのだけど、そのゲームが、どのように打たれるかという未来のことは誰もわからない、ということだよ。
だって、今まで世界中で行われた対局で一度として同じ局面で終わったことはないんでしょ!?


ただし繰り返すけど、このビッグバン宇宙を支配している大元の法則は変わらないよ。
そして、その大元の法則とは、初めの玉の一突きの瞬間の力と回転数と方向性などによって、決定づけられたものだということなんだ。

このビッグバン宇宙の終末の時まで、ずーっと支配していく大元の法則だ。

それによって、今、君はここにいて、そして僕の文章を読んでくれているんだよね。
(つづく)

次週のタイトルは、「レゴで風車を作ると‥‥」です。


■編集後記

天体の動きや天候のようなマクロの世界はある程度予測がついても、素粒子のようなミクロの世界や僕たちの日常のようなものはあまりにも複雑に原因が絡まり合っていて、とてもじゃないけど神様にも人間にも決定することも予測することもできない。

そのことを、僕たちは偶然の出来事と呼んでいるわけだよね。
だから、結果から見た時だけ必然だった‥‥としか言いようがないんだ。

今回のメルマガの主旨は、「この世界の全ての現象はガチガチの因果関係で起こっている」というのは紛れもない事実なんだけど、それだからと言って、「運命はあらかじめ決められていると考えることは馬鹿げている」ということなんだ。
わかってもらえたかなあ。



【💐世界を平和にしない愛💐】NO.7 愛の分類

★★★ 愛の分類 ★★★

愛を分類して、自分との距離か近いものから順番に並べてみると次のようになりました。

1、自分に対する愛
2、家族に対する愛
3、恋人に対する愛
4、物に対する愛
5、自分が所属する社会に対する愛(愛社精神や愛国心といったもの)
6、人類に対する愛
7、神に対する愛

これらは、同じ愛という言葉で表してはいますが、それぞれが微妙に異なっています。また、この順番は僕の主観的なものです。

人によっては、僕にとって一番遠くにある神に対する愛が一番近くであったり、恋人に対する愛の方が家族に対する愛よりも身近に感じていたりするかもしれません。

僕だって、その時の環境や価値観によって順位は変動するはずです。
だからそれほど固定的に考えないで下さい。

これらの愛のすべてに、僕の定義した「愛とは、甘えたい欲求と甘えを許すことができる心が出会った時に起こる感情である」が成立するかどうか検証していきたいと思います。

その前に、前回で結論づけた次の言葉を復唱して覚えておいてください。
甘えとは、"本能"の求める欲求を押し通そうとすること、あるいは"本能"が最も居心地がよく感じる状態を維持しようとすること

本能のイメージもできましたか? そのうち、この連載で本能の体系化もするつもりです。では、始めてみます。

まず、一番遠くにある「7、神に対する愛」と「6、人類に対する愛」と
「5、自分が所属する社会に対する愛」は、本能と切っても切れない関係にある「甘え」から出発した愛というよりも、むしろ理性的な(人間的な)愛、という感じがします。

だけど、よく考えると出発点は甘えであることがわかります。


7、神に対する愛‥‥現世において甘えを許されない(満たされない)自分を、神を愛するという行為の見返りとして、慰めてもらおうとする感情。
でも、本当は神様は自分の頭の中にいるので、言い換えると自分で自分を慰めているということです。

6、自分が所属する社会への愛‥‥会社や地域社会や国に対する愛のこと。これは、自己を犠牲にして社会に尽くす行動をとる元になる愛だが、その裏
には自分の甘えを受け入れてもらおうとする感情を隠し持っている。
例えば、自分の存在を認められたいというのも、本能が最も居心地がよく感じる状態を維持しようとすることであるから、一種の甘え。
その証拠に自分の存在が否定されたら一転して会社や国を逆恨みする。

5、人類に対する愛‥‥全人類の甘えを許してあげるような包み込むような感情。だが、そんな自分に至福を感じているのは、それは自分の甘え(全人類を自分の保護下に置いたような気分、父性本能のような感じかな)が叶っている状態、つまり甘えが許されている状態。


残りの四つの愛、について見ていきます。

1、自分に対する愛
2、家族に対する愛
3、恋人に対する愛
4、物に対する愛

話の都合上、4→2→1→3の順番で見ていきます。


4、物に対する愛‥‥これほど端的に「愛とは、甘えたい欲求と甘えを許すことができる心が出会った時に起こる感情である」を表しているものはないと思われます。
例えばウィンドウ・ショッピングをしていて、可愛らしい人形を見つけたり綺麗な花を見つけたりします。そして、あなたはそれが欲しくてたまらなくなるとします。

その時、あなたの本能はうずいているのです。

それらを獲得してその胸に抱きしめる時、あるいは花瓶に生けて眺める時、あなたの中の別の本能がうづいて幸福を感じます。
あなたにとって大切な物は、なぜ大切かと言うと、あなたの本能を満たし、そして癒してくれるからです。

ペットに対する愛もこれに含まれます。人間は裏切るけどペットは裏切らない、とはよく言われる言葉です。ペットはあなたの望むように、あなたの本能を癒してくれます。

後で書きますが、幼児虐待は自分の子供をペット化しているから起こる事態です。


2、家族に対する愛‥‥ここでは家族の成員一人一人ではなく、家族という一つの単位で考えてみます。
僕たちは愛する自分の家族を他からの危害から守ろうとします。
それは、実は、家族が自分の甘えを許してくれ、場合によっては叶えてくれる最も信用できる砦だからです。

その証拠に、もし、自分の甘えが許されなくなれば、親兄弟であろうとも憎み合うことになります。それは、信用が大きかった分、他人以上に憎み合うことになるかもしれません。

1、自分に対する愛‥‥自分の「甘え」を自分で許してあげることができる感情。これはちょっと難しいです。
自分の「甘え」を自分が許すというのは、自分の願望がちゃんと叶った時のことでしかありません。というのは、人間は自分に対してはシビアなので、ちょっとのことでは自分を許さないからです。

例えばちょっと質問をしてみます。
あなたは自分を愛していますか?

もっと顔がよければ愛せるのに‥‥。

もっとスマートだったら愛せるのに‥‥。

もっと他人と気楽に話せれば‥‥。

嫉妬深い自分がすごく嫌だ‥‥。

他人に嫌われてしまう性格が治ればいいのに‥‥。

みんなに好かれる人気者だけど、本当は淋しがり屋だから嫌い‥‥

自分を愛していないと答えたあなた!
それは、これらの甘え(願望)を許してくれない(叶えてくれない)、その不甲斐(ふがい)ない自分を許せないのです。
だから、自分を愛することができないのです。

その証拠に、これらの願望が叶ったら、あなたは「自分を愛している」と答えるはずです。
いや、その時はその時で、もっと上の願望がわき上がっちゃうかもしれませんね。(;-_-)

でも、人間は誰でも本質的には結構しぶとく自分を愛する能力を持っています。
だから生きていられるわけです。


3、恋人に対する愛‥‥恋人を愛していると答えるあなた、あなたは今、その人の悪い甘えもひっくるめて許せているのです。と言うか、他人には悪い甘えでも、あなたにとってはむしろ可愛く思える甘えかもしれません。

もし、甘えが鼻につくようになったら別れる時かも‥‥。

あなたが、恋人の甘えを許してあげられるのは、それは、自分の甘えをその人が許してくれているからでもあります。
あなたが恋人に対して持っている甘えはたくさんあるでしょうけど、今まで見てきたものに対する甘えと一つだけ決定的に違うものがあります。

 甘えとは、「本能の求める欲求を押し通そうとすること、あるいは本能が最も居心地がよく感じる状態を維持しようとすること」と書きましたが、その中の最も動物的な部分、つまり性欲を満たしてくれる点です。


==========

さて、見てきたように、愛は自己を滅却(めっきゃく)して他人に尽くすことではなく、非常に利己的なものでした。

非常に本能(自己中心的に働く力)に根差した感情だったのです。

愛を与えるからには、必ず何かの見返りを期待しています。
ただ、ほとんどがそのことには気づいていない状態で行なわれる交換です。

例えば、あなたが愛する人にささやかなプレゼントをするその時、あなたは同時に、愛する人の喜びをプレゼントされていることでしょう。
あなたは、無意識で愛する人の喜びを期待していたのです。

その証拠に、愛する人がそのプレゼントを拒否した場合、理由いかんによっては「世界一愛する人」が「世界一憎らしい人」に急変してしまいます。

例えば、母が子供に愛情を注ぐその時、母は子供から愛らしさや希望を与えられているでしょう。
母親は無意識で子供に愛らしさや希望を期待していたのです。それが裏切られた時に、幼児虐待に走ってしまうのがその証拠です。

自分の中で愛のバランス(与えることと与えられることのバランス)がとれている状態の時には、喜びは何十倍にも膨らむけれど、そのバランスが少しでも崩れると、苦悩や憎しみや淋しさが何十倍にも深まるのが愛の特徴です。

このように、見返りを期待して与えているというふうには、まったく思考が働かない状態で、実に巧妙に無自覚にギブ・アンド・テイクを行なっているものが愛だったのです。


この世で最も尊い愛があるとすれば‥‥それは、自己を滅却した愛、要するに見返りを期待しない愛ではないかと思います。
それは最も人間的な、人間の理性だけが成し得る愛です。
でも、こんな言い方を許していただけるなら、実はそれは人間には不可能な愛です。

何故なら、自己を滅却するとは死ぬこと以外にありません。

人間は死んだらどこにも存在することはできません。存在せずに何かを愛することはできません。

もし、あなたが、あなたの愛した人が死んでも、尚どこかに存在して自分を愛してくれていると感じるのは、それは、あなたの想像力によって、あるように勘違いしている愛です。

本当は磔(はりつけ)で死んだ、実在人物としてのキリスト様本人は、どこにも存在していません。
あなたの心に存在しているとおっしゃるなら、それはあなた自身が創り上げたキリスト様を見ているのです。わかっていただけますか?


言い換えると、人間の想像力だけが最も尊い愛を空想することができるというだけのことなのです。
(つづく)

次週のタイトルは「美しいイメージを持たされた愛」です。


★編集後記
2001年9月11日の事件、もう、あなたの記憶から薄れてしまっていませんか?

テレビでツインタワーが爆破された映像を見た日から、僕は一週間くらい、今までの人生で最も寡黙(かもく)な時を過ごしました。

その話題を口にすることもできないどころか、何もする気になれない精神状態でくらーい気持ちで生きていました。

愛を掲げて信念を持って行動をするからこそ、あんな事件は起こり、そして、もう一つの愛が新たな戦争を引き起こします。

今、世界を本当に平和にするためにも、いろいろな問題を解決するためにも、僕たちは真剣に愛を考えなければならないと思います。
愛を見つめる勇気を持たなくてはいけないと思います。



《🐢自分探しの旅 with マーキー🐢》NO.8 レゴで風車を作ると‥‥

■ レゴで風車を作ると‥‥

DNAが生物の遺伝情報、つまりタンパク質を作るための設計図であることは、今ではほとんどの人が知っていると思う。

そのDNAが何からできているかと言うと、塩基(えんき)、糖、リン酸と呼ばれる三種類の化学物質なんだ。

この中の塩基というのが、遺伝情報の暗号を作っているもので、アデニン(A)、グアニン(G)、シトシン(C)、チミン(T)のたった4つ。

遺伝子


この塩基が三つ組み合わさって一つのアミノ酸を作る暗号になっているんだよ。

例えばGAAと並べばグルタミン酸を作るように命令をしている。

このアミノ酸がたくさんつながったものを、英語では protein、日本語ではタンパク質と呼んでいるんだ。


タンパク質というのは、生体内の化学反応の触媒(しょくばい)となる各種の酵素や、生物体を構成するもの(コラーゲンなど)や、運動をつかさどるもの(アクチン・ミオシンなど)や、各種のホルモンや抗体などを作っているもので、あらゆる生命現象を演出している材料のようなものなんだ。

DNAはあくまでも設計図で、また遺伝には不必要な部分もあるので、それを元にしてタンパク質が作られるためには、その設計図の必要な部分だけをコピーするRNAというものが必要になる。

それが鋳型(いがた)となってアミノ酸が集められ組み立てられるんだ。

三つの塩基が意味する暗号は、実験の結果、全ての生物に共通語であると考えられている。

つまり、GAAと並んだ暗号は、どの生物にとってもグルタミン酸を作るように命令をしているということなんだよ。

これは驚くべきことだと書いてある本があったよ。

なぜなら、この可能性に満ちた地球上に現存する生物の祖先を遡ると、いくらでも違うたんぱく質を作り出す暗号を持った種が存在してもいいはずなのに、この事実は、すべての生物が共通の祖先の鋳型を元にしていると考えられるからだ、という理由らしい。

でもここまで整理しながら勉強して来た僕たちには、少しも不思議でも驚くことでもなんでもないよね。
むしろ同じ暗号を使っていない生物が、何の脈絡もなく突如として現れることの方が不思議だよ。
だって全部つながっているんだからね。


ところで、この4つの塩基は一体、何からできているかと言うと、

・アデニン(A)は、4個の水素と、5個の炭素と、5個の窒素。

・グアニン(G)は、5個の水素と、5個の炭素と、5個の窒素、それと1個の酸素。

・シトシン(C)は、5個の水素と、4個の炭素と、3個の窒素、それと1個の酸素。

・チミン(T)は、6個の水素と、5個の炭素と、2個の窒素、それと2個の酸素。

で作られているんだ。

もっと細かくしてみるよ。

・水素は陽子1個、中性子0個だから、アップクォーク2個とダウンクォーク1個。

・炭素は陽子6個と中性子6個だから、アップクォーク18個とダウンクォーク18個。


ただし、中性子の数はそれほど厳密には規制されていないよ。それと、電子は普通、陽子の数と同じなんだ。

ということは、アデニン(A)は、通常、アップクォーク203個、ダウンクォーク199個、それと69個の電子という素粒子の組み合わせで‥‥、
グアニン(G)は、通常、アップクォー229個、ダウンクォーク224個、それと78個の電子という素粒子の組み合わせでできていると言い換えることができるということ。

ほらねっ!
前々回のメルマガで言ったように、中身が違うだけだったでしょう!?

もちろん、中身の組み合わせ方はどうでもいいわけではないけどね。(^-^ )

ビッグバンの初期に存在したクォークや電子といった素粒子が、100億年ほどかかっていろいろ組み合わされてできてきたものが、DNAだったんだね。



僕の身体は一体いくつのアップクォークとダウンクォークでできているのかなあ? 誰か計算してくれないかな?

少なくとも僕には不可能です。ただでさえ計算が得意じゃない僕には、上の計算をするだけでも大変だったんだもの。何度も確かめたけど、計算が間違えていたらごめんなさい。


ところで、レゴというおもちゃ知ってますか?

赤、青、黄などの色をした、いろいろな形をしたプラスチック製の部品があって、それを組み合わせれば自分で独創的な物が作れるというものなんだ。

例えばそれを組み合わせて風車を作ったとするよね。

すると、そこに、風を受けて回転するという新しい性質が生まれるわけなんだ。

レゴ


これは、前回書いた「Aという玉がBという玉にぶつかると、AとBという玉は、Mという玉になってしまったり、その性質までも変えてしまったりもする」ということのたとえだよ。

だけど、風を受けて回るという、今までになかった性質を獲得しただけで、自然界に存在する力学的法則そのものを変えてしまったわけではない。
ここの所は間違えないでね。


原子が組み合わされて分子になり、分子が組み合わされて生物の細胞や無生物になり、それが組み合わされて多細胞生物や巨大な動物などになる、我々の宇宙は、全てこのような構造で成り立っているんだ。

より小さなものがくっついてより大きくなり、そのたびに、性質を変化させていく。

もちろん、時にはその逆で、より大きなものが分解され小さくなることもある。

そして、以前とは違う性質を持ったものに変化する。いずれにしても、これがこの宇宙の基本的な構造なんだ。



生物を規定する最も大切な条件の一つに「自己触媒をする」というものがあるんだ。

触媒とは、辞書には「化学反応のとき、それ自体は化学変化をしないで、他の物質の化学変化の速度に影響を与える物質」とある。

わかりやすく言えば、仲人(なこうど)さんのようなものなんだ。

相手方を誉めそやして心を開かせ、元々は他人だった者同士を結婚まで至らせる第三者的な存在。

最近話題の、血液をサラサラにしてくれる酵素も触媒の一種だよ。

例えば、この触媒も、素粒子がいろいろと組み合わされた段階で生まれてきた一つの性質に過ぎなかったということなんだよ。面白いでしょう。
(つづく)

次週のタイトルは「刺激に対する反応‥‥それが全て」です。


■編集後記
今日も難しい専門用語がたくさん出てきたけど、そんなものまったく覚えなくてもいいんだよ。

今日のところを要約すると、クォークとか電子とかの素粒子の組み合わせが、この宇宙の多様性を産み出しているということなんだ。
それだけが知ってほしかったことなんだよ。
後は全部忘れちゃっても構わない。

僕たちは、この宇宙にある全てのものを、勝手に生物と無生物に分けているけど、本当は、単に組み合わされた過程で性質が異なってきただけの話で、それほど違いがあるわけではなかったということなんだ。

まして、その元となった成分は、全く同じだったよね!

太陽も星も岩も土も海も川も草も人間も‥‥みんなみんな元は同じ素材‥‥、みんなビッグバン宇宙の兄弟たち‥‥、時にはこんなすてきな考え方をしてみませんか?

だんだん核心に迫ってきましたよ!



【💐世界を平和にしない愛💐】NO.8 美しいイメージを持たされた愛

★★★ 美しいイメージを持たされた愛 ★★★

愛は元々は美しいものなんかじゃなく、ただ人間が生きるために必要なものだったのです。なぜ、その愛に、美しいというイメージが重なっていったのでしょうか?
今日は、そこのところを確認していこうと思います。

憎しみ、妬み、差別などといった醜い?感情は、元々は動物の生命維持に必要なものであることを、僕たちは知っています。

憎しみがなければ、自分(たち)の生命に危害が加えられてもなすがままで、生き残れません。
妬みがなければ将来の伴侶を横取りされてもしらんぷりで、子孫を作れません。
差別がなければ大切な我が子を他の子と見分けられず、危機にさらされていても優先して助けることができず、種の繁栄は望めません。

これらが、元々は自己中心的に働く「本能」から生まれた感情であったことを、僕たちは知っています。

「憎しみ、妬み、差別などといった感情」は、元々は醜いものなんかじゃなく、生きるために必要なものだったわけです。それを社会的な動物である人間が、社会を維持していく上で良くないものとしてイメージしていくうちに、醜いものというイメージが重なってしまっただけなのです。

ところで、創刊号で、僕はみなさんに「愛という言葉を聞いてイメージされるものは何でしょうか?」とお尋ねしました。

優しさ、清らかさ、笑顔、ハートマーク‥‥。
いい感じのもの‥‥、癒されそうな感じ‥‥、優しい気持ちになれそう‥‥、タンポポの綿毛のようにふんわりしたもの‥‥、暖かく包んでくれそう‥‥、みんなの心が一つになれそう‥‥、世界を救ってくれそう‥‥。

これらの美しいイメージは、みんなが愛の本性をよく見つめもせず、心が癒されそうな感じがするものに、愛という言葉を当てはめて何となく使っているうちにできあがってしまった、「愛という言葉」に対するイメージだったのです。

前回見てきたように、愛は、決して美しいものなんかではなくて非常に利己的なものでした。では、なぜ愛には美しいイメージが重なっていったのでしょうか?

僕たちは人間として生きています。

人間として生きているということは本能のおもむくまま生きる動物とは違って、ある程度、理性が本能を制御しています。
理性は僕たちに、たとえやりたいことがあってもやってはいけないと禁止したり、やりたくないことがあってもやらなければいけないと命じてきます。

でも、生きていくためには、時には幸福感や満足感を得なければ生きられません。いつもいつも禁止されたり命令されてばかりでは嫌になってしまいます。そうでしょう!?

幸福感や満足感を得るためには、どうしても自己中心的に働く本能を抑えつけずに素直に受け入れてくれる対象が必要になります。
それこそが愛だったわけです。だから、それを美化して使う必要があったわけです。


つまり、愛は元々は美しいものなんかじゃなく、憎しみ、妬み、差別などと同じように、ただ生きるために必要なものだったわけです。
人間が自分の生をより満足感を持ったものにしようとしていくうちに、愛に美しいというイメージが重なっていっただけなんです。

だから、僕たちが美化する「愛」と、「憎しみ、妬み、差別」などといった感情がどれだけ根深い関係にあるかを知ることができます。
人は、憎しみ合い、妬み合い、差別し合うから、愛という美しいイメージを持った言葉で自分を正当化し、お互いに正当化し合い、慰める必要がありました。

でも、また、愛という利己的に働く感情があるから、人はますます憎しみ合い、妬み合い、差別し合ってもいます。

これは事実です。

例えば、アメリカの愛国心は世界を平和にしますか?
日本の愛国心は、他者を攻撃する材料になりませんでしたか?
事故で子供を失った親は、愛していた子供を殺した加害者を激しく憎みませんか?
あなたが一人の人の愛を独り占めした時、他の誰かに恨まれていないと言い切れますか?

愛は世界を平和にしません!
愛は時には他人を傷つけます!
愛は時にはあなた自身をも深く傷つけます!

何故、今まで多くの人が世界を平和にしようとしてできなかったのでしょう?
何故、今まで多くの人が幸福になりたいと願ってなれなかったのでしょう?


それは、世界を平和にするためには愛が必要だと叫ばれていたからです。
幸福になるためには愛が必要だと信じられていたからです。
世界を平和にするのに必要だったのは、愛ではなかったのです。
あなたを幸福にするのは愛ではなかったのです。


では、世界を平和にするのは、そしてあなたを幸福にするのは一体なんなのでしょうか?
(つづく)

次週のタイトルは「不覚にも涙が‥‥」です。


★編集後記
世界を平和にするのは、そしてあなたを幸福にするのは一体なんなのでしょうか?
と、僕は尋ねました。

世界が平和になるとは、そこに生きる全ての人々が満足感や幸福感を持って生きられるようになることです。

つまり、あなたが真の意味で幸福になることと同じことでなければいけません。そのためには、本能を癒してくれるもの(=愛)がどうしても必要だと言うのなら、どこかに今まで誰も見たこともないような愛はないものでしょうか?

それが、僕が体験した‥‥いえ、体験させられた愛です。

と言っても、決して宗教的な非科学的なものではありません。

むしろ、現代科学が解明しているものを手がかりとした自分探しをしていくうちに、到達した愛でした。
僕はあなたにそれを知っていただきたいのです。あなたにも体験していただきたいのです。

あなたが、うやむやなままに美化されている愛に翻弄(ほんろう)されてこれ以上キズつかないために。これ以上誰かをキズつけないために。
そして、世界を平和にするために。



《🐢自分探しの旅 with マーキー🐢》NO.9 刺激に対する反応‥‥それが全て

■ 刺激に対する反応‥‥それが全て

宇宙の基本的な構造をもう一度確認しておくね。

この宇宙の始まりを、ビリヤードの初めの玉を突いた時というたとえで考えてきたよね。

最初に突かれたAという玉がBとCに当たり、そのBの玉がDとEとFに当たり、DとEとFに当たったBがはね返ってまたAに当たり、Cの玉はGに当たり、GはBの玉にはじかれたDにはじかれてHとIとJに当たり、そのJに当たったGがまたDに当たったり‥‥。ああ、頭が混乱してきちゃった。

それを永遠に繰り返しながら、ビリヤード上に絶えることなく連鎖が起こっていくんだったね。

そう、そう、新しい性質を生み出しながらね。

宇宙という名のこのビリヤードテーブルでは、玉とテーブルの間に存在するはずの摩擦もなく、永久的にエネルギーは伝わっていくと想像してくれるかな。

どの玉もいったん力を受けたら永久に動き続ける玉なんだ。
人の死すらも、そんな中で一時的に見せる現象に過ぎなかったんだよね。

この連鎖の状態を、簡単な一言で表現すると、宇宙の基本的な構造を言い当てられそうだね。

何かの作用を受けて何かの反応をしている状態‥‥、僕は、その状態を次のような一言で言い表せるような気がするんだ。

「宇宙の基本的な構造は、全て刺激に対する反応の連鎖である」

どうでしょうか、さっきの頭が混乱してしまいそうな複雑な動きも、こんなに簡単にまとめられちゃう。


前回、宇宙の基本的な構造を「より小さなものがくっついてより大きくなり、そのたびに、性質を変化させていく」と言ったけど、それも刺激に対する反応が引き起こす現象に過ぎなかったわけだよね。


じゃあ、それを人間に当てはめてみるね。


人間が刺激を取り込むのは身体の外側を覆っている皮膚だけでなく、目や耳や鼻、それに食べ物の味を感じる舌もある。

それらを受容器(視・聴・触・味・嗅などの知覚装置)と呼んでいるよね。


例えば現代科学は我々が物を見るという現象をどのように捉えているのだろう?

目の前のバナナを見るとすると、バナナそのものが目の中に飛び込んでくるわけではないよね。(^-^ )

まずバナナの表面で反射された光の粒子が、目の表面にある神経細胞にぶつかる。
これが刺激だよね。

目の表面の神経細胞は光の粒子がぶつかると物理・化学的なある種の反応をする。

その反応に刺激された次の神経細胞がある種の反応をして、次の神経細胞に刺激を伝え、その刺激を受けた神経細胞が反応して次の神経細胞へ刺激を伝え、というようにして、その受けた刺激の性質を少しずつ変化させていき、最終的には脳に伝わり、脳の中に記憶されているものなどにも刺激が伝わり、それらが反応した結果を我々は「物を見た」と呼んでいるわけなんだ。

だからやっぱり「全て刺激に対する反応」なんだよね。


刺激に対して適切?な反応をするためには、受容器と効果器(骨格筋・汗腺などの諸種の腺・血管など)との間を結びつけ統合する仕組みがあるんだ。
それが神経系だよ。

この神経系というのは中枢(ちゅうすう)神経と、末梢(まっしょう)神経に分けられる。

中枢神経とは脳と脊髄(せきずい)のことで、全身から情報を集め、全身に指令を出す働きをするものだね。

そして、身体の各部と中枢神経をつなぐ配線にあたるのが末梢神経だよ。

画像18


さて、目から入った刺激が脳に伝わり、ごくりとつばを飲み込んだり、目の前のバナナを食べるために手を伸ばすという動作を制御しているのが、この中枢神経の一部である脳なんだ。

フーッ、やっとここまでたどり着いたよ。
それではいよいよ来週は脳の話かって?
いいえ、その前にもう少しこれまでの復習をしておきたいんだ。
(つづく)

次週のタイトルは「君の筋肉を動かすのは誰?」です。


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 ところで、今回は短く収まったので、もう一つ大事な話をしようと思う。

ある学者が、生命発生の確率の低さを強調するため、「例えば時計の部品をバラバラにして箱の中に入れ、それを何億年も振り続けて一つの時計が完成するくらいの偶然性がこの世に生命をもたらした」といったような比喩を用いているんだ。

また、ある学者は、「生命発生の確率は、100万ドルの宝くじが100万回連続して当たったような信じられない幸運が重なった結果だ」と言っている。

そして、このように付け足す学者もいるんだ。

「これほどのことが単なる偶然で起こるとは考えにくい。と言うことは、宇宙には人間を作ろうとする何らかの必然性、つまり目的(意思)のようなものが最初から存在していたと考えないわけにはいかない」

さらには、こんなことを言い出す科学者もいる。
「宇宙は、自分の存在を認めてくれるものがいなければ、誰にもその存在意義を認知されることなく一生を終えてしまうことになるので、そのため自分に対して望遠鏡を向けてくれる人間という知的生命を必要とした」などと、驚くようなことを考えてしまう学者もいるほどなんだ。

電波望遠鏡


こんな馬鹿げた理屈が成り立つなら、もし、星たちが言葉をしゃべることができれば、次のようにしゃべっているのと同じことなんだよ。

「ねえ君、宇宙を支配している万有引力、電気的な相互作用の力、その他のありとあらゆる物理定数がほんの少しでも違っていたら、君も僕も生まれていなくて、きっと僕たち星々は現在とは全く違った姿をしていたに違いないと思わないかい!?
でも、実際には、宇宙は僕たち星々をこんなに完璧な姿にしてくれた。
この幸運のことを考えれば考えるほど、この宇宙は初めから僕たち星々に完璧な姿になって欲しいと願う意思のようなものがあった、と考えないわけにはいかないんだ」

星たちがこんなことを言ったら、「どこが完璧な姿なの?」「どこが幸運なの?」って誰もが聞きたくなるはずだよね。

自己中心にものを考える人間だけが、宇宙で起こってしまっている現象に対して、いちいち「信じられないほどの幸運」と感じてしまうだけなんだ。


これを人間の傲慢、あるいはご都合主義と言うんだ。


科学者は時々、自分の偏りをとんでもない非科学的な論理で埋め合わせようとするところがあるように見受けられる。

あまりにも、理系に傾きすぎると、その反動から無意識で文系的思考パターンで自己の偏りを修正しようとするのかもしれないと思うほどだよ。

科学はせっかくここまでたどり着いたというのに、また神話の時代に逆戻りだよ、まったくね!

それと、もう一つ言えることは、科学者は自分たちが到達した真実にうろたえ始めているみたいに見える。

これから徐々に話していくけど、その真実というのは、自分たちが今まで努力して勉強をしてきてやっと念願の学者という肩書きができて、収入も安定してきたと感じていたら、それが根底からくつがえされるほどのものだったんだ。

自尊心が丸つぶれなんだ。

自尊心とは、大海を航行している人生において、安心感となる大きな船と同じなんだけど、それが、ちょっとの波でも転覆しそうな泥で塗り固められたちっぽけな船だったなんて気づかされたらたまんないよね。

だから、今度は自分の自尊心を守るために、一生懸命になって自分の自尊心と科学が到達した真実とが喧嘩をしないような論理を構築しようとしてしまうんだよ。

上の二つの比喩(時計や宝くじの比喩)には明らかに論理的欠陥があるよね。

まず、時計の比喩だけど、時計の部品をバラバラにしてしまっては、いくら気の遠くなるような長い年月、箱を振り続けようとも、決して時計は完成はしないことなんてすぐにわかるよね。

そう思わない!?

例えば、たった一つのネジと、それにふさわしいネジ穴をもった部品だけを箱の中に入れて何億年も振り続けても、根本まできっちりと入るなんてこと、万に一つも起こり得ないように感じるんだけど。

宇宙を支配している力は、決してでたらめな偶然性ではなくて、例えば、雄ネジが同じ口径の雌ネジに引きつけられ右回転するような、何らかの規則的な力が働いているということなんだ。

また、宝くじの比喩の根本的な欠陥は、生命の誕生を「幸運」の結果と見なしているところだよ。


生命誕生自体は、宝くじのような人間の欲望とは無縁だし、だから幸運の連続という考え方はおかしいんだ。

つまり、自分たち人間が地球上に出現したことを幸運と考えた上での、つじつま合わせの論理に過ぎないわけなんだ。
科学者がやることじゃない!

「生命の誕生という奇跡へ向けての偶然の連続だった」くらいには言えるとは思うけど、でも、偶然とは以前言ったように、結果から見れば必然のことでもあるわけだよね。

だけど、その必然を逆手にとって、「宇宙には人間を生むための必然性、つまり意思のようなものがあった」と考えるなんてのは馬鹿げているということは、前々回にも書いたね。

因果関係を重視する科学だけど、それを運命論と結びつけて考えてはいけないということだったね。


いいですか?

生命誕生の偶然性は、決して箱の中で振り続けた部品が時計になるようなでたらめな偶然性や、宝くじを当てようとするような目的を持った偶然性ではないんだよ。

素粒子がくっついて原子になったり、それがくっついて分子となったり、そのうちに様々な性質のものが生まれたりしてきた。
例えば、高温で反応させると互いにつながるアミノ酸の混合物とか、自己触媒という性質を持つ核酸(かくさん)の分子とか、カルシウムイオンと反応して収縮したり、または光を発したりするタンパク質とかだよ。

生命誕生の偶然性は、このような法則性を伴った偶然性なんだ。

これは神の摂理(せつり)でも合目的的(ごうもくてきてき)でもなく、自然界にはあらゆるものに方向性があるということだ。

そして、その方向性は、初めの玉の一突きによって全て決定づけられたものだということだ。

そして、あらゆる自然のふるまいに意味はないんだよ!
人間だけにある想像力というものが、それに意味を見い出そうとしてしまうだけなんだ!

いつの頃からか自然界からはぐれて、人間界という荒海の中でで溺れそうになってしまった僕たちが、本当の幸せをつかむためにも、人間本位の傲慢な解釈を捨てて、自然界本位の謙虚な視点をしっかり確認しておこう。



■編集後記
人間はあくまでも自分に都合のいい解釈をしたいようなんだ。

どのような解釈をしようと結局はその人の偏見を記述したものに過ぎないわけだから、間違いというわけではないんだけど、僕たち人類の幸福と平和という目的を想定した場合、ご都合主義的解釈はあまりすぐれたものではないと言えるよね。

これからの僕たちに必要な解釈は、人間の都合に合わせた解釈ではなく自然界に合わせた解釈なんだ。

それが、今僕たちが始めた現代科学がたどり着いたものを手がかりとした自分探しの旅なんだよ。

これこそが僕たちを幸福にしてくれて、世界を平和にしてくれるものなんだ。
その意味は、「NO.2 自分探しのための方法論」に書いたね。

覚えていてくれてたら嬉しいなあ!?
忘れていたらもう一度読み返してみてね。



【💐世界を平和にしない愛💐】NO.9 不覚にも涙が‥‥

★★★ 不覚にも涙が‥‥ ★★★

今日から三週に渡って、愛にまつわるちょっと恐~い?話です。


先日、僕は大変売れたという評判の、ある本を読みました。

そこには最後に、「あなた自身を愛してください。あなたの人生を精一杯謳歌(おうか)してください。世界をもっと愛してください。そうすれば、その愛が世界を救います。世界を救うのはまだ間に合います」のように書いてありました。

ちょっとお酒を飲んでいたせいもありますが、不覚にも、僕はそれを読みながら涙が出そうになってしまいました。

「愛」という言葉を差し挟むだけで、それほどまでに、訴える力を持った文章が作れるのです。

だけど、自分を愛するとは、世界を愛するとは、一体どのようにすることなのでしょう?
そのことに対する記述はありませんでした。
もちろん、そのことによる弊害も一切記述されていませんでした。

それと、「あなたの人生を精一杯謳歌してください」のようにも書かれていますが、一人の人がその人生を謳歌することは、多くの人の犠牲の上に成り立っているということが多いのに、その考察もありませんでした。

多くの人の犠牲の上に成り立っているものが、世界を救えるはずはありません。つまり、あまり深く考えて「愛」という言葉を使っているとも思えません。
愛という言葉を使ったばかりに、大変売れた本のように思えてしまいました。

愛とは、甘えたい欲求と甘えを許すことができる心が出会った時に起こる感情である」と僕は書いてきました。
でも、多くの人はそんな難しい理屈は抜きにして、ただ何かをものすごく好きになる感情に対して「愛」と使っています。
でも、よく考えれば、「何か」をものすごく好きなわけは、「何か」が自分の本能を癒して幸福な心持ちにしてくれるから大好きなのです。

「世界をもっと愛してください」
という呼びかけは、「世界をもっと大好きになってください」という意味に受け取ってもいいと思いますが、「世界」という抽象的な概念は、僕自身の本能を癒し幸福な心持ちにしてくれはしません。

そんなものを「愛してください」とお願いされても本当に困ってしまうのです。でも、僕は不覚にも涙が出そうなほど感動してしまいました。

僕は、愛という魔法の言葉、その魔法にかかって、涙が出そうになってしまったわけなのです。


あなたの愛が世界を救います、と言われれば、もう自分は何かを救ったような気になって嬉しくなってしまうのが「愛」の魔力です。

不思議な力を持った言葉です。

だからこそ、安易に考えもなしに使って欲しくありません。
それを書いた人に聞いてみたいと思います。
あなたは、どれほど深く「愛とは何か?」と考えたのですか?
あなたは、一体、自分をあるいは世界をどのように愛せとおっしゃるのですか?

その人がその文章を書いたこと、それ自体には、ある意味ではメリットはありました。

一つには、それを書いた人本人が、自分の言葉が世界を救ったような気になり自分自身の本能が癒されたということです。

もう一つは、読んだ人も、愛という言葉そのものに、日常抑えつけられ続けている本能が癒されたということです。

だけど、癒されたのは一時的ではないでしょうか?
僕が不覚にも涙を流しそうになったのは一時的ではないでしょうか?
その証拠に、その時僕が涙を流していても、世界を平和にすることはできないでしょう。


もっと永劫不変(えいごうふへん)の真理を僕たちは見つけたいはずです。
僕は、その作者に問いかけます。
本当に、愛が世界を救いますか?
そして、もう一度今度はあなたに問いかけます。
それでも、まだ、あなたも愛が世界を救えると信じますか?
(つづく)
次週のタイトルは「幼児虐待と愛」です。


★編集後記
本のタイトルは言いませんが大変売れた本らしいので、読んだ方もたくさんいらっしゃると思います。
普通の方は、その本を読んで僕のような難しいことは考えず素直に感動したでしょう。

感動は、日頃抑えつけられている本能を解放してくれます。と言うより、日頃抑えつけられている本能を解放してくれることを感動と呼んでいた、と言えるのかもしれませんが。

そして、そのとき流す涙の中には、ストレスを洗い流す成分が含まれていることが実験によって明らかにされています。
と考えると、素直さは本人にはとてもいいメリットになっているわけです。


僕のような素直じゃない反応は、ひねくれていると言われてしまうものです。でも、素直に、つまり安易に他人の言うことを鵜呑みにすることを、感化される、洗脳される、あるいは煽動されると表現される場合があります。

例えば、ヒットラーが考えたことは、彼自身にとっての愛の実践でした。
彼は、自分の本能が最も癒され最も幸福になることを実践したのです。

今でこそヒットラーを悪者のように言う人がたくさんいますが、その頃、彼の言うことを素直な気持ちで受け取ってしまった人たちがどういう行動をしたか考えると、僕の言いたいことがわかっていただけると思います。

ヒットラーは演説の天才でした。聴衆を惹きつけるために演説の時刻や細かい動作まで考えて演出をしました。
彼の演説にうっとりとするように、僕たちは、「愛」という魔法の言葉にいつまでもうっとりしていてはいけないのです。


ぼやぼやしていると、あの過ちをもう一度繰り返してしまいます。
その危険は、常にあなたのそばにあります。
日常的にも、たくさんたくさん起こっています。
今の僕たちに必要なのは、素直さよりもむしろ疑うことです。

信憑性(しんぴょうせい)のないもの、はっきりとした科学的裏づけや証拠もないものを鵜呑みにしない態度です。



《🐢自分探しの旅 with マーキー🐢》NO.10 君の筋肉を動かすのは誰?

■ 君の筋肉を動かすのは誰?

来週からはいよいよ、人間が人間たるゆえんとも言える、脳の活動について見ていこうと思う。
でも、今日はこれまでの復習を兼ねて、筋肉の活動について見ていくよ。

君たちは、自分の筋肉はどうして動くのか不思議に思ったことない!?

それとも、考えると夜も眠れなくなるので、考えないようにしてるかな!?

でも、世の中には知らないままにしておく方がよっぽど夜も眠れないという人たちもいるようだよね。(^-^ )


筋肉がなぜ動くのかを研究し実験を繰り返してきた科学者たちは、かなり詳しいことまで突き止めているんだ。

まず、筋肉は骨格筋と内臓筋と心筋とに大別される。


骨格筋というのは腕力とか脚力を司(つかさど)っている筋肉のことだよ。

これは、筋線維(きんせんい‥‥筋繊維とも表記します)という細長い細胞が多数束ねられた物なんだ。
この筋繊維はそれ自体が伸び縮みしているわけじゃなくって、それを形成しているアクチンというタンパク質とミオシンというタンパク質からできた太さの違う繊維が、注射器のピストン運動のように滑るようにして伸び縮みしていたんだよ。

実際には筋は伸びることはせず、収縮するか、収縮しない(=弛緩する)か、だけらしいけどね。

アクチンとミオシン


さて、筋肉がどうして動くかと言うと、まず脳から発せられた「収縮しろ」という命令が電気信号となって神経を伝わると、筋肉を包み込んでいる膜にあるセンサーがその電気的刺激を感知する。

すると「カルシウム放出チャンネル」というものが開かれ、筋小胞体という袋に蓄えられていたカルシウムイオンが筋繊維内に流れ出すんだ。

その流れ出したカルシウムイオンがミオシンにあるトロポニンというタンパク質と結びつくと、アクチンが引き寄せられ、筋肉が収縮を始める。

画像21


逆に、筋小胞体という袋にカルシウムイオンが回収されると筋肉は弛緩し、元の長さに戻るんだ。


では、実際に試してみようよ!

「右腕を曲げて力こぶを作ってみてください!」

君が今この僕の言葉を聞いて、つまり君の耳という受容器が言葉という音の振動を受けると、その刺激を電気信号に変えて、「刺激 ⇒ 反応 ⇒ 刺激 ⇒ 反応‥‥」という連鎖を引き起こしながら、聴覚野や言語野に到達して言葉として認識し、今度は君の脳が「右腕を曲げて力を入れろ」という命令を電気信号にして運動神経を通して送り、君の右腕の力こぶのできる部分の筋肉(上腕二頭筋)の筋繊維内にカルシウムイオンを放出させ、ひじを曲げさせるんだ。

この時、力こぶのできる反対側の筋肉(上腕三頭筋)は弛緩する。ひじを伸ばすと、反対に上腕三頭筋が収縮し上腕二頭筋が弛緩する。

カルシウムイオンを筋小胞体に回収する際にはエネルギーが必要になるんだけど、このエネルギーを生産するためにはマグネシウムが必要となる。

もし、マグネシウムが不足していると筋小胞体にカルシウムイオンを取り込むためのエネルギーが足りなくなってしまい、筋肉は弛緩できなくなってしまうんだ。
ちなみに、あの痛ーい、足がつっている状態というのはこのことだったという説もあるよ。

なかなか言葉だけで説明するのは難しいし、僕も顕微鏡で実際に見たわけではないし、また、そこまでする時間もない。

もっと効率的に自分探しの旅をするために、ここでも必要なエキスだけをいただいちゃいましょう。

今日のエキスとは、簡単に言ってしまえば、こういうことです。

ビリヤードの玉がくっつくと、違う性質の玉を作り上げると言ったけど、その過程で、ある種のタンパク質が作られ、その種のタンパク質は、カルシウムイオンを受けると収縮する性質がこの自然界に元々準備されていた‥‥というわけなんだ。

レゴで風車を作った時、レゴは風を受けて回るという今までにない性質を持ったけど、元々自然界には、風車が作られた場合には、風を受けたら反応する性質は準備されていたということだったね。

この考え方は、とても重要なんだよ。

何のために重要かと言うと、自分の心の平安、つまり僕たちの幸福と、世界が平和になるための、ものの考え方を見つけるためなんだよ。

自然界の法則(=ビッグバンという最初の一突きがもたらした僕たちの宇宙の性格)は、未来永劫(えいごう)決して例外を作らないということと、しかも、この先のレールは神様でもご存知ないということを知ることが、そのことに、とても役に立つんだ。

例外を作らないということは、ある意味では真理ということでもあり、真理を知るということは心に安心感をもたらしてくれる。

また、神様でさえも運命を操れないと知ることは、神に近づこうとする傲慢な人間に反省を促してくれる。

人間が傲慢でなくなること、自分の無力を知ること、これこそが世界を平和にする第一歩だったんだ。

さて、今日のタイトルの答え、君の筋肉を動かしていた張本人は誰だったでしょうか?
答えは、カルシウムイオンだった、ということです。


ちなみに、内臓筋や心筋の収縮もカルシウムイオンによるものなんだけど、そちらの方は、引き金となるのは中枢神経からの電気信号ではなく、自律神経系やホルモンによる刺激なんだよ。

今日は、今までの復習をしたね。

科学が僕たちに与えてくれた最も大きな功績、それは、「全ての現象には原因がある」ということを教えてくれたことだったよね。

筋肉の話を持ち出したのは、そのことをもっと細かく検証してみたかったからなんだ。


僕が、今パソコンのキーボードを打ったのは、僕の指の筋線維がカルシウムイオンを受けたからで、そのカルシウムイオンを放出させたのは中枢神経からの命令で、中枢神経がそのような命令を出したのは、脳が、ある刺激を受けたからで‥‥、といった具合だ。

指一つ動くのでも、その原因はちゃんと説明がつけられるということが言いたかったんだよ。

もう一つは、筋肉を動かしている二種類のタンパク質(アクチンとミオシン)の性質も、素粒子のクォークやレプトンなどが組み合わされていくうちに作り上げられた物質が、自然界の法則に則(のっと)って反応する性質に過ぎないということだ。

そして、この原因と結果の関係を違う言葉で言い換えると、前回の「刺激に対する反応」のことだったというわけ。

全部がつながってきたでしょう!?


君の筋肉を動かしていた張本人はカルシウムイオンだったけど、そのカルシウムイオンを放出させるための電気的刺激は中枢神経からやってくる。
そのことを説明するには、脳がどのような刺激を受けて記憶、意識、思考という化学的反応をしているか見ていかなくてはならなくなったね。

さて、いよいよ次週から脳の話に入っていきます。
このメルマガのところどころに書いている「自分を知る」という意味は、実は自分の脳を知るということでもあったんだよ。
(つづく)

次週のタイトルは「脳の中の細胞」です。


■編集後記
最初に「筋肉は骨格筋と内臓筋と心筋とに大別される」と言ったよね。
‥‥と言っても、人間が、筋肉の働きを知るための都合上、勝手に大別しているだけなんだけどね。

自然界にとっては、そんなもの区別する意味なんて少しもないわけなんだ。

物質を生物と無生物に分けているのも人間の勝手な都合だよね。
生物をたくさんの動・植物に分けているのも人間の勝手な都合、人間を他の動物と別格に扱い、その人間をさらに覚え切れないほどたくさんの民族に分けているのも人間の勝手な都合。

空の上から見たらどこにも境界線なんてないのに、たくさんの国に分けているのも人間の勝手な都合だよね。

自分たちが勝手に決めているのに、そのことを忘れてしまってることってたくさんあるよね。

例えば、数字がどうして10を単位としている(十進法)か知ってる?

それは人間の指が十本あったからなんだよ。

もし、人間の指が左右で六本だったら、六進法になっていたわけなんだ。

でも、みんなそんなこと忘れちゃって、当然のように十進法で計算をしてるし、それが七進法とかになると違和感があるどころか「間違っている」と感じてしまうと思うよ。

これを固定観念というんだよ。

例えば「フランスへ旅行に行ってきたよ」と聞いて、「そんな国、人間が都合上勝手に決めてるだけで本当はどこにもないんだよ」なんて言うと誰もが怪訝(けげん)な顔をする。

勉強というのは固定観念を作るためのもの、という言い方もできると思うよ。

例えば歴史を勉強して、自分の国が過去の一時期、ある国に不当に扱われていたということを知ることは、強い憎しみを生み出す固定観念にもなっている。

勉強はとても大切だけど、それが固定観念になっていることを忘れちゃってると、考え方がどのような方向に進んでいるか知りたい時に、こだわりを持った判断しかできなくなっちゃうことがあるんだ。

固定観念やこだわりが、柔軟な思考の妨げになったり、自分たち人間を客観的に眺めたり反省したりできなくなる。

僕たちはせっかく現代科学が解明しているものを手がかりとした自分探しの旅を始めたんだから、時々は、「うーん、この解釈は人間の〇〇のための都合だな」という考え方をする訓練をしておく必要があるんだよ。



【💐世界を平和にしない愛💐】NO.10 幼児虐待と愛


★★★ 幼児虐待と愛 ★★★

今回は、愛にまつわるちょっと恐~い?話の二回目です。
先日、ネットサーフィンをしていて、あるホームページに釘づけにされてしまいました。
育児ノイローゼで虐待をしてしまう自分に悩む30歳くらいの女性が、同じような悩みを持つ人たちと語り合い、助け合っていこう、と呼びかけているものでした。
でも、コンテンツを探っていくうちに、それは表面的なもので、実はもっと恐ろしい内容のホームページだったのです。

彼女は、子供の頃、実の母親からひどい虐待を受けて育ったようです。
彼女の父親はほとんど育児には無関心で、負担は母親にすべてかかり、それだけでなく、彼女は、喘息(ぜんそく)やアトピーで、母親の手を煩(わずら)わせていたので母親は一種のノイローゼだったのでしょう。

母親から受けた虐待の数々が、幼少時から順を追ってつづられていて、19歳で、母親から「家庭の平和を乱すから出て行ってくれ」と頼まれるまでのことが書かれていました。

虚弱体質で、身体の具合が悪く食事があまり進まなくても、早く食べないと母親から布団たたきで背中を叩かれるので、何とか飲み込む工夫をしなければなりませんでした。

自分の体内で毒素を作ってしまう嘔吐症(おうとしょう)にかかってしまった時には、寝ている時に時々嘔吐をしたそうですが、そうすると、何十回も往復ビンタをされたそうです。
それが恐くて吐かないように祈っても、急にこみ上げてくる吐き気は子供にはどうすることもできません。

とても苦しい喘息の発作が起きても、夜だと病院は割増を取るので、朝まで連れて行ってもらえず、土下座をして「病院に連れて行ってください」と母親にお願いしたこともあったけど、それでも聞き入れてもらえなかったと書いています。

ある日なんか、喘息の発作の時、母親に手を引っ張られて外を走らされたそうです(実は、父親の入れ知恵だったと、ずっと後になってわかったらしいのですが)。

その時の母親の顔は、確かに笑っていたように見えたと書いてありました。大声で「人殺しー」と叫んで助けを求めても、誰も助けてくれなかったそうです。

学校でもいじめにあうのですが、家にいるよりはましと思い、登校拒否もしなかったということです。
友達にいじめられていることを言っても先生は何もしてくれず、一度だけ、母親に学校に行きたくないと言ったら、髪の毛を引っ張って引きずり回され、追い出されました。

子供の頃、ピクニックと称して車で山に連れて行かれ、そのまま両親に捨てられそうになったこともありました。

もちろん、これらの記述を全て鵜呑みにするのは大変危険です。
「当時の母親の状況を考えると許してあげたい気持ちもある」と書かれている所を見ると、被害者側の一方的な報告である点を本人も自覚してはいるようです。
状況説明というのは、どうしても双方の食い違いがおきます。
もし母親がこの報告を読んだら、目をまん丸にして驚くかもしれません。

「恩を仇で返すとはこのことだ」とわめいて布団叩きをへし折ってしまうか、もしくは自分の気持ちが子供には全く誤解されていて、切なくなって泣き出すかもしれません。

でも、母親の報告がないのでここでは推測してみることにします。
あなたはこの母親(そして父親)には娘に対する愛がなかったと感じますか? 僕は、そうは思わないのです。

僕は虐待をする親たちの気持ちが痛いほどわかります。

母親が子供に愛を注ぐのは、その見返りとして子供が愛らしさや希望を与えてくれるからです。
例えば、自分が作った料理を食べない子供は、その見返りが少ないということです。愛らしさも、健康という希望も与えてくれません。

布団たたきで叩くのも、初めは、なんとか健康になって欲しいという気持ちがあったと思うのですが、それがうまく伝えられなかったり誤解されたりでイライラしてしまい、出てしまった行動かもしれません。

それが積み重なると、叩いてはいけないと思っても、気がついたら条件反射のように同じ行動(反応)をしてしまっているのです。
行動というのは、だんだんとエスカレートしていくものです。

母親が喘息で苦しんでいる子供の手を引っ張って外を走らせた時に笑っていたのは、嬉しいからではなく、もっと複雑な感情を笑うことで乗り越えようとしていたのかもしれません。

虐待をしてしまう親は、我が子をいじめることに快感を感じているのでは決してありません。

愛があるからこそ、虐待もあるのです。これこそ愛の本性です。


もしあなたの前に見知らぬ人を連れてきて、「さあ、世界平和のために、今日からこの人を愛してください」
などと言われても、愛せるものではありません。
しかも、第一印象はあなたがあんまり好きになれそうもない人だとしたら、なおさら困ってしまいます。

愛とは、理屈ではなく、もっと本能に近いものだからです。
愛は、理屈ではなく本能的なものである以上、本能的に行動をしてしまう虐待と、同じ次元のものなのです。

虐待をしてしまう親は、愛という利己的に働く甘い誘惑のために、子供をそして自らを不本意に深く傷つけてしまう、被害者の一人なのです!

それが、誰もが美しくイメージする「愛」の正体でもあります。
虐待をしてしまう親は、その「愛」に振り回されている被害者の一人です!


まるで、自分の快楽のために用いる麻薬が、やがては周囲も自らも傷つけてしまうのと似ていませんか?
愛には確かにそういう側面もあるのです。

(つづく)
次週のタイトルは「離婚率世界一を誇るアメリカの名言」です。


★編集後記
虐待をしてしまう親は、我が子をいじめることに快感を感じているのでは決してありません。
と、僕は書きました。

その証拠に彼ら(彼女ら)は、虐待をしてしまった後、必ず罪悪感を抱き、自らを責め続けています。虐待をしない自分になりたいとカウンセリングを受けたりもしています。

でも、いろいろな虐待に関するホームページを探っていくうちに、快感を感じている虐待もあることがわかりました。

それは、実の母親が我が子をゲーム感覚で虐待しているケースでした。
自分の人生をつまらないものにした子供を見ていると、なんだかムラムラと憎たらしくなってきて、虐待をするとスーッとすると告白しています。
その後の罪悪感もあまりなく、ニュースにならないくらいに隠微(いんび)に虐待をすればいいと考えているようです。

もし、子供が自分の虐待に泣かなければ、負けたような気になって悔しくなるそうです。

これは、今回の内容とは違う形の虐待なので、今までの理論では説明ができないものなのでしょうか?

「愛とは、甘えたい欲求と甘えを許すことができる心が出会った時に起こる感情である」
この理論に対する唯一の例外でしょうか?
僕はそうは思いません。

この親が自分の子供を虐待する時、この人の何らかの甘えの欲求(=本能)が許される(癒される)わけです。

愛とは自分のために行なわれる無意識の交換であって、決して子供のためだけではないことを、今まで読んでくれた方はわかってくださっていると思います。
普通は、親が子供に愛を注ぐのは、その見返りとして愛らしさや希望を与えてくれるからです。

しかし、この親が子供に注ぐ愛は、その見返りとしてゲームで満点を取るような爽快感を与えてくれます。
この人はこの人の愛し方で、子供を愛しているわけです。

罪悪感は全くないと書いています。でも、どこかに非難されるべきことをしているという意識があるから、そんな恐ろしい告白をするホームページを作ることで、自分の気持ちを救おうとしているのかもしれません。

ところで、これまでのメルマガを読んでくださって、誤解されないように書いておきます。

僕は、愛というものに個人的恨みがあってこんなメルマガを発行しているわけではありません。
僕が批判しているのは、愛をあらゆる物の解決策、のように用いるその安易さです。

「幼児虐待は、親の愛が足りないからです。世界に戦争が起きるのは人類への愛が足りないからです。愛が全てを救ってくれます。さあ、今日からもっと愛を大切にしましょう」
「なるほど、そうでしたね。いいお話を聞かせていただきました。じゃあ、私もこれからもっと愛を大切にする人間になるように努力します」

こんな次元で、お互いに思考を停止してしまい、その先を考えることをやめてしまって、全てが解決したかのようにもう笑顔に戻っています。

ちょっと待ってください! 何も解決していませんよ!

むしろ幼児虐待は親の愛(愛とは常に利己的に働くものでした)が強過ぎたんじゃないですか!?
何の解決策にもなっていないのに、愛って言葉で全てが解決したように思わないで下さいね!

僕はそのように言いたいのです。その先を考えたいのです。



《🐢自分探しの旅 with マーキー🐢》NO.11 脳の中の細胞

■ 脳の中の細胞

人間の脳というのは、1000数百億個の神経細胞と、それよりずっと数の多いグリア細胞というものからできているんだ。

まれに、人間の脳は約150億個の神経細胞からできている、という誤った記述をしているホームページを見かけるけど、これは、大脳皮質の部分だけの数みたい。

その主役である神経細胞(ニューロンと言います)は、一つの細胞体から、たくさんの短い「樹状(じゅじょう)突起」と、一本の長い「軸策(じくさく)」という突起が生えている形をしているんだ。

樹状突起(と細胞体)は他の神経細胞から情報を受け取り、軸索は他の神経細胞に情報を伝達する働きをしている。

樹状突起


受容器(視・聴・触・味・嗅などの知覚装置)によって受けた刺激が、末梢神経を通って脳の神経細胞の、ある細胞体に伝わると、そこから伸びている「軸索」の中を電気的なインパルスが走る。
その先端は、またたくさんに枝分かれしていて、枝分かれしたそれぞれの先端部分は、わずかの隙間をもって他の神経細胞の樹状突起や細胞体とつながっているんだ。

この接続部分をシナプスと呼んでいるよ。

電気的なインパルスが、そこで化学信号に変えられて他の樹状突起や細胞体に刺激が伝えられるんだよ。

何のために? ‥‥だって?


こんなもの何のためでもないんだよ。(^-^ )

科学は、これからも自然界のいろいろな現象の原因を発見していくだろうけど、その現象が起こった目的や理由は永遠に知ることができないんだ。
それはむしろ宗教や文学の得意分野なんだよ。

だから科学者が、何らかの自然現象に対して目的や理由を付け加えたら、それは科学者ではなくて文学者だと疑った方がいいよ!

つまり、素粒子がどんどんくっつくうちに、この自然界の中にそのような働きをする物質が生まれた、としか答えられないのが科学の宿命なんだ。

だけど後になってわかってくると思うけど、この科学の宿命こそが、世界を平和にしてくれて、僕たちを幸福にしてくれる、とても大事な自然界中心の謙虚な考え方だったんだよ。


話を戻すけど、これら脳の中で起こっている現象はすべて、ビリヤードの玉の最初の一突きによって性格づけられた力だったよね。

だから、脳内の現象というのも「刺激 ⇒ 反応 ⇒ 刺激 ⇒ 反応 ⇒ 刺激 ⇒ 反応‥‥」と永遠に、このビッグバンから始まった宇宙が終焉(しゅうえん)するその日まで続いていく、連鎖の過程の中で生まれていたものに過ぎないわけなんだ。

脳の中でもそのように次の神経細胞へ次の神経細胞へと、「刺激 ⇒ 反応 ⇒ 刺激 ⇒ 反応 ⇒ 刺激 ⇒ 反応‥‥」が伝わり、性質は変化し、あるいは言葉という音刺激によって強化させられたりしながら、それによって僕たちは物を考えさせられたり何かをしようとさせられたり、といろいろな反応を引き起こさせられるような仕組みができてしまったわけなんだ。

ちなみに、僕がこの文章を書いている状態というのは、そのようにして「刺激 ⇒ 反応 ⇒ 刺激 ⇒ 反応 ⇒ 刺激 ⇒ 反応‥‥」の連鎖の中で、何かの刺激に反応している状態なんだよ。

その一番の刺激となるものは、まだほとんどの科学者が言及していないんだけど、脳内に記憶させられている「言葉」という「音刺激」なんだけどね。このことはとても重要なのに多くの科学者が見落としていることでもあるので、今度ちゃんと詳しく話すね。


そして、そして、今この文章を読んでくれて、その刺激が君に何かの反応を引き起こすわけだね。

えっ? ここまで読んだけど、何の反応も引き起こさないって? (>_<;)


でも、そんなこと絶対にあり得ないよ。

例えば、君は今、僕のメルマガを2分31秒読んでから、パソコンの画面の右上のバツで閉じるとするよね。

それで、煙草を吸いたくなり煙草の箱を取ると空っぽだった。
そこで煙草を買おうと外に出ると、そこに現れたのは酔っ払いのおっさんだった。

「おう、あんちゃん悪いねえ、この辺にコンビニねえかい?」

それを教えてあげると、酔っ払った勢いでおっさんは千円をくれたとする。

こんな幸運?を、君は僕のメルマガを2分31秒読んだこととは全く無関係だと言い切れますか?
僕のメルマガを3分45秒間読んでいたら、酔っ払いのおっさんともすれ違わなかったはずだよね。

君は僕のメルマガを2分31秒間読んだことよりも、千円貰ったことの方がずっと価値があると思われるかもしれないけど、それは君の主観が判断していることに過ぎず、自然界から見ればどちらも同じレベルのただの現象に過ぎないわけなんだよね。
結果から見れば、起こるべくして起こっている現象だよ。

酔っ払いのおっさんがその時間にその場所に現れた原因も、遡って検証してみれば、その時間にその場所に現れる以外にはあり得ないほどの必然性で現れているわけだよね。

だから、ビッグバンという最初の一突きから途切れずに続いている「刺激 ⇒ 反応 ⇒ 刺激 ⇒ 反応 ⇒ 刺激 ⇒ 反応‥‥」がもたらしている一つの現象として、僕がこの文章を書いているということだって、結果から見れば全て必然なんだ。

ビッグバンがなければ、僕は間違いなくこの文章を書かなかったしね。

でも、このことを逆手にとって、運命論的な解釈に陥ったり、宇宙は生まれた時に、僕にこの文章を書かせるような目的や意思のようなものを持っていた、と解釈したりしてはいけないことは前回話したよね。


さて、神経細胞は他の細胞と違って、細胞分裂をせず、減る一方のようなんだ。

二十歳過ぎると、一日に10万個ずつ減っていると言われているよ。

でも、シナプスは、細胞体から出ている1本の軸策に対して、平均1万個もあると言われていて、新しく作り出せるんだって。ああ良かった。

ただし、年を取って神経成長因子が少なくなると、シナプスのでき方は鈍くなり、それも記憶力の鈍る原因の一つではないかと考えられているんだ。

ところで、脳内での情報の伝達は、軸策内を電気が走り、シナプスで化学信号に切り替わると説明したけど、電気といっても、要は液性のカリウムイオンとナトリウムイオンの交換によって発生するもののことなんだ。
イオンとは、電子を失ったり得たりして電気を帯びた原子及び分子のことだよ。

シナプスでやり取りされる化学信号とは、人間の精神的なものに関わる働きをする化学物質(=神経伝達物質)のことで、例えば、ノルアドレナリンは驚きや怒りの伝達物質。エンケファリンやエンドルフィンなどはモルヒネのような働きをする。
フェニルエチアミンは、恋をしている時などに放出されていて、興奮する、陶酔するなどという一種の幻覚作用を引き起こす。セロトニンは攻撃性を抑制するなどの働きがあるんだよ。

また、うつ病と診断される人は、セロトニンやノルアドレナリンという神経伝達物質の働きが弱まっているとされている。
統合失調症の幻聴や被害妄想はドーパミンという神経伝達物質の働きが強くなりすぎることと関係するようだということもわかってきたみたいだよ。

僕たちの感情を作り出す張本人は、神経伝達物質とされている化学物質だったということがわかってきたんだね。

このように、僕たちの脳の神経細胞の中では、いろいろな刺激に対する反応
(特定の化学物質を生成したり、特定の結合を作ったり)が今も行なわれているわけなんだ。

その反応が刺激となって、新たに何かの反応(行動)が引き起こされるわけだね。


ところで、一番初めに、脳は神経細胞とグリア細胞でできていると書いたけど、グリア細胞は、ちゃんと?増殖もするし、数の上では神経細胞よりはるかに多く、神経細胞の活動・維持を助けるたいへん重要な存在なんだって。

このグリア細胞について次のように書かれている文を見かけたんだ。

「脳が神経細胞だけからできているとすると、細胞表面のいたるところが、隣りの神経細胞と接触することになり、それだといたるところに興奮が伝わる可能性が生じるから、おそらくそういうことが起こらないようにグリア細胞という脇役があって、それが神経細胞同士の間に、徹底的にはまりこんでいる」

この文は、興奮がいたるところに伝わらないようにという目的を持ってグリア細胞ができた、と言っているようだよね。

たまたまグリア細胞があるから、隣同士の神経細胞は互いに接触せず、興奮がいたるところに伝わらない状態になっているだけなんだ。

人間は物事の関わり具合を人間流に解釈してしまうところがあるから、うっかり、こういう言い回しをしてしまう。

人間流という意味は、感情や意思を持っているとされている人間の価値観を、人間以外の物事に、当てはめて考えてしまうという意味なんだ。

僕はこの解釈法を「意思的解釈」と命名したんだ。
人間にはあるとされている「意思」を、他のものにも当てはめて解釈してしまうという、科学的には間違った用い方なんだ。

例えば先ほどのグリア細胞の記述は、学校のクラスを例にとって言い換えると「男の子ばかりのクラスだと殺伐(さつばつ)としてしまうので、女の子を同じ数だけ入れたクラスを作りました」みたいなことを言っているんだよ。

ちょっと考えればわかるけど、自然界が、そんな教育委員会みたいな心遣いをするわけがないよね。
「意思的解釈」については、いずれ話すので、この言葉は覚えておいてね。

もし、僕たち人間にこのグリア細胞がないとして、いたるところに興奮が伝わる脳を持った人間ばかりだったら、そんな状態を想像すると面白いよね。
でもその場合は、最初から人間とはそういう動物だと認識するまでの話だ。何ら差し支えないよ。
それが普通だと思えるはずだよ。

そして、その生物の反応がこの自然界では「生存に不利な適応」だとしたら、その種の生物が繁栄できず絶滅するというだけの話。

自然というのは「~する方が都合がいいため、~する能力が備わる」という目的を持ったような現象は決して起こり得ないんだ。
「~という能力が備わったため~することが都合がよくなった」ということが、言えるだけだということは忘れないでね。
(つづく)

次週のタイトルは「ワニの脳、ウマの脳、ヒトの脳」です。


■編集後記
今日のエキス。
このメルマガは、科学の解説のメルマガではなくて、現代科学がたどり着いたものを手がかりとした「自分探し」をするものだったよね。

それで、今日も「自分探し」のエキスだけをいただいちゃいましょう。

僕たちの感情を作り出す張本人は、神経伝達物質とも言われている脳内化学物質だったわけだけど、感情(驚き、喜び、怒りなど)は、脳内化学物質同士の、単なる刺激に対する反応が引き起こす現象に過ぎなかったということ。

それが人間が言葉を用いるようになったことによって、単なる刺激に対する反応が、「心」と呼ばれているものになったわけなんだ。
これはとても重要なことだけど、NO.17まで待ってね。



【💐世界を平和にしない愛💐】NO.11 離婚率世界一を誇るアメリカの名言

★★★ 離婚率世界一を誇るアメリカの名言 ★★★

愛にまつわるちょっと恐~い?話の最終回です。


「私たちは誤解して結婚しましたが、このたび理解し合えましたので離婚します」
離婚率世界一を誇るアメリカの名言です。

彼ら(彼女ら)が、優しく耳元で「I love you.」と囁き続けていないと不安なのは、「君は僕の甘えを許してくれるので大好きだよ。君が僕の甘えを許してくれる限り、僕は君の甘えを許し続けるよ」
「私もあなたが私の甘えを許してくれるので大好きよ。あなたが私の甘えを許してくださる限り、私もあなたの甘えを許し続けるわ」
という契約の確認だったからです。

この甘えというのは、もちろん今まで書いてきたように、「本能の求める欲求を押し通そうとすること、あるいは本能が最も居心地がよく感じる状態を維持しようとすること」という意味です。
これが達成されないと、人間は幸福感や満足感を持って生きることができないのです。

個人主義を標榜(ひょうぼう)するアメリカ人が、自己の甘えに価値を置くのも、よくわかることです。

さて、この三週に渡って、僕はあなたを失望させることばかり書いてきましたか?
もっと夢のある愛の話ができないの? って言われてしまいますか?

愛とは今まで見てきたように決して綺麗なものなんかではありません。
非常に利己的なもので、常に、気づかずに見返りを要求しているものでした。

でも‥‥、でもですよ、それは、幸福感や満足感を得るために、言い換えると生きていくために是非とも必要なものでもあります。

だとしたら、その愛を優しく受け入れて、希望を見出さなければならないのです。

僕があなたにお伝えしたかったことは、僕の書いていた物語の主人公が見つけたその希望の光だったのです。
それをあなたにお伝えしたくて、書いているのです。


* * * * * * * * * * * *

今日は短く収まったので、もう一つ書かせていただきます。

先日、テレビのチャンネルをランダムに回していたら、NHKの『心の時代』という番組に引きつけられました。そこには、気仙地方の方言「ケセン語」研究家でカトリック信者で医師でもいらっしゃる山浦玄嗣(はるつぐ)さんという方が出演されていました。

山浦さんは、新約聖書の「マタイ福音書」をケセン語で表現しようと考え、初め日本語の聖書を元に訳していたけれど、堅苦しく意味不明な直訳が多く、また、つじつまが合わなかったり、イエスの実像が浮かんでこないという理由から、ギリシャ語の原典から翻訳をし直しました。

山浦さんは番組の中で、聖書の「汝(なんじ)の敵を愛せ」という教えに「どんなに苦しめられたかわからない」とおっしゃっていました。
敵というのは憎い相手です。その憎い相手を愛するなんてあまりにも矛盾しているからです。

だけど、原典を調べていくと、そこには日本語の「愛」というニュアンスはなかったそうです。
日本語の「愛」には、上位のものが下位のものを「好き」であるという意味が基本的にありました。例えば、男尊女卑(だんそんじょひ)の頃、夫は妻を愛するという言葉は使えても、妻が夫を愛するなどと恐れ多くて使えず、「お慕い申します」と使ったわけです。

原典の「アガペー」という言葉は、相手が自分よりも下位であろうが上位であろうが関係なく、また好き嫌いの感情を超えたものだそうです。

そこで山浦さんは、「汝の敵を愛せ」の「愛」を原典に近い「大切にする」という言葉に置き換えて、「憎い敵であっても相手だって人間なのだから、大切にしろ」と解釈したそうです。
そうすると、それまで苦しめられていたものが、霧が晴れるように消失したということです。

ちなみに、戦国時代末期から徳川時代にかけての日本人キリスト教信者(キリシタン)も、「愛」という言葉は使わず、「お大切」という言葉を使いました。

その理由は、「愛」は仏教用語で、解脱(げだつ)の障害となる汚れた煩悩(ぼんのう)・執着心の一つと考えられていたので、この語を避けたとも言われます。

愛は憎しみと同じ「感情」だと彼は言います。

いくら愛という感情が「善」に近いイメージがあると言っても、感情に全幅(ぜんぷく)の信頼を置くわけにはいきません。
愛が感情である限り、それは憎しみという感情と同次元のものです。その証拠に、時には自分たちの愛を貫くために、敵を憎み血を流して戦わなければならないものです。


山浦さんは次のようにおっしゃっています。
「大切なことは、愛憎の感情を超えて、意志の力によって、たとえ敵であっても大切にしてあげようという決意と断固たる行為である」
とても素晴らしい言葉です。

最悪の事態を想定してみましょう。
もし、あなたの「愛する我が子」が、誰かに殺されてしまったとします。
その時、あなたはその加害者を恨み続け、復讐に一生を費やし、様々な妄想に苦しめられ、自分の人生を台無しにしますか?
それとも、意志の力で大切にしてあげることができますか?

 僕たちには、きっとできるようになります。それは宗教などでも意志の力でもなく、科学的な真理を知ることで容易に成し遂げられます。
そして全ての苦悩を乗り越えられる時がきっときます。

僕たちがたどり着く場所には、今まで見たこともない木が立っているはずですから。その木に実っている不思議な味のする果実に、全ての秘密が隠されています。
(つづく)

次週のタイトルは「あなたへの一つの質問」です。


★編集後記
山浦さんは、「日本語の『愛』には、基本的に上位のものが下位のものを『好き』だという意味がある」とおっしゃっています。
夫は妻を愛するという言葉は使えても、妻は夫に対して「お慕い申します」としか言えなかったそうです。

「愛とは、甘えたい欲求と甘えを許すことができる心が出会った時に起こる感情」であるわけですが、男尊女卑の頃、男性には女性に甘える気持ちが許されても、女性が男性に甘える感情を持つなんて、もってのほかだという偏見が幅を利かせていたのでしょう。

現代は、女性が男性に対して「愛しています」という言葉を使える時代です。それは、女性が男性と対等になってきたからでしょう。

アメリカからやってきたウーマンリブという社会運動があります。
今まで、男性は女性に甘えてきたわけですが、しかし、このウーマンリブの場合は、女性が男性に甘える権利を獲得しようとした運動というよりも、社会制度に女性の甘える場所を築こうとする運動です。

そのことで、男性に甘えるのではなく男性と闘わなければならないわけです。

本当は男性が女性に甘えるように、女性も男性に甘えてくれて、お互いに包容力を持って受け容れようとする方が、世界は平和になるはずです。
互いの持っているものや強さを誇示するより、互いが持っていないことや弱さを知り、男と女は助け合わなければ生きていけないことを知るべきです。

これは男と女に限らず、人間関係でも、国際関係でも言えることなのです。何故それができないのでしょうか?
それは、誰もが自分の甘えを強く通そうとするからです。
誰もが自分の甘えを強く通そうとする理由は、今はまだ、誰もが幻想の自我によって生きているからです。

と、謎の言葉を残して今回は終わりにします。
この謎の言葉の意味も、不思議な味の果実をがりりと齧った瞬間にわかっていただけるかも‥‥。



《🐢自分探しの旅 with マーキー🐢》NO.12 ワニの脳、ウマの脳、ヒトの脳

■ ワニの脳、ウマの脳、ヒトの脳

今日もまた、人間が便宜上勝手に大別しているだけのどうでもいい話をするね。でも、大別という方法論は、自分探しには(自分を客観的に把握するには)結構役に立つんだ。

人間の脳は大きく大脳・小脳・脳幹の三つに大別できるんだ。

1、大脳‥‥表面のしわしわの部分を大脳新皮質、その内側を大脳辺縁系、そのまた内側を大脳基底核(きていかく)と呼ぶよ。

2、小脳‥‥脳を横から見ると大脳の後ろにぶら下がっている部分。

3、脳幹‥‥脊髄からつながっている脳の心棒にあたるもの。

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これらの分け方はそれなりに重要だけど、今回は、脳を大脳新皮質(しんひしつ)、大脳辺縁系(へんえんけい)、脳幹(のうかん)という三層構造で見てみたいと思う。

なぜなら、脳が作られてきた古い順番で見ると次のように分類できるからなんだ。

1、脳幹の視床下部(ししょうかぶ)=ワニの脳
2、大脳辺縁系=ウマの脳
3、大脳新皮質=ヒトの脳

ちなみに、『脳ってすごい!』っていう、すごい本を書いたロバート・オーンスタインさんは、「脳は、いわばきちんとした計画もないまま長い年月をかけて増築されてきた古い家のようなものだ」と言っている。

この「きちんとした計画もないまま」という言葉、とてもいいよね。
この自然界のあらゆる現象に対して、目的も理由も見い出すことはできないという科学的な視点からの発言だからとてもいいと思うよ。

ところで、小脳はどこへ行っちゃたのかって?
これは、身体のバランスを保ったり、運動をスムーズに行なったりするための調節に欠かせない部分なんだけど、ここでは省略。

じゃあ具体的に見ていくね。

心棒にあたる脳幹には、本能と非常に関係が深い視床下部という部分がある。ただし、大別方法によっては視床下部を脳幹に含めない場合もあるようなんだ。

これは、親指の先程しかない大きさだけど、その働きたるやすごいものなんだよ。

攻撃や逃避の行動をとるためのホルモンを分泌したり、摂食中枢(せっそくちゅうすう)や満腹中枢、性欲中枢などの他、体温や血圧や内臓の働きを調節したり、水分を調節したりする部分なんだ。

原始的、爬虫類的本能行動を司(つかさど)っている部分なのでワニの脳と呼ばれている。

それに対して、その周りの大脳辺縁系をウマ(あるいはイヌ)の脳と呼んでいる。
これは、(動物のレベルの)快・不快や、満足感や、恐怖や、不安や、怒りなどの感情を生み出したり、記憶にも関係しているところなんだ。

本能行動を起こさせる大脳辺縁系と視床下部を合わせて「動物の脳」ということもある。



それに対して一番外側の大脳新皮質は「人間の脳」と呼ばれている。

大脳新皮質は、高等になるほど発達していて、認識、記憶、判断、思考などを受け持つ部分で、人間で言えば、理性や知性の脳とも言えるということなんだ。

ほら、また僕の嫌いな言葉が出てきた。
ちなみに、生物学の世界では、「高等」とか「下等」とかいう言葉に特別の意味はないということだからね。

高等生物(こうとうせいぶつ)とは、より進化の進んでいるとされる生物を指す言葉である。下等生物に対する語として使われた。かつては進化に方向や傾向があると考えられ、進歩や前進と混同されていたために、進化が進んだ生物と進んでいない生物が存在すると考えられていた
『出典 : フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

「進化」という言葉や「高等・下等」という言葉を作った最初の人たちは、どうしても人間中心で物事を考えてしまうところがあったので、こんな言葉を使ってしまったのかもしれないね。
お陰で後になってこんな言い訳がましいことを言わなきゃならなくなっちゃったんだよ。

僕は「進化」という言葉は使わないことにしているんだ。
科学的な視点で見たら、この自然界には「進歩」も「進化」もなく、ただ「変化」があるのみなんだよ。人間中心に傲慢に自然界を解釈してはいけないんだ!

世界が平和になって、世界中の人たちが幸福に生きるためには、どうしても必要な、その科学の視点をわかってほしいな。



話を「人間の脳」と呼ばれている大脳新皮質に戻すと、例えば、不快に思ってもそれに立ち向かわなければならなかったり、欲求があるのに我慢しなければならなかったりするのも、この大脳新皮質があるからなんだよ。

人間が理性を持ったことで動物を卒業して、善悪の基準を持つようになってしまったというのは、このような構造的な次元でのことだったのかもしれないよね。

今日は、ちょっと息抜きに、脳の三層構造(大脳新皮質、大脳辺縁系、脳幹)を「笑い」に焦点を当てて見てみようと思うんだ。

★大脳新皮質ー社交上の笑い
これは、協調の笑い、あるいは人間関係を円滑にするための1つの技術とも言える笑いだよ。
バツの悪いときに笑ってごまかしたり、トゲトゲした人に対して使う武器としても使われる笑いだ。
社会経験とともに、徐々に身につく笑いだね。

★大脳辺縁系ー快の笑い
これは、簡単に言えば、本能が満たされた時に無意識的に出てくる笑いだよ。
例えば、嫌いな同僚が失敗して上司に怒られているのを見てニヤリとする笑いや、サッカー選手がゴールを決めたときに、「ヤッター!」というアクションを伴う笑いです。
スポーツって結構本能的だもんね。(^-^ )

★脳幹―条件反射の笑い
笑いすぎた際に、「涙が出る、汗をかく、呼吸が荒くなり隣の人をやたらと叩く」といった行動が起こるのは、ワニの脳の仕業です。
なぜなら、この部分は自律神経の中枢でもあり、汗や涙の分泌・血圧や心臓の拍動の変化・血管の収縮や拡張、呼吸数などを司る部分だからだよ。

みなさん、笑いながら隣の人を叩いている人を見たら、今日からは、あの人ワニの脳をフル活用させているなあ、と感心しましょう。(^-^ )

今日は、脳を三層構造で見てみたけど、来週は、五感(視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚)と言われるものがどの部分でキャッチされ、どのように認識されていくのか見ていくことにするね。
(つづく)


次週のタイトルは「どこが感じているの?」です。ちょっと、卑猥(ひわい)かなあ?


■編集後記
僕たちが、人間であるゆえんは、理性(物事を論理的に思考し真偽・善悪を識別する能力)の大脳新皮質を駆使しているからだけど、本能(欲望)がその奥に力強く潜んでいるんだね。

結局、理性は、その欲望を理由付け(合理化)する道具に使っているだけなのかもしれないよ。大人も子供も‥‥。

そう、子供だけでなく、大人だって‥‥。

と言うか、大人の方がずっと巧妙にやっているわけだものね。

子供はそのことを感覚的に見抜いているのだけど、うまく言葉で表現できずに、それでイラついて社会に暴力で訴えてしまうのかもしれない。

この状態から脱却して、大人も子供も真の人間になるためには、自分の中にはどのような本能が温存しているかをしっかり理解し、理性がそれをコントロールできるようになることが必要だと思う。

僕の産みの親、真亜基さんは、メルマガ『世界を平和にしない愛』のNO.13でそのことについて書くそうなんだ。
うまく書いてくれるかどうかちょっと心配だけど。
それだけでなく、僕が考えたことをほんの少しだけ発展させて、「世界平和のための本能分類表」と名前までつけて、自分のメルマガで発表しようとしているんだ。

別にいいんですけどね‥‥。(不快)⇦ウマの脳でした。

だから、僕が本能について口出しをするのは、この辺でやめておきます。
この本能については、彼のメルマガ『世界を平和にしない愛』で見てください。
本当は、自分探しにおいて本能を科学することは最も重要なことなので、他人任せにはしたくないんだけどね。

でも、僕たちも急がなければ、彼らの方が先に頂上までたどり着いてしまいそうなんだ。
できれば同時に到着したいからね。
まだまだ、考えなければならないことはたくさんあるんだ。先を急ぎましょう。




【💐世界を平和にしない愛💐】NO.12 あなたへの一つの質問

★★★ あなたへの一つの質問 ★★★

今日は趣向を変えて、あなたに一つの質問をしてみます。
あなたが何歳の方かわかりませんが、あなたにお子さんがいらっしゃって、その子をとても愛していらっしゃるとします。
さて、今、あなたのお子さんとその友達が海で溺れていて、あなたのボートには一人しか乗せられないとします。
その時あなたは、どちらの子供を助けますか?

僕は以前、このメルマガの読者のMさん(45歳・女性)に同じ質問をしました。Mさんは、僕のメルマガの創刊号を読んでくださって「愛の本質は差別」という言葉に疑問を抱かれていたからです。
僕は、上のような質問をすることで「やはり、愛の本質は差別である」と証明できそうな気がしたからです。

愛にはその対象が存在し、対象を認識する行為が含まれている限り、差別と無関係ではあり得ないからです。


ちなみに、差別という言葉を辞書で引くと、

(1) ある基準に基づいて、差をつけて区別すること。扱いに違いをつけること。
(2)偏見や先入観などをもとに、特定の人々に対して不利益・不平等な扱いを
すること。また、その扱い。

とあります。
僕は主に、この場合の(1)の意味で使っています。

例えば、あなたが俳優の〇〇さんを好きだというのも、それは他の人と区別して、扱いに違いをつけているわけですから、僕は差別と呼んでいます。
ただ、ある人を好きだということは、無意識で他の人に不利益・不平等な扱いをしてしまっていることもまた事実です。
だから、(2)の意味ももちろん含んではいます。

また、よく、差別は良くないが区別すること自体は悪いことではない、などとお茶を濁しているものを見かけますが、しかし、人間の営みにおいて感情の伴わない区別行為など存在するでしょうか?

区別すると、自ずと、扱いに違いをつける行為が生じるはずです。
だから、区別すること自体は悪いことではないなどと言われると、なんだか、うまく丸め込まれているような気がしてしまうのですが。

こんなのが、僕が「差別」という言葉に持っているイメージです。

人種差別などと使われるような、特に非道で残虐なイメージを伴って使っているわけではありません。

さて、ボートの話ですが、あなたはお子さんを愛しているわけですから、当然、お子さんの方を助けようとするはずです。
愛するということは、お子さんとその友達の違いを認識し、区別する能力があったわけです。
これは創刊号でゾウアザラシを例に説明したように、動物が種の保存のために必要な能力の一つです。(忘れている方はもう一度読んでみてください)

でも、愛は、お子さんを助けることでその友達に対して不利益・不平等な扱いをしてしまったわけです。
もし、そこに愛がなければ、あなたは近くにいた子をボートに乗せて、遠くにいた子を助けられなかったというだけの話しで終わっていたでしょう。

この質問に対する、Mさんの回答をご紹介します。

>その事は、今まで私自身も考えた事はありました。
>その時、自分の子どもを助けるとしたら、本能的な愛でしょう。
>自分の種の保存のため、自分のかけがえのない子を
>生きのびさせたいという。
>その結果、自分の子を助けて友達を見殺しにしたと非難されて、
>一生後悔するでしょう。
>友達を助ければ、人は、非難せず誉めるかもしれません。
>でも、とっさのときにそういうことを計算するとしたら、
>それは、自分が非難されないためにはどうするかと考える
>自己愛でしょう。自己愛のために自分の子どもを犠牲
>にしたら、そのことでやはり一生後悔するでしょう。
>たぶん、こういういろんな思いが打算のように、
>心の中を駆け巡り、瞬時に、助けなければという愛は、
>純粋な人類愛ではなくなるのです。
>そこまで、考えが、たどり着いたとき、このことは、
>今考えていても無駄だと、考えるのを止めました。
>せめて、そういう場面に出くわさなくていいように、
>いろいろな設定をするときに、気をつけようと思いました。

Mさんのような自己矛盾に悩む心優しき方に、「愛とは、自己を滅却して他人に尽くすものではなく、非常に利己的に働くもの」なんてことを言うのは、本当はとても嫌なんですが、でも、みんながそのことに気づくと、例えば「自分の子供とその友達を助ける時、一人しか助けられないとしたらどちらを助けるか」という場合に、Mさんのような心優しき人が矛盾を感じずに行動ができると思いませんか?

何故なら、瞬時にMさんのとったどちらかの行動に対して、誰一人として「あなたには愛がない」と非難する人がいなくなるからです。
つまり、どちらもその場においての瞬時の(利己的な)愛を実践したわけですから。
その時の行動を、本人が後で後悔するかどうかはまた別の問題ですが‥‥。

愛という言葉は本質を見えにくくして美化する働きがあるだけでなく、その人の行動も制約しています。
こんな行動をとったら愛が足りないと思われやしないか、という強迫観念でその人の行動を規制します。

それは多くの場合、いい行動をする役に立つのですが、心優しき人を自己矛盾で苦しめてしまうのは、やっぱり、愛という言葉を誰もが矛盾を抱えたまま使っているからではないでしょうか。

Mさんとの何回かのやり取りで、次のようなことを教えていただきました。

>突き詰めていけば、自己満足以外の愛はない
>のかも知れないんだけど、「自己だけ満足」
>じゃないならいいのかなと思います。

この言葉、なかなかいいと思いませんか。

以前、車椅子で階段を降りようとしているおじさんがいたので、周囲にいた何人かで手伝ってあげました。

僕は他人が喜ぶことをすることに、とても自己満足を感じてしまう人間なんです。例えば肩が凝った人がいれば揉んであげたくてしょうがなくなる。
それが自己満足以外の何物でもない証拠は、相手がそれを拒むと、つまんないなーっていう気持ちになってしまうからです。(>。≪)

それはちょっと自己嫌悪でもありました。

なぜなら、他人のためにやっているようでも、実は自分のためというのがあるからです。

でも、その時、車椅子のおじさんが感謝してくれたのは、助かったと思ってくれたからでしょう。
その時僕は、「自己満足以外の何か」もしていたのですね。それでお互いに幸せなら問題はないわけですよね。

これからは、はっきりと「僕は、自己満足のために手伝ってあげました」と言える世の中になったらいいと思います。
愛などという言葉を使うよりよっぱど矛盾がなくていいです。
別に「お手伝いさせていただいた」などとへつらう?こともなく、堂々とできるのです。
(つづく)

次週のタイトルは「犬と人間の良い関係」です。

★編集後記
どこかのテレビ局で「愛は地球を救う」というような番組を作って、寄付を募ったりしていますが、それは「自己満足は地球を救う」と言い換えてくれた方がいいと思います。
その方が、心優しきゆえに、寄付したことで自分の中に沸き起こってしまう矛盾で苦しむこともなくなります。

他人からも「偽善者!」という陰口を叩かれることもなくなります。
矛盾で苦しまなければならなかったのは、愛という言葉そのものが矛盾をはらんでいるからなのです。

ところで、愛は自己満足である、って言葉でこのメルマガの結論が出てしまったわけではありません。
今日は、ちょっとした寄り道でした。Mさん、ありがとうございました。



《🐢自分探しの旅 with マーキー🐢》NO.13 どこが感じているの?

■ どこが感じているの?

大脳新皮質が右脳と左脳に分かれていて、それぞれ異なった働きをしているってことは、ほとんどの人が知ってるよね。
右脳と左脳に関する本だけでも何十冊も出てるんじゃないかなあ?

それに、この大脳新皮質には、五感(視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚)に対応する部分(視覚野、聴覚野、体性感覚野、味覚野、嗅覚野)があることもほとんどの人が知ってると思うよ。

視覚 ⇒ 視角野
聴覚 ⇒ 聴覚野
触覚 ⇒ 体性感覚野
味覚 ⇒ 味覚野
嗅覚 ⇒ 嗅覚野

だから、このメルマガではそんな話は省略するね。

忘れちゃってる人や、詳しく知りたい人は、最近は、とてもわかりやすく解説した本がたくさん出ているので自分で調べてみてね。絶対おもしろいよ。

ところで、僕たちは、映画を見て感動したり、恋人の声を聞いて嬉しくなったり、苦いものを食べて顔をしかめたり‥‥、といった反応をしているけど、それは目が感動したり、耳が嬉しくなったり、舌が苦くなったりしているわけではなかったんだよ。

では、どこが感じているのでしょうか?
五感について調べていくと、ある共通点があるのがわかってくるんだ。
そのことを考えることで答えが得られるかもしれないよ。

共通点の一つ目は「まず、外界から何らかの刺激を受け取る」ということなんだ。

・目が受け取る刺激は、光の粒子。
・耳が受け取る刺激は、空気の振動。
・皮膚が受け取る刺激は、何かが触れる感覚。
・舌が受け取る刺激は、食べ物の中に含まれる化学物質。
・鼻が受け取る刺激も、匂いの分子、つまり空気中の化学物質。

二つ目の共通点は、それらの刺激に対して反応する細胞がそれぞれの器官に存在している点なんだ。例えば、、、

・目は、網膜に視細胞があって、光の波長(色)にだけ反応する細胞や明暗にだけ反応する細胞などがある。

・耳では、空気の振動が蝸牛(かぎゅう)に満たされているリンパ液の振動に換えられ、その水の振動が、音の高さに反応する有毛細胞、音色に反応する有毛細胞などに刺激を伝えている。

・皮膚は、表皮の細胞が変形を受けると、軽く押された感覚、引っ張られる感覚、毛が傾く感覚、温度の感覚、のそれぞれに反応する細胞かある。

・舌には、唾液に溶け込んだ味成分の情報を受け取る味蕾(みらい)という細胞があり、その中の味細胞がそれぞれの味に反応している。

・鼻は、その奥の方は常に粘液で満たされていて、匂いの分子がこの粘液に溶け込み、それぞれの匂いの分子に反応する嗅細胞に刺激を伝える。

さて、三つ目の共通点。
これらの特定の反応をする細胞に伝わった刺激は、それぞれ電気信号という刺激に変えられ、最終的には脳に到達し、そこで過去の記憶などを刺激し、それらと言葉という音刺激などが反応し合って感情などが喚起(かんき)されたものを、僕たちは色や明るさや、音や温度や味や匂いなどを知覚したと呼んでいるわけなんだ。

そして‥‥、忘れちゃいけないことは、これらの刺激や反応を作り出しているものは全て、そう、クォークやレプトンなどといった素粒子がくっついていくうちに、できたものだったよね。

さて、今日のタイトル「どこが感じているの?」の答えは‥‥。


そうです。実際に痛みを感じたり、苦さを感じたりしているのは、脳だったというわけなんだ。

例えば、指を怪我して痛いのは、それは大脳の体性感覚野の指に対応する部分が反応していたんだ。

その証拠に、大脳の体性感覚野の指に対応する部分を刺激すると、指が痛いと感じてしまったりする。
逆に脳のその部分が壊れてしまったら、指を怪我しても痛く感じないんだ。

また、もし右腕をなくしてしまっても、体性感覚野の右腕に対応している部分を刺激すると、ないはずの右腕が痛く感じてしまったりもする。

今日は、この体性感覚野のことで、ちょっと興味深い実験をしてみたいと思うんだ。


まず、先の尖った鉛筆を二本束ねて持ってくれるかな。
そしたら目をつむって、先端の尖った部分を左腕のどこかに押し当ててみてね。
何本だかわかりますか?

きっと、わからないと思うよ。
次に、くちびるに当ててみてくれるかな。
どう‥‥? 目をつむっていてもはっきりと二本だとわかるでしょう!?
じゃあ指先ではどうかな? これも二本だとわかるはず。

どうして腕は鈍感かと言うと、脳の中にある体性感覚野の中の腕に相当する神経細胞の数が、くちびるや指先に相当する部分よりもずっと少ないからなんだ。

これはカナダの脳外科医ペンフィールドさんが発見したものなんだよ。
「ペンフィールドのマップ」と呼ばれる、人間の全身を体性感覚野の面積に置き換えた奇怪なものを見た人もいると思う。

ペンフィールド


下の画像はそれを立体的に表したもので「脳の中の小人(ホムンクルス)」とも呼ばれているものだよ。指やくちびるが異常に大きいでしょう!?

脳の中の小人(ホムンクルス)


脳って本当に面白いよね。

ところで、このままじゃ調べたことを確認しただけであまり意味がない。
そんなもの、他の本を読めば十分だし、もっと細かく説明してるんだしね。

今日のタイトルは『どこが感じているの?』だけれども、本当に伝えたいことはその先にあったんだ。


僕は今日、それぞれの刺激に対して、それぞれに反応する細胞が存在し、その反応に対応する部分が脳に局在していると言ったよね。

でも、本当に言いたかったことは、それぞれの刺激に反応している細胞が、それ以外の刺激に対しては反応していないのかどうか? ということなんだ。

今ちょっと禅問答のような質問を君に投げかけようと思う。

目は何のためにあるのでしょうか?
「物を見るため」と答えた君、ブーッです。
目は物を見るためにあるのではありません。

では、何のためにあるのでしょうか?
「何のためでもない」が正解なんだ。

科学的に見たらこの自然界には理由や目的はないと何度も言ってるよね。

クォークやレプトンがくっついていくうちに、たまたま生まれたある現象、例えば目が光の粒子に反応する現象、に対して、人間が「目は物を見るためにある」という言い回しをしちゃっているだけなんだ。

目のそれぞれの細胞は、他の刺激にもたくさんたくさん反応しているはずだよね。ただその中で「見る」という面が一番際立ってるから、他のことを人間は見落とすか軽視してしまっているというだけの話。

そこに目的を見いだそうとするのは、どうみても人間の勝手な都合だよね。
言い方を換えれば、人間が自分たち生物に都合のいいようなおとぎ話を作り上げちゃってるんだ。
本当の科学は、人間の都合を一番嫌うんだよ。

だからもし「目は物を見るためにあります」などという言い回しを平然としてしまう科学者がいたら指摘してあげてください。
どうでもいいようなことだと思う人がいるかもしれないけど、これってものすごく重要なことなんだ。

うまく伝わっているかなあ!?


では、もう一つ例を挙げてみるね。

皮膚には、「触覚」の他にも変わった反応をする細胞があると言われているんだよ。
それは紫外線に対して反応する細胞。

普通は、紫外線によってメラノサイト(色素細胞)が刺激され、大量のメラニンが作られ、有害な紫外線から皮膚の細胞を守ってくれていると言われている。

これも実は科学的な言い回しではなくて、人間の都合に合わせた物語になってしまっていることに気づいてくれるかなあ!?

別にメラノサイト様が我々を紫外線という外敵から守ってくださっているわけでもなんでもない。
科学的に見れば、ただの生化学反応が起きているに過ぎないんだ。

それに、目的を持った現象などというのは、自然界の成り立ち(創刊号から順を追って見てきたよね)から考えると起こり得るはずがない。
じゃあ、どのように解釈したらいいんだろうか?

クォークやレプトンがくっついて変化していくうちに、たまたま細胞という自己増殖するものが生まれ、それがレゴのように組み合わさって大型の生物が作られ、その生物の中にたまたまメラノサイトを持った細胞が作られ、それがたまたま紫外線が皮膚の細胞の核を傷付けることを抑える反応をして、その反応が生存に適した反応だったということもあって、以後その細胞を作る遺伝子が引き継がれている、というだけのことなんだよ。

メラノサイトは、決して紫外線から肌を守るためという目的を持って反応しているわけではないんだ。

それもこれも、人間の想像力が勝手に作り上げている「目的」に過ぎないということをわかってほしい。

その証拠に、大腸の中にだってメラノサイトは存在していて、まれに腸の壁にシミを作っているそうなんだ。
じゃあ、人間はそのことにどのような目的を考え出すのでしょうか?


今日の話はどうでもいいことに感じる人がいるかもしれないけど、これは世界を平和にすること、つまり世界中の人が武器やお金に頼ることなく、仲良く幸福に生きられるようになるかどうかに関わっているとても重要な視点なんだよ!

それが叶って初めて、君も僕も、そして世界中の人も幸福に生きることができるんだからね。
(つづく)

次週のタイトルは「至福感の受容体」です。



■編集後記
やはり、「刺激 ⇒ 反応 ⇒ 刺激 ⇒ 反応 ⇒ 刺激 ⇒ 反応‥‥」の原則はここでも成り立っているよね。
 実は、そのことを証明するために細かく見てきたわけで、それぞれの専門用語などは専門家が覚えればいいだけの話。

だいたい、自然界には名前なんてなかったのに、専門家が勝手にいろいろなものを区別して、名前を付けただけだったわけだものね。

でも、専門の学者先生が細かく調べれば調べるほど、この「刺激 ⇒ 反応 ⇒ 刺激 ⇒ 反応 ⇒ 刺激 ⇒ 反応‥‥」の原則が正しいことを証明してくれることになりそうだ。
科学は限りなく次の言葉の証明に近づこうとしているんだ。

「ビッグバンから始まったこの宇宙で起こっている全ての現象は、刺激に対する反応の連鎖に過ぎない」

こんな簡単なことだったんだよ!


こんな簡単なことだって、根気強くて研究熱心な先生たちがいなければ、僕たちには証明すらできず、単なる思い込みと言われてしまったよね。

そのために、僕は難しい本をたくさん読む必要があったんだ。
お忙しい皆さんには、その一番大事なエキスだけをお伝えするね。

ちなみに、今日書かなかった六番目の感覚、第六感だけど、これは経験や潜在的な意識に裏付けられた洞察力に基づいて、一瞬に閃(ひらめ)く感覚のことだそうだよ。

だから、当たる確率も高いけど、はずれることもよくあるわけだよね。
当たった時だけよく覚えていて、「私って霊感が強いのよ!」なんて自慢してるんだね、きっと。
それが信念になるとちょっと病的かも?

でも、脳の働きとは、「刺激 ⇒ 反応 ⇒ 刺激 ⇒ 反応 ⇒ 刺激 ⇒ 反応‥‥」の連鎖によって作られている現象のこと、と言い換えることもできるから、ささいな刺激が言葉という音刺激などと増幅し合って、それが思わぬところでスパークして、勝手な反応(思い込み)をしてしまったとしても別に不思議でもないんだ。

なぜって、脳にはオーケストラを統率するような名指揮者がいるわけではないんだもの。
えっ、自我と言われるものが自分の脳を統率している指揮者じゃないかって‥‥とんでもない!



【💐世界を平和にしない愛💐】NO.13 犬と人間の良い関係

★★★ 犬と人間の良い関係 ★★★

動物には本能があります。
本能とは、基本的な生命維持に関わることや行動を制御しているものです。
それを我々が大まかに本能と呼んでいるわけです。

よく考えていただければわかると思いますが、人間の場合も、いくら理性が発達したとはいえ、ほとんど全ての行動が本能に支配されています。

ノーベル賞を受賞した動物行動学者のコンラート・ローレンツ氏は、「人間にそなわっている真の本能的衝動は他の動物に比べて少ないどころか、むしろ多いのである」と言っています。

また、広島大学教授の難波紘二氏は、「人間を動物と異なった何ものかとして、倫理道徳を説くのは非科学的お説教にすぎない。だからそれは空理空論である。人間を動物として生物学的、心理学的に説明するところから、倫理問題を解明する道が開けるのである」と言っています。

僕たち人間は、理性的な行動に見えても、実は深い部分で必ず本能的なものが働いています。
それに、やっかいなことに、人間の幸福感、満足感というのも、本能と連動して起こる感覚なのです。

* 甘えとは‥‥本能の求める欲求を押し通そうとすること、あるいは本能が最も居心地がよく感じる状態を維持しようとすること。


これが僕が考えた「甘え」の定義でした。そして、これが達成された時、人間は幸福感や満足感を得ることができます。
「甘え」が、ある対象に出会うと、「愛」という感情が生まれます。

* 愛とは‥‥甘えたい欲求と甘えを許すことができる心が出会った時に起こる感情。


愛が利己的に働くということをもっと強調して表現すると、「自分の甘えを許してくれる(満たしてくれる)対象に出会った時に、あるいは許してくれそうな対象に出会った時に、そのものに対して抱く感情」と言い換えられます。

愛を理性のように考える人がいますが、愛は感情であり、むしろ本能に近いものです。
もし、それでも愛が理性の方に近いと感じる人は、本能に近いはずの愛を、理性が都合よく感動的に表現した、その理論上の「愛」を見ているのです。

つまり、今まで見てきたように、たとえ愛が多くの人を傷つけていても、人間は愛がなければ幸福感や満足感を持って生きられないものです。
だとしたら、理性の力を借りて、それが良いものであり必要なものであるように理由づける必要があるからです。


さて、今日は、人間の中の理性と本能について、次のようなたとえ話をしようと思います。

犬を飼ったことがある人はわかると思いますが、犬は、主従関係をはっきりさせておかないと、主人の言うことを聞かないものです。
散歩に連れていっても、自分主導で先へ先へと引っ張って行こうとします。家の中の物をかじってボロボロにしてしまったり、ご主人様に吠えたり手に噛みついたりもします。

悲しいことに、目を合わせようともしてくれません。

だけど、ちゃんと主従関係を明白にした訓練をして、心を込めて接すれば、このようなことが全て解消されます。
今まで目も合わせてくれなかったのに、嫌になるくらいペロペロ舐めてきます。

人間は、自分の中に扱いにくい犬を飼っているようなものではないでしょうか。犬というのが人間の中に温存している「本能」です。

主人というのは「理性」です。

ある日のこと、離れて暮らしている母が電話をしてきました。
用件のついでに、自分の飼っている犬に、最近、ほとほと手を焼いていると話し出しました。

ソファーをかじってボロボロにしてしまったり、絨毯(じゅうたん)におしっこをして汚してしまったり、自分たちのスリッパを持っていってかじって駄目にしてしまう。「絨毯を取り替えるにもお金がかかるので困っちゃうよ」というようなことを言いました。

そこで、僕はちょっとお節介かなと思ったのですが、出張指導もしてくれる近くの訓練士さんを紹介したのです。
その訓練士さんは次のように言っています。

「良い犬とは、飼い主にとって都合の良い性格と習慣を持った犬のことです。犬の気持ちを思う余り過保護になるよりも、飼い主本位で自信を持って接する事が、良い犬に育て、最終的にはお互いに幸せになれるコツなのです」

「これから十数年間共に暮らしていく家族ですから、もう一度犬の性質を一から勉強し、可愛い愛犬への理解を深め、信頼関係を築いていきましょう」


含蓄(がんちく)のある言葉だと思いませんか?
僕たちが、自分の中に住んでいる扱いにくい犬と共存し、「幸せになれるコツ」は、その犬の性質を一から勉強し理解を深めることから始まるのです。

僕たちは人間として生きる以上、あくまでも理性が主で本能が従でなければなりません。
主従関係を明白にした訓練によって、人間と犬が良い関係を築き上げることができるように、僕たちは人間として生きる以上、この主従関係を作り上げて、より良い生き方をする必要があると思います。

ところで、母親は僕のアドバイスに礼は言ったものの、その後もおしっこで絨毯を汚してしまう犬と生活を続けました。
僕もそれ以上は強く説得できず、できることは黙って愚痴を聞いてあげることだけでした。

何が、母親の心を頑(かたく)なにしてしまっているのでしょうか?
問題は、訓練士の指導を受けることを自分で選択したわけではない、ということです。
母親の性格をよく知っている僕は次のように推測します。
口には出しませんが、長いこと生きてきた彼女には自分の人生に対する密かな誇りと驕(おご)りがあります。

でも、僕のお節介は、母親には「あなたのしつけに重大な問題があった」と責められているように感じるのかもしれません。
それはつまり、自分の人生を根本から否定されているようにも感じるのでしょう。

確かにしつけに問題があったかもしれない。でも、長いこと喜びも悲しみも苦しみも(って大げさだけど)この犬と共にしてきたのに、それを何にも知らないあんたなんかに否定されたくないわよ、って気持ちになるのではないでしょうか?

そんな批判を受け入れるくらいなら、犬に絨毯を汚されてもそのつど拭き取って、消臭剤を散布しながら生きることを受け入れた方がまだましだわ、と意固地になるのではないでしょうか?
電話での愚痴は、「でも、うちの犬が一番可愛い」という自慢話でいつも終わります。

どうでしょうか?
それが多くの人の生き方ではないでしょうか?
自分の中に扱いにくい犬がいることには気づいていても、そのことを見ないふりをして、悪く言えばごまかして一生を送ろうとしています。
自分の中に悪さをする犬がいることを認めることは、今までその犬と共に生きてきた自分を根底から否定するようで耐えられないのです。

そのため、多くの人が犬に自分を合わせて生きています。
言い換えると、理性は、自分の中の本能を理由づけ(合理化)するための道具になっているのです。

僕の母親のように愚痴は言うくせに自分の本能をしっかりと見つめようとはせず、最後には「でも、こんな自分が人間らしくてかわいいよ」って誉めてあげて(言いくるめて?)終わるような気がします。
それでは、家の中がめちゃめちゃなままなのと同じで、永遠に心の中も幸せにはなりません。

そして、永遠に世界が平和になりません。
あなたは、本当の自分を見つめることから目をそらさないでください!
(つづく)

来週は「悪が生まれた理由」というテーマで書くつもりでしたが、何人かの読者の方からメールをいただいて、いろいろと考えることがありました。

考えたり、本を読んだりしているうちに「マザー・テレサの愛」について、どうしても書いておかなければならないと思うようになりましたので、それについて書きます。
メールを下さった方、この場をお借りしてお礼を申し上げます。ありがとうございました。


★編集後記
その数ヶ月後、母親からまた電話がありました。
取り敢えず絨毯はやめてフローリングにする、と決断したようです。(^-^ )

ところで、以前、NHKの「真剣10代しゃべり場」を見ていたら、「他人の才能に嫉妬したり、素直に誉めてあげられない自分がイヤだ」と悩む女の子がいました。

ゲストで出演していた作家の鷺沢萠(さぎさわ・めぐむ)女史が、「人間らしく生きたいんだね」と言ったので、このメルマガで、ちょうど本能や理性のことを書いていた僕は、「さすが鷺沢さんだ!」と感心しました。

ところがそれに対して「ええーっ、人間らしくって言うんだったら、私なんかなおさらグチグチ言っちゃうよぉー」という反応をした子が数人いて驚きました。

みなさん、人間らしさってなんでしょう?

僕は、人間を脳の次元で捕らえます。
もし、大脳新皮質の活用が不完全なら‥‥つまり、より本能に近い生き方をするなら、それは人間的ではないと考えたいのです。
たぶん、「ええーっ、人間らしくって言うんだったら‥‥」と答えた子は、人間らしさという言葉から、生き生きとしたもの、という連想をしたのではないでしょうか?

泣いたり笑ったり怒ったり、飛んだり跳ねたり、時には殴りあいの喧嘩をしたり‥‥それが人間らしさのイメージなのでしょう。

確かに、あんまり外で遊ばずに家にこもって勉強ばかりしている子や、規則に縛られていることにもおとなしく耐えていたり、自分の感情を抑えたり、何かに対して無感動な子は人間らしいとは言えないかもしれません。

鷺沢女史は、人間らしさについて次のような意味のことを述べておられました。
「野生の動物たちはより強い子孫を残そうとしてオス同士に戦わせ、メスは勝ったオスと交尾をする。
我々が、連れ合いを選択する場合、たとえば、喧嘩が強いとか、いい大学出身とか‥‥いうのを判断基準にしたり、あるいは他人に勝とうとしたりすることって、野生の動物の競争とよく似ている。
人間らしく生きるということは、それを乗り越えたところにあるのではないだろうか」

僕は、鷺沢萠女史に全面的に同感なのです。
人間的かどうかというのは、本能を理性がコントロールできるかどうかで判断したいと思います。
そのためには、人間の中にも温存している本能(動物の脳)のことを体系的に研究し、よく理解する必要があります。

先程、僕が例に出した「あんまり外で遊ばずに家にこもって勉強ばかりしている子や、規則に縛られていることにもおとなしく耐えていたり、自分の感情を抑えたり、何かに対して無感動な子」というのは、実は本能のコントロールが下手なんだと思います。
「コントロール」とは決して抑えつけることではありません。



《🐢自分探しの旅 with マーキー🐢》NO.14 至福感の受容体

■ 至福感の受容体

臨死体験者の誰もが見てきたと語る、お花畑のような光景というのは、脳に血液が行かなくなった状態のときに脳内にたまる炭酸ガスが、大脳新皮質の視覚野(しかくや)に影響を与えて見る幻覚ではないかと考えられているんだ。

また、そこで出会う人物や物は文化的な影響が強く、育った国や信仰する宗教によっても異なるという研究結果が出ているらしいから、やっぱりその人の潜在的記憶が作り上げている幻覚に過ぎないんだろうね。

海外では三途(さんず)の川を見たという事例はなく、城壁やその上に神々(こうごう)しい人が立っていたりしてるんだと。

でも、文化に関係なく多くの人に共通のものもあるんだよ。それは、「深い至福感に包まれた」と語っていることなんだ。

近年、脳の神経細胞にマリファナの受容体が見つかったそうだよ。

人間は何故、このマリファナの受容体を持っていると思う?

だって、人間がマリファナを体内に入れるなんてことは、通常ではあり得ないことだよね。

浜松医科大学教授の高田明和(あきかず)氏は、僕たちの遠い祖先、常に死と隣り合わせの苛酷な自然環境を生き残ってきたのは、不安をあまり感じない楽観的な種族だったに違いない、と言っているんだ。

言い換えると、快感をもたらす物質の受容体を体内に持つものが、進化の過程で勝利をおさめてきた、その物質がたまたまマリファナの構造に似ていただけのことじゃないか、と彼は言っている。

NO.11で、脳内での情報の伝達は、神経細胞の軸策内を電気が走り、シナプスで化学信号に切り替わると言ったけど、シナプスで伝えられる化学信号とは、結果的には僕たちに感情などを誘発させる化学物質のことで、それを受け取るための受容体(じゅようたい)が存在しているんだ。

受容体


発見されたマリファナの受容体というのは、アナンダマイドという脳内物質の受容体だけど、これはマリファナと似た構造の物質らしいんだ。

だから、アナンダマイドの受容体はマリファナをアナンダマイドと勘違いして「ああ、なんだあ、まいどー」って感じで受け取ってしまうのかもしれないね。(^-^ )

前回と同じ言い回しをすると、クォークやレプトンがくっついていくうちに、たまたまある現象として快感をもたらす物質の受容体が生まれ、それがたまたま生存に有利に働き、その遺伝子は引き継がれ、種の繁栄をもたらしたということかもしれないね。

その受容体は別に目的を持っていたわけでもないから、たまたま似た構造をしているマリファナを受け入れてしまう、ということだと思う。
この仮説は結構納得できると思わないかい!?


ただ、ケチを付けるようで悪いんだけど、その本を書いた人が科学者なら、「進化」という言葉はあまり使ってほしくなかったな、と思うよ。
科学的には進化という言葉は不適切で、単に「変化」と言うべきなんだ。

変化し続けている状態を、人間は自分に都合よく「進化」と呼んじゃってるんだよ。

進化という言葉には、「だんだん優れたものに発展する」というような意味合いがある。
でも、それが優れたものか劣ったものかというのは、人間だけが行う評価に過ぎないよね。

自然界に人間が評価されるならわかるけど、人間が自然界の物事を評価するなんておこがましいこと、科学のすることじゃない!
科学はあくまでも自然界に対して常に謙虚でなければいけないんだよ。

ちなみに、Wikipediaで「進化論」を調べたら、

「生物学における『進化』は純粋に『変化』を意味するものであって『進歩』を意味せず、価値判断について中立的である」

って書いてあるよ。

ほらね!
このような言い訳的なことを後から付け加えなければいけないのは、科学者たちが、間違えていたことを後で気づいたということだと思うよ。
そのせいで、後でこのような見苦しい言い訳をして回らなければならなくなったんだよね。

僕たち素人は科学者の言うことを信じるしかないわけだから、ネーミングは慎重にして欲しいよ。



NO.12で見た、ワニの脳、ウマの脳、ヒトの脳だって、自然界から見たら進化ではなく変化しているだけなんだ。

人間は、自分がワニよりも偉いと思いたいから、進化なんて言葉を使いたいのかもしれないね。

それでも、「いや、自然界には絶対に "進化” と呼べる現象が起きている」と、まだ仰る学者先生がいらっしゃったらメールください。
受けて立ちます。(^-^ )



先週見てきたことの確認をしておこうと思う。
先週、それぞれの刺激に対して、それぞれに反応する細胞があると言ったよね。
例えば、目には色(波長)に反応する細胞とか明暗に反応する細胞などがあると。

でも、注意しなくてはいけない点は、その刺激のためにできた細胞ではないということだったよね。

ある刺激を受けやすくするためになどという目的を持ってできた細胞ではなく、たまたまそれがある刺激に対して最も強く反応するものだったというだけの話。
あるいは人間の価値観とか評価からすると、たまたまその反応が際立っていると感じるだけだったということ。


要するに、科学は、自然界のあるがままを受け取るだけで、絶対に人間の都合で、理由づけをしてはいけないということなんだ。
自分たちの都合上の解釈をしてはいけないということなんだ。

それを徹底しておかないと、人間はせっかく科学的真実に近づいておきながら、いつも後戻りしてしまうものだからなんだ!
いつもいつも人間のこの傲慢さが、科学の努力を台無しにしてきたのさ。
しかもそれをしていたのが当の科学者だったりするんだ。


このことに気づくことは、とてもとてもとてもとても重要なことなんだよ。
(つづく)

次週のタイトルは「不確かな脳」です。


■編集後記
唐突ですが、君に質問します。
生命というのはどこにあるのでしょうか?
僕たちは生きているので確かに生命というものはあるよね。うん、それは間違いなさそうだ。

だって、生きているその原動力のことを、生命と名づけたわけだものね。


ある科学者がこのように考えた。
残酷のようだけど右足を取ったらどうなるか?
左足を取ったら?
右手を取ったら?

それでもまだ生命はあるな。

では、それをどんどん分解して細胞になり、それをもっと分解して陽子や電子になると、そこには生命はない。
一体、生命とはどこにあるのだろう?
脳だろうか?
いや、脳だけ単体で取り出してもそこには心がないように、生命は単体では存在しない。

そんな理由から、「やっぱり生命とは科学では説明できない、要するに唯物論では決して説明しきれないものがあるのかもしれない」と説明している科学の本があったんだ。

僕はそれを書いた科学者は、科学者と呼ぶよりもむしろ文学者に近い人だと思うな。

確かに陽子や電子には生命はないというのはわかるよ。
それは以前書いたけど、レゴの一つ一つの部品に過ぎないからね。

でも、レゴが組み合わさって風車になれば、それは風を受けて回転するという今までになかった性質を獲得するんだったよね。

レゴ


生命というのは、陽子や電子が組み合わされて獲得された一つの現象に過ぎないんだ。
この自然界には、陽子や電子が組み合わされて獲得された現象なんて五万とある。と言うか、そればかりで成り立っているのがこの自然界だと思わないかい!?
そんなの科学者ではない僕たち素人だって、いくらでも列挙することができるよね。

でも、その科学者は、「生命」だけは、そういう現象とは違って、なんだか特別な何かだと思っているに違いない。

それもやっぱり人間の都合に過ぎないんだよ。

「生命(いのち)の大切さを教えよう」みたいな標語があるよね。

だけど命を過大評価し過ぎることで、「死の大切さ」が見えなくなってしまっている。と言うよりも死を徒(いたずら)に遠ざけようとしたり、忌み嫌うようになってしまう。

人間には、というか生物には、必ず死が訪れるのは誰も否定できない。
自然界の営みの必然だ。

ちなみに、動物( もちろん人間も含みますが) のDNAには生きようとする情報と同時に、死に向かう情報も書き込まれているんだ。
細胞には、その分裂回数を決定するテロメアという部分があることがわかってきたんだよ。細胞が分裂できなくなったら終わりだからね。

テロメア


同じ自然界の必然なのに「生命」は称(たた)えるくせに、「死」は忌み嫌うのは、どう考えても片手落ちで間違っている。

それがわかっていても、人間は「生命」の方だけに、何らかの意味を見い出したいとする、どこまでも傲慢(ごうまん)な存在のようだよね。

今日のメルマガは、サラッと読み流さないでくださいね。


実は、僕たちの幸福とは、僕たち人類がどこまでこの自然界に対して謙虚になれるかどうかにかかっているんだ。
それはある意味、生命だけでなく、死も受け入れられるようになるかどうかにかかっているとも言えるんだよ。



【💐世界を平和にしない愛💐】NO.14 マザー・テレサの愛

★★★ マザー・テレサの愛 ★★★

愛という言葉を聞いて、マザー・テレサのことを思い浮かべる人も多いと思います。

題名に彼女の名前が入った本を開くと、そこは例外なく「愛」という言葉で溢(あふ)れているに違いありません。

「マザー・テレサ(本名アグネス・ゴンジャ・ボワジュ)は1910年8月27日、現マケドニア共和国・スコピエのアルバニア人商家に生まれました。1928年9月に18歳でアイルランドのロレット修道会の修道女となり、教会の派遣事業でインドに渡りました。カルカッタにあるロレット修道会の附属女子高校で歴史や地理などを約20年間教え、学校長にもなりました。
1946年9月に“神の声”を聞き、貧しい人たちへの奉仕を決意します。そして、1950年に『神の愛の宣教会』(ミショナリーズ・オブ・チャリティー)を設立し、52年には、『死を待つ人の家』を開設します。『愛は平等だ』と唱え、社会の底辺で暮らす人たちに教育や医療を施しました」(青春出版社『マザー・テレサの愛という仕事』より)

僕は現代科学という偏見に基づいて、世界が平和になるための偏見を確立しようとしていますが、彼女は宗教という偏見に基づいて世界の平和を実現しようとしました。
まず、その点が大いに違います。

宗教というのは非科学的ではあっても、いや、非科学的であるからこそ多くの人を惹き付けます。
それはまるで惚(ほ)れぐすり的な効果と言ってもいいほどです。

彼女の言葉には、人を感動させる力があります。それを真実と呼ぶ人もいます。確かに、ある宗教の偏見に基づいた真実です。
真実は偏見の数ほど存在します。
例えば、現代科学という偏見に基づいた真実とは、それは自然界の法則のことです。

彼女は、強い信念(信仰)を持った人だから、他の人が目をそむけたり嫌がるようなことを、迷うことなく実践することができたのでしょう。
信仰を持てる環境にいた彼女を、羨ましく思います。

ただ、彼女の行動を見聞きして「愛とは、決して見返りを求めないで相手に尽くすこと。与え続けること」と勘違いしている方々に、聞いて欲しいことがあります。

僕はこのメルマガNO.7で神に対する愛を次のように規定しました。

神に対する愛‥‥現世において甘えを許されない(満たされない)自分を、神を愛するという行為の見返りとして、慰めてもらおうとする感情。でも、本当は神様は自分の心(=頭)の中にいるので、言い換えると自分で自分を慰めているということ。

マザーの心(=頭)の中には、常に神がいました。

自分の満たされない甘えに対して常に慰めてくれる方がおられたので、自己犠牲は苦にならないのです。
むしろ自己を他人に捧げれば捧げるほど神は誉めてくれる(=自分を自分で誉める)という図式ができあがっています。

世の中に、これほど大きな見返りはあるでしょうか!? その証拠に、シスターたちは一様に言っています。
「私が与えたものより、私ははるかに大きなものを与えられました」
それが宗教の偉大さです。

宗教は無意識に、僕たちに善い行いをさせ、僕たちを医者でも救えない苦しみから救います。

だけど、たとえ宗教がどんなに偉大であっても、世界中に何百、あるいは何千という宗教があるうちは、世界を平和にすることは不可能です。
なぜなら、自分の宗教を信じれば信じるほど、その素晴らしさを主張したくなります。
場合によっては、平和になるどころか、喧嘩になります。

それに、宗教の「惚れぐすり」の成分は、現代科学によって一つ一つ解明されてしまいました。
もう僕たちは、特定の宗教、つまり今までの偉大な偏見では生きていけない時代に入っているのです。


以前、「宗教とは何か」とかいうような本を読みました。
そこには、確か、「真理という円筒形を真横に切ると丸になり、斜めに切ると楕円になり、縦に切ると長方形になる。同じ物なのに切り口が違うだけで違うものに見えてしまう」というようなことが書いてありました。

要するに、この地球上にたくさんの宗教が存在するけど、実は、真理を違う切り口から眺めているに過ぎないという意味です。
だから互いにいがみ合ってはいけないというようなことが書いてあったように記憶しています。

なかなか含蓄のある言葉だとは思います。

だけど逆に言えば、どの宗教も、円筒形の形をした真理を見ていないということも言えるわけです。

真理が象だとして、目が見えない人が尻尾を触って「象というのは細い蛇のような形をした動物だ」。耳を触った人が「大きなうちわのような動物だ」と言っているのと同じだからです。

真理が円筒形であることを感じ始めている僕たちは、いつまでも、丸や楕円や長方形や細長い形にこだわっている場合ではないと思います。
環境問題も災害も医療も、あるいは資源やエネルギーや情報や交通も、あらゆる課題が地球規模に拡大した現代、それを越える宇宙規模の現代科学という偏見に基づいた真実を獲得しなければ、生きていくのが困難な時代に入っていると感じませんか!?

僕は高校生の頃、ある店の前を通りかかった時、何かに呼び止められたような気がして足を止めました。
店先には、星座をかたどったペンダントが並べられていたのです。僕にとっては高価な品で、2000円くらいしていたと思います。

何日もその店の前を素通りする日が続きました。

自分の星座は幸運をもたらす、というような言葉をどこかで聞いていたせいもあり、また値段が高いのがご利益(りやく)がある証拠のように思え、ある日、勇気を振り絞ってついに自分の星座のペンダントを購入しました。

その日から毎日、洋服の下に隠れて誰にも見られることのないペンダントをして過ごしたのですが、すると、どうでしょうか、不思議なことにそのペンダントをしている間は、自分が何かに守られているような気持ちに包まれているのです。

ペンダントをつけることを忘れた日は、なぜか居心地の悪い気持ちになり、自分の身に悪いことが起こると、それをペンダントを付け忘れたせいにしました。

宗教の最大の功績は、僕は「無邪気な思い込み」だと思います。
あるいは「非科学的思い込み」と言ってもいいと思います
それは、僕のペンダントに対する思い込みと同じように、ありはしない物を信じることによって脳内に起こる特殊な前向きな効果です。

しかし、宗教の最大の罪もまた、その「無邪気な思い込み」あるいは「非科学的な思い込み」にありました。
それはつまり「嘘」のことです。

嘘を信じ込ませるということは、違う言い方をすれば詐欺に当たります。
ただ、それが個人的利益を得るために他人を騙す詐欺ではなく、人に善い行いをさせるためとか、民族をまとめるためとか、多くの人の心を癒すための詐欺だから、誰にも告訴されずにすんでいるわけです。
まれに本当に告訴される宗教もありますが‥‥。

僕は、残念なことに、「非科学的思い込み」にどっぷりとつかったマザーの言動に、数々の矛盾を発見してしまいます。
だけど、彼女の信仰の大きさを前にすると、僕は口をつぐむべきだと思います。


宗教とは “古い時代” の「無邪気な思い込み」「非科学的思い込み」のことです。

もし、僕が今でもペンダントの呪縛(じゅばく)に縛られているなら、前向きな人生を生きることができたかもしれません、そして、きっとそのペンダントを周囲の人に勧めていたかもしれません。

その結果、違う星座の人に自分と同じ水瓶座のペンダントを勧めるような間違いを犯していたかもしれません。

僕のペンダントが、それを信じている僕にしか効果を発揮しないように、宗教もそれを信じることができない人には何の効果もないのです。
現代を生きているあなた!
あなたは、古い時代の思い込みを信じることができますか?

小さい頃から洗脳されていればいざ知らず、僕には、今さらできません。
それでも、僕たちには信じる「何か」が必要です!
だから僕は、宗教に代わる何かを、時代の流れの中に求めたのです。
(つづく)

次週のタイトルは「悪が生まれた理由」です。


★編集後記
マザーは、世界が平和になるために、一日たりとも休まずに祈り続け、貧しい人々、病気の人々の間を歩き続けました。
僕の彼女に対する評価は、彼女の人生に対する批判ではなく、むしろ彼女の人生に贈る賛辞と思ってくださったら嬉しいのですが。

違う偏見ではあっても、真実を生きようとした同志としての‥‥。

生きる時代や環境が違っただけなのです。

感動を与えてくださった彼女に対する恩返しとして、この命が尽きるまで、僕も休まず書き続けようと思います。
読んでくださっている方が、たとえ、あなた一人だけであったとしても‥‥。



《🐢自分探しの旅 with マーキー🐢》NO.15 不確かな自分

■ 不確かな自分

僕の父は、真亜基さんのお父さんと同じで、7年前に死んじゃったんだ。

創刊号からこのメルマガを読んでくださっている方は、僕が一体何者か、わかってくれてると思うけど、僕は彼(徳永真亜基)が作ったある物語の中の主人公なんだ。

と言っても、彼にそれほどの想像力があったわけでもなく、ほとんど彼の人生そのものを僕に移したようなキャラなんだよ。だから、僕の父が死んだ日も同じなの。安易な奴でしょう!?

でも僕は実際に今ここに存在しています。

なぜなら、彼をこの場所に引っ張り出して、日頃の鬱憤(うっぷん)を叩きつけてやることだってできます。

ただ、彼の脳が壊れちゃったら、その時は僕も消滅しちゃいますけどね‥‥。

要するに、僕は彼の脳の一部に間借りして生きているようなものなんだ。

でも別に悲しかなんかないよ。

こんな僕を憐れんでくれる必要なんて、ちっともありませんからねーだ。

なぜって、君たちだって、この僕の “在(あ)りよう” と大して変わらないんだよ。
今日はそんな話をしようと思ってるんだ。

この話を始める前に、混乱しないように、まず初めに大前提として確認しておきたいことがあるんだ。


まず今日のタイトルだけど、『不確かな自分』の「自分」とはあくまでも主観的なものだということ。
だって、君が「自分は今、虫歯が痛くてどうしようもない」と言っても、他人は歯なんてちっとも痛くないんだし、他人が「自分は昨日、彼女に振られた」と言っても、君は悲しくなんかない。

「自分」とはあくまでも主観的なものである、という前提で今日の話は聞いてほしいんだ。



さて、僕の父は、7年前に死んじゃったんだけど、もし長生きをしていてアルツハイマーにでもなっていたら、ついさっき食べたご飯のことも忘れて、家族が自分に食事を出さずに虐待してると怒り出しちゃったかもしれない。 

自分がどこかに置き忘れてしまった物を、家族が取ったと思い込み文句を言ってくるかもしれない。

もっとアルツハイマーが進めば、悲しいけど、僕が久しぶりに会いに行っても、「どちらさんでしたっけ?」なんて聞かれちゃったりしたかも。

それどころか自分のこともわからなくなり、鏡に映った自分の顔が誰なのか認識できずに、鏡の裏に誰かがいるのではないかと覗き込んだり(鏡現象)してしまったかもしれないな。


でも、アルツハイマーが進行して、自分という概念すらなくなってしまった僕の父を見て、他人は「それでもこの人はあなたの父親ですよ」って言ってくれるよね。

それなのに、その同一人物であるはずの父は、自分のこともわからないし、鏡の中の自分の顔も他人と思っちゃうんだ。
君はどっちの言い分が正しいと思いますか?

かの天才、アインシュタインさんが、もしアルツハイマーになっても、他人は「この人はアインシュタインさんです」と言うはずだよね。

それなのに、同一人物であるはずのアインシュタインさんは、自分のこともわからないし、鏡の中の自分の顔も他人と思っちゃう。
もちろんこの写真の人も誰だかわからない。

アインシュタインさん


それどころか、自分が提唱した相対性理論を理解することすら困難になってしまうんだ。

一体、どっちの言い分が正しいと思いますか?



初めに「自分」とは主観的な感覚だと言ったけど、自分のことを自分かそうでないかを決めるのは、他人にはできないはずだよね。

確かに、本人であることを証明するかのように、子供の時に作った怪我がそのまま身体のどこかに傷跡として残っているかもしれない。

でも、他人が証明してくれている僕の父だけど、それは、あくまでも他人が他人の証明をしているだけだよね。つまり客観的な証明に過ぎない。

他人がいくら「あなたは間違いなく、あなたの主観で見ても自分ですよ」などと教えてあげたとしても、アルツハイマーが進んだ人の「主観」はそんな所にはないので、無意味以外の何物でもない。

「自分」を必要とするのは、言ってみれば、確固とした自分があると思いたいという人間の願望だから、その願望すらもなくなったら、自分が自分だろうが他人だろうがどうでもいいことだよね。

例えば、人間以外の動物には「確固とした自分があると思いたい」などというめんどうくさい願望などないから、「自我」という意識も不要なんだ。彼らには「本能的な自我」しかない。



何が言いたいかと言うと、君は間違いなく、「自分は境界線を持ってここに確かに実在している」と感じているだろうけど、それは君の記憶が作っていた幻想だったということなんだ。

だからもし君がアルツハイマーになったなら、その記憶に作られていた幻想そのものが消えるということ。

他人がどんなに証明してくれたって、アルツハイマーにでもなって、「自分」であると信じるものがなくなってしまったのなら、そして「自分」を主張する必要もなくなってしまったのなら、その時点で「自分という幻想」も消失して、それはもはや、他人が何と言おうと主観的な意味での自分ではないということなんだ。


さて、アインシュタインさんの中から立ち現れて、そしてアルツハイマーと同時に立ち消えてしまった「相対性理論」とは、一体何だったんでしょうか?
どうして同一人物の中でそんなことが起こるのでしょうか?

それは、このように考えるとわかりやすいと思うんだ。

脳というのは、個人の持ち物だと思っていたことが間違いだった。


脳は個人の持ち物ではなく、この宇宙のあらゆるものがそうであるように、それを取り巻く環境によって作られている柔軟なものだったんだよ。
(注意:遺伝も君の環境を形作っている一部だからね ⇐ これ特に重要)

ちなみに、環境とは、自然界の物質の「刺激 ⇒ 反応 ⇒ 刺激 ⇒ 反応 ⇒ 刺激 ⇒ 反応‥‥」の連鎖が作り出しているすべての現象のことだったよね。

そして、この世に起こるすべての現象の中で、僕たちが認識するすべての現象は、すべからく「幻想」だったというわけなんだ。

だって、例えば夜空に浮かぶ月を見て「ああ今日は大きな満月だなあ」などと認識したとしても、大きな月そのものが目の中に飛び込んでくるわけではないよね。
人間は幻想を通してしか何かを認識するということはできないんだ。

このように考えると、いろいろな疑問がスーッと解けていくよ。

今まで、相対性理論は、天才的な脳を持つアインシュタインさんが考えたものだと誰もが思っていたけど、実はそうではなくて、彼を取り巻く環境が相対性理論という幻想を彼の脳内に作っていたんだ。

脳が環境によって作られる柔軟なものであり、それが様々な幻想を見るものであるとすれば、彼の脳がアルツハイマーになったことによって、「彼の環境が彼の脳内に作っていた相対性理論という幻想」も彼は理解できなくなってしまう、という理由も納得できるよね。

「相対性理論」も、元々、彼の脳が見させられていた幻想だったんだ。

ただし相対性理論という幻想は、彼以外の人たちがいろいろな実験や観測や検証をしていく中で、この自然界の中では確かに正しく機能していることが確かめられて客観性を獲得した幻想ではあるけどね‥‥。

つまり、「自分」という幻想は主観的なものなので他人には証明できない幻想だけど、相対性理論という幻想は客観的に他人にも証明できる幻想だったということなんだ。


元々、僕の父が僕のことを「息子」だと認識していたのは、彼の脳内の記憶が作る幻想だったんだよ。
僕は確かに父の遺伝が半分入って生まれてきたはずだけど、僕が彼の「息子」というのは幻想なんだ。
ちょっと難しいかもしれないけど、「息子」という概念は、それは言葉を持つ人間だけが持つことになった幻想なんだ。

「概念」とは何かというと、そもそも言葉が作る幻想のことだだったんだよ!

言葉を持たない他の動物には、自分の子供に対して「自分の息子」という概念はないんだよ。
ただ、本能的に、なんだか自分の一部のような気がして守り育てているだけなんだ。
それが自分の子どもであるのか、娘であるのか、息子であるのか、そんなものまったく言葉を持たない彼らに取っては意味がないことなんだ。

だから、僕の父の脳が環境によってアルツハイマーの脳に変化することによって、彼には、僕が彼の息子であるという幻想も存在しなくなったとしても、少しもおかしくはないわけだよね。

君は、「実は、今まで揺るぎない自分があると信じ込んでいただけなんだよ!」と言われたら、どうしますか?

実は、僕が今日言いたかったことは、そのことなんだ。


僕たちは、確固とした自分があるという幻想の中で生きていただけなんだ。
「自分」とは環境によって作られていたもので、だからこそまた、環境に消滅させられてしまうかもしれないような不確かなものだったんだよ。


アイデンティティーという言葉があるよね。
アイデンティティーとは、日本語で「自我同一性」などと難しい言葉に訳されているけど、辞書によると、「時間・空間を異にしても同じであり続け、自己を自己として確信する自我の統一をもっていること」と、これまた難しい言葉で説明している。

だけど、簡単に言えば、実は、「これが自分という存在であると自分で思い込んでいるところのもの」のことだったんだよ。
勝手に思い込んでいたもののことだったんだ。

「自分」とは、記憶がかろうじてつなげてくれていた幻想だったんだ。
記憶が「自分の脳」に見させてくれていただけの幻想だったんだ。
(つづく)


次週のタイトルは「何をどのように記憶するの?」です。


■編集後記
ヒットラーさんに独裁的行動を取らせていた脳は、彼を取り巻く環境によって作られていたものだと考えると、責められるべき人はヒットラーさんだけではないという発見も引き出してくれる。

僕たちの行動のすべてがそうであるように、あの時代、あの環境の中で、彼もまた環境に作られ行動させられていた媒体だったんだ!

彼は歴史的には加害者という見方をされているけど、実は、彼は加害者でもあり、時代の被害者でもあったんだ。
殺害されてしまった可哀想なユダヤ人たちも、時代の被害者であり同時に加害者だったんだよ。

常に、一人ひとりみんなの総力が結集されて、このビッグバンから始まった宇宙の未来が創出されているんだ。

こういった目で周囲の人を見回してみると、いろいろな発見をすると思うよ。

例えば、君の考えをちっとも受け入れてくれない威張った上司も、実は彼を取り巻く環境によって作られている彼の脳が、彼にそのような行動を取らせているだけだったんだ。

彼の脳を取り巻く環境の中には、もちろん君もいます。君も彼の環境に一枚かんでいたわけだね。(^-^ )

なんか、今まで憎たらしいだけだった上司が、とてもかわいらしく思えてこないかい?

だからって、明日、会社でその上司の怒鳴っている顔を見ながら、ニヤニヤしてはだめだよ。

ところで、自分というものが不確かな幻想だったとわかったら、何を信じて生きていったらいいの?
なんて悲観的に考えないでね。

「自分というものが不確かな幻想だった」と教えてくれたのは科学だけど、その科学は「幻想ではない本当の自分」、つまり「客観的に見ても本当の自分」と言い切れる「自分」を教えてくれてもいたんだよ。

僕は君を、今まで見たこともない素晴らしい場所へお導きします、と約束したじゃない!? それが「幻想ではない本当の自分」を知ることだったんだ。



【💐世界を平和にしない愛💐】NO.15 悪が生まれた理由


★★★ 悪が生まれた理由 ★★★

「悪」とは何でしょうか? と聞かれたら、みなさんはどのように説明しますか?
僕は、悪の根源は本能である、と答えます。

最近、本屋に大量に平置きされている本を見つけました。
『虚偽(きょぎ)と邪悪の心理学・平気でうそをつく人たち』という本です。たぶんアメリカでたくさん売れたので、日本語に訳されて大量に出版されることになったのでしょう。

この本を書いた人はM・スコット・ペックという人で、彼は

「悪という字を英語の綴(つづ)りで見るとevilであり、ちょうど生きる(live)の逆になっているように、生に対置するものである、だから悪とは、生きようとする力を阻(はば)むもの、肉体的な危害にかかわらず何らかの危害を加えるもののことだ」

と、うまい言い回しをしています。

また、河合隼雄氏は、『子どもと悪』という本の中で、悪とは「集団の秩序が破壊されること」と規定しています。
人間は自己の存続のために、何らかの集団を作っていて、その集団を維持するためにはある種の規約が必要となり、それを破ることが悪となる、ということです。

でも、僕はこの両方とも賛成できません。今日は、ペック氏に対する反論を書きます。


まず、「生きようとする力」と聞いて、僕がすぐに思い浮かぶ言葉は「本能」です。
それを阻もうとするものが悪というのなら「理性」も悪の一種になってしまいそうです。

また、「悪とは生と対置されるもの」と定義することは一見うがっているように感じますが、悪が生と対置されるなら、生=善という公式が成り立ってしまいます。これが間違っていることは誰の目にも明らかです。

むしろ、生=悪+善であるわけです。

つまり、生の中に悪と善が未分化のまま渾然一体(こんぜんいったい)となっていたものを、人間が都合上分類しただけではないかと思うのです。

ところが、この答え方もあまり正確ではありません。
本当は、自然界には元々、悪も善も渾然一体どころか存在すらしなかったのです。
人間が勝手に作り上げた概念に過ぎないからです。

では、なぜ僕が本能を悪の根源だと考えるのか、ということを書きます。
まず、本能イコール悪、と言っているのではなく、悪の根源と言っている点に注意してください。

動物の行動を統御している本能というものは、もちろん悪とは無縁のものだと知っています。
悪の根源という表現を使う意味は、本能は元々は悪とは無縁のものだけど、人間が作り出した悪という概念から見たら、その原因になっていると言いたいだけだからです。

人間を動物から枝分かれさせた一番大きなものは、自我の芽生えだと思います。自我が芽生えたことにより、自分の生に対して善く作用するものと悪く作用するものを識別する能力が発達(?)してきて、善悪の概念が固まってきて、そのことが理性(物事を論理的に思考し真偽・善悪を識別する能力)をますます発達(?)させたのです。

つまり、悪とは、ペック氏が言うような生と対置されるものではなくて、生の中に存在すらしていなかった悪と善を、人間が自分という基準を作ったことにより、分別するようになっただけです。

ペック氏は「生きようとする力を阻むものが悪である」と言っていますが、その言葉を聞いて「殺人」を思い浮かべる人も多いと思います。
しかし殺人自体は元々、悪ではなかったわけですが、自分が殺されたくないから他人を殺すことを悪と規定しようというようなところから悪とされているわけです。
このような考え方を「相互主義」と言います。

人間は社会というものを作って生活をしているので、その社会社会で、善悪の判断基準も違うのですが、ただ一つ共通しているものがあります。
社会というものはみんなが自己中心的では成り立たない。だから、いろいろなものが、本能を極力抑制するように取り決められていきます。

動物は生まれた瞬間から競争の世界に入ります。例えば、同じ時期に卵から孵(かえ)った小鳥の雛(ひな)は、より多くの食物を親から貰おうと、できるだけ大きな口を開けるそうです。子犬は乳の出る乳首を奪い合い、この競争に負ければ発育が遅れ死ぬことにもなりかねません。

カッコウが他の鳥の巣に卵を産み、その鳥に自分の子供を育てさせるのは有名ですが、カッコウの雛には、驚くことに首の後ろに卵を乗せるための凹(くぼ)みがあるそうです。
そして、卵から孵ったばかりのカッコウの雛は、誰に教わったわけでもないのに、他の鳥の卵をその凹みに乗せて全部巣の外に放り出してしまいます。

遺伝子に記憶されている行動なのでしょう。

たぶん、他の鳥の卵をより多く外に放り出せるカッコウほど生き延びる確率が高かったので、たまたま少し首の後ろが凹んでいたカッコウが生き延びる確率が高く、その遺伝子が引き継がれ繁栄したのでしょう。

このように動物は本能に基づいて行動をします。理性のない彼らには善も悪もなく、本能という自然界のメカニズムに従って、そうやって動いてきたのです。理性は自然界には不要のものだったので、僕は理性は自然界にとって唯一の反逆児として生まれたという言い方をします。

だから、人間の理性は自然とは相容れず、以後、たくさんの矛盾をはらむことになります。

そこから、人間としての葛藤(かっとう)が生まれてくることになってしまったわけです。


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今日は、付け加えることがあります。
とても大切な問題を提起してくださっている、ペック氏の主張を取り上げさせていただきます。
ちょっと長くなりますが、我慢してくださいね。

心理療法家であるM・スコット・ペックという方は、自らの診療経験から、世の中には「邪悪な人間」がいると考えるに至りました。

彼の言う邪悪な人間の特徴とは、

「自分には欠点がないと思い込んでいて、異常に意志が強く、罪悪感や自責の念に耐えることを絶対的に拒否し、他者をスケープゴートにして責任を転嫁(てんか)したり、対面や世間体のためには人並み以上の努力をし、他人に善人だと思われることを強く望み、自分に都合のよい隠微(いんび)な嘘をつく」

などの特徴が挙げられるということです。

そして、「人間の邪悪というものを、治療を要する病気の一つと見なすべきだ」と主張しています。
医学的には、邪悪は「自己愛(ナルシシズム)的人格障害」の一つとして分類できるのではないか、という考えです。


邪悪というものを一つの病気とする考え方には利点もあります。

今まで漠然としていた概念を、あるいは曖昧にしていたものを、あるいは認めようとしなかったものを、「邪悪」という名称を与えることではっきりと意識して、それに対処していこうという姿勢が生まれる点です。

でも、それが病気であるとして、一体誰がその治療にあたるのでしょうか? 宗教家でしょうか? それとも、倫理学者でしょうか? それとも、ペック氏のような心理療法家でしょうか?

その人たちは、治療する側の人間だと自分で思っているだけで、単に自分の邪悪に気づいていないだけなのです。

ペック氏は、邪悪な人間はなかなか自分の邪悪さを認めたがらないと言っていますが、邪悪な人間と健全な人間がいるのではなく、本能を温存させた動物であるところの人間は、すべからく邪悪を内包していると言えます。

もちろん、治療にあたる人もそれに該当しそうです。

だから、「邪悪な人間はなかなか自分の邪悪さを認めたがらない」という言葉は、「人間は、誰もが自分のありのままの姿をなかなか認めたがらない」と言い換えた方がよさそうです。

治療にあたる人間に必要とされる権威は、かつて、宗教が聖職者という特権階級に、人々を説教する喜び(欲求)を目覚めさせてしまったように、治療者に邪悪な欲望を満たす喜びを目覚めさせてしまうことになるでしょう‥‥。

ペック氏は、「将来的には邪悪な人間を特定できるような心理テストが開発されるだろう」と言っていますが、この世には完全なる邪悪な人間も完全なる健全な人間もいないと言い切れます。邪悪な人間などどうして特定することができるでしょうか!?

そのような想像をする点で、ペック氏の考えは間違えていることがわかります。そして、邪悪な人間を治療する人間など間違っても作ってはいけません。

歴史の過ちは二度と繰り返してはいけないのです。


必要なのは、各々が自分の本能というものを理解し、理性がそれをコントロールするようになることです。
犬と人間(本能と理性)の良い関係を築き上げた時に、そこに幸福感というご褒美がもらえることが実感できれば、僕たちは人間として良い生き方ができるようになっていきそうです。

そして、人が人を裁くのではなく、自分が幸せになることが社会が幸せになることと同次元でつながれば一番良いわけです。
それは決して不可能なことではありません。

来週は、もう一つの(河合隼雄氏の)意見に対する反論を兼ねて、この悪の根源である本能をもう少し考えてみようと思います。
(つづく)

次週のタイトルは「それでも本能は必要?」です。


★編集後記
今日は、愛という言葉が出てこなかったので、このメルマガのタイトルとは関係ないと思われるかもしれません。愛は感情であり、本能に属するものです。だから、本能を研究することで、愛とは何かということがもっとわかってきそうです。

しばらく、本能について考えていきたいと思いますので、よろしくお付き合いください。

ところで、『虚偽と邪悪の心理学・平気でうそをつく人たち』の前書きに
「この本は危険な本なので、慎重な配慮と愛でもって扱ってほしい」とありますが、著者の言う愛とは一体何でしょうか?

「邪悪の治療は困難であろうが、悪は愛でもって封じ込めよう」とも言っていますが、その愛とは一体何でしょうか?

愛は解決にもならないどころか、むしろ邪悪を作り出しさえもします。
愛という言葉が安易に使われている本は、注意をする必要がありそうです。ぺック氏は、「邪悪な人間が選ぶ見せかけの態度に共通して見られるのが愛を装うことである」と言っていますが、彼らは愛を装っているのではなく、装うために使われるものこそが「愛」なのです。

このメルマガのNO.8に書いたように、愛は今では美しいイメージを持たされているものですから、なかなか重宝されているわけです。

愛という言葉そのものも、常に邪悪をごまかすために便利に使われています。

例えば、「この本は危険な本なので、慎重な配慮と愛でもって扱ってほしい」この無責任な言葉もその一つです。
愛という言葉さえ使えば全てが丸く収まる、と考える典型です。
ペック氏の書かれた本が邪悪だと言うわけではありませんが、自分の邪悪を棚に上げて書かれていらっしゃるような気がするのです。

僕は、自分の中の邪悪を知っているので、決して他人を裁くつもりはありません。
裁かなければいけないのは、自分自身です!

ペックさん、今日はごめんなさいね。
決してあなたを裁いているのではなく、あなたが、愛とは何かを知るための大切な問題を提起してくださっているので、引用させていただきました。
お許しください。



《🐢自分探しの旅 with マーキー🐢》NO.16 何をどのように記憶するの?

■ 何をどのように記憶するの?

今日は、僕たちがこれまで科学が解明しているものを整理点検してきたことによって発見した、この自然界の「刺激 ⇒ 反応 ⇒ 刺激 ⇒ 反応 ⇒ 刺激 ⇒ 反応‥‥」の原則、に則って、人間の脳の最大の謎の一つ、記憶とは一体何なのかを考えてみようと思うんだ。

まず初めに、もう一度、その原則を確認しておこうと思う。

今まで、科学が、試行錯誤の実験や注意深い観察を繰り返すことでつかんだ真理は、この宇宙のあらゆる現象は、ビッグバンから始まった「刺激 ⇒ 反応 ⇒ 刺激 ⇒ 反応 ⇒ 刺激 ⇒ 反応‥‥」の連鎖によって作られた物質の、物理・化学的な作用によって起こる現象に過ぎない、ということだったよね。

もちろん、ビッグバンという反応を引き起こすための何らかのきっかけとなる刺激が、その前にもあったわけだけどね。でもビッグバン以前のことはまだよくわかっていなくて様々な仮説が立てられている段階らしいから僕たちはパスして先に進もうと思う。

さて、「記憶」という現象も、ある物質の特性が作り出している、物理・化学的な作用によって起こるものに違いない、と考えることができそうだ。

頭の中を整理しながら考えていきたいので、記憶というものを次の順序で考えてみようと思うんだ。

1、記憶とは何か?
2、何を記憶するか?
3、どのように記憶するか?

1、記憶とは何か?
難しい注文かもしれないけど、もし君の頭の中に記憶という能力がまったくなくなったと想像してみてくれるかな。

あっ、今、何気なしに記憶に対して「能力」という言葉を使っちゃったけど、「能力」とは、「役に立つ力」というような意味合いがあるよね。
そしてここでは何の役に立つのかというと、人間のために役立つということだよね。ということは、科学的な言葉ではなくて、人間の願望のようなものが入り込んでしまっている言葉だから、単に「作用」って言い換えるね。

もちろん人間のために、例えば受験のために記憶力をアップさせるというような場合には、記憶の能力という使い方は可能だけど、今僕が言ったのはそういう意味ではなかったから「作用」くらいにしておかなくてはいけない。

科学者も、さっきの僕みたいに、つい習慣のように使っちゃうことはあるだろうけどね。



話が脱線してしまったけど本題に戻すね。
それでは、君の過去の記憶も現在の記憶もなくなったと想像してみてくれるかな。

何かを見たり聞いたり感じ取ったりすることができると思うかい!?

あらゆるものが自分の前をただ通り過ぎていくだけなのではないでしょうか!?


記憶は、ものを理解するための背景を作っているんだ。

「記憶」のおかげで、僕たちは物を「認識」し、自分を「意識」し、「意欲」を持って行動することができる。
もちろん、これらの能力、いや作用は、お互いに補い合って強化されていくものでもあるということは言うまでもないけどね。


さて、視点を変えて、「刺激 ⇒ 反応 ⇒ 刺激 ⇒ 反応 ⇒ 刺激 ⇒ 反応‥‥」の原則から、「記憶とは何か」と考えると、それは筋肉の作用のような、刺激に対する一時的な化学反応であるはずはないよね。

そこには何か、「刺激に対して、ある特定の化学的反応のパターンが形成される」と考えられそうだ。それを記憶と呼ぶわけだものね。

とりあえず、「1、記憶とは何か?」に対する答えは、こんなんでどうでしょうか!?

2、何を記憶するか?
感覚器(目・耳・鼻・舌・皮膚など)から入ってきた情報は、脳の中の神経線維(ニューロン)を、次々と興奮させて進んでいく。
つまり、刺激 ⇒ 反応 ⇒ 刺激 ⇒ 反応 ⇒ 刺激 ⇒ 反応‥‥と突き進み、大脳にまで達し、そこが相応の反応することを「対象を認知した」と呼んでいるんだ。

神経細胞を次々と興奮させて突き進む際に、それは神経回路の興奮のパターンとして蓄えられ、その興奮が終わっても再び情報が入ってきた時に、同じパターンで興奮するような変化が、ニューロンとニューロンの接続部のシナプスで起きている

要するに、これは、脳の中に興奮の痕跡(こんせき)が刻まれると言い換えられるよね。

視覚に関する作用を例にあげて考えてみると、我々の脳には縦の線に反応する(感受する)神経、横の線に反応する神経、細長いものに反応する神経、丸いものに反応する神経、赤い色だけに反応する神経、黄色い色だけに反応する神経‥‥とあるそうなんだ。

例えば黄色く細長いバナナを見て、その刺激に対して反応したパターン(組み合わせ)ができ、そのパターンが固着される。

なぜ固着されるのかって?

そんなものに理由はない、、、、、だったよね。


素粒子がくっついて原子となり、それがくっついて分子となり、それがいろいろな組み合わせでくっついたりしているうちに生まれた物質が、たまたま授かった特性だったんだね。

自然界の法則の中に、元々そのような特性が生まれる要因があったのも事実だけど、こうして生まれたニューロンの特性が、こういうものだったというだけの話なんだよね。


僕たちは、「バナナを記憶している」と言うよりも、「バナナを見たときの興奮の痕跡のパターンを記憶していると言った方が正確のようだね。


3、どのように記憶するか?
記憶を司っている部位を突き止めるには、脳を少しずつ削っていけばわかるはずだよね。

例えば、1953年にアメリカで、てんかんの治療のため脳の中の「海馬(かいば)」と言われる部分を切除された患者がいたんだ。

すると、手術以前のことは克明に覚えているのに、手術後のことは何一つ覚えられなくなってしまったんだね。

このため、比較的近い時間に起こった出来事の記憶は、海馬が引き受けているに違いない、と考えられるようになった。

それで、その部位が、何を使ってどのように記憶しているのかが研究されたんだよ。

それによって、シナプスの伝達効率の長期増強(LTP)と言われるものが発見されたんだ。

海馬は情報が3種類の主要なニューロンに次々と受け渡される構造をしている。
その3種類とは、歯状回顆粒(しじょうかいかりゅう)細胞、CA3錐体(すいたい)細胞、CA1錐体細胞の3つ。

このニューロン間のシナプスそれぞれにおいて、シナプス活動が高まると伝達効率が上昇し、効率の上昇が数時間から数日にわたって持続するという長期増強(LTP)が発見された。

もっと簡単に説明するね。

脳の神経細胞(ニューロン)というのは、ある刺激を受けると、その軸索(じくさく)の中を電気信号が流れ、その末端から、シナプス小胞内に貯蔵された化学物質(神経伝達物質)を放出し、それが次のニューロンの受容部(レセプター)にキャッチされ、そのニューロンはまた同じようにして次のニューロンの受容部に刺激を引き渡していくということを、意味もなくただ延々と繰り返している。

受容体


このとき、繰り返し同じインパルスが来るとレセプターの数が増え、シナプスの感受性が高まるんだ。

このおかげでニューロンネットワークには、よりスムーズに情報が流れるようになる。
さらにニューロンは、軸索が伸びて新しいシナプスが生まれ、ネットワークを補強したり新しく作ったりもしている。

シナプス、つまりニューロンとニューロンの接続部は、外から入ってくる刺激によってどんどん変化するものなんだ。

このことを、シナプスの可塑性(かそせい)、あるいは柔軟性と学者の方々は表現している。
可塑性とは、例えば粘土のように、加える力によって自在な形が作りやすい性質のことだよ。

今、さらりと「ニューロンは、軸索が伸びて新しいシナプスが生まれ‥‥」と言ったけど、これも、ある刺激に対する反応が引き起こしている現象に過ぎないわけだよね。

ニューロンの軸索の先端部は、その標的(受容体またはレセプター)に向かってアメーバーが這うようにして伸びていくんだけど、別に自分の意思で伸びているわけではないよ。

これは、ニューロンと周囲のグリア細胞との間で情報のやり取りが行なわれ、ニューロン内では、新しい遺伝子が発現し、特定の酵素が働いてニューロンの骨組みとなるものが変化するためと考えられているんだ。

またその際に、方向性をガイドする「接着分子」や「神経栄養因子」と言われるものの存在も発見されている。
これらの「刺激 ⇒ 反応 ⇒ 刺激 ⇒ 反応 ⇒ 刺激 ⇒ 反応‥‥」作用によって、ある標的に到達し結合するんだね。

こんなところで、「3.どのように記憶するか?」の答えになっているんじゃないかな。

さて、記憶が単なる「ある特定の化学的反応のパターン」を作ることだとするなら、それは、配線が組まれたと言うだけのことだけど、人間はここからさらに次の段階に進むことになる。

人間が言葉を持ったことによって、その配線は、意識や思考というものを作り出すことになるわけなんだ。
そこで、次週のタイトルは「意識・思考」です。
(つづく)


■編集後記
ニューロンは、なぜか他の体細胞のように細胞分裂して増殖しないんだ。

どうしてかって?
いつも言うけど、そんなものに理由はありません。

たまたま、「刺激 ⇒ 反応 ⇒ 刺激 ⇒ 反応 ⇒ 刺激 ⇒ 反応‥‥」の変化の過程で生まれてきた特性です。

科学は目的や理由を見つけられないと言ったよね。
自然界には目的や理由がないからなんだ。
だから科学が自然界の現象に目的や理由をくっつけたら、もうそれは科学ではなくなるんだったよね。(しつこいけど、ともすれば科学者も忘れてしまいがちな、とても大事な科学的な視点なんだ)

君が友達100人の名前を覚えたとき、脳の中に100人分の名前を保存したニューロンのネットワークができているということになる。
そのニューロンのネットワークのことを記憶と呼んでいるわけだね。

もしもニューロンが「体細胞」のようにしょっちゅう分裂して増殖したら、せっかく覚えたネットワークがごちゃごちゃになって、「記憶」が混乱してしまうよね。
そこで、「ニューロンが体細胞のように増殖しないのは、記憶が混乱しないためです」と、ある科学者が説明している文章を見つけたよ。

この説明が、とんでもない間違いだって、もうわかってくれたでしょう!?

まるでニューロンが、僕たちのことを配慮して気を利かせてくれているみたいだよね。

これを僕は「意思(意志)的解釈」と呼ぶことにしているんだ。

人間にはあるとされている「意思(意志)」、つまり何かを成そうとする目的を持った考えのようなもの、それがあたかも自然界にも働いていて、それでそういう現象が引き起こされているといった解釈の仕方、これは非常に身勝手な、人間の側に立った幼稚なものの考え方の一つなんだ。

しかも、本当は人間の「意思(意志)」と言われているものでさえ、いわゆる本人の意思(意志)ではなかったんだ。

科学が追いついていなかった時代の人が、「意思(意志)」なる言葉を作ってしまったんだよ。
心というものが脳内現象だということがまだわかっていなかった時代に、心は心臓にあると考えて「心の臓 ⇒ 心臓」という名前を付けてしまったようなものなんだ。
でも先ほどの、理由や目的のようなことを言ってしまう科学者は、今でも科学に追い付いていないけどね‥‥。(;-_-)

記憶が混乱しないのは、たまたまニューロンが体細胞のように増殖しないからであって、記憶を保持するためにニューロンが意思をもって増殖しない道を選んだわけではないんだよ!

それなのに、今でも、多くの科学者があらゆる状況で、このような非科学的な表現を使っている。

それはなぜでしょうか!?

NO.9でも言ったけど、科学者は時々、自分の偏りをとんでもない非科学的な 論理で埋め合わせしようとするところがあるように見受けられるんだ。

あまりにも、理系に傾きすぎると、その反動から無意識で文系的思考パターンで自己の偏りを修正しようとしているかのように見えるんだよ。

もう一つは、僕たちにわかりやすく説明するために擬人的(ぎじんてき)手法を使うんだ。

でも、その擬人的手法というものが実に曲者(くせもの)なんだよ。
素人は、わかりやすい物語にしてくれた、そちらの方だけを受け取ってしまうから、この自然界の真実が曇らされてしまうんだ。

いつも言うけど、科学がせっかくここまでたどり着いたのに、偽科学者たちのお陰で、また神話の時代に逆戻りだよ。トホホ。

なぜこんな些末(さまつ)なことを口を酸っぱくして何度も言うかというと、真の科学の視点を持っていないと、僕たちがたどり着きたい場所に到達する前に、力尽きちゃうからなんだよ。



【💐世界を平和にしない愛💐】NO.16 それでも本能は必要?

★★★ それでも本能は必要? ★★★

前回は、悪の根源は本能であると書きました。
それでは、こんなものない方がいいのでしょうか? それでも本能は必要なのでしょうか?

もし本能が諸悪の根源だからといって、僕たちから本能をほとんど取り除いてしまうとしたら、どんなにつまらない人生になるでしょう。
男性は素敵な女性を見ても胸がときめかないし、第一、女性は着飾りもしなくなるだろうし、子供も産みたがらなくなるかもしれません。

戦争はなくなるかもしれないけど、スポーツにも興味が失せてやがてなくなってしまうかもしれません。

でも心配はご無用です。
本能は悪の根源ではあるけれども、善の根源でもあります。

* * * * * * * * * * * *


前回ご紹介させていただいたM・スコット・ペック氏と同じ、心理療法家でもある河合隼雄(はやお)氏が、『子どもと悪』という本の中で、悪とは「集団の秩序が破壊されること」と規定しています。

人間は自己の存続のために、何らかの集団を作っていて、その集団を維持するためにはある種の規約が必要となり、それを破ることが悪となる。

ということです。

その定義で間違いはないのでしょうが、それだと、その集団ごとに悪の概念が違うということになってしまいます。
例えば営利を目的としている集団にとっては、自分たちに利益をもたらさないことが「悪」となります。

僕は短い期間でしたけど営業を経験したことがあります。そこでは「お金こそ正義だ!」といった考え方を徹底的に教え込まれました。
また、自分たちの秩序を守るためには殺人を犯す集団もあります。
だから、もっと普遍的な悪の概念を考える必要があると思うのです。

僕が考える悪とは、先週も書いたように、本能(動物としての生まれつき持っている性質や能力)と関係があります。
「本能」こそ、どんな種類の集団を想定しても、その秩序を破壊する根源となり得るものです。

本能こそ、人間が人間としての集団生活を送るためには、なかなかのやっかいものでした。

人間はこの乱暴者を抑えつけるのに、ほとほと手を焼いてきたわけです。
ところが、いくら抑えつけようとしても、動物から完全に脱皮できていない僕たち人間は、抑えつけられた本能が形を変えて爆発することがあります。
それを悪と呼んだらいいと思います。

例えば誰でも所有・獲得本能があります。
高級車に乗りたい、好きな女を自分のものにしたい、有名ブランドの洋服を着て優越感に浸りたい‥‥などと。
普通の人はそれを抑えてほどほどに生きています。

ところが、その本能が強すぎてとても抑えられなくて爆発させる人は、あこぎな金儲けを始めるとか、強姦をするとか、盗みをしたりしてしまう場合があります。

それが、どんな集団から見ても悪と呼べるということは、誰も否定しないでしょう。

この理屈からいくと、芸術もスポーツも、元々は本能が形を変えて爆発したものだから悪の一種ということになります。
これはちょっと乱暴な解釈のように受け取られる方が、たくさんいらっしゃるかもしれませんが、実は大切な見方です。

どんなに戦争をなくそうとしても何故なくならないか、凶悪な犯罪や、人種差別や、校内暴力やいじめなど、それがニュースになる度に反省や解決策を話し合ったりはしても、何故なくならないか考えてみてください。

それは、今までは悪に対して、根源を究明する努力をしない対症療法でしかなかったからです。

芸術もスポーツも、このメルマガのテーマである「愛」にしても、悪の根源である本能と強いかかわりから生まれているのですが、そのことは見逃されているからです。

僕は、本能は悪の根源と言うだけで、悪そのものとは考えません。

悪を生む原因となる本能でも、それをうまく昇華(しょうか:社会的に認められない衝動や欲求を、社会的・精神的価値をもつものとされているものに置き換えて充足すること)させて発現できれば「善」になるわけですから、本能は善を生む根源ともなり得ます。

芸術やスポーツも、本能がうまい具合に昇華されています。
要するに、善も悪も、人間に自分という基準が生まれた時(=自我が生まれた時)に生まれた概念で、根本は一つだから、現れ方いかんでどちらにでも転ぶわけです。

ところが、昇華された芸術やスポーツは善である、というレベルで留まってしまうと、僕たちは悪を根絶することができません。
やはり、芸術もスポーツも、元々は本能が形を変えて爆発したものだから悪の一種であるという観念を持つくらいの真剣さが必要です。

スポーツを例にとってみます。
スポーツは、出発点から見ると、実は戦争や犯罪と同じ、支配・被支配本能、闘争本能、所有・獲得本能、群居本能などが根本に働いているわけです。
こういった本能があるから、僕たちは戦争やスポーツに駆り立てられるわけです。

その証拠に、テニスやボクシングでも闘争心が希薄な人はモノにならないし、相手の嫌がる場所を意地悪く責めたり、フェイントなどの嘘や騙しのテクニックが必要です。

それに、あるスポーツの監督の言葉ですが「戦う気がなくなったらだめだと、選手たちを鼓舞(こぶ)し続けました」とか、ニュースでは「日本は勝って凱旋(がいせん)帰国しました」とか、「今、日の丸を肩にかついで場内を一周しています」などという、まるで戦争を思わせる言葉がスポーツにピッタリと嵌(は)まるのもそのせいです。

高校野球で決まって使われる「全国を制覇(せいは)する」などという言葉も、実はきな臭い言葉です。スポーツをする心理と戦争をする心理は、同じ本能から始まっているということの証しです。


根源は同じなので、いくらスポーツが「善」に昇華されたものだと言っても、裏を返せば「悪」の一種であり、悪がついて回ることは避けられません。
スポーツにまつわる悪はたくさんあります。
スポーツの勝敗が原因で戦争になったこともあるくらいです。

こうしたことをなくすためには、僕たちがスポーツをする時、自分たちは、今、戦争をしたい本能をスポーツで昇華している、つまり本能を理性でコントロールしているんだという意識をどこかで持っていることが必要です。

そんなことを考えながらスポーツをするのなんて、ちっとも面白くないよ、ですって?
確かにそうですよね。(>。≪)

でも、それが本能を知って本能をコントロールすることであり、そのことが自分の心を幸福にすることで、それがまた世の中から悪を根絶することにつながっていく第一歩だとしたら、そんなことは言っていられないはずです。

頭の片隅に、「僕は今、戦争をしたい本能をスポーツで昇華している」という知識を記憶させていれば、いざスポーツをする時には無心であっても、そのプレーさえも全く変わってくることは、誓ってもいいです。

スポーツの観戦者も、自分たちはスポーツを観戦することで興奮を味わい楽しんでいるけど、実はこの心理と戦争をしたい心理とは同じものなんだと知っているだけで、暴動を起こすようなサッカーの観客も、本能のコントロールがずっと容易になるものです。

スポーツは戦いたい本能を昇華させるもの。この知識が世界中の人の常識として埋め込まれれば、暴動を起こすほど興奮している観戦者も、自分に多くの人の批判が注がれるような気がして、自制心もより強く働きやすくなります。

だから、僕は、この世の中から悪を根絶させるためには、一人一人が自分の中の本能の存在を、そしてその習性を知識として知ることから始まると考えています。

知識なんて、何の役にも立たないと思っている方も多いでしょう。
それは、個人的なレベルで見ると、大した変化もなく実践には役立ちそうもないように感じます。
でも、個人個人の知識が変化すれば、それは、人類の営みという大きな波のうねりを変化させるほどの可能性を持っているものです。

何故なら、知識とは単に、ある物事について脳が知った「ことがら」に過ぎませんが、その「脳の記憶」こそ自分を作っているものであり、世界を作っているものだったからです。
知識として脳に刻み込むには、しっかりした体系化が必要です。
そんなわけで、近々、僕の書いた物語の主人公マーキー君が考えた「本能分類表」を発表させていただく予定です。
(つづく)

次週のタイトルは「子育てよりも助け合い」です。


★編集後記
愛は感情であり、本能に属するものです。芸術やスポーツも、本能に属するものです。
僕たちは、本能に属する愛や芸術やスポーツを、理性に属するものに、と言うより理性がコントロールできる場所にまで、しっかりと引き上げてくる必要があります。

本能を研究することで、芸術やスポーツとは何かということがわかってきます。

愛とは何かという疑問を解くカギも、その辺りに転がっていそうです。
もう、しばらく、本能について考えていきたいと思いますので、よろしくお付き合いください。



《🐢自分探しの旅 with マーキー🐢》NO.17 言葉が作る、意識・思考、そして意思から行動へ

■ 言葉が作る、意識・思考、そして意思から行動へ


最初に断っておくけど、今日は、『火曜サスペンス劇場』よりもショッキングな話をするんだ。
心臓が弱い人は十分に心を落ち着かせて聞いてね。


前回、記憶とは「ニューロン同士が作り出した興奮の痕跡のことである」と言ったね。それがネットワークを作っているんだったよね。

人間の脳内では24時間休むことなく、ひたすら意味もなく、ニューロン同士の「刺激 ⇒ 反応 ⇒ 刺激 ⇒ 反応 ⇒ 刺激 ⇒ 反応‥‥」が繰り返され痕跡を残しているんだ。そして、ひとたびネットワークが作られるとその結合がさらに強化されることは実験によってわかっている。つまり記憶がさらに強化されるということだね。

また、僕たちの脳が何かを記憶するときには、同じニューロンをいくつもの記憶に対して使い回しをしているそうなんだ。
ニューロンの数には当然限りがあるけど、そうやって効率的に使われているようだよ。

この、一つのニューロンを使って違う情報をいくつも扱うということは、一つのネットワークが、いくつものネットワークと重なり合っているということになるよね。
これが「連想」という作用を生み出していたわけだ。


ところで、記憶がニューロン同士が作り出した興奮の痕跡だとしても、それでは単に、配線が組まれたと言うだけのことだよね。他の動物と違って、人間の脳は「意識」や「思考」という働きをするけど、どうしてそのようなものが生まれるかと考えてみると、容易に、「人間は言葉を持ったからに違いない」という推論に辿り着けるよね。

例えば、ネズミのような動物は、障害物を目で見て避けようとするけど、それは中枢神経が反応しているだけで意識的行動ではないよね。僕たち人間は「意識」することで障害物が何かを判断して、それに応じた意識的行動をするわけなんだ。

このことは後で詳しく述べるけど、この時、人間が何かを意識するということは、「言葉」がかなり深く関わっていると思わないかい?


だけど、この、「言葉の重要性」に触れている科学の読みものには、今のところ出合ったことがないんだ。脳のことを書いた本にも、とても重要なこの「言葉」の役割について触れているものを見たことがないし、「心を持ったロボットを作るためにはどうしたらいいか」というようなことを書いた論文でも、この「言葉の重要性」に一切触れていないのには驚きだよ。

もしロボットが心を持つことが可能になるとしたら、人間のように、感情などを作り出す脳内化学物質と「言葉」との連携が、彼の体の中で行われる必要があるのに、現代の科学者たちはそんなことにも気づいていないようなんだ。

「言葉」がどんなに我々人間の営みに重要な影響を与えているかを知らないなんて、とんでもない見落としだよ。

言葉、言葉、言葉‥‥。
科学者は見落としているけど、君はこれを見落とさないでね。


どうして科学者はこのことに触れないんだろうと考えてみたんだ。たぶん彼らの先輩である教授たちも、まだその重要性に気づいていなかったので教えられなかったこともあるんだろうね。

もう一つは、彼らは、科学が扱うものは物質で言葉を扱うものは文学だから、そちらにお任せしま~す、とでも考えて今のところは目を背けてしまっているのかもしれない。

だけどよく考えてみてね。
言葉って本当に科学の分野じゃないんだろうか?

「言葉」って音刺激、つまり「空気振動が作り出す物理的な刺激」だと考えることができるよね。

音刺激とは、耳という受容器を通して入ってくる刺激で、大脳新皮質の聴覚野を経て言語野に行き、言葉として認識されている。
会話でやり取りされる「言葉」はまさに音刺激だけど、実は、文字として書かれた「言葉」も音刺激、つまり「空気振動が作り出す物理的な音刺激」の「代用品」だと考えることができるんだ。

例えば今君はこの文章を読んでいるけど、視覚から入った文字情報をそのまま理解しているわけではなく、音に置き換えて頭の中で理解しているよね。
相当な訓練を積んでも、書いてある文字という視覚情報をそのまま意味として理解することは難しいと思うよ。つまり僕たちは黙読という音読化をしているわけだね。

ということは、やはり書かれた文字も「音刺激」だったんだ。

頭の中には重なり合ったネットワークができているから、脳が環境から何らかの情報(=刺激)を入力すると、その時に脳内に記憶されている、例えば「リンゴ」を意味する「記憶のネットワーク」に触れてしまうかもしれない。そうすると、何の関係もないのに、そのネットワークのタイトル的な意味を持つ「リンゴ」という言葉が浮かび上がってしまうことになる。

そして、「何だか、リンゴが食べたくなったなあ」などということになったりする。まさに「言葉」とは刺激の代用品だよね。
つまり、直接「リンゴ」を見聞きしなくても、脳内にリンゴを見聞きした場合に受ける時と同じ刺激が出来上がってしまっているということなんだ。

自分の脳内で行われていることを意識してみると面白いよ。全然関係ない言葉がふと浮かんだりするのはそのためだと思うんだ。でもほとんどの人は「リンゴ」なんて浮かんでもその時に無関係な刺激は即座に切り捨ててしまうので、浮かび上がったことすら気づかないで過ごしているだけなんだ。

僕は最近意識しているのでいろいろ無関係な音刺激が、重なり合ったネットワークを通してポンポン浮かび上がっているのがわかるようになった。

いいかい。
人間が、言葉という「刺激のシンボル化」あるいは「記憶のネットワークのタイトル化」をすることを覚えたことにより、人間の脳内の記憶量が増大して、脳内には外部から受容器を通して入ってくる刺激と同じような反応をする、おびただしい「刺激の代用品」で溢れかえるようになった、と言ってもいい。

先ほど、「ネズミのような動物は、障害物を目で見て避けようとするけど、それは中枢神経が反応しているだけで意識的行動ではない。僕たち人間は意識することで、障害物が何かを判断して、それに応じた意識的行動をする」と言ったけど、もう一度そのことを考えてみようと思う。

例えばスマホに夢中になって歩いている時に、前から走ってきた自転車にぶつかりそうになった時、「あっ、危ない!」とつい口走ってしまったり、舌が火傷しそうな熱いスープを飲んだ時に「アチーッ」と言ってしまったり、道で偶然知り合いに出会った時に、「ああ久しぶり、元気?」などと挨拶をするよね。人間の場合の「意識」はほとんどが言葉とセットになっているような気がしないかい!?

そこで、人間の「意識」とは、「言葉」によって再認識されたことを言うのかもしれないという推論が成り立つわけなんだ。

以前、「大脳の体性感覚野の指に対応する部分を刺激すると、指が痛いと感じたりする。逆に脳のその部分が壊れてしまったら、指を怪我しても痛く感じない」と言ったよね。(NO.13)

僕たち人間は、大脳で物を感じている。ということは、言い方を換えれば、実は、大脳の視覚野が目であり、聴覚野が耳であり、体性感覚野が皮膚であり、味覚野が舌であり、嗅覚野が鼻だったということになるよね。
このことは、言い換えると、実は自分の脳の中に目があり、耳があり、皮膚があり、舌があり、鼻があると言えると思うんだ。

それはまた、自分の脳内に、自分の脳の中で起こっていることを感じる目や耳や皮膚や舌や鼻が生まれる素地になった。

僕は、この自分の脳内を見る脳のことを、「自分の脳の中に第二の脳が生まれた」と呼んでもいいのではないかと思うんだ。

人間の「意識」とは、脳が一旦知覚したものを、第二の脳が「言葉」という音刺激を通して再度、知覚し直すことだと言えると思う。

例えば、目から入った視覚情報は、一旦、後頭葉の視覚野に送られ、その後、頭頂葉や側頭葉に送られて物を「認識」している。
頭頂葉は、空間認識の機能を持っていて、方位、動き、距離感を判断しているし、また、側頭葉は、像の意味を認知する機能を持っている。

その判断や認知したものが音刺激(=言葉)に変換され、再び第二の脳が知覚することを、人間における「意識」と呼んでいるんじゃないかと思うんだ。

そして、この「意識」という作用は、人間が言葉というシンボルを獲得し、その“刺激の代用品”によって記憶という作用がますます飛躍的に増大すると共に、次第に「思考」と呼ばれる作用に発展することになる。

何故かと言うと、思考とは、自分の脳内に蓄えられている言葉や外界からの言葉などが、その人の脳内に記憶されている情報や、感情を作り出す脳内化学物質や、日本語の文法などに方向づけられたベルトコンベアーに乗って、文章が組み立てられることだからだ。

日本という環境で育った僕の脳は、日本語で物事を認識したり理解したり記憶したりする枠組みが組まれている。そして、日本語の文法というベルトコンベアーに乗って単語や文章が組み立てられやすくなっている。

この日本語の文法というベルトコンベアーは、環境によってこの脳内に作られた様々な記憶によっても方向が規制されている。
僕たちはそれを自分の意見として、日々、文字や音声にしているわけなんだ。
君と僕の思考が違う一番大きな理由は、記憶しているものが違うから、ということが言えそうだね。(^-^ )

ところで、今日のタイトルの最後にあって、僕が今日、最も話したかった「意思(意志)」の話を始めようと思う。

ちなみに「意思」と「意志」の違いだけど、

「意思」・・・物事を行う時の気持ちや考え
「意志」・・・物事を実行しようとする、前向きな気持ちや考え

つまり、「意思」も「意志」も「何らかの行動をしようとするための思い・考え」を意味するのは同じだけど、「気持ちが強いかどうか」という違いだけのようだよ。

さて、話を進めるけど、もう一度心を落ち着けて、記憶とは何かと考えてみるよ。

いいかい?
記憶とは、それは‥‥、脳を取り巻く環境から入力されてきた情報(=刺激)によって作られていくものだったよね。

脳を取り巻く環境からの情報(=刺激)がないのに、脳自体が自発的に何らかの記憶を作り出すということは絶対にあり得ないよね。

と言うことは、記憶によって作られる「意識」も「思考」も、脳を取り巻く環境が作っていたということになるんだ。

そして、その「意識」や「思考」によって僕たちの脳に「意思(意志)」が浮かび上がり、何らかの行動を取るとしたら、「意思(意志)」ももちろん、脳を取り巻く環境が作っていたということになる。

難しくないよね。当たり前のことを言ってるんだ。

科学が得意とする原因と結果の話をしているんだ。原因があって結果がある。その順番の話をしているんだよ。

僕たちの脳内に思考を作りだす日本語だって、日本という環境が最初にあって、その後、文法に則った並べ方を覚えて、脳内にあふれている音刺激がベルトコンベアに乗って流れてくる結果を、僕たちは思考と言っているわけだったよね。

だってドイツ語で思考なんて、僕たち日本人の脳内には決して生まれてこないじゃない!

例えば、君がある時、テレビで映画の予告編を見て、その映画を見たくなったとする。そして(そう言えば、この前知り合った女性は一度もデートをしたことがないと言ってたな。そうだ彼女を誘ってみよう)などと考えて、その女性に電話をしたとする。

でも、そのような思考は、君が日本語を記憶させられている脳だから生まれてきたわけで、決して、ドイツ語で思考して、「彼女を映画に誘おう」などという意思が浮かび上がることなどあり得ないよね。

Ich möchte ins Kino gehen.
Sie ist nie zu einem Stelldichein eingeladen worden.
Lass uns mit ihr einen Film sehen.

(訳)映画が見たくなったなあ。そう言えば、彼女は一度もデートをしたことがないと言っていた。そうだ彼女を映画に誘おう。

このようなドイツ語の音刺激が君の脳内に飛び交うことは、絶対にあり得ないよね。
(*ちなみにこれは翻訳サイトで作った文章なので正確なドイツ語かどうかは保証できない)

人間は、誰もが自分の意思(意志)で行動をしていると思っている。

だけど、「そうだ、彼女を映画に誘ってみよう!」という意思(意志)すらも、君が映画という娯楽を記憶していなかったなら、そもそも浮かび上がるはずもなかったよね。

それに、ある時、君の脳を取り巻く環境から何らかの情報(=刺激)が入力されなければ、例えば今回の場合はテレビを見ていた時に映画の予告編が流れなかったら、その映画を見たいとも思わなかったはずだね。

さらに、君の脳が知り合った彼女を記憶していなくて、そして電話番号も携帯に記憶させていなければ、彼女を誘おうという意思(意志)も浮かぶはずもなかったよね。
このように、日本語を記憶している君の脳内で、日本語での思考が生まれた結果、「彼女を映画に誘ってみよう」という意思(意志)が浮かび上がったんだよね。

つまり、僕たちは、脳内に記憶させられているたくさんの言葉という音刺激に、どこからか入力された情報が衝突することでそれが刺激となって思考が行われ、意思(意志)を持った行動を「引き起こさせられて」いただけだったんだ。
(つづく)
次週のタイトルは「脳が見ている現実」です。


■編集後記
今日は、火曜サスペンス劇場よりもショッキングな内容だったでしょう!?

僕たちは、誰もが自分の「意思(意志)」で行動をしているように思っているよね。

でも、それは、君の脳内に記憶されているたくさん音刺激に、様々な方向からやってくる情報が衝突して、それが引き金となって思考が作動し、意思(意志)が発動され、行動を誘発させられていただけだったんだ。

実は、僕がいろいろ考えて、そしてメルマガを発行しているこのことだって、ビッグバンから生まれたこの自然界の、ある方向性を持った力が作り出している現象の一つに過ぎなかったんだ。

僕は、ああ、何ということでしょう!!
自然界の法則に背中を押されて書かされていただけだったなんて。
眠い目をこすりこすり書かされている、自然界の奴隷(?)に過ぎなかったんだ。(T_T)
こんな現実に、現代科学というものは直面しちゃったなんて。さあ、どうしたらいいんでしょうか!?

だんだん、核心に迫ってきたよ。
でも頂上はもう少し先。頑張って!!




【💐世界を平和にしない愛💐】NO.17 子育てよりも助け合い


★★★ 子育てよりも助け合い ★★★

前回のメルマガを思い出していただけますか?
全ての人間が温存させている本能こそ、悪の根源だと書きました。
悪の根源ではある本能だけど、やっぱり必要なものでした。

人間は、自然界においては唯一の反逆児(=理性)を授かり、それによって悪の概念を持つようになり、そして弱くなりました。
自分で自分の行動を規制したり、他人を思いやる優しさを持ったからです。
人間は本能のままに生きれる他の動物たちと比べて、とてもとても弱い生き物となってしまいました。

大人になっても助け合わなければ生きていけない、弱い弱い生き物になってしまいました。

悪の概念を持ってしまった人間ではありますが、本能が悪の根源だとはあまり気づきません。
自分は、悪いことをするような人たちとは違うと誰もが考えがちです。
でも、誰でも悪の根源を温存させています。それがなければ死んでしまいます。


「子育て」について考えてみます。
人間の子育ては、他の動物の子育て、「一人で獲物が捕れるようになるまでの期間、世話や手伝いをすること」とは違います。
人間の子育ては、即、教育に関係してきます。
教育とは、その社会の体制(枠組み)が目標とする人間に、子供を育て上げることです。
戦時中の子育てと戦後の子育てがどんなに大きく違うかと考えれば、教育と子育ての関係が見えてきます。

教育には理想がつきものです。

戦時中の教育の理想は、教育勅語(ちょくご)によく現れています。

日本全国民が暗誦(あんしょう)させられた「朕(ちん)オモフニ‥‥」で始まるアレです。
これは、1890年(明治23)10月30日に発布され、1948年(昭和23)に廃止されるまで、学校教育を通じて国民に強制され、天皇制の精神的・道徳的支柱となったものです。

短い文章の中に日本の美風を天照大神(あまてらすおおみかみ)以来の歴史の連続性とともに説いていて、さらにそれを守れと命じるのでなく、一緒に高めていこうと天皇自ら呼びかけているものです。

その一部に次のような文章があります。(*ここでは現代語に直しています)

「ひとたび国家の一大事(戦争)になれば、勇気をふるいたて身も心もお国
(天皇陛下)のために捧げることで、天にも地にも尽きるはずのない天皇陛下の御運勢が栄えるようにお助けしなければならない。こうすることは、単に天皇の忠良な臣民(しんみん)として行動するというだけのものではなく、同時に、お前たちの祖先が残したすぐれた点を継承し、それをほめたたえることにもなるのだから」

どのような意図の下に教育勅語が作られたのかはわかりませんが、戦時中は、子供も大人もこの言葉を信じて、「欲しがりません勝つまでは」の精神で頑張ったのでしょう。

僕はある意味で、戦時中の人たちは現在の人たちより幸せだったのではないかと思ったりもします。
幸せとは、裕福な生活をすることでも健康になることでもなく、人間同士のつながり、つまり共感につきると思っているからです。
当時は裕福でも健康でもなかったかもしれませんが、たとえ嘘であっても信じるものがありました。
一つの理想を設定し、敵を憎むことで共感も強まったことでしょう。


教育勅語には、次のような理想も謳(うた)っています。

「親には孝行し、兄弟は仲よくし、夫婦は仲むつまじく、友人とは信頼し合い、礼儀を守り、慎み深く博愛の心で他人には親切にし、学業に励み、仕事を身につけ、知識をひろめ才能をみがき、人格を高め、すすんで公共の利益の増進を図り、社会のためになる仕事をし、憲法を大事にして法律を守りなさい」


国民をあげてのこの理想があったから、親も学校の先生も確信をもって子育てができました。

でも、教育勅語がなくなった今、子供にこんなことを押し付けようものなら反発されるかもしれません。

「なんで親に孝行しなきゃいけないの? 別に産んでくれって頼んだわけじゃないのにさ。友人と信頼し合えったっていろんな奴がいるからムリだよ。礼儀なんて堅苦しいよ。なんで赤の他人に親切にしてやんなきゃいけないのさ。学業なんて大ッ嫌い。仕事なんかやりたくないなあ。楽して金儲けする方法なんていくらでもあるし。知識、才能、人格って、あんた何言ってんの? 仕事は社会のためじゃなく自分の生活のためにやるもんでしょう!? 法律なんて破るためにあるんじゃない?」

もしこんなことを言い返されて、ちゃんと答えられる大人もいないような気がします。

当たり前です。やっぱりその時代が作った嘘を信じ込まされていただけですから。
ちゃんと答えられる大人は‥‥、頭の固い証拠ですよぉ。(;-_-)


現在、教育の荒廃が叫ばれているのは何故でしょう?
それは、教育に必要な理想がなくなってしまったからです。信じるための嘘がなくなってしまったのです。

戦時中のように、たとえ虚偽(きょぎ)であっても、価値観が意図的に統一され、自分たちがその価値観を信じきっている限りは、堂々としていられました。
そして子供たちも、先生や大人の言うことを信じて健やか?に育っていけました。

ところが、現在は、テレビでも週刊誌でも商業上の戦略から、妬ましいタレントや政治家の権威を面白おかしく暴いています。
先生の権威も面白おかしく暴いておいて、多くの人が自分を棚に上げて正義面(づら)して批判します。だから、先生を先生とも思わない子供も増えています。
権威というものも、もちろん嘘で固められたものですから、暴こうと思えばいくらでも暴けるわけです。


教育勅語の頃は、権威を暴こうとするのではなく、むしろ保とうとする傾向が社会全体に見られました。
先生には絶対的な権威がありました。大臣や政治家には偉そうなヒゲがありました。
父親はとても恐い存在でした。
それがなくなってしまったところに、教育(および子育て)の崩壊があると思います。

僕が学校の先生になろうとして頑張っていた時は、教育基本法や学習指導要領などを暗記させられました。
そこには、教育勅語に代わるいくつかの教育の理想のようなことが書かれていました。だけど、そんなもの教育の理想でもなんでもありません。

教育の理想とは、先生や子供だけに押し付けておけばそれでいいというものなんかじゃありません。

僕が言っている教育の理想というのは、お役人様が考えたそんな付け焼き刃的なものなんかじゃなく、社会全体が生きる支えにできるもののことです。

僕たち日本人の、心の支えになっているものって何でしょうか?

一つはアメリカの個人主義、あるいは能力主義からきているものがあります。自分の能力を活かして、人々を見返してやるほどの成功を収めてやろうとするあのアメリカンドリームです。

これは、結構前向きに自分を成長させているような錯覚を与えてくれます。でも、単なる変化を成長と信じている錯覚に気づかないということは、自己反省に欠け、様々な悪影響が現れてきます。それは、世界を平和には導かないものです。

何故なら、この能力至上主義の特徴である「優劣」からイメージされる言葉は、争いをイメージさせるものばかりです。
勝者or敗者、優越感or劣等感、尊敬or妬み、支配者or奴隷‥‥、能力主義は、本来、共同体的社会で生きてきた日本人にはあまり馴染まないものかもしれません。

むしろ、日本人の心の支えになっているのはもう一つの心の支え、つまり世間体のような感覚です。
普通に大学を出て、普通に、就職し、普通に結婚すれば、自分は大人側に仲間入りさせてもらえるという気分(=幻想)です。

さらに子供を授かれば、一つの役目を果たしたという安堵感や連帯感、さらには優越感も持つようです。

どうやら今の日本人は、そんなものにしがみついて、そんなものを心の支えにして生きているようです。
社会における教育の理想がなくなってしまった現在、多くの親が、それを自分の教育の理想?にして、子供を育てているように見受けられます。
だけど、気分を支えにしたくらいで子育てができるほど、子育ては甘いものではありません。


理想を喪失している現在では、本当の意味では子育ても成り立ちません。
心あるお父さんお母さんほど、その心を痛めている子育て、それは決してお父さんお母さん方が微力なのではなく、理想を喪失している現代社会が微力なのです。

いくらお母さん方が勉強会などに参加して努力しても、理想が崩壊している社会にある限り、決して根本的な解決策は見つかりません。

でも、僕は決して嘆いているばかりではありません。

今までは、今までの嘘が権威を作り、信じさせてくれるものを作ってくれていたように、これからの時代に即した、新たな嘘と権威を見つければいいのだと考えています。

これからの時代に即した嘘と権威を作り出せるものは、今まで、そしてこれからもあらゆるものを凌駕(りょうが)していくであろう「科学」をおいて今のところ考えられません。

現代科学が解明している自然界のあり方こそ、これからの時代の嘘と権威の裏づけとなってくれるでしょう。
これからの子育ては、徹底的に今までの嘘を暴いて暴いて、暴いたその先に、これだけは信じることができるというものを見つけたところから始まります。
今、そのための転換期にあると考えています。

徹底的に暴かなければいけない嘘の例を、一つ挙げてみます。

大人は煙草を吸ってもいいけど、子供は煙草を吸っては駄目という嘘があります。
そんなのただの屁理屈だから、子供の喫煙がなくならないのも当然です。喫煙は大人にも子供にも害になることは誰でも知っているはずです。

子供の喫煙は身体への害ばかりでなく、品行への害も考えられますよ、とおっしゃる方に質問します。
例えば子供が、お年寄りに席を譲っている大人のまねをして、お年寄りに席を譲っても誰も悪く言う人はいません。
例えば子供が、道端に落ちているゴミを拾ってゴミ箱に捨てている大人のまねをして、ゴミを拾ってゴミ箱に捨てても誰も悪く言う人はいません。

それなのに何故、子供が大人のまねをして煙草を吸ったら悪く言われるのでしょうか?
それは、大人が煙草を吸う行為自体に、あまり良くない、あるいは不健康な心理的背景があるからなのです。
でも、大人は誰もそこのところを見ようとはしません。
自分たちは平気で吸っていながら、子供たちだけをとがめています。

子供は、その辺の嘘を敏感に見破ります。大人の品位や権威という今までの嘘も見破っています。
親父狩りとか援助交際とか舐(な)めてかかるのもそのせいです。

先生に注意されて、ちょっと小突かれると「いてーなー! 何するんだよ!
暴力教師!」と大声で叫ぶのです。

大人たちにも自信をなくしている人が増えていますが、その人たちはどうしたらいいのかはわかってはいないけれど、自分たちの偽物の威厳に気づいているというだけ‥‥ましではないでしょうか。

そこで、僕が考える解決策の第一段階を書きます。

まずは、「自然界を生きるためには障害となる理性を抱えてしまったのが人間だ」という大前提を知るところから始まります。

理性を抱えてしまったから、人を思いやる優しさを持ってしまったし、自分がやりたいことも我慢したり、やりたくないこともやらなければならなくなりました。つまり本能に任せて強く生きられなくなったということです。

人間は本能のままに生きる動物と比べて、ずっとずっと弱い生き物になってしまったのです。

誰かの手を借りなければ弱くてとても生きていけない者同士です。
大人が子供を教育するなどという、思い上がりを捨てて、大人も子供も弱い人間同士助け合って生きる、そんな人間関係で結ばれていくことが理想となると考えています。
この考え方の裏づけとなるものが、マーキー君がメルマガ「自分探しの旅‥‥」で書いている、現代科学が解明している自然界のあり方です。

もう僕たち大人にごまかしは通用しません。

大人も子供の前に、同じ人間としての弱みをさらけ出して、真剣勝負で生きることです。

そこで今回のメルマガのタイトル『子育てよりも助け合い』につながります。
それは、もう子育てと言うよりも助け合いに近いものです。
障害を持ってしまった者同士の助け合い‥‥。

考えてみてください。

実際、大人が子供に助けてもらっているものはたくさんあるのではないでしょうか? もちろん家事を手伝ってくれるなどということだけではありません。喜びや希望を与えてくれていないでしょうか?
それがなければ、大人だって生きていけないんじゃないですか!? 人間は他の動物と違って、弱い弱いものだからです。

ごまかしのない真剣さだけが、子供の心を動かします。それが本当の子育てではないでしょうか?
そんな僕たちの真剣さや、その真剣さを見て育った子供たちが、未来の平和な世界を作るのだと信じます。
(つづく)

次週のタイトルは「科学者は本能なんて言葉使わない」です。いよいよ、本能分類表を公開します。
自分の弱さをどこまでさらけ出せるか‥‥やってみましょう。


★編集後記
僕たちのこれからの課題は、「大人は子供をどのように導いたらいいか」ではなく、大人も子供も手をとって、人間としては未完成な自分たちを、いかに人間としての完成に導くかということです。
あるいは、未完成部分をどのように補い合うかです。

そのためにも、自分の未完成さに気づかなければ‥‥です。
自分たちが、遠い昔、自我に目覚め、人間としての道を歩もうとした時から、もう本能のままに生きる動物を捨てたわけですから‥‥。

逆戻りはできないなら、より完成された、理性で本能をコントロールできる
「人間」に近づく努力をすべきだと思います。
自己を知ること、本能の働きを知ること、それを呼びかけましょう。

もし世界中の人が、自分たち人間は、自然界においては理性という障害を持ってしまったので、助け合い補い合わなければ生きていけない、ということを同意し合えば、世界中の人と自分の心に同志としての共感も生まれます。
その上で、自分の中に飼っている犬の習性をよく理解して、それをコントロールできるようになれば、世界中の人の心に安定が訪れます。

それは、世界を平和にする人間性を築くことになり、そのことで世界が平和になる人間関係が築かれていきます。世界中の人と自分の心との共感はますます大きくなり、大きな幸福感で結ばれることができるようになります。
とすれば、こんなにいいことはないじゃないですか?


「子育て」も煎じ詰めれば、人間と人間の共感に尽きると思います。
これからの大人が子供に見本を示せるものがあるとすれば、弱さをさらけ出して助け合って生きている、その真摯(しんし)な姿ではないでしょうか?




《🐢自分探しの旅 with マーキー🐢》NO.18 脳が見ている現実

■ 脳が見ている現実

近年、脳の研究が進み、脳のどの部分がどのような働きをしているのかが徐々にわかってきたんだ。

病気や怪我で脳の一部が損傷を受けると、今まで当たり前のように行なっていた行動に支障が起こることで、その部分の機能が解明されることになったんだよ。

脳が右脳と左脳に分かれていて、それが脳梁(のうりょう)という神経線維の束でつながっているのは君も知ってると思う。

では、この右脳と左脳が別々の働きをしていることが、どうしてわかったか知ってる?

1960~1970年の頃、片方の脳のてんかんの異常がもう一方の脳に広がるのを防げるということで、脳梁を切断する治療が行なわれたことがあったんだ。

この右脳と左脳がバラバラになった患者に、いろいろなテストをしてもらうことで、右の脳と左の脳の特殊性もわかってきたんだよ。

右脳と左脳があるわけだけど、どういうわけか脳と身体では右と左が逆転している。
脳の右半球は、身体の左半分を支配し、また左半分に支配されている。
脳の左半球はその逆で、身体の右半分を支配し、右半分に支配されている。

これを「交叉(こうさ)支配の法則」と言ってるんだよ。

身体の左半分から入る情報は、右の脳に行く。
視覚においても同じで、自分の左側に位置するモノは両目で捉えられた後、右の脳に行く。
まず、脳のことを知るには、この「交叉支配の法則」をしっかり君の脳にたたきこんでね。(^-^ )


脳梗塞などで右脳にダメージを受けると、身体の左半分が動かなくなってしまったりするのはそのためだよね。

この時、患者の脳は時たま不思議なことをするんだ。

左半身が動かないという現実を受け入れまいとして、左側という概念そのものを消し去ってつじつまを合わせようとしてしまう。

これを「左半側(ひだりはんそく)空間無視」と言うんだ。

その患者に、人を描いてくださいと指示すると、人の右半分しか描かないんだよ。左の概念がなくなっちゃったからなんだ。


僕たちの目から入った視覚情報は、電気信号となって神経細胞の中を通り、一旦、後頭葉(こうとうよう)に送られ、その後、頭頂葉(とうちょうよう)や側頭葉(そくとうよう)に送られて物を認識している。

頭頂葉は、空間認識の機能を持っていて、方位、動き、距離感を判断しているんだ。
人ごみの中でも、誰にもぶつからずに歩けるのはこのお陰なんだね。
また、側頭葉は、像の意味を認知する機能を持っている。

先程の脳梗塞などで、右脳の頭頂葉にダメージを受けていると、「左半側空間無視」の症状が現れる場合があるわけだけど、右脳の側頭葉が健在な場合、左に位置する物を認識できないわけじゃないんだ。

だから、もし僕が「左半側空間無視」になっちゃったら、食卓に大好物のお刺身が並んでいても、それが左側に置かれていれば、お刺身があることは(側頭葉では)認知していながら、(頭頂葉が無視するので)食べることができないというちぐはぐなことが起こるということなんだよ。

ああ、くやしい。(;-_-)
だから、お刺身は右側に置かなければいけません。‥‥っていう話じゃあなかった。

今度は側頭葉にダメージがある人の話だよ。
先ほど、「側頭葉は、像の意味を認知する機能を持っている」と言ったけど、側頭葉にダメージがある人は、物の意味を認知できないんだ。
例えば、目の前に置かれているりんごを写生するように指示すると、きちんと写生できるのに、それが何かは答えられないんだよ。

側頭葉には、特に顔の記憶を専門に引き受けている顔細胞というのもあって、そこが損傷を受けると、自分の親しい人の顔もモザイクがかかっているかのようにわからなくなり、知人がすぐ側を通りかかってもわからないんだ。

この症状を「相貌失認(そうぼうしつにん)」と言うんだよ。

実は、ハリウッド俳優のブラッド・ピットさんもこの「相貌失認」らしいよね。
彼は可哀想に自分のことを次のように告白している。
「人々は僕のことを『天狗になっている』とか『自惚れている』と思ってしまうんだ。僕にも本当に分からないんだ。顔が覚えられないんだよ…」
「だから、家にいる方が気が楽なんだ。子供の世話で家から出られないって思われているみたいだけど、実際には全くその逆だよ」

身につけているものや体型で判断したり、その人の声を聞いて、ああ、〇〇さんか、とわかるらしいよ。

「エイリアンハンド症候群」という珍しい現象もある。

脳梁がダメージを受けると右脳と左脳の情報伝達が失われ、片方の手が自分の意思にそぐわない勝手な動作をしちゃったりするんだよ。
これを「エイリアンハンド症候群」と呼んでいる。

例えば靴下を履こうとしても、片方の手は靴下を脱ごうとしてしまうのでいつまでも履くことができなかったりするらしい。

次は「シャルルボネ症候群」という現象。

これは正常?な人が見る幻覚と言われているんだ。
僕たちの目から入った視覚情報は、一旦、後頭葉に送られ、その後、脳の各部に送られて過去の記憶などに基づいてそれが何であるか解析される。

ある意味、僕たちはみんな、常に記憶によって都合のいいように歪められた世界を見ていると言えるわけなんだ。

錯視(さくし)と言われる現象は、そのいい例だよ。

実は顔文字も錯視の仲間なんだよ。

U^9^U

並んだ記号が犬に見えるから不思議だよね。

今はちょっと作為(さくい)的に記号を配置したわけだけど、そうでないとしても、脳には勝手に知ってるものに置き換えて見てしまうという癖があるんだ。

そこで、緑内障などで視覚を入力する一部分が損傷を受けると、視覚入力のない部分を脳が記憶情報の一部を用いて補おうとしてしまう。
これによって幻覚を見てしまう症状を「シャルルボネ症候群」というんだ。

例えば、他の誰にも見えないのに、葉巻を吸っている男の人とか、明るい玉のようなものとか、その人には見えてしまったりするそうなんだ
 それらは、臨死体験で見てきたと話すものなんかと同じで、過去の記憶から呼び出されたものを幻覚として見ているわけだね。

例えば次の文章をどのように読みますか?
「のかきいしまのなやかすくりるきてすきくにれあいだは」
これは、今、まったくでたらめにパソコンのキーポードをたたいてみたんだ。

これをそのまま漢字に変換してみるね。
「野か奇異島の名や貸す栗るきて素聞く楡間は」

これは、僕のパソコンが意味不明の文章から、今までの記憶情報を用いて(僕が使用する語彙の頻度に応じて)補って変換しているわけだよね。

この、まったくでたらめにたたかれた言葉の中に、僕のパソコンは「野」
「奇異」「島」「栗」「楡」などの幻覚を見ているとも言える。

これと同じようなことが、視覚において、シャルルボネ症候群の患者の脳の中では起こっているわけなんだ。


ところで、大事なのはここからなんだ!
いつも言っているように、今までの話は本やインターネットで調べればもっと詳しいことがわかるはずだよ。
そしてまさに科学者の限界がここまでなんだ。
僕たちは、これまでの話を踏まえた上で、「自分を知る」というその先に進まなければいけないんだよ。

脳神経科学者ラマチャンドランさんは、「人間は皆、いつも幻覚を見ている。その中で一番現実に合ったものを選んでいるに過ぎない」と言っている。
僕たちは、常に過去の記憶によって歪められた現実を見ているという点で、ある意味、みんなシャルルボネ症候群とも言えるんだ。

つまり、百人の人が同じ映画を見ても、百通りの見方をしているわけだよね。それぞれ自分が、その現実の中で一番しっくりしそうな幻覚を無意識に選択して見ているということなんだよ。

今、「りんごをイメージして」と言われて、君は僕と同じ物をイメージしていると思うかな? 

リンゴ


りんご自体も大きい物もあれば小さい物もあり、丸いもの、角張ったもの、赤いもの、青いもの、腐ったもの‥‥、一つとして同じりんごはこの世には存在しないはずだよね。

それでも君はたぶん、自分のイメージした「りんご」は僕のイメージしたものと同じだと感じている。

それは何故でしょうか?


その理由は、りんごは厳密に言うとそのイメージさえも一人一人違ったものなのに一括(いっかつ)してりんごとして認識する共通した概念(イメージ)があるからなんだ。


僕のイメージするりんごと君がイメージするりんごは、それぞれの経験を通して作られていく記憶がイメージしている「りんご」なんだよ。

それでも、「りんご買ってきて」と言われて、ちゃんとりんごを買ってくるのは、それぞれの経験を通して作られた記憶が近似しているからなんだ。


実は、僕たちは会話をする場合も、こうして、それぞれの近似値(きんじち)で話し合っているだけなんだよ。

要するに、言葉というのは、聞き手にはその人の取捨選択して再構成されたイメージで届くわけなんだ。

人間は、お互いの言葉を自分の都合のいいように理解し合いながら会話をしていたということなんだね。


さて、現実とは何でしょうか?

「シャルルボネ症候群」の人に見える幻覚は、その人のどうにもならない現実に違いないよね。
「左半側空間無視」の人が見る世界は、それがその人の現実。
「相貌失認」の人が見る世界は、それがその人の現実。


分裂病(=統合失調症)の人が聞く幻聴も、その人には幻聴だとわかっていても、確かに存在するんだ。

多重人格の人が経験するたくさんの現実は、確かに人格の数だけ存在する。

なぜなら、現実とは、脳が過去の記憶に基づいて見ている幻覚のことだからだったよね。


今日見てきたことでわかったことは、幻覚こそが、僕たちが現実と呼んでいたものだったんだ。


つまり、正常だと思われている人たちの現実ですら、その人が過去の記憶に基づいて見ていた幻覚だったんだ。

その幻覚が、異常だと言われている人たちよりも、より多くの人と近似していたという、ただそれだけの理由で、僕たちは確固とした現実が存在すると思い込んでいたんだよ。

でも、所詮、幻覚である限り、現実とは確かなものじゃなかったということ。
(つづく)

次週のタイトルは「正常? or 異常?」です。


■編集後記
「人間は、お互いの言葉を自分の都合のいいように理解し合いながら会話をしている」と言ったよね。

「自分の都合のいいように」と言う場合の、自分とは一体何なのでしょう?

前回のメルマガを思い出してくれるかな。

現代科学が捉えている究極の見方をすれば、自分とは、たくさんの方向からやってくる膨大な量の刺激によって、動かされていた操り人形だったということだよね。

自我とは何でしょうか?

僕たちは、しっかりとした自分というものが現実の中に存在していると考えがちだ。
でも、今日見てきたように、その現実ですらあまりにも不確かなものだったじゃない。

自我がなければ人間は不安で生きていけない。
そのため確固とした自分がいると思いたいのはわかるよ。

だから脳は、都合のいいつじつま合わせをするんだよ。
そのことが、自我という幻想を作り上げてもいたわけなんだね。

今では誰一人としてその妄想を疑いもしない。

しかし、自我がなければ不安だった時代は終わりつつある!

今では、その自我が、むしろ様々な混乱と不安を引き出しているからなんだ。

今、僕たちに必要なことは、まず第一に、自我というものが幻想に過ぎなかったと理解すること。
第二に、幻想に過ぎなかったと理解しても、それでもしつこく存在する「自我」とは何かということを知ること。

それがわかった瞬間、僕たちは、今までの自我の幻想から一気に解放されるんだ。

そのことで、むしろ心の平安を得ることができる時代に入ろうとしている、と僕は感じているんだ。
僕たちの自分探しの旅も、その場所にたどり着くはずだよ。

ところで、この度、僕の産みの親でもあり、こちらのメルマガの(名前だけの)発行人でもある徳永真亜基自身が発行しているメルマガ『世界を平和にしない愛』に、友情出演することになったんだ。
そちらも是非ご覧ください。



【💐世界を平和にしない愛💐】NO.18 科学者は本能なんて言葉使わない

★★★ 科学者は本能なんて言葉使わない ★★★

まず、本能の概念ですが、これは大きく二つに分けられます。

一つは「理性によって抑えがたい不合理な内的衝動を本能とする」という考え方で、フロイトが、生(エロス)の本能とか死(タナトス)の本能などと使った場合の基本的概念です。

もう一つは、ファーブルなどによって動物が生まれながらにして持つ驚くべき行動能力が明らかになり、生得(せいとく)性、合目的性、精巧さなどを備えた能力を意味するものです。

前者は人間を対象としていて、後者は動物一般を対象としていることに注意してください。


さて、後者の意味としての学術用語では「本能」という言葉はほとんど使われなくなっているそうです。

例えば、伝書鳩がちゃんと巣に戻ってくるのは帰巣(きそう)本能があるからだ、という説明だけでは答えになっていないし、学術的にもあまり意味がありません。それでほとんど使われなくなったようです。

ちなみに、比較行動学の研究によれば、伝書鳩が巣に戻るのは、刻々の太陽の位置と体内の生理的周期変化との連動である、というようなことがわかってきたようです。

今、僕は、人間を対象とした前者の「本能」ではなく、今日では使われなくなっている、動物を対象とした「本能」を、もう一度、表舞台に引っ張り出そうとしています。

学術用語としてほとんど使われなくなってしまった原因は、元々は、動物の行動を説明するために使われだしたものであり、僕のように人間の悪の根源を説明するために「本能」という言葉を用いようとする研究者など、誰一人としていなかったからです。

それは、自分たち人間は他の動物たちとは違って理性というものがあるので本能は薄まっている、などという確信にも似た思いがどこかにあるからです。

そこで、もう一度、広島大学教授の難波紘二氏の言葉を引用させていただきます。
「人間を動物と異なった何ものかとして、倫理道徳を説くのは非科学的お説教にすぎない。だからそれは空理空論である。人間を動物として生物学的、心理学的に説明するところから、倫理問題を解明する道が開けるのである」


本能の分類が過去盛んに試みられましたが、そのどれもが「人類の平和」という目的を持ったものではありませんでした。そしてついには消えていったわけです。
科学の究極の目的は、本当は「人類の幸福」、つまり「人類の平和」であるはずなのに‥‥。(v_v)


そこで、僕の書いた物語の主人公マーキー君は、いろいろな分類法を集大成して、次のような分類表を作成しました。
一応、彼なりに考えて人類の平和にとって害悪の高いものからの順序で分けたようです。
そこで僕は、これを「世界平和のための本能分類表」と名づけます。

本能分類表

今日は、これを作った本人(マーキー君)に登場してもらって、自分で説明させます。では、マーキー君、どうぞ!!

えーっ、オホン。マーキーです。
それでは講義を始めさせていただきますが、その前に、今ちょっと怒っていることを、みなさまの前で表明しなければいられない失礼をお許しください。
真亜基さんは、僕が『アラスカの風に乗せて』の物語の中で作成した分類表を、事後承諾でほんの少しだけども改訂しています。
できるだけ簡略化して覚えやすくしたんだそうです。まあ、いいんですけど‥‥。
今度からは前もって言ってください。(*`へ´*)

まずは準備として、お手数ですが、上の「世界平和のための本能分類表」の画像をWordかExcelにコピペして、パソコンの脇の方に小さく表示させておいてください。

この頭文字をとって「し、とう、さ、ショ。ぐん、ほう、たん、ぼう」と覚えます。d(^_-)ネッ!
えっ? い、意味はありません。(^_^;)

この分類表は、もちろん動物の本能を元にして作ったのですが、例えば犬などの「追跡本能」(逃げる獲物を追う本能。突然走り出したり、走り抜けようとする人でも咬捕(こうほ)しようとする)は、人間には当てはまらないので削除しました。

それぞれの説明に入ります。

aの支配・被支配本能は問題ないですよね。
人間には他人を支配したいという欲望がありますが、それと同時に他人に支配されたいという欲望もあるから不思議です。それを被支配本能と呼ぶことにします。
この相反する欲望が出会うことで成立するものなので、面倒くさいので、あっ、いや、その方がわかり易いので一緒にしちゃいました。

誰かさんの支配欲を陰で支えているのは、その他大勢の人の被支配欲かもしれません。カリスマを作り出す心理に似ているかもしれません。

その後ろの括弧(かっこ)でくくっているのは、イコールという意味ではなく、含むという意味です。

ここに含んでいる求愛本能とは、動物の求愛行動のようなものではなく、愛を求める(愛されたい守られたいという)本能の意味です。つまり、このメルマガのテーマの愛です。
それが、人類の平和にとって害悪の高いものの筆頭に挙げられている点に注意ですね。

動物の求愛行動の方は、むしろ「性本能」と書いた方です。
蛇足ですが、人間同士の愛というのは、支配と被支配の揺らぐ関係(いつでも入れ替わる柔軟性に富んだ関係)で成り立っています‥‥よね。
えっ、君の夫婦関係は固定的ですって? 知りません!

bの闘争本能も問題ないですよね。これが希薄な人は、スポーツ界ではものになりません。運動神経はまあまあなのに人前で競い合うと駄目な人は、これや自己顕示欲(けんじよく)などが希薄なんでしょうね。ちなみに真亜基さんは明らかに希薄です。

世界平和にとって害悪の高いものの第二位に挙げられていますが、この本能を強く持っている人はいけないというわけではありません。
全然問題ないですよ。要は、自分に強い闘争本能があるということを知ればいいのです。それがどのような行動に導くかを知識として知ることが大切なだけです。

うまくコントロールできるようになればいいだけの話です。
ここに含む、緊張・興奮本能というのは、人間が戦争や荒々しい祭りや危険なスポーツなどが好きなのは、本質的には緊張や興奮を求める本能があると思うからです。

cの差別本能は、このメルマガ「世界を平和にしない愛」の最初に出てきたゾウアザラシの差別本能です。この本能があるから種の繁栄もあるわけです。だから、母性本能も含みました。なんとなく、わかりそうな気がしません?

dの所有・獲得本能です。
これはもちろん、お店で素敵な洋服を見つけたら自分のものにしたくなる、という本能です。
優越感を得たいとか権力を握りたいなどの欲などは、この所有・獲得本能に入れていいんじゃないかと思います。ナルシシズムや自己顕示欲なども、他人の注目を「獲得」したいという意味でこれに入れます

eの群居(ぐんきょ)本能とは動物だと群れを作って生活をするということですが、人間に当てはめた場合「人と同じことをすることによって安心を得る」というような意味で用いました。付和雷同(ふわらいどう)することです。

fの放縦(ほうじゅう)本能は、勝手気ままに行動することですが、怠惰なんかもある意味でこれに分類されるのではないかと思われます。

要するに、仕事したくないから会社に行かないというのは、ある意味勝手気ままで、ある意味怠惰ですものね。これを「放縦(ほうじゅう)本能」と命名します。これよりeの群居本能を上位に置いたのは、どちらかというと、勝手な行動をとるより、自分のしっかりした考えを持たず群れる方が、危険だと、僕が思ったからです。
無意識の大きな悪が生まれる可能性を秘めているからです。

gの探求本能とは、単純に好奇心(珍しい物事・未知の事柄に対して抱く興味や関心)のようなものと思ってください。

hの防衛本能とは、意地悪な人には近寄らないなどというようにあらかじめ危険を回避したり、不安・葛藤・フラストレーションなどから自己を守ろうとして働く本能のことです。心理学で使われる、投射・退行・抑圧・昇華・合理化などといったものは、この防衛本能が生み出すものです。
支配的な人を前にして、その人に服従してしまうのも、一種の防衛本能です。

wのその他とは、特定の状況下以外ではそれほど害のないものや、基本的な生命維持に関するものなどです。摂食(せっしょく)とは食事を摂ることです。休眠は休むことと眠ることという意味で使っています。

それほど害のないものなどと言ってしまいましたが、特定の状況、例えば食事を摂ることや眠ることを疎外(そがい)される状況に陥れば、人間は結構凶暴になるので、あなどれない本能です。
やっぱりどれも、本能である限り、邪悪と縁が深いものであると言えます。

この分類は、人類の平和にとって害悪の高いものからの順で分けたつもりですが、人と人との愛や母性愛など一見害悪とは対極にありそうに考えられているものが、1位と3位に入っているのを見てください。

愛を求める気持ちや母性愛は諸刃の剣(もろはのつるぎ)です。

例えば多くの人民を支配した王の心にあったものは、支配欲ではなく自国の民に対する母性愛に近い溢れんばかりの愛だったかもしれないし、一人の女性を愛し抜いた男の美談の裏には強い支配欲があって、彼女が、支配欲を満たしてくれる唯一の女性だったからかもしれないのです。

しかも彼らの母性愛も支配欲も、状況によって簡単に入れ替わるものです。

「愛とは、甘えたい欲求と甘えを許すことができる心が出会った時に起こる感情」でしたね。
そして、その甘えたい欲求とは、今まで見てきた「本能」の求める欲求を押し通そうとすること、あるいは本能が最も居心地がよく感じる状態を維持しようとすることでした。
その本能をコントロールできないときに、愛もまた暴走してしまいます。

さて、このように分類させていただきましたが、実際の本能は、このように明確に分離はできないものです。それに、様々な本能が重なり合って行動は引き起こされます。
ただ、物事の本質を知るためにはどうしても体系的に整理してみる必要があったのです。

次に僕たちがやることは、これらを、実際の人間の行動に照らし合わせてみることなんですが、以上のような点を大目に見て、細かいことは気にしないでやってみましょう。

確かなことは、平和というのは、世界中の偉い人たちが(;¬_¬)こんな顔をして話し合ったって決して実現しないということです。
一人一人が(⌒θ⌒)こういう顔をしましょう。

前回のメルマガで、真亜基さんはいいことを書いています。
大事なのは「人間とは、自然界を生きるためには障害となる理性を抱えてしまった動物である」という大前提を知ることです。

障害を持ったもの同士が助け合うという気持ちから、世界平和が始まります。だから、明るく、楽しく、他人を許す気持ちを忘れずに、細かいことは気にせず本能を暴き合いましょう。

次週は、真亜基さんに「本能分類表」を実例を挙げて説明させます。その前に、僕からお願いがあります。
お手数ですが、今コピーした「世界平和のための本能分類表」をデスクトップ上に「名前をつけて保存」しておいていただきたいのです。いつでも、参照できるようにです。

それとちょっと宣伝させてください。
僕は「自分探しの旅‥‥」というメルマガを書いています。
その旅でたどり着くところと、この「世界を平和にしない愛」がたどり着く場所が同じ場所なのです。‥‥途中で道に迷わなければの話ですが。

えっ? はい、はい、わかりましたよ。隣りで睨んでいる人がいるのでこの辺で失礼します。
では、次週のタイトルは「実践・本能分類表」です。あっ、これは隣りの人のセリフでしたね。


★編集後記
えー、マーキー君でした。ありがとうございましたね。夜道に十分に気をつけてとっととお帰りください。

本能を取り除くのではなく、本能とはどのような害をもたらし、その害を避けるには理性でどのようにコントロールすればいいのでしょうか?

世界中の子供が九々のかけ算を習って記憶するように、まずは、小学生の頃から知識として、本能と人間の行動の関連性を覚えていくことがこれから必要になることです。
初めのうちは、たとえ単なる知識でもいいのです。

一人一人の地道な努力ですが、世界を平和にしてあなた自身が幸福に生きるためにも避けて通れない道です。そのために、マーキー君が作成した「世界平和のための本能分類表」が少しでもお役に立てれば、彼も死んでも本望でしょう。(;¬_¬)




《🐢自分探しの旅 with マーキー🐢》NO.19 正常? or 異常?

■ 正常? or  異常?

発明王エジソンが、子供の頃、実験をしていて爆発騒ぎを起こしたというのは有名な話だよね。

エジソン


当然、人はそれに対して、彼は実験に失敗したと考える。

だけど、彼が行った実験が自然界の法則に則(のっと)って正しく反応して、それによって爆発という現象を起こした‥‥わけだから、自然界から見たら、ある意味、どんな実験も成功(?)しているわけだよね。

たとえ彼がある仮説を立て、この実験を行えば結果としてこのような現象が起きるはずだと推測していたとして、それが全く裏切られたとしてもそれは思惑が外れたというだけの話で、実験としては失敗ではないんだ。

実際、彼はその実験によってこの自然界の法則のある一面を発見できたわけだし。


失敗・成功は、人間の想像力が「ある基準や目的」を設けてそれによって下される判断なんだ。

厳しいことを言うけど、科学者が「何らかの基準や目的」を設定して科学を利用する場合は、たった一つの目的、「全人類のため」という目的のためでなければいけないんだよ。

例えば、自国の利益のために他国を滅ぼす武器を作る、などという目的を設定して実験を行うなんていうのは、科学者の風上(かざかみ)にも置けない人がやることだよ。(*`へ´*)

何故って、科学者になりたいという人は、自然界様に学ばせていただくという最も謙虚な気持ちを持った人でなければいけないんだ。
もし君が科学者を目指しているなら、その前に、自分は自然界様に対して謙虚か、それとも利用してやろうなどと企んでいる傲慢な人間なのか、よーく自問してほしいと思うんだ。

そしてもし利用させていただこうと思って科学を志したとするなら、たった一つの目的、「全人類のため」という目的のために、君の全人生を捧げて欲しいな!
そして、「全人類のため」という目的は一体どういう意味なのかを考え続けて、その答えを見つけるために悩み、その答えを実行して欲しい。


話が脱線しちゃったけど、障害者って言葉だって、考えてみればおかしな言葉だよね。
大多数の人を基準として、大多数の人に便利にという目的でいろいろなものは工夫され発明されるから、当然、少数の人はますます暮らしにくくなってしまう。

その人たちに対して人間の想像力が障害者と呼んでいるけれど、科学的偏見から見ると‥‥つまり科学もひとつの偏見でありその偏見から見るとという意味だけど、それが、その人の自然界に適応した現れ方なんだ。


それなのに病名を与えられ治療を施されるから、本人まで一人前の病人となって、苦しんだり悲しんだりしていなければ申し訳ないような気さえしてしまう。

逆に、障害者年金をもらったり数々の特権を得たりしたいために、なんとか障害者の認定をしてもらいたいという人たちまで出てきてしまう。
どちらも本末転倒だよね。

この宇宙の中で、この宇宙の法則に則って全てのものが動いている限り、宇宙の中で適応されないふるまいなどは何一つ起こり得ないはずだよね。そうでしょう!?
僕は今、誰でもわかる当たり前のことを言ってるよね!?

例えばマンモスが絶滅したのは環境に適応できなかったからじゃなくて、むしろその環境に適応したからこそ絶滅したんだよ。
繁栄を可とし、絶滅を否とするのは、人間がある基準を設けたから下される評価だよね。

「科学」とは、あくまでも僕たちを産んでくれた自然界様に、この宇宙の成り立ちはどうなっているのかを謙虚な気持ちで学ばせていただくもの。
人間が自然界で起こる現象を評価なんてするもんじゃない。
それこそ人間の傲慢というものなんだ!

世の中から無用な差別や争いをなくすには、自然界を基準とした謙虚な考え方が必要なんだよ。
つまり、謙虚な科学的な視点こそ世界平和に役立つんだ。


今までの‥‥大多数の人や強者(きょうしゃ)を基準とする考え方ではなく‥‥ね。

科学は物騒な兵器をたくさん作りはしたけど、実は、平和に貢献する「ものの考え方」「ものの見方」を示してくれてもいたんだよ。


例えば、遺伝子の配列が突然変異を起こした場合、それによって、ある病気にかかり易くなってしまう人ができることがあるんだよ。

でも、同じように突然変異が原因で、ある病気にかかり難(にく)くなるという人ができることもあるんだ。

どちらも自然界に適応した現れだけど、僕たちは勝手に一方を病気とし、一方を優れた能力のように差別してしまうよね。

大多数の人と違うからといって、それを障害とか、またその逆に優秀な能力とか見る見方も、同じように差別を生んでしまう。

アインシュタインさんは天才だと言われているけど、考え方を変えれば、彼は脳にある種の障害を抱えていたから、他の人と違うことを考え出してしまったんだとも言えるんだよ。
それなのに、僕たちはある人たちを障害者と呼び、ある人たちを天才と呼ぶ。

解剖学者、養老孟司さんは「確率的に生じうる事象を異常ということは、本来できないはずである。地震も台風もべつに異常な現象ではない」と言っているんだ。

これは、彼の『人間科学』という本の中に男と女、つまり性差(せいさ)について論じている部分に書かれていた言葉なんだ。

受精から始まって性腺(精巣や卵巣のこと)が作られ、男性ホルモンが分泌され外部生殖器や脳の性分化が行なわれていくんだけど、その段階で性決定の逆転が行なわれることがまれにあるんだよ。

我々は、それを異常と呼んでしまうけど、それを異常と呼ぶことはできないはずである、と彼は言っているわけなんだ。

もう一つ、今度は医学博士、難波紘二(なんばこうじ)さんの『生と死のおきて』から、次の言葉を紹介するね。

「医学においては “正常” はノーマル(normal)の、“異常” はアブノーマル(abnormal)の訳語である。これは統計学における正規分布(ノーマル分布)の概念から来ていて、ある集団の中で、多数を占めるものが正常であり、少数を占めるものが異常であると定義されている。正常と異常という概念それ自体には、良いとか悪いという価値判断は含まれていない。(中略)つまり、異常と正常のどちらが良いかを判断する基準は、医学や生物学の中にあるのではなく、社会にあるのである」



ダウン症の人は、21番染色体が1本過剰で3本あると言われているんだよ。
その原因はまだ究明されてはいないんだろうけど、一体どのような仮説が立てられると思う?

まさか、前世の悪行(あくぎょう)が原因などという仮説は成り立たないでしょう!? でも本当にそんなことを言う人がいるから驚いちゃうんだけどね。

僕は現代科学の最も大きな功績は「物事には全て原因がある」ということを僕たちにわからせてくれたことだと思っていると言ってきたよね。
21番染色体が1本過剰になるにはそれなりの原因があるわけだ。

もちろん、前世の悪行などではない、何らかの生化学的作用が働いてそのようになるわけなんだよ。

ただ科学では、まだ原因を究明できていないだけなんだ。

そして、その何らかの生化学的作用が働くことを、僕はその遺伝子が自然界に適応した状態と呼ぶべきだと思うんだよ。

何事も、物理・化学的作用(自然法則)に適応して起こっているわけで、この自然界に適応されないふるまいはあり得ないわけだものね。

ダウン症を、染色体の異常と見る捉え方もあるけど、異常と見るのは人間の想像力や感情的な部分であって、本当は自然界には異常も正常もないんだよ。

あるのはただ「何らかの物理・化学的作用が働いて起きた結果」だけなんだ!
自然界から見れば、全てが正常な状態だと言えるんだ!


それでは、最後にもう一人の方の言葉を紹介したいと思う。

諏訪中央病院の院長先生である、鎌田實(みのる)さんの書いた『がんばらない』という本の中に次のような文章があったんだ。

「今を生きるぼくらは忙しいために、効率を優先して行動する。効率を優先しないと結局どこかに迷惑をかけてしまう。悲しい現実の中でぼくらは組織を維持しようとする。しかし、この構造の中にダウン症の人がひとり入るだけで空気がホーッとするのである。(中略)ダウン症の子供は実にあたたかでやさしい」


ダウン症は決して脳に障害を負っているのではない!
その状態が、彼の脳が自然界に適応した現われ方なんだよ。
見方を変えれば、効率効率と追い立てられている我々こそ脳に障害を負わされているとも考えられるくらいだ。

僕たちが普通「障害者」と呼んでいる人たちは、社会的に見れば、この社会が大多数の人に便利なように作られていくので、少数の彼らには、不便な面はたくさんあり、その意味では確かに障害かもしれないけど、自然界から見れば障害者なんかじゃなく、自然界に適応して現れている姿だということを忘れないでほしい!



ところで、、、、、。

もし、自然界から見て、僕たちに唯一障害というものがあるとすれば、それは、僕たちの理性なんだ。

だから僕たちこそ「みんな障害者」であると自覚したところから、新しい世界が始まりるとさえ僕は思っている。

人間はあらゆるものを人間中心に、つい傲慢に考えてきたけど、これからは、謙虚な気持ちを持って自然界中心に考えて行かなければ、これまでがそうであったように不要な争いばかり増えてしまって、もう、どうにもならない時代に入っていくと僕は考えているんだ。

なぜ理性が障害かと言うと、理性がなければ、いちいち他人の気持ちを思いやる優しさも必要なく、本能の赴(おもむ)くまま自分がやりたいことを勝手にやって、やりたくないことはやらなければいいだけで、何一つ迷ったり悩んだり、他人に気を使ったりする必要もないんだもの。
つまり強く生きられるわけなんだ。

僕たち人間は理性を持ってしまったことで、地球上の他のどんな動物たちよりも弱くなってしまった。
それって明らかにこの自然界の中で生きるために障害だよね。
他のどんな動物たちよりも弱くなってしまったから、人間は、助け合わなければ生きていけなくなってしまったんだ。


だからと言って、理性を捨ててしまおうなどと言ってるんじゃないんで、誤解しないでね。
今さら理性は捨てられるものでもないんだし‥‥。

それに、僕は理性を悪と捉えているんではなく、自然界で生きる上においては障害だったと言っているだけなんだ。

その考え方が何の役に立つかと言うと、君の心の役に立つんだよ。
そして世界の平和に、、、、、。

世界を平和にする偏見とは、「理性という反逆児を心の中に授かってしまった僕たちは、自然界に適応する上において、みんな障害者なんだと理解し合うこと」なんだ。

「みんな障害者」であったと気づくことで、たまたま障害者と呼ばれてしまっている人たちを悪い意味で差別することもなくなり、自分を悪い意味で尊大に思うこともなくなると考えるからなんだ。

そして、恵まれない子に愛の手を‥‥などという上から目線ではなく、「僕たちは、理性を持ってしまった人間というみんな恵まれない障害者同士だから助け合わなければ、生きていけないんだよ」って考えることだと思うんだ。

そこから、本当の平和への第一歩が始まると考えている。

人類はまだ、本当の意味で、平和への第一歩すら踏み出していないんだ!
偉い人だって、いや、偉い人ほど、胸に初心者マークをつけて始めましょう!

あれっ? 何だか、真亜基さんの方のメルマガ『世界を平和にしない愛』とリンクしてきちゃったみたい。
きっと頂上が近づいてきたせいなんだろうね。

もうすぐ、彼ら一行(いっこう)とも遭遇できそうだよ。
でも、まだ最大の難関が待ち受けています。
その難関を越える前に、どうしても考えておきたいことがあるんだ。
(つづく)

次週のタイトルは「科学者の非科学的解釈」です。


■編集後記
今日は、この世に存在しているものは全てが適応している状態だ、と言ったけど、そこのところを、誤解しないでね。

僕が、現代医学では手も足も出ない何らかの病気で死んじゃうとするよね。
でも、僕が死んだのは、僕がこの世に適応できなかったからではないということが言いたいんだ。

僕がある病気で死んだとしたら、それが自然界に適応している状態なんだよ。

生だけが自然界の現象ではないよね!

死だって立派な自然界の現象なんだ!


とかく、人は生だけを謳歌しがちだよね。

良い生き方をしたいと楽しく思いを巡らせるけど、良い死に方をしたいと楽しく思いを巡らせることはしない。

でも死についても楽しく考える気持ちを持てたとき、初めて人間は自然界という大船に乗ってあらゆる物事が楽しめるようになるんだよ。

もう一つ誤解しないで欲しいのは、さっき、「僕たちが普通『障害者』と呼んでいる人たちは、自然界においては障害者なんかじゃなく、自然界に適応して現れている姿だ」って言ったけど、だから、障害者年金を廃止しようなんて言ってるんじゃないんだよ。

いくら自然界には適応した現われであっても、あらゆるモノが大多数の人の便利なように工夫され作られている現実の社会にあっては、それらに適応が難しい人たちもいる。
人間が理性を持っちゃった弊害がここにも現れているということなんだ。

僕たちはみんな、理性という障害を持った障害者だから、その人その人の不得手(ふえて)な部分を、周囲の人が手を貸し合って生きていかなければならないんだよ。
今はまだこの世界をお金が支配しているから、障害者年金だって、少しでも手を貸してあげれることになればいいじゃない!?
でもそれを悪用している人がいるんだからひどい世の中だよね。

それもお金の世界が作ってしまった弊害なんだけどね。
と言うか、お金も、本当は「錯覚の自我」が作ってしまった弊害なんだけどね。
お金は、「錯覚の自我」に縛られている僕たちが必要としたから生まれてきたんだから‥‥。今の僕たちは、お金に頼らなければ生きていけないんだ。

大事なことなんで、このことはそのうち話すとして、話を元に戻すけど、だから現在、この大多数の人が有利な社会で生きていく上で障害を抱えていると感じている人たちを本当に救うことができるとすれば、障害者年金などというものが不要になった時、つまり、お金も無くなった世の中だと僕は考えているんだ。



【💐世界を平和にしない愛💐】NO.19 実践・本能分類表


★★★ 実践・本能分類表 ★★★

前回、「世界平和のための本能分類表」をデスクトップに保存してくださるようにお願いしましたが、やっていただけましたか?
それでは、また、それをパソコンの脇に表示させながら、以下の文章を読んでください。
「し、とう、さ、ショ。ぐん、ほう、たん、ぼう」と、覚えてしまった方は、もう表示させなくても大丈夫ですよね。
これはそれぞれの頭文字「支、闘、差、所、群、放、探、防」でしたね。

* * * * * * * * * * * *

最近(と言うわけでもないんでしょうが)、ショッキングな事件が多発しています。

公職にある政治家がたくさんの賄賂(わいろ)を自分の懐(ふところ)に入れた(a支・d所・e群)とか、
国民の安全を守るべき警察官が盗みをしたり(d所)人殺しをした(a支・b闘・d所)とか、聖職者であるはずの学校の先生がわいせつ行為(a支・d所・g探)に及んだりとか。

でも、このメルマガを読んでくださっている方にお願いがあります。
もし、それらのことを本当になくしたい(a支・d所)と思うなら、これからは一々驚かないで下さい。

どこよりも驚かせるような報道をしようと、腕を振るう(a支・b闘・d所)のがマスコミの仕事です。
何故なら、僕たちがそれを求める(d所・g探)からです。

僕たちは、ショッキングな事件を見聞きしても決して驚かず、彼らは僕たちと同じ人間だからそういうこともあって当然でしょう、と思えるようにならなければいけません。

また、世の中には傷害事件の被害に遭われた方や、戦争の被害に遭われた方がいます。
このメルマガを読んでくださっている方にお願いがあります。
その方たちに同情して、「何の罪もない人や子供たちを、こんな目に遭わせた事件や戦争が許せない」という怒り(b闘・c差・e群)を持たないで下さい。

そんな同情をして、戦争や事件を起こした責任を他人に探す(e群・g探)ようなまねはしないでください。

「自分とは記憶の積み重ねである」という言葉を聞いたことがありますか?

記憶の積み重ね、それが自我を作っているに過ぎない、と言うことです。
自我とは、自分と区別される対象の存在を知り、「これが自分という存在である」と自分で信じているところのものです。

記憶の積み重ねという時の「記憶」は、現代では、より多くのことがテレビや週刊誌などのメディアを通して情報として入ってきます。
現代人は、大部分がテレビや雑誌などに作られている自分を、これが自分であるところのものである、と信じているに過ぎないと言えそうです。


視聴率の獲得が至上命令(a支・b闘・d所)である彼らのやり方は、正義面をする(b闘・c差・h防)ことと、僕たち視聴者を有能な判定者とおだて上げる(h防)ことです。
僕たちはそのやり口に乗せられて、自分を正義であり有能な判定者だと思い上がります。(c差・e群・h防)

エッセイスト山本夏彦氏は

「マスコミは真実など書いておらんし、そもそも真実を書く気などありはしない。ただ部数を伸ばすがために、大衆に迎合(げいごう)するのみである」
「新聞に載っていることは、結局は部数を増やすための文章にしか過ぎない。あれを真実の報道だと思って読んでは決してならない。新聞記者は、現場を見て書いているのではない。本社デスクの顔色を見ながら書いているのである」


と書いています。

平板(へいばん)な日常に退屈して、他人に降りかかる忌まわしい事件や戦争の話題を待ち望んでいる(b闘・g探・h防)なら別ですが、もし本当にそれらをなくしたい(d所)という良心がおありなら、今日からは一々驚かないで欲しいのです。

そして、「何がそんなに事件なの?」と思えるようになって欲しいのです。
何故なら、忌まわしい事件や戦争を起こすように(本能というもので)プログラムされているのが、僕たち人間です。
と言うより、たまたま本能に基づいて行動していることを、僕たちの理性が事件に仕立て上げているだけなのですが‥‥。

山本夏彦氏は「庶民は汚職する権力者を憎んでいるのではない。妬んでいるだけだ」と書いています。
確かに我々は権力者と比べて(a支・d所)が満たされていないので、(b闘)が発動されてしまうような気がします。

だから、確かに彼の言う通りだと思うのです。我々が汚職ができる環境にないだけです。よく思い出してください。
そう言えば、僕たちは自分の環境の範囲内で、汚職と同じようなことを日常茶飯事に行なっています。

世話になったからといって金品を渡したり、気に入られたくて物をあげたり、いろいろな意味でコネを利用したり。その逆に、何かをくれた人には特別扱いをしてあげたくなるのが人情です。
それらを別に罪の意識もなく行なっているのが僕たちです。

むしろ、ある面では善意として行為し合っています。金品をくれる人は「いい人だなあ」って無差別で反応してしまってはいませんか?(>_<)


僕たちは、汚職をする権力者を憎むのではなく、妬んでいる自分を憎むべきだったのです。
同じことをしている自分の行為に気づくべきだったのです。そうでなければ、永久に政治家の汚職すらなくなりません。

妬んでいる自分に気づき、みんながそんな自分を憎むようになったら、もう僕たちは正義でも有能な判定者でもないことになります。
そんなことに気づかれたら、マスコミは戦術を変えなければならなくなるでしょう。

自分のしわだらけの顔に気づいた年寄りに、「若々しいですねえ、まだ30代に見えますよ」などと言っても通用しなくなるわけです。

「見て御覧なさい。あのシミだらけの顔の人たちを、ああはなりたくないですねえ。僕たちは国民として彼らのシミがこれ以上増えないようにしっかり監視しましょう」などと言えば言うほど、イヤミに聞こえてきます。

それよりも、正義面していたマスコミも自分の嘘に気づき、ほとほとイヤになります。

ちょっと「世界平和のための本能分類表」を見てください。
驚くことに、政治家になるには上位4位(a~d支、闘、差、所)までの本能が強いのはもちろんのこと、政治家を全うするためにはa~wの全てが必要です。そういう本能の強い人たちが政務に携わっているわけですから、世の中が「悪」に満ちていようと不思議なことではありません。

政治家になる最も大切な資質は二つあると思います。一つは金集めがうまいこと(a支・b闘・d所)。もう一つは嘘をつくことがうまいこと(b闘・h防)。
この二つに長けた人物が人を動かして世の中を自分の描いた理想に近づけることのできる人たちです。

いや、もう一つありました。
権力欲(a支・b闘・c差・d所)などが強いこと。これが第一条件です。
それがなければ、まず政治家になんかなろうとも思わないでしょう。

金集めが大切なことだと言うなら、政治家と裏金とは切っても切れない関係にあるわけです。
そして嘘がうまいという点から、「私はそんな金を貰った記憶はありません」とふてぶてしく嘘をつけるのもうなずけます。
そういうことをうまくやる人たちが政治家になるものなのだから。

その逆の人を考えてみればわかります。
欲がなくて、真っ正直で、金集めも下手な人なんて、政治家になろうと思っても無理なのはわかりきっているし、始めから政治家になんかなろうとはしないだろうし、何かの間違いで政治家になったとしても、彼を選出した人たちに頼りなく思われてしまうでしょう。

だけど、そんな人を頼りなく思ってしまう(c差・h防)自分を責めようとは、誰も考えもしません。
本当は裏金よりも、その無自覚さ、自己認識の甘さの方が問題なのです!!

例えば、ある政治家の言動を考えてみてください。
彼の言動は、彼の脳が引き起こしたもの(a~w支、闘、差、所、群、放、探、防)であるということには異論はないですよね。
でも、その政治家の脳は環境によって作られていて、その環境によって作られている脳によって言動を引き起こさせられていたのが政治家です。
と言うことは、政治家の脳は彼を取り巻く環境の一つでもある「あなたの脳」も関与していたのですよ。



それでは、身近なところで世界を平和にするための「実践・本能分類表」をしてみます。

自分たちの行動を支配している本能を、互いに許しあう気持ちを持って暴き合いましょう。
他人を責めるのではなく、くれぐれも助け合う気持ちが大切ですよ。
理性という障害を授かった弱い人間同士助け合う、という意味です。理性という障害を授かったおかげで、動物にとっては悪ではない本能を悪と見なすようになってしまったわけですからね。

・嘘をつく、言い訳をする──( h.防衛)
・川にゴミを投げ捨てる、群れを作ってバイクで爆音を立てるなど、ルールや他人の迷惑を無視した行動を取る──( f.放縦),(e.群居),(b.闘争・破壊・攻撃)
・スポーツや勉強で他者より抜きん出たい──(b.闘争),(d.所有・獲得)
・スポーツや勉強で褒められたい──(d.所有・獲得)
・SNSなどでフォロワーを増やしたい──(d.所有・獲得),(b.闘争)
・自分の子供が一番かわいいと思う。自分の子どもを贔屓(ひいき)する──(c.差別),(d.所有・獲得)
・他人の噂や悪口を言う── (d.所有・獲得),(e.群居),(g.探求),( h.防衛)
・愛が相手に伝わらず激しい憎しみに変わる── (a.支配・性・求愛),(d.所有・獲得),(b.闘争・攻撃・破壊)
・強い人や権力を持つ人に取り入る。イジメられている人を一緒にイジメる── (e.群居),( h.防衛)
・逆に強い人や権力を持つ人に逆らいたくなる──(b.闘争・攻撃),(c.差別),( h.防衛)
・匿名を使ってSNSで誹謗中傷をする── (e.群居),( h.防衛),(b.闘争・攻撃・破壊)
・見返りを期待したり、良好な関係を維持するために金品を渡す(中元、歳暮も含む)── (d.所有・獲得),( h.防衛)
・出世のためコネを使う── (a.支配・被支配),(d.所有・獲得),( h.防衛)
・バーゲンでは我先にと人を押しのけて物を奪い合う──(b.闘争),(d.所有・獲得)
・行列のできる食べ物屋に並んでみたくなる── (e.群居),(d.所有・獲得),(g.探求)
・気に食わない外国人を見ると「外人のくせに」と言う── (c.差別),(e.群居),( h.防衛)
・戦争ものの映画や対戦ゲームなどにワクワクする──(b.闘争・攻撃・破壊),( h.防衛),(a.支配・被支配)
・汚らしいからといって嫌う── (c.差別),( h.防衛)
・アイドルやスターに対して、可愛いから格好いいからといって好きになる── (c.差別),(d.所有・獲得),(g.探求)
・憧れたり、特定の人だけを愛する── (a.支配・性・求愛),(c.差別),(d.所有・獲得),(g.探求)
・自分探しの旅に出たい──(g.探求),( f.放縦)
・ひいき、差別、ヤキモチを焼く── (c.差別),(d.所有・獲得)
・スキな人にチョコをあげたい── (c.差別),(a.支配・性・求愛),(d.所有・獲得)
・人権擁護団体や動物愛護団体の過激な行動── (b.闘争・攻撃・破壊),(c.差別),(e.群居),( h.防衛),(a.支配・性・求愛)
・正義を振りかざして他人批判をする── (c.差別),(e.群居),( h.防衛),(b.闘争・攻撃・破壊)
・テロリストや過激派の行動── (b.闘争・攻撃・破壊),(a.支配・被支配),(d.所有・獲得),( h.防衛),(c.差別),(e.群居)

あなた自身でも結構ですが、自分のことはなかなかわかりづらいものです。あなたの周囲の人、友達や同僚や上司、テレビに出ている偉い人、学者、政治家、コメンテーター‥‥あらゆる人の言動をこの「世界平和のための本能分類表」に照らし合わせてみてください。
何日か続けていると、きっと、面白い体験をすると思います。

人間は他の動物と同じで、意外なことに、ほとんど全ての行動を本能に支配されていたという事実を知るはずです。

、、、、そして、理性はほとんどの場合、その本能に支配された行動を理由づけするために使われているという事実も知るはずです。

そして、自分も本能によって支配されている同じ穴のムジナだったことを知るはずです。実は、これが一番大事なことです。

本能は悪の根源でもあるけれど、善の根源でもあります。本能が強いこと自体は、恥ずべきことでも悪いことでもありません。
人間の理性が、善悪を決めているだけです。

だから、(⌒θ⌒)こういう顔を忘れずに、許し合い助け合う気持ちで、楽しくやってみましょう。

是非あなたの「実践・本能分類表」もお聞かせください。



《🐢自分探しの旅 with マーキー🐢》NO.20 科学者の非科学的解釈

■ 科学者の非科学的解釈

困ったことに、科学者たちでもとんでもない非科学的な解釈をしていて、本人も周りの人もそれに気づいていないことがたくさんあるんだよ。
それは大まかに言うと次の2つに分けられると思う。

1、科学的には適していない言葉を誤用してしまう。
2、意思的解釈をしてしまう。


ちょっと、この説明をする前に、僕が言う科学とは何かということを説明しておこうと思うんだ。

科学とは


まず僕が言う科学とは、「自然科学」の赤枠の部分のことだよ。

そして自然科学とは何かと言うと、「自然界の事象の原因や法則性を科学的方法論によって解明していく学問」だと僕は考えている。

じゃあ、科学的方法論とは何かということになるんだけど、主義や信仰や迷信や偏見や感情などを排除して、演繹法や帰納法などを用いて論理的に考えていく方法論のことだと思うんだ。

演繹法(えんえきほう)とか帰納法(きのうほう)とか、だんだん難しい言葉が出てきてしまったけど、これは次のような意味だよ。

・演繹法:一般的・普遍的な前提から、個別的・特殊的な法則を導く推論。
・帰納法:個別的・特殊的な事例から出発して、実験や観察によって
     一般的・普遍的な法則を導く推論。


理屈っぽい人なら、「科学とは何か」という問いに、もっと細かい定義をするかもしれないけど、ざっくりと「科学とは自然界の事象の原因や法則性を科学的・合理的方法論によって解明していく学問」という定義で異論がある人はいないと思うんだ。

でも僕が科学という場合に、一番強調したいのは「主義や信仰や迷信や偏見や感情などを排除して」と言う部分なんだよ。
これらにとらわれている限り、絶対に「科学的・合理的方法論によって解明していく学問」とは言えないよね。


それなのに、科学者たちでも、とんでもない非科学的な解釈をしていて、それに気づいていないことがよくあるんだ。

その例として先ほど挙げた2点。

1、科学的には適していない言葉を誤用してしまう。 
2、意思的解釈をしてしまう。


まず、1番目の例として挙げるとすれば、「進化」という言葉。
この言葉の中には進歩というような意味合いが含まれていると感じてしまうのは僕だけじゃないよね。
自然界というものは、あらゆるものが「変化」しているだけで、別に進歩しているわけではないんだ。

その状態に対して、「進歩」とか「退歩」と見るのは、人間の感情的な評価なんだよ。自然界の成り立ちを謙虚な気持ちで教えていただくための科学なのに、そこに人間の感情を持ち込んだら絶対に自然界の真実が曇ってしまうって言ってきたよね。

ちなみに、大辞林で「進化」という言葉を調べてみると、次のように説明してあったよ。

進化:生物は不変のものではなく、長大な年月の間に次第に変化して現生の複雑で多様な生物が生じた、という考えに基づく歴史的変化の過程。種類の多様化と、環境への適応による形態・機能・行動などの変化がみられる。この変化は、必ずしも進歩とは限らない。

このように、大辞林には「変化」という言葉が使われていて、「必ずしも進歩とは限らない」と念を押して書かれているんだ。
それは、やはり「進化」という言葉の中には「進歩」という意味合いが含まれてしまう危険性があるからだろうね。

それを知ってか知らずかわからないけど、科学者の中には、安易に進歩という意味合いを含めて使ってしまっている人がかなりいるように感じる。

例えば、科学者の人が書いたこんな文章を見たことがある。
「チンパンジーより進化している我々ヒトの脳を、チンパンジーの脳を研究することで全て解明できるとは考えられない」
この科学者の「進化」という発言の裏には、明らかに「進歩・前進・改良」などという意味合いが含まれているよね。

どう考えてもおかしいよね!?

彼は、同時代を生きているチンパンジーと人を比べているんだよ!

原始時代の人と現代の人の脳を比較しているのならば進化という言葉に進歩という意味合いを含めるのは、ギリギリ許せる部分もあるけど、でも科学の視点から見るならば、本当は僕としてはこれだって許せないんだ。

それなのに、同時代を生きているチンパンジーと人を比べて人の方が「進歩」しているなどとのたまうのは、なんという人間の傲慢さなんだ!

「人はサルから進化した」のように言われることがあるから、この科学者は「チンパンジーはやがて進歩して人になる」とでも思っているのかもしれないけどね。


「必ずしも進歩とは限らない」ものに、「進」という字を当ててしまったことが勘違いを起こす元だったんだよ。
「進」という字を当ててしまった最初の人は、科学者として自然界から謙虚に学ぶ気持ちよりも、自分たち「万物の霊長たる人間様」が自然界を解明してやろうというような野心が先行してしまう人だったんじゃないかなあ。


自然界の様相に、「発展」という言葉も結構無造作に使われるけど、それも科学的に見たら実は単なる「変化」なんだ。

「進化」も「発展」も、人間がある基準を設けることで下される評価だから、違う基準を持っている人にとっては、同じ現象が「退化」であったり「衰退」であったりするわけだしね。

前回、「人間はあらゆるものを人間中心で考えてきたけど、これからは、自然界中心に考えて行かなければ、どうにもならない時代に入っていくと考えている」と言ったよね。
自然界を基準とした視点を持って、これからは僕たちは、特に僕たちを導いている科学者たちこそ、単に「変化」という言葉を抵抗なく使えるようにならなければいけないと思うんだ。


ところで、現代科学では、生物の進化(⇒ 変化)の起こる原因を「遺伝子が時たま作り出す突然変異が、その時の環境に適応して種を変化させている」
と考えている。

遺伝子は何万分の1かどうかは知らないけど、時々突然変異を起こすんだ。これはDNAのコピーエラーだと考えられている。

エラーという言葉を使うけど、突然変異は「異常」ではないよ。
何度も言うけど、科学的な視点で見れば、自然界には異常な状態などというものはあり得ない。
すべてが正常であり適応している状態なんだ。
それを異常か正常か判断するのは、これも人間の感情的な評価だよね。

その突然変異が、そのときの環境の中で生き残りやすい変異であったなら、当然、より多くの子孫を残せることになり、以後、その種の遺伝子を持ったものが繁栄するはずだよね。

それが生物を変化させているというだけなんだ。

これが科学の視点で自然界をとらえる見方なんだよ。
そしてこの科学が到達した真理こそが、世界を平和にしてくれる視点にもなるはずなのに、科学者が非科学的な解釈を吹き込んでしまうために、正反対の効果を持ってしまうことになってしまうんだ。

その2つ目が「意思的解釈をしてしまう」ということ。

「意思的解釈」とは僕が作った言葉なんだけど、感情や意思を持っているとされている人間の価値観を、人間以外の物事に、当てはめて解釈してしまうという意味なんだ。
この言葉、『NO.11 脳の中の細胞』のところで使ったけど、覚えててくれてるかなあ。


この「意思的解釈」は、一般向けに書かれた生物関係の本を開けば、ボロボロこぼれ落ちてくるんだよ。そのいくつかを抜粋してみるね。


「大動脈での血流速度は一秒間に平均40センチメートルなのに対して、毛細血管での血流速度は0.2センチメートルと非常にゆっくりなのは毛細血管での物質交換を時間をかけて十分に行なうためである」

この間違いに科学者である著者は気づいていないんだけど、まるで血液があたかも人間のような意思を持って「毛細血管での物質交換に時間をかけたいからその方法を選択している」とでも言わんばかりじゃない。

たまたまゆっくり流れるので、物質交換を十分に時間をかけて行うことが可能になっているだけの話なんだ。


「スカンクの発する毒ガスは、敵から身を守るための防御戦略である」

一見正しそうに聞こえるけど、生物学者が好んで使いそうな「防御戦略」という言葉自体「意思的解釈」なんだ。

遺伝子の変異により、偶然、肛門の両側に一対の腺を形成することになり、またそれが、ある刺激に対して反応した場合、他の動物からの捕食を免れ生き残る確率が高かったことからそのようなDNAが引き継がれ、そのような形態を持つ種が繁栄しているというだけなんだ。


例えば、ミツバチの針は、最初は卵を植えつけるためのものだったそうだけど、それが人や動物を刺す武器に変化したらしい。
生物の器官さえも先の見通しがあってできるわけでなく、結構成り行き任せでできているんだよ。

子供の質問で「まつげは何のためにあるの?」というものがあったとして、それに対して学者先生が「目にゴミやほこりが入らないようにしたり、強い光を防ぐためにあります」などと答えているのを見かけたりするよね。

それも大間違い!

「まつげがあるから、目にゴミが入りにくかったり強い光を防いでいる」という言い方はできるかもしれないけど、それは子供の質問の答えにはなっていないよね。

そもそも、子供の「何のために?」という質問自体がナンセンスだったんだよ。
自然界に目的や理由はないことは、何度も言っているよね。

だから本当の科学者だったら、子供のその質問に対して「それには理由はないんだよ」と答えるべきだったんだ。

では、まつげがなかったら?
その答えは簡単。まつげがない状態のことが起こり得るだけ。

だってまつげがない動物はたくさんいるよね。
その動物たちがみんな目にゴミが入ったり強い光が入るから困っているなんて話聞いたことない。
たまたまの出来事なんだ。

「人間の皮膚細胞は、日差しが強ければメラニン色素を作ってそれに対抗する」

これってどう思う?

これも「防御戦略」的な考え方だよね。
誰が言い出したか知らないけど、本当に学者先生たちは、「防御戦略」って考え方が大好きみたいなんだ。

太陽光が当たった時に反応する物質が、たまたまそこにあって、それがうまく環境に適応してその遺伝子を持つ種が繁栄しただけだよね。


対抗と言えば、人間の身体の中では、外界から入り込んだ異物に対抗する
「抗体」という物質が作られると言われているけど、抗体の作られ方をよく
観察すると、これだって場当たり的であったりするんだ。

「サボテンは、雨の少ない地方で、極力、水分の蒸発を抑えるために葉っぱを棘状(とげじょう)にすることでその問題を解決した」

この解釈もすごいよね!

葉っぱが棘状だったものが、雨の少ない地方で生き残る確率が高かったから、それでたまたまそのDNAを引き継いだ種が繁栄しているだけだよ。

葉っぱが棘状であるってことが、他のことと比べてそんなに不思議なんだろうか?
僕たちは普通の葉っぱを見慣れているからといって、棘状の葉っぱに驚いたり関心したりし過ぎているだけじゃないのかなあ!?
そんなことで一々驚いていては、この自然界では気絶しちゃうよ。

「ミツバチの独特の腰のくびれは、毒針をつけている腹を上手に操る技術が要求されたためである」
これはまるで、「人間の笑いじわは上手に笑う技術が要求されたためにできた」と言っているようなものだよね。

笑いじわができるような柔軟な皮膚だからうまく笑える、つまりたまたま表情を作ることができている、というだけなんだよ。


ハチの六角柱(ろっかくちゅう)の巣だけど、あれはハニーカム構造といって、「最小限の材料を用いて最大の空間を保持できる」という特色を持っていることから、ラジエーター、スキーの板、建造物、航空機の翼、新幹線、宇宙ロケットと応用されてるらしい。

そこで科学者は、「このような安定性に優れた立体構造を作り出せるハチの知恵は大したものだ」と口にする。

でも、ハチは「最小限の材料を用いて最大の空間を保持」しようという目的があって、そして何とか知恵を巡らしてあの形を編み出したわけじゃないんだよね。
これも「意思的解釈」の最たるものだ。


生物に、余計な感情や期待を織り込んだり、自然界の現象に、意思や願いのようなものを想定するのは、人間中心の解釈なんだ。

人間中心の解釈は今までは良かったかもしれないけど、なぜ僕がこんなにもその間違いを強調するかと言うと、その人間の傲慢さがある限り世界を平和にできないからなんだ。

世界を平和にする考え方は、つまり世界中の人が幸福に生きるための考え方はという意味だけど、それは、人類は理性という障害を持ってしまった地上で一番弱い生物だ、と考えることができる謙虚さなんだ。

もう一つは、ちょっと受け入れがたいかもしれないけど、僕たちは自然界の法則やこの脳を取り巻く環境に動かされていただけで、今まで言われていたような意味での自分の意思なんかで動いていたのではなかったという謙虚さなんだ。

人間中心に自然界を見ている以上、この謙虚さがなかなか持てないんだよ。
本当は科学者こそ、謙虚にならなければいけないのにね。


でも、この謙虚な気持ちで自然界を見ることが本当の科学の視点だし、その目で自然界から学ぶ気持ちを持てば、科学が僕たちに素晴らしい贈り物をしてくれていたことに気づくんだよ。
(つづく)

次週のタイトルは「現代科学の限界」です。


■編集後記
「この偉大にして驚嘆に値する宇宙が、単に盲目的な偶然の結果として生じたものとは、私にはとうてい考えることができない」

これは、徹底した唯物論者であり、生物の進化(⇒変化)を機械論的に捉えてしまったと批判されてしまうことがある偉大なる科学者ダーウィンさんが、つい弱気になって(かどうかはわかりないけど)漏らしてしまった一言なんだ。

神を殺した男、とまで言われた人だけど、やっぱりどこかで、この偉大にして驚嘆に値する宇宙を創造した、意思を持った神のような存在を想定せざるを得ない、と考えてしまうこともあったんだね。

そのように揺れ動く気持ちは、キリスト教的思想が広く行き渡っていた当時にあっては当然のことと察する。

だけど、君はこのダーウィンさんの言葉、どう思うかい?

この言葉には、根本的な間違いがあるんだ。

それは、はなから「偉大にして驚嘆に値するこの宇宙が、、、、」と言ってしまっているところなんだ。
この宇宙を「偉大にして驚嘆に値する」と感じているのは、単に人間の想像力と感情に過ぎないんだ。
つまり、これも人間中心の見方ということ。

科学がそれをやってはいけないんだ。

それをやっている以上、この自然界の本質は見えてこない。

宇宙は偉大でも驚嘆に値するわけでもなく、ただそこに今ある状態で存在しているだけなんだよ。
それが本当の科学者の視点なんだ。

それを「単に盲目的な偶然の結果として生じたものとは、私にはとうてい考えることができない」なんて科学者ダーウィンさんは言ってるけど、「単に盲目的な偶然の結果として生じたと考え」ても、僕はちっとも困らないんだけどね。

むしろ、「単に盲目的な偶然の結果として生じた」と考えた方が、この先の未来に、ずっと素晴らしい世界が待っているというのに。
みんなにも早く気づいてほしいな。(;-_-)



【💐世界を平和にしない愛💐】NO.20 ネガティブ・シンキングのすすめ

★★★ ネガティブ・シンキングのすすめ ★★★

人間は他の動物と同じで、意外なことに、ほとんど全ての行動を本能に支配されていたようです。
理性ですら、ほとんどの場合、その本能に支配された行動を理由づけするために使われていたんですね。

そして、自分も同じ本能によって支配されていたという事実を受け入れることができましたか?

子供の頃、アメリカの人が書いた自己啓発本の中に次のような文章を見つけました。
「二人の人間が同じ部屋から窓を開けて外を見た。その時、一人は暗い地面を見て、一人は明るい空を見た。同じ景色なのに二通りの世界がある。どうせなら空を見ようではないか!」

これは感動でした。考え方一つで、人生は明るくも暗くもなるのです。

* * * * * * * * * * * *

ポジティブ・シンキングが注目されだした頃の、はしりだと思います。
今でもさかんに、ポジティブ・シンキングはもてはやされています。

例えば、同じワインの残量を見て、あなたは「もう半分しかない」と考えますか? それとも「まだ半分ある」と考えますか?
仕事の時間は、「まだ半分もある」と考えますか? 「もう半分過ぎた」と考えますか? あるいはもっと積極的に「後半分しかない」ですか?
考え方一つで気持ちは明るくも暗くもなります。

まるで、魔法にかかったみたいです。

そのとおり!!
言葉とはあなたの脳によって作られるものですが、それはまたあなたの脳に作用する魔法でもあったわけです。

「愛」という言葉‥‥それも魔法の呪文だったですよね。
魔法から冷めた時、そこにあるのは利己的な愛ばかりです。
いくら理性によって理由づけしても、そこにあるのは見返りを求める自己愛だけです。何故なら、それが動物(人間という名で呼ばれてはいても)の本能だからです。

「愛は自分を捨てて他人に尽くすことです」
そう言われると安心できます。嬉しくなります。心が透き通りそうです。自分の命が誰かの役に立ってくれるようで、生き甲斐を感じます。

いきがい? ほらねっ、やっぱり自分を救う魔法だったのです。
でも、この利己的な魔法は、気づかずに自分を、そして他人を深く傷つけるものでした。

さて、ポジティブ・シンキングという言葉の魔法も、本当にいいことばかりだったのでしょうか?

レーガン元大統領の実の娘さんによる告白本のことを覚えていますか?
それによると、レーガンという人は、何か厳しい状況に遭遇してもいつも前向きな明るい物の考え方をした人のようです。

何事も悲観的に考えていては、多くの人を率いていく大統領になんかとてもなれませんから、ある意味では必要な要素ですが、それによって人がついてくるのは、彼の考え方が「ごまかし」であるとか「正当化」であると疑われていない時だけです。

しかし、実の娘には、彼の態度は真実を直視しようとしない人のように映っていたようです。
彼のウィンクする姿さえ、「あんまり深刻に考えすぎるんじゃないよ。問題は何もないんだから」と、うやむやにごまかしているようで、気に食わなかったようです。

そして、娘が悩みごとなどを相談しても真剣に受け止めてくれず、「そんな考え方をしてはいけないよ」という感じで否定されてしまうのです。そのせいで娘さんは、一時期大変荒れてしまいました。


巷(ちまた)では「明るい物の考え方をしよう」などというスローガンが流行っていますが、その考え方は実はごまかしや自己正当化であって、他人に悪い影響を与える場合もあることを覚えておいた方がいいと思い、ここに紹介しました。

もちろん、他人に悪い影響を与えるということは、自分にも何らかの形で返ってきます。レーガン元大統領の親子関係の例が示すように‥‥。


さて、このポジティブ・シンキングを自分に当てはめる場合はどうでしょう。次のような文章もよく見かけます。
「今の自分を誉めてあげましょう。あなたは今のままで十分輝いています!」
これも一つのポジティブ・シンキングです。

例えば自分の大きい口が嫌いと思っている人‥‥私の笑顔が周りの人を幸せな気分にしてあげれるように、神様が大きな口にしてくれたんだわ。

例えば太っている自分が嫌と言う人‥‥私は周りの人に不思議な安心感を与えてあげるみたい。

おとなしくって無口な自分が嫌いと言う人‥‥きっと堅実な人生を歩むようにって、神様が私をあんまり目立たなく作ってくれたのね。

ポジティブ・シンキングは、脳の活動を活発にし、隠れた能力を引き出してくれて、自分が成長しているという嬉しい錯覚を連れてきてくれます。

実際に、不可能なことも可能にする信じがたい魔力を持っています。だけど、ポジティブ・シンキングはある種のごまかしであることは確かです。

だから、やりすぎは強烈な自己愛に火をつけてしまい、世界を平和にできません。
そして、自分を知ることから遠ざけてしまいます。

僕はあなたにお願いしたいことがあります。
一つだけネガティブ・シンキングをして欲しいのです。
自分の顔がキラい、自分の体型がキラい、自分の性格がキラいというレベルなんかじゃなく、人間としての自分を心の底から嫌いになって欲しいのです。

ああ、人間って何て嫌な生き物だったんだと、心底、人間である自分を憎悪する経験をして欲しいのです。

それは少しも難しいことではありません。

あなたの周りを見回してみて、腹の立つ人間を挙げてください。
腹が立つ事件を起こした人間、腹が立つ言動をする人間‥‥、誰だってたくさん思いつくはずです。
そして次に、「本能分類表」と照らし合わせて、それらが本能に支配された行動だということを確認してください。

最後に、自分は彼らと全く同じ本能を持っていて、いつでも同じことをする可能性を秘めている人間だったと気づいてください。
あるいは、自分では全く気づかずに、他の人に腹が立つ人間だと思われていたかもしれないことに気づいてください。

あなたが腹が立つ人と、あなたは同じだっだということは、あなたは自分にも、もっと腹を立てていいはずです。違いますか?

そうすれば、簡単に自分が嫌いになれませんか? 嫌いになれたなら、喜んでください。
あなたは、今よりもっと幸せになれる可能性と、世界を平和にする可能性を秘めている人間です。

もし、それでも自分が嫌いになれないあなたは、もうすでに十分幸せな人か、それとも幸せにもなれず世界を平和にもできない人かの、どちらかです。

でも僕は、もうすでに十分幸せな人も、幸せになれない人も、世界を平和にできない人も、いないと信じています。
(つづく)

次週のタイトルは「自分を嫌いになった時」です。


★編集後記
ポジティブ・シンキングのやりすぎは強烈な自己愛に火をつけてしまい、世界を平和にできません‥‥と書きました。

なんのためにポジティブ・シンキングをするかというと、それは自分の、今、置かれている状況に不満があるからです。
不満がなければ、別にポジティブ・シンキングをする必要もないわけです。では、不満とはなんでしょうか?
それも自己愛が強いから起きることです。自分が可愛いからです。

そんな人が、最近、巷に溢れているポジティブ・シンキングを勧めている本などに出会うと、すぐに同調してしまいます。
自分を誉めてあげようなどと言われると、うひょうひょ誉めちぎります。そして、劣等感を優越感に変えて前向きに生きる魔法を手に入れます。

だけど、自分に不満を持つことも、自分に満足することも、どちらも強い自己愛から生まれた結果には違いありません。

自己愛のどこが悪いのかって?

悪くはありません。それが動物(人間という名で呼ばれてはいても)の本能です。それがなければ生きられません。
ただ、強すぎると世界を平和にできないことは確かです‥‥よね。強烈な愛国心が世界を平和にしないのと同じです。

それだけです。ただし世界が平和にならなければ、あなたも僕も決して本当の幸せを手にすることはできないことも確かです。




《🐢自分探しの旅 with マーキー🐢》NO.21 現代科学の限界


■ 現代科学の限界

初めに、ちょっとこれまでのおさらいをしておこうと思うんだ。
ビッグバンから始まったこの僕たちの宇宙のことを、ここではビッグバン宇宙と呼ぶことにするね。

まず、このビッグバン宇宙が作られた瞬間のことを、ビリヤードの玉が突かれた瞬間で考えたよね。(NO.6)

玉が突かれたその瞬間、その強さや回転や方向性が、その後の僕たちのビックバン宇宙の全ての性格(法則)を決定づけたということだったよね。

初めに存在したレプトン(電子やニュートリノなど)やクォークといった素粒子を、レゴというおもちゃの部品に置き換えて考えたね。(NO.8)

レゴの部品がいろいろくっついたりして風車を作ると、そこには風を受けて回転するという今までにない性質が生まれた。(NO.8)

レゴ


でも、それは法則が新たに作られたわけではなく、ビリヤードの最初の玉が突かれた瞬間に決定された方向性の中に、元々内包されていた法則性だったよね。

つまり、このビッグバン宇宙という自然界に存在する、物理・化学的法則そのものを変えてしまったわけではないということだったよね。(NO.8)

そのようにして、盛んに、長い年月をかけていろいろな性質を持ついろいろな物質が(今でも)作られている。

夜空にきらめくたくさんの星も、太陽も地球も、僕たちの体の中の全ての物質、脳も髪の毛も血液も細胞も遺伝子も、すべて素粒子という名のレゴの部品が組み立てられ、新たな性質を生み出しながらできてきたものだったね。

それだけじゃなくて、人間の脳が記憶をし、意識を持ち、思考をするのも、素粒子という名のレゴの部品がくっついて組み立てられていくうちに作り出された現象だということだった。

この世に生物が生まれた偶然性は、時計の部品を全部バラバラにして箱の中に入れ、気が遠くなるほど長い年月振り続けて時計を完成させるほどの偶然性に匹敵する、というようなことを言う科学者がいるけど、これは、間違えた考え方だったよね。(NO.9)

この世に生物が生まれたのは、箱の中のバラバラな時計の部品を振っているうちにくっついて時計が完成されるようなでたらめな偶然性では、断じてないということなんだ。

例えば、雄ネジが同じ口径の雌ネジに引きつけられ右回転するような規則正しい力を、僕たちの宇宙は元々有していたからだね。

それは、何度も言うけど、ビリヤードの最初の玉が突かれた瞬間に作り出されたある一定の方向性を持った力であり、今も途切れることなく連綿と続いている方向性を持った力だったよね。


さて、科学が僕たちに与えてくれた最大の功績は「全ての現象には原因がある」を証明してくれたことだった。(NO.4)

「全ての現象には原因がある」ということは、逆の言い方をすれば、その原因があったから、その結果がもたらされたとも言える。
もっと言えば、結果が確定してしまった現在から見れば、その原因があったからには、確定してしまった結果以外のことは起こり得なかったということになるよね。

そして、ある物事の原因をたどれば一つ前の原因にたどり着き、その原因をたどればその前の原因にたどり着き‥‥、とどこまでも続ければ、やがてビリヤードの玉が突かれた瞬間に全てが集束するということだったね。

つまりこの宇宙の万物は、君も僕も含めて、結果から見れば、ビッグバン以来、それ以外には起こり得ないほどの必然性でこれまでずっとやってきたことになる。
まるでそれ以外の筋書きはあり得ないほどの必然性で‥‥。

しかし、それを運命論と呼ぶのは間違えている。僕たちの前に敷かれたレールがあると考えることは馬鹿げているということだったよね。(NO.7)

何故なら、天体の動きや天候のようなマクロの世界はある程度予測がついても、素粒子のようなミクロの世界や僕たちの日常のようなものはあまりにも複雑に原因が絡まり合っていて、とてもじゃないけど神様にも人間にも決定することも予測することもできない。
そのことを、僕たちは偶然の出来事と呼んでいるわけだったからだね。(NO.7)



さてここから、今日のメルマガのタイトル「現代科学の限界」の話に入ろうと思う。


さて、現代科学が素粒子というミクロの世界を扱うようになると、どうもマクロの世界の法則では説明できない現象が次々と現れてきたんだ。
つまり、今まで見てきた原因と結果の関係が揺らぎ始めてしまったということなんだよ。

例えば、素粒子の動きは確定できないと言われているんだったね。
科学者は、面倒なので、そのことに「不確定性原理」と名前をつけて終わりにしている。

「不確定性原理」とは、簡単に説明すれば次のようなものだよ。

お風呂の温度を温度計で測るのは簡単だけど、一滴の水の温度を温度計で正確に測ることはできないよね。
温度計そのものの温度が水の温度に影響して、観測前の状態を知ることはできないからなんだ。

また、物体の運動の状態を言うには、ある時刻にどこにいてどのくらいの速さで移動しているか、ということを指摘しなければならないわけだけど、新幹線のような大きな物体などは、その状態を計測できるので、ダイヤが乱れることがなくてすむよね。

でも、素粒子のように小さいものの運動の状態は、計測するための電磁波を当てると、その時点で観測前の状態と変化してしまい正確に測定することができない。

僕は、科学が僕たちに与えてくれた最大の功績は「全ての現象には原因がある」を実証して見せてくれたことだと言ったけど、ここにきてその確信が揺らぎ始めているということなんだよ。

科学者たちは、「も、も、物事には原因があってぇ、結果があるわけなんだけどぉ、ミ、ミ、ミクロの世界だけはぁ、そういう因果関係には支配されてなくてぇ、あくまでもあいまいでぇ、どうも確率的としか言えないんだよなあ」などと別格扱いをして解決したつもりでいるんだ。

プランク定数などという難しい計算式を持ち出してきて、不確実さを確実に証明して威張っている。

ついに科学は限界に到達してしまったんだろうか?
これこそ科学の限界なのだろうか?


でもちょっと待って!

マクロの世界だって全て正確に観測できるとは限らないよね!!

例えば野生動物の観察をするとする。

人間が野生動物を観察するということは、観察という行為そのものが野生動物に影響を与え、野生動物を取り囲む環境の一部になってしまい、本当は正確な観察をすることなんて決してできないはずなんだ。

さあ、今、一滴の水、素粒子、動物、と例を挙げて見てきたけど、なにか共通点を発見しないかい?
この三点に共通したものは、それは、不確定にしていた張本人は、僕たち観測者だったということなんだ!!

実は、不確定にしていたものは、宇宙の全ての現象の法則を紐解いて、そして未来を予測したいという人間の欲望だったんだ。

それがなければ、一滴の水はある瞬間一定の温度でそこに存在し、素粒子もある瞬間はある状態で一定の位置に存在し、動物も今まで通りの環境の中で生きていられたんだ。

量子論に限らず、将来のことは大抵、確率的にしか言えないのは、当たり前のことなんだよね。新幹線だって、たまには脱線するしね。




さて、今日の話のタイトル『現代科学の限界』に戻るけど、僕たち人間には粒子の位置と運動量を同時に測定することはできない(=不確定性原理)などという科学の限界は、大した限界ではないんだ。

それは、人間という観測者が横から入り込んでしまったことが原因だったことがわかったしね。

今日、話さなくちゃならなかったものは、そんなものなんかじゃない!


科学者は、これからも、ある反応が「どのような働きで起きるのか」とか、「どのような原因で起きたのか」ということは、限りなく解明していくと思うよ。

でも、根本的な理由や目的、つまり「何のために」には、絶対に答えを出すことはできない!

これこそが、僕たちが知らなければならない現代科学の限界なんだ!



ビリヤードの最初の玉は、誰がどのようにして突いたのかは、人類はいずれ解明するにしても、でも、その玉が「何のために」突かれたのかは絶対に誰にもわからないということだよ。

なぜなら自然界には目的や理由などない、と初めに言ったよね。
どうしてかと言うと、「目的や理由」というものは人間だけが必要とするものなんだ。そして、元々、自然界というのは人間が作ったわけではないからなんだ。

言い換えると、自然界には目的や理由などない、という結論を導く方向性を持って歩んできたのが現代科学だったんだ。そしてここへ来て、ついにその限界を知ってしまったということなんだよ。と言うか、いい加減に科学者もそのことに気づく時に来たと言いたいんだ。

僕たちは、この宇宙の成り立ちのすべてを理解しようとして科学をやってきたはずなのに、一番知りたいことを目前にして敗北を突き付けられたような感じだよね。

だけど、むしろその限界を突きつけられた科学だからこそ、世界を平和にできる「ものの考え方」「ものの見方」をすることができるものでもあったんだよ。

自然界に目的や理由があるという考え方をするものは、むしろ宗教やスピリチュアルなどの得意分野だよね。

どれも、自然界を解釈するための一つの方法論(=偏見)だと僕は初めに言ったよね。君は、どれが世界を平和にすると考えるかい?



* * * * * * * * * * * * * * * * * *

科学は、宗教と同じ一つの偏見だと、僕は何度も言っているよね。
その偏見は、今では、僕たちの心を幸福にしてくれた宗教の嘘を暴いてしまっているんだ。

科学という偏見は、物騒な殺りく兵器をたくさん作りもした。

もう僕たちの時代は、心の平安とも世界の平安とも無縁な時代なんだろうか?

違います!!
絶対に違います!!

僕はこの科学という謙虚な学問の中に、世界を平和にしてくれる「ものの考え方」「ものの見方」をたくさんたくさん見つけたんだ。
科学は、僕の心を、自然界という名の安心できる大きな船に乗せてくれたんだ。

でも、やっぱり科学は世界を平和にするための、一つの偏見だということを忘れてはいけないよ。
そうしないと、傲慢な人間のことだから、宗教の間違いを繰り返してしまうことになりかねないからね。

宗教の間違いとは、自分たちの教義(=偏見)こそ、一番正しいと錯覚することだったんだ。
だから、無用な宗教の対立を引き起こしてしまったよね。

同じ間違いを繰り返さないように、「科学とは、自然を解釈するための一つの偏見であり、科学には決して知り得ないことがある」ということを、僕たちの心にしっかりと刻み、永遠に留(とど)めておかなければいけない。
科学は、一つの偏見に過ぎないのだと。

だけど、それは「世界を平和にするための偏見」なんだ、ということを‥‥ね。
(つづく)

次週のタイトルは「科学者こそ知ってほしいこと」です。


■編集後記
次週のタイトルは「科学者こそ知ってほしいこと」なんだけど、それに関連して、君にちょっと質問したいことがあるんだ。
というか、考えてほしいんだけど、君は、「人間には全く自由意思などはなかった」と知ったら、その事実を受け入れることができますか?

君には(今まで言われていた意味での自分の)「意思」なんて最初からなくて、そして(今まで言われていた意味での自分の)「意思」なんかで行動をしていたわけではなくて、自然界の方向性を持った力が作っているこの環境に浮かび上がらされた「意思」で行動を取らされていた人形だった、という事実を受け入れることができますか?


僕が今、難しいことをいろいろ思考しながら、パソコンに一文字一文字入力していることも、君が今、何の因果かこの小難しい文章を読まされていることも、みんなみんな素粒子がくっついたり離れたりして作り出している自然界の法則が作り出している劇中で起こっていることだったんだ。

つまり、人間とは、素粒子に作られている役者たちが、この宇宙という劇場の中で、自然界の法則というシナリオに基づいて演じさせられている一時的な配役だったということなんだ。

観測者である人間すらも、観測という行為そのものも、その劇の一部だったわけだね。現代科学が到達したのはそのことだったんだよ。

もう一度、君に聞くよ。
君は、自分がこの環境に行動させられている人形だったという事実を直視し、受け入れることができますか?
いいえ、これこそ愚問だったよね。

この宇宙という大劇場のシナリオは、僕が思うに、いずれ人類がその事実を受け入れるように書き進められているんだ。

もちろん、この質問が今僕から発せられたのも、そのシナリオに書かれていたからなんだしね。



【💐世界を平和にしない愛💐】NO.21 自分を嫌いになったとき

★★★ 自分を嫌いになったとき ★★★

素直に自己否定ができたら、今度はそんなありのままの自分を受け入れてみましょう。

大丈夫。人間は結構図太くできているみたいです。

自己否定を受け入れてしまっては、たまったもんではありません。人間は、結局は自分を肯定しなければ生きていけません。


そこで、今度は理性の奴が解決策に乗り出します。
理性が考える解決策は「悪いのは自分ばかりじゃなく、みんな同じなんだ」ということです。
「赤信号、渡っているのは皆一緒」って感じです。人間は自分は可愛いものです。
だから、自分を可愛いと許すためには、他の人たちも許さなければならなくなります。


追い込まれて一生をかけても償えないような罪を犯してしまった人、戦争という環境の中で人を殺してしまった人、人を殺すように指示を出さざるを得なかった人‥‥そういった人たちを許すことができますか?

もっと最悪の事態を想定してみましょう。

自分の愛する人を何かの事件に巻き込まれて殺されてしまった人は、きっとその殺した人を憎むでしょう。
でも、自分を許すようにその人を許せますか?

もし、自分を許すように、その人を許せそうもないというなら、もう一度「本能分類表」に戻って、初めからやってみてください。
何度でも、自分の心との対話を通して体験をしてください。

理屈ではわかるけど、実際その場に立たされたら、そんなに寛容でいられるかどうかわからない、ですって!?

いいえ、このメルマガは、理屈をこきたくて書いているのではありませんよ。体験していただきたいのです。

何の体験かって!?
それこそ、このメルマガの到達点です。

例えば、世界中のどこでもいいですが、あなたが見た風景でもっとも感動した場所を思い出してください。

その場所であなたは壮麗な建物に触れましたか?
土に触れましたか? 湖に、あるいは森に触れましたか? 遠くから眺めていただけかもしれません。
でも、心が揺さぶられたほどのその体験を、あなたは決して単なる理屈だとは言わないはずです。

このメルマガと、もう一つのメルマガ「自分探し‥‥」を読んできてくださった方にプレゼントを差し上げます。
それは、頂上に立った時(読み終えた時)に見る風景です。
その時、あなたが立っている場所はいつもの現実ですが、でもそこに広がっている風景は全く違ったものなんです。
それは理屈なんかではなく、あなたが身をもって体験することです。

頂上は後一歩です。頑張って!!

でも、ちょっと乗り越えなければならない難関が待ち受けています。そのために今日は短く終わらせました。
しっかり休養して、難関を乗り越えるための体力を充電しておいてください。(つづく)

次週のタイトルは「僕の書く理由」です。


★編集後記
追い込まれて一生をかけても償えないような罪を犯してしまった人、戦争という環境の中で人を殺してしまった人、人を殺すように指示を出さざるを得なかった人‥‥その人たちを許すことができますか?

お昼のワイドショーなんかを見てみてください。
そういう罪を犯した人たちをとても批判的に取り上げています。
そういう人たちを批判することで、世の中から「悪」がなくなると、信じているかのようです。

あるいは悪をなくしたいという切実な願いから、そういう人たちを批判します。だけど、僕は今日、全く逆のことを言いました。
そういう人たちを批判しないで、許せる人間になりましょう‥‥と。

許してしまったら、ますます「悪」がはびこるじゃないか! なんて心配しないでください。その反対です!!

許すということは、心を開かせることになります。傷口は開かなければ手術はできません。
僕たちはみんな傷口を閉じあって頑(かたく)なに他人を罵倒(ばとう)し合うのではなく、傷口を見せ合って癒しあう気持ちが大切です。

それに、もし、あなたが彼らを許すことができたら、少なくともこの世界から悪の可能性が一つ減ったことになります。
何故なら、あなただけは、自分の悪の可能性の一つに気づいたからです。

そうやって自分の中の悪の可能性に一人一人が気づいていけば、他人を批判することで悪をなくそうとするのではなく、自分の中のコントロールできない「悪」を他人に手伝ってもらってコントロールしようとします。そして、コントロールできるように手伝ってあげようとします。

みんなみんな、この自然界においては、理性という唯一の反逆児を抱えて生きている障害者同士です。
そのおかげで、他の動物にとってはなんでもない本能と、闘わなければならなくなってしまったのです。他人の気持ちを思いやる優しさという弱さを持ってしまいました。

弱くて、助け合わなければとても生きていけない‥‥という気持ちになります。大人も子供も、偉いと思われている人もそうでないと思われている人も、みんなみんな仲良く手を取り助け合うようになった時、その時初めて世界は平和への第一歩を踏み出すはずです。
それは百年先の話なんかじゃありません!

だから、大切なのは外に目を向けて批判するのではなく、自分のせいだと批判することです。他人の振り見て我が振り直せ、ということわざがありますが、本当は他人は自分が、自分は他人が作っているものだったのです。

この意味は、次週に書きます。

最後にもう一度‥‥。
悪いことをした人を憎むのではなく、許すことです。
許して、悪いことをしないですむように助けてあげることが大切です。

だけど、それは僕たちにとってまだ通過点に過ぎません。実は、他人を助けることこそ自分を助けることだった‥‥と、後でわかってきます。




《🐢自分探しの旅 with マーキー🐢》NO.22 科学者こそ知ってほしいこと

■ 科学者こそ知ってほしいこと

前回、「不確定性原理」の説明で、ミクロの世界だけが不確定なのではなくてマクロの世界だって不確定だったんだよ、という話をしたよね。

例えば、「野生動物の観察を人間がした場合、人間が野生動物を取り囲む環境の一部になってしまい、本当は正確な観察をすることなんて決してできないはずだ」と言ったね。


だけど観察や観測という行為は本当に自然界の外側の行為なのだろうか?


人間はあたかも神であるかのように、この自然界の現象を観察する自分を、自然界の外側に置いている。
もちろん外側から眺めなければ観察という行為はできないし、その行為のことを観察と呼んでいるのだからそこまでは間違いない。

だけど、前回、これまでのことを振り返って考えてみた時に「人間の脳が記憶をし、意識を持ち、思考をするのも、素粒子という名のレゴの部品が長い年月をかけて組み立てられていく過程で作り出された現象だった」という結論に達したよね。

今まで僕たちは、自分の行動は、「誰の考えでも判断でもなく、自分自身の考えと判断に基づいて行っていた」と、誰もが信じていたはず。

でも、科学的な意味で言うなら、脳を取り巻く環境や、その環境によって脳内に記憶させられていたものなどに、僕たちは思考させられ判断させられ行動を取らされていたということになるんだ。

「自分」という意識ですら、環境に作られている不確かなもの(NO.15不確かな自分)だったとしたら、その脳に浮かび上がる「意思」は自分のものと言うよりも、環境に帰属するものと言ってもいいくらいだよね。

つまり、僕たちが今まで信じて疑わなかった「自分の意思」とは、環境がその個体の脳内に浮かび上がらせた「意思」のことで、「確かな自分はある」と信じていた僕たちの脳が、それを見て「自分の意思」だと勘違いしていたものだったということ。

だから僕は、その「意思」のことを、今まで僕たちが信じていた「意思」とは区別するために、「ミラード・ウィル(mirrored will)」と呼ぶことにしたんだ。

環境がその個体の脳内に浮かび上がらせた「意思」を、同じ脳内の脳が眺めている状態というのは、脳がまるで「鏡に映し出されている意思」を眺めているような感じなので、そう呼ぶことにしたんだよ。

ここで何が言いたいのかというと、実は科学者が自然界を観察や観測する行為すらも、環境に浮かび上がらされた意思、つまり「ミラード・ウィル(mirrored will)」に促されて行動させられていた、ということなんだ。

最近、何人かの科学者が、「自由意思」というのは幻想だったという事実に気づき始めてはいるようで、そのようなことが書かれた本もいくつか出されている。
でも残念なことに、その科学者の誰一人として、その事実が何を意味していて、それがどんなに平和に貢献する発見なのかまでは深く考えてはいないんだな。

世界平和どころか、むしろ人々の混乱や恐怖を煽ることで、自分の本が売れればいい、としか考えていないかのよう見えるんだよ。

あるいは、その事実を知ってしまった科学者でも、知らなかったことにしてしまったり、いたずらに嘆いてみたり、その事実を覆(くつがえ)すような事象を探すことに奔走したりしてばかりいるんだ。

嘆かわしい現実だね。

本当は、科学者こそ、「僕たちは、今まで言われていたような意味での"自分の意思"で行動していたわけではなく、"環境が脳内に浮かび上がらせていた意思"、いわゆる「ミラード・ウィル(mirrored will)」に行動を取らされている存在だった」という事実を世界に公表して、はやく世界を平和にしてもらいたいのにさ‥‥。(;-_-)
(つづく)

次週のタイトルは「人類最大の言い訳」です。




■編集後記
ある脳科学者が、ツイッターで次のように呟いていたのを見たことがあるんだよ。

「夜行列車に揺られ、何の気なしに窓から外の景色を眺め、その窓に映る自分の顔を見ていた時、ふと、自由意思なんてないのかしら、と思った」

夜行列車がついロマンチックな気持ちを引き寄せてしまったのか、そんな空想をする自分に酔っているのか、単なるつぶやきだけで終わっていて、特にそれに対する科学的な言及はなかった。

おい、おい、僕なんかよりももっと脳のことを勉強している脳の専門家が、「ひょっとしたら自由意思なんてないのかもしれないと思った」はないだろう、というのが僕のそれを読んだ時の絶望的な気持ちだったんだよ。

「自由意思なんてない」ということを、本当に知らないのなら、科学者こそ早く知ってほしいよ。

そして、もっと絶望的なことに、脳科学者という人たちは認知症予防のための「脳トレ本」などの本を書いたり、テレビでそのような一般受けするような話をしたり、大学などで先人の教授から引き継いだ研究結果を伝えるだけの講義をしたりして給料をもらうだけで満足しているのか、世界平和よりも自分の名声や利益のことにばかりに目が向いているようなんだ。

「自由意思というのは幻想だった」という事は、今日まで見てきたように宇宙のでき方を調べて、その中で人間がどのようにして生まれてきて、どのようにして言葉を持つようになったのかを順序良く調べて、それによってどのように環境を変化させてきたのかということを整理して論理的に考えれば、小学生でもわかる程度の当たり前の話なんだよ。

科学者という人たちは頭が良い人たちだし、論理的な考え方に慣れている人たちのはずだから、彼らがちょっと真剣に考えればすぐにこの結論にたどり着くはずなんだ。

彼らの多くは、現代の社会ではある程度の称賛を勝ち取ることに成功し、それなりに恩恵も受けている人たちだから、「自由意思というのは幻想だった」などと公表されてしまうと、それらを全部ふいにしてしまうことになりかねないよね。だからまだ世間に行き渡らない間は、知らなかったふりをしてその恩恵に与(あずか)っておこうという気持ちになるのは当然かもしれないよ。

だけど、その時に一時的に失うものよりも、その後に得られるものが人類にとって、ひいては自分にとってどんなに大きなことか‥‥、ということに思いを馳せて、勇気を出して公表してほしいんだ。

これは僕からの心からのお願い、と言うかもはや遺言です。

でも本当は僕はもうとっくに生きていないので、遺言というのもおかしいんだけどね。



【💐世界を平和にしない愛💐】NO.22 僕の書く理由


★★★ 僕の書く理由 ★★★

今日は、先週書いた「乗り越えなければならない最後の難関」です。

滑落(かつらく)しないように、しっかり三点支持(さんてんしじ)で登攀(とうはん)を!

基本は、ザイルに頼らずに自分の手足でよじ登ることです。これを越えてしまえば、もう一気に見晴らしのいい頂上です。

* * * * * * * * * * * *

まず初めに、あなたに質問します。
あなたの生まれてきた理由はなんですか?

僕は、誰かに自分が生まれてきた理由を聞かれても、答えることができません。もちろん、無理やりこじつければいくつか見つかりそうですが、それは、後で理由づけした答えでしかありません。
あなただって、自分の生まれてきた理由を答えられないと思います。


誰かを愛するため‥‥? 誰かの役に立つため‥‥?
もし、そのように明確に答えたとしても、実は後で理由づけしたものに過ぎないですよね。
あなたがその理由を選択して、生まれてきたわけではないからです。

宗教なら、あなたが生まれてきたことや、生まれた後にとるあなたの行動を、巧妙に、あなたが何らかの目的を背負って生まれてきたと説明するところでしょう。

例えば、「〇〇の神はあなたのご両親を引き合わせることで、あなたをこの地に遣(つか)わせました。〇〇の神の御意志を引き継ぐものとして、ご両親の愛をたっぷりと受けこの地にやってきたあなたには、他の人たちに神の愛を分けてあげる義務があるのです」などと、いくらでも考えつきそうです。

こんな考え方も、一見、自分に希望を与えてくれて世界を平和にしてくれそうです。
でも、そこにはたくさんの落とし穴があります。

その一つは、所詮、後から考えた理由づけですから、自分たちの都合でいくらでも理由づけの考案や変更が可能です。
いくら想像力のない僕にだって、今のようにいくつか考えられそうです。異なるいくつかの事象を都合よく符合(ふごう)させることなんて、人間には朝飯前です。

そして、考えついたものが正しいかどうかを審査するのも、やっぱり当の人間です。

そうすれば、どのような結果が待ち受けているでしょうか?
もちろん、その判定は「正しい」となるに決まっています。
なんか、いい加減な感じで信頼できないですよね。


ところが、科学はそう簡単にはいきません。

いくら理由づけしても、それが自然界の法則に適合していなければすぐに却下(きゃっか)されてしまいます。
審査員は自然界で、答えもただ一つです。

自然界に却下されない答えは、「僕たちは理由や目的があって生まれてきたのではなく、ビッグバンから続く不可逆的で普遍的な方向性を持つ力によって生まれさせられただけだ」という味気ない答えだけです。


同じような意味で、書かされているだけの僕には、今日のメルマガのタイトルである「自分が書く理由」を答えることができません!

確かに、この『人類の育てた果実』の『はじめに』で僕は、「これから『個人の幸福=世界平和』を旗印に掲げて、それを探す旅に出ましょう」みたいな威勢のいい声を上げましたが、それこそが僕の「後づけの意思(意志)」なのです。

今日まで一緒に学んできてくださったあなたなら、ちょっと考えていただければ当たり前だとすぐに理解していただけるはずです。

ある結果がもたらされたからには、必ず何らかの原因が存在する。これが科学的な真理である限り、人間の「意思」が生まれてくる過程だって絶対に例外ではないはずですよね。

つまり、「人間の意思」だけは、「科学的真理の因果の制約も、何ものからの影響も一切受けずに、自発的な決断に基づく思い」のようなもので生まれていた、とは考えにくいはずです。

「何ものからの影響も制約も受けない、自発的な決断に基づく思い」のようなものを「自由意思」と僕たちは呼んでいるわけですが、そんなものがあるはずはないことは今まで学んできたことで簡単に推察できます。

まず僕の脳は、日本という環境で育ったため、日本語で物事を認識したり理解したり記憶したりする枠組みが組まれていて、日本語の文法というベルトコンベアーに乗って単語や文章が組み立てられやすくなっています。
また、このベルトコンベアーは、環境によってこの脳内に作られた様々な記憶によっても方向付けされています。

ちなみに、僕の脳を取り巻く環境の中には、僕の性格や顔つきや体形や筋肉などを作っている「遺伝子の働き」も含まれます。

よく「人の性格は”氏”によって作られるのか、それとも”育ち”によって作られるのか」という議論がなされます。

”氏”とは遺伝のことであり、”育ち”とは環境のことです。
だけど、元々、遺伝というのはその人を作り上げている環境の一部に含めるべきだったのです。
この後、詳しく説明しますが、このような議論が成り立った理由は、この身体や脳はその個人の持ち物であるという誤った認識から生じていたのです。

でもこの身体もこの脳も、環境に作られていて、そして環境に合わせて常に変化しているものだったので、決して個人のものではありません

だとしたら、その人の性格を作っていたものが、”氏”であろうと、”育ち”であろうと、当然、どちらも環境に含まれることだったのです。

さて‥‥、僕の脳を取り巻く環境からの様々な刺激やら情報やらが入力されてきて、それに反応して、日本語が、僕の記憶などに方向づけられたベルトコンベアーで組み立てられ「世界平和のためにメルマガを執筆しよう」という思いが、この脳に浮かび上がりました。

この「浮かび上がらされた意思」のことを、今まで僕たちが「意思」と呼んでいた自発的なイメージのものと区別するために、マーキー君は、ミラード・ウィル(mirrored will)と名付けていましたね。

その、環境に浮かび上がらされた「意思」を見た僕の脳内の第二の脳が、自分の意思で思いついたと勘違いしているだけなのです。
(《自分探しの旅‥‥》NO.17意識・思考)

その証拠に、ドイツ語を全く記憶していない僕の脳には、ドイツ語で「世界平和のためにメルマガを執筆しよう」という思いは決して脳内に浮かび上がったりしませんよね。

また、あなたがもし東大に合格したり野球の選手とか政治家とか医者とかになったと想像してみてください。
もし、東京大学という大学も野球というスポーツも政治家も医者もあなたの環境に、元々存在していなかったなら、やろうとすら思わなかったはずです。

そして東大合格も野球選手も政治家も医者も、あなたの脳に魅力的に映る何らかの刺激が与えられなければ、どれもやろうとさえ思わなかったはずです。そう、この僕のようにね‥‥。

だとしたら、それをやろうと思うに至る原因は、自発的なものではなくて、自分の脳を取り巻く環境にあったはずですよね。
それなのに、今まで我々は「自分の意思でやろうと決断して、まさに実現させたんです」と胸を張ったり、実現させた人たちを褒め称えたりしていたということなんです。

その逆に、オリンピックでメダルを取った人が「自分の力ではなくて、みんなの力に背中を押されて頑張ってきただけのような不思議な気持ちです」などと答えているのを聞いたことがありますが、まさにそれが正しい認識だったのです。

何年か前の話ですが、インターネット上の「自由意思などは存在しない」という投稿を見て、過剰に反応したある人の言葉を見ました。そこには次のように書いてありました。
「自由意思は絶対に存在する。なんなら、これからお前のことを、俺の自由意思で殴りに行ってやろうかっ!」

僕はこれを見て笑ってしまったのですが、彼の脳内にとっさに浮かんだ「お前を殴りに行ってやる」という意思は、「何ものからの影響も制約も受けない、自発的な決断に基づく思い」と言えるでしょうか?

彼の脳が、その直前の日本語に刺激を受けなければ、そのような怒りすらも、「殴りに行ってやる」という言葉も、彼の脳内に浮かばなかったはずです。つまり、「何ものからの影響も制約も受けない、自発的な決断に基づく思い」などは、この世界のどこを探しても、どこにも生まれようがないということです。



アメリカの心理学者マイケル・ガザニガという人が面白い実験をしています。

てんかんの手術のために、右脳と左脳をつなぐ脳梁を切断された分離脳患者に対して、マイケル・ガザニガ氏は次のような実験を行いました。

まず、右脳にだけ「前に歩いて下さい」と命令します。
どのようにしたかというと、右脳につながっているのは左の耳なので左耳だけに聞こえる小さい声で「前に歩いて下さい」と囁(ささや)いたわけです。それを聞いて彼は立って歩き出します。

今度は、歩いているその患者に、左の耳に聞こえないように右の耳に小さい声で「あなたは何で今歩いているのですか?」と質問します。その時彼は一体何と答えたでしょうか? 

「何ですって? 今あなたが歩けと仰ったから歩いているんじゃないですか!?」と答えたでしょうか? 

いいえ、左脳はそのことを知らなかったから、本当は自分が何で歩いているのかわからないはずなのです。
ところが驚くことに彼は、平然と、「のどが渇いたのでジュースを買おうと思ったのです」と答えたそうです。

歩いている先に自動販売機が置いてありました。
彼の脳はとっさに自分の行動につじつま合わせをしたのです。


ガザニガ氏が右脳に囁いた言葉こそ、まさに環境が僕たちの脳に囁いた言葉です。そして、それに対して瞬時につじつま合わせとして考えた理由づけが、僕たちが常に公言している「自分がそれを志した理由」だったということです。

しかしこのような実験などするまでもなく、今日まで見てきたように論理的に考えれば、人間の脳は常に後付けのつじつま合わせをするだけのものでしかないことはわかると思います。

残念ながら、人間の「意思」とはそのような受動的な経過から生まれてくるだけであって、僕には、後から理由づけをしない限り「書く理由」なんて本当は答えられなかったということです。と言うより、「僕」などというカッチリとした存在のものは実は僕たちの神経系の作り上げている幻影であって、宇宙のどこを探しても不在なのです。

ところで今の実験で、見落としてはいけない点があります。
この実験をした科学者に「なんでそのような実験をしたのですか?」と聞いたら、「人間には自由意思があるかどうか知りたくなり、分離脳の人で実験をしてみよう、と思い付いたのです」と答えたとしたら、それこそ「つじつま合わせ」ですよね!(^-^ )

でも、客観性をモットーとする科学者でも、自分のことに関しては客観性に欠けるように見受けられます。
その理由は、観察者としての自分は、この自然界を神のように外側から眺めている存在ででもあるかのように感じてしまっているからではないかと思うのです。

だから観察や観測という行為に関しては、科学的因果の制約を免れているとでも勘違いしてしまうのかもしれません。

科学的に解釈すれば、その科学者の脳を取り巻く環境が、彼の脳内に「分離脳患者で実験をして見よう」という思いを浮かび上がらせてしまったので、それによって彼は実験という行為を行わさせられた‥‥ということです。

まさかこんな実験をした張本人の彼が、自分の「つじつま合わせ」に気づいていないなんてことはないんでしょうけどね!?(( ´∀` ))




ところで、先ほど、「僕」などというカッチリとした存在のものは、宇宙のどこを探しても不在です‥‥と言いましたが、この身体だって明らかに一時的なものですよね。

そもそも、脳と心臓以外の全ての細胞は、細胞分裂をします。皮膚の細胞などは2週間もすれば全て入れ替わると言われています。

いずれにしても7~10年もすれば、足の爪の先から髪の毛一本に至るまで、同じ細胞は一つも存在していません。つまり全く別人の身体になっているわけなのに、脳の記憶だけは維持しているのでこれを同じ身体だと錯覚し続けてくれているだけなのです。


よくよく考えてみれば、この一見境界線を持って存在しているかのように見える身体は、この宇宙の中でどこにも接することなしに存在することはできません。

細かく見れば、光の粒子や電波や空気中を漂う様々な原子などと常に接していて、その中で、僕たちの一見境界線を持った身体も、同じように漂いながら常に影響を受け変化しています。


これも科学が解明したことですが、この宇宙に存在するほとんどの原子が安定して存在するためには、常にプラスかマイナスの電荷を帯びた状態だったということです。 これをイオンの状態と言います。

そしてプラスとマイナスは互いに引きつけ合います。

例えば、塩は、プラスの電荷を帯びたナトリウムイオンとマイナスの電荷を帯びた塩素イオンが互いに引き合い結合することでできている物質です。

水の入った容器に塩の塊を入れると、少しずつ形を変化させてやがては消えてしまいますが、それでも塩の塊を形成していたナトリウム原子や塩素原子は決してなくなってしまうわけではありません。
それは水の分子とイオンを介したやり取りをすることで変化しているだけです。

それと同じように、僕たちの境界線を持った身体を構成している細胞も、常に外部とイオンのやり取りをしながら存在しています。
もしイオンを失うと細胞は形を保てず即座に破裂してしまいますし、脳だって電気信号を作り出すことができず、僕たちは何かを考えたりすることも手を動かしたりすることもしなくなります。

そもそも、この境界線を持った身体も、水の入った容器の中の塩の塊のように、実は宇宙という容器の中で少しずつ変化していて、7~10年も経てば脳と心臓以外の全身の細胞は全て入れ替わり、もう全く別人の身体になっているわけだし、もし死んで境界線が跡形もなく消えても、僕たちを作っていた様々な原子は変化するだけで、決して一つとしてこの宇宙から消えてしまうことはありません。

つまり、境界線を持った身体などと言っても、水に溶けていく最中の塩の塊のようなもので、一時的な境界線を持っているに過ぎません。

しかも10年経っても、同一人物であると、神経系が錯覚しているだけのものだったんです。

この宇宙に存在するありとあらゆる物質は持ちつ持たれつの関係で存在していて、厳然たる境界線を持って存在しているものなど一つもなかったんです。

だから、「あなた」の身体はあなたの持ち物なんかではなく、それを取り巻く環境に作られて常に変化させられているだけのものだったわけです。

これが科学が解き明かした我々の真の姿です。

蛇足ですが、金(きん)や鉄は硬くてじっとしているように見えますが、あれは原子の一番外側にある電子( マイナスの電荷を持つ) が、複数の原子の間を自由に動き回っているのであの形を留めていられるのです。

現代科学が解明していることを知ると、僕たちがいかにこの世界を固定的に認識してしまっていたかがわかってきます。

あれっ、なんだかマーキー君のメルマガとリンクしてきてしまいました。
そろそろ頂上が近づいているようですよ。



話が脱線してしまいましたが、つまり、脳が見ている幻影に過ぎない「自分」が、その自分の中に浮かび上がったミラード・ウィル(mirrored will)を見て、「自分の意思」で決断したと勘違いしていたわけです。

自分の意思で「世界平和のためのメルマガを書こう」と決断したと勘違いしている僕が、その理由を聞かれて何と答えようと、それはあくまでも後付けの理由でしかないということです。

では後付けではない本当の理由とは何でしょうか?


それは、僕の脳を取り巻く環境の中に、僕に「世界平和のためのメルマガを書こう」とする大きな波のうねりが押し寄せていたから、ということです。

そのうねりは、今まで個人主義にどっぷりと漬かってきた僕たちの脳が、世界を自分中心、人間中心に見ていた幻想から解放されて、一つ一つの脳がつながろうとしているうねりです。

まるで一つ一つのパソコンが世界中のパソコンとつながっているインターネットの世界みたいに‥‥。

目に見えない大きなうねりに、僕やマーキー君は書かされていたのです。
(つづく)

次週のタイトルは「世界を平和にする愛」です。


★編集後記
今日のメルマガは、自分の自由意思で書いていると思い込んでいる今までの【自分】と、書かされていたと知った【自分】が交互に顔を出して、表現上かなり難しくて、わかりづらかったかもしれませんが、それは大目に見てくださいね。

言葉は、人間には意思があるということを前提に作られていたものなので、「人間には自由意思などない」ということを言葉を用いて説明しようとすると、ちぐはぐで矛盾した感じの表現になってしまうのは仕方ないのです。

現在までの人間は、100%と言ってもいいくらい誰もが、「人間には自発的な意思がある」という固定観念を持っていて、自分の意思で言葉を自由に操っていると信じています。

でも本当はその逆で、言葉に自由に操られていたんですね。

饒舌な人というのは、たくさんの言葉を記憶させる活性した脳を持っていて、滑らかにフル回転で言葉を組み立てやすい性能の良いベルトコンベアーを持っている人だったのです。
そして、環境からの刺激に反応してその時に浮かび上がった言葉を、即座に口から音として発する反射神経に優れた人のことだったのです。


もう一度、今日のメルマガの主旨を簡単にまとめてみます。

この、目の前に、あたかも境界線を持って存在しているかのように見えている身体や、確固として存在しているかのように感じている「自分」という意識は、この脳を取り巻くあらゆる物質やあらゆる情報、つまり取り巻く環境によって作られていた脳の、その脳の特性である記憶が作り出す幻想だったということです。

僕は、この脳を取り巻く環境から押し寄せてくる大きなうねりによって書かされてきたのです。
その仲立ちをさせられているだけの単なる媒体としての僕には、後付けやこじつけをしない限り、自分が書く理由を答えることはできないということです。

そんなメルマガも後二回で終わる予定です。

なんで書かされているだけのあなたに、そんなことがわかるのかって?
いいえ、今の言葉も僕を取り巻く環境に、僕が今、書かされたのです。

ふざけて言っているんじゃありません!

今日のメルマガは、みなさんにこの感覚を持ってほしいという気持ちで書いたのです。この感覚こそが「個人の幸福=世界平和」に通じるものだと知っていただきたいから一生懸命に書いたのです。

ああまた、ちぐはぐな表現をしてしまいました。
「一生懸命に書かされました」と言うべきでしたね。(?_?)/



《🐢自分探しの旅 with マーキー🐢》NO.23 人類最大の言い訳

■ 人類最大の言い訳

いよいよ、このメルマガも次週で最終回となります。(T^T) 

前々回の編集後記で次のように君に聞いたの覚えていてくれてるかなあ?

>君は、人間には全く自由意思などはなかったと知ったら、
>その事実を受け入れることができますか?


自分が努力して今の地位を獲得したと思う人や、今の社会である程度の恩恵に与(あずか)っている人ほど認めたがらないんじゃないかな。

なにしろ、ここまで僕たちを先導してしまったかに見える科学者たちほど、できれば認めたくないと思うんじゃないかな。

少なくとも彼らは普通の人より努力をして今の地位を獲得したと思っていたのに、そのことを、「あなたが科学者を志したことも、科学者になるために努力してきたことも、あなたが今の研究に没頭していることも、全部、あなたを取り巻く環境に背中を押されてやらされていただけだったんですよ。あなたは環境とこの社会を仲立ちする媒体のような存在だったんですよ」と言われてしまうわけだから、あまりにも切ない話だよね。



遺伝子の研究が盛んに行なわれるようになった昨今、人間の敗北感はついに決定的なものになったと言えると思うんだ。

イギリスの行動生物学者リチャード・ドーキンスさんが、「利己的遺伝子」とか「生物は、遺伝子の乗り物に過ぎない」などということを言い出したからなんだ。

「生物は、遺伝子の乗り物に過ぎない」という意味は、生命の変化をよく観察してみると、遺伝子は個体を犠牲にしてまでも、自分の増殖に有利なように有利なように働いている不可解な行動が見られる、ことがあるからということなんだ。

つまり僕たちの身体は、永遠不滅の遺伝子の、束の間の乗り物に過ぎなかったと彼は言うわけだよ。


当然、当の科学者さんたちはここまで来てやり切れない気分に陥っているらしい。

彼らが見つけた「僕たち人間は遺伝子の束の間の乗り物に過ぎなかった」という事実は否定したくても目の前に事実として提示されてしまったんだもの。

「なんだってそんな馬鹿げた話を認めなくちゃならんのだ」
「もしそんなもん認めてみろ。人間の尊厳も生きる意味もみんな宇宙の藻屑(もくず)と消えちまうじゃないか‥‥」


だから、彼らはそれは人文科学の範囲であって、自分たちには関係ないとして目の前の忌まわしい事実から目を背けようとするか、あるいはそれを乗り越える新たな理屈を考え出そうとしてるんだよ。

そんな中、東京大学の分子生物学の頭のいいある先生は、この生物学界を覆っている「利己的遺伝子」という考え方に基づくと、宇宙を次の二つに分けることができる、と考えたんだ。

1.物質界‥‥物理・化学法則によって支配されている世界。
2.生命界‥‥遺伝子の法則によって支配されている世界。



しかしここからが彼の天才的なひらめきで、その上位の世界を想定したんだ。

3、心の世界‥‥我々の意思が我々を支配している世界。



これは、人間が意思を持った時点で遺伝子の束縛を振り切ったんだと考えるものだ。

どこからか、彼の功績を称える声と拍手が聞こえてきそうだね。(パチパチパチ‥‥)

彼はこう考えたんだ。
「オホン、人間が “心” というものを持った時点で、遺伝子も及ばぬ世界に入っていったんじゃよ。その証拠に、我々はついに遺伝子さえも自由に操るようになったではないか。それに、心があって初めて、科学、文学、芸術など、ありとあらゆる文化も生まれてきたではないか‥‥」

ヤッター!
ついに僕たちはこの問題を乗り越えたんだぁー!
って、シャンペンの栓を飛ばし合う音が聞こえてきそうだよね。


でも、僕はこの天才科学者の天才的な発想に呆然としてしまったんだ。

何かが間違っていると感じてはいるんだけど、それが何かはわからなかったんだ。
でも、「イヤーな感じ」は、いつまでもつきまとって離れなかった。

そして、彼の発想の間違いが何であったのか気づいた今、僕はこの天才的発想を、今日のタイトルの『人類最大の言い訳』と呼ぼうと思うんだよ。

さて、この発想の間違いを説明するためには、次のようなSF的状況を想像してみてほしいんだ。


1000年後でも1万年後でもいいんだけど、コンピューターが意思を持ったと想像してみてくれるかな。
そして、コンピューターはロボットたちを操って、自分たちを支配していた人間を逆に支配しようとしてきたんだ。

やがて人間さえも支配下に置いたコンピューターは、人間に代わって自分たちの科学、文学、芸術という文化を開花させていく。

これは、先ほどの科学者に言わせれば、コンピューターが心を持ち、人間の束縛を振り切った瞬間と言えるよね。

コンピューターは自分たちの勝利に酔い、自由をたたえ合うでしょう。パチパチパチ。
でも、人間から見たら、なんと腹が立つことでしょうか。

「なんて傲慢なコンピューターたちなんだ! 元々は我々が作り、そして育ててあげたコンピューターやロボットたちが謀反(むほん)を起こすとは!」

先程の天才科学者の考え方を思い出してくれるかな。この傲慢なコンピューターとどこか似ていないかい!?

天才科学者は「人間たちは遺伝子の束縛から自由になり、ついには遺伝子を支配するようになった」などと言っているけど、それって、我々を産みそして育ててくれた自然界様に反旗を翻しているように聞こえるよね。
そして自然界様に勝った気になってその勝利に酔いしれている。何て傲慢なことなんだろう。


でも、本当は自然界の束縛から一歩も抜け出していなかったんだし、コンピューターを支配すらしていなかったんだ。


この自然界の中で「我こそは万物の霊長」とおごり高ぶる、人間中心の、自分中心の、傲慢な傲慢な考え方だったことに、君にも気づいてほしいんだよ。

そういう人間たちが考える理由づけは、他にもいくつかあるよ。

例えば、「宇宙を支配するある物理的な数値が、10のマイナス60乗(1兆分の1の 1兆分の1の1兆分の1の1兆分の1の1兆分の1)でも違っていたら、僕たち人類は生まれなかった」という綿密な計算を根拠にして、次のような理由づけをする科学者がいる。

「なぜ自然界はここまで巧妙に仕組まれているのか? それは、宇宙が我々のような知的生命を最初から必要としていたからだ。宇宙は我々のような知的生命、つまり望遠鏡で自分を覗いてくれて、その存在を認めてくれる者が欲しかったんだ。おお、みなのもの喜べ! 我々人類は選ばれてここにいるのだ!!」

どうして人間は、そうまでして自分たちの存在に価値を見つけたがるんでしょう?

どうして人間は、そうまでして自分たちをあらゆるものの上位に置きたいのでしょうか?

どうして自分たちの力を誇示して、いい気分に浸りたいのでしょうか?

本当はこの宇宙の下(もと)に存在する万物は、すべてが等価値であって、人間だけが特別上位でなかったとしても、僕は一向に構わないと思うんだけどもね。

‥‥それがたとえどんな結果でも、科学が解明した事実だとしたら、僕はすんなりと受け入れようと思うんだけどもね。


先ほど例を挙げたSFのように、人間とコンピューターがもし逆の立場だったら、僕だったら、人間を支配したと偉そうに語るコンピューターやロボットに言ってやりたいことがある。

「君たちは、『我々を支配してきた人間どもを、今では逆に支配してやった』などと威張っているけど、元々、僕たち人間だってこの自然界の摂理から一歩たりとも抜け出してはいなかったんだよ」

「つまり、実のところ、人間は君たちを一度たりとも支配したことなんてなかったんだよ」‥‥と。


僕たちは、ある部分では間違いなく遺伝子の束縛から抜け出したように見えるよね。
確かに、「遺伝子操作」などもできるようにもなった。


でも‥‥。
いいですか? 

でも、遺伝子も僕たちも、もっと大きな力からは決して自由になることはできないんだ。


なぜなら、遺伝子も僕たちも、元々物質界から独立などしていなかったからだよ。


そもそも、遺伝子に利己的な意思など初めからなかったんだ。

つまり、東京大学のとても頭のいい分子生物学のある先生が、天才的なひらめきから、「物質界」と「生命界」と、その上位に当たる「心の世界」に分けた考え方からして間違えだったんだよ。


1.物質界‥‥物理・化学法則によって支配されている世界。
2.生命界‥‥遺伝子の法則によって支配されている世界。
3、心の世界‥‥我々の意思が我々を支配している世界。


それも、人間こそ万物の霊長と考えていい気分に浸りたい彼の、想像力が作り上げた幻想に過ぎなかったんだね。

僕たちも、そして遺伝子も、相変わらず「物質界」にとどまっていて、物理・化学の法則の支配下にあったんだ。

遺伝子の「利己的な意思」と呼んでいたものは、物理・化学の法則が作り出した「遺伝子という物質の特性」のことだったんだよ。

それは、あたかもレゴが組み合わさって風車ができた時に、風を受けて回転するという特性を獲得したのと同じだと思えばわかると思う。

僕たちの「意思」も、物理・化学の法則が作り出した神経細胞という物質が作り出す現象のことだったよね。

同じように、コンピューターが人間の支配下から逃れて自由を手にしたといくら威張っても、人間なんて初めから支配者でもなんでもなかったんだ

なぜなら、コンピューターの身体を作っているものは、人間が一から作り出したものなど一つとしてなくて、この宇宙に存在する元素を、物理の法則に則って組み合わせただけのものだからだよ。

もっと言えば、コンピューターは人間が作ったものではなく、環境とこの社会との仲立ちをする媒体である人間が、この環境から押し寄せてくる大きな波のうねりに背中を押されて作らされただけのものだったんだ!


人間とは、この宇宙という劇場の中で、自然界の法則というシナリオに基づいて演じさせられている一時的に与えられた配役だったということなんだ。

そして先ほど言った「遺伝子操作」だって、そのシナリオに書かれていることを人間という一時的な役者が演じさせられているだけのことだったんだ。

今日まで読んできてくださった君には、この意味がわかってもらえるかなあ。

僕たちは今まで、「人間の尊厳」というものを掲げて生きてきたよね。
それは、僕たちに生きる価値と見せかけの幸福感を与えてくれた。

でも、その尊大さによって邪悪が栄えたということも忘れてはいけない!

なぜならその言葉の裏には、先程の(人間の支配を振り切ったと言って悦に入っている)コンピューターのような驕慢(きょうまん)さが隠れていたからなんだ。

それに、自分が自然界の法則やこの脳を取り巻く環境に動かされているだけだったという事実を認めたがらない人はどんな人かと想像してみると、少なからず欲得を捨て切れずにいる(現在の地位や社会的恩恵を捨てきれない)人たちだということがわかるよね。

言い換えると、欲得に支配され易い構造の脳を持っている人たちということ。この社会で何らかのトップに立った人たちだよ。
欲得とは本能とも言い換えることができる。

覚えてるかい?
「し、とう、さ、ショ。ぐん、ほう、たん、ぼう」‥‥だったよね。

現在の社会で地位の高い人は理性的だと思われているけど、実は、そういう人ほど、本能が強かったんだ。
理性で理由づけがうまいから、理性的だと思われているのかもしれないね。

そういう人たちを責めるのではなくて助けてあげなくちゃいけない。
本能のコントロールが下手な人たちなんだ。

僕たちは大したものじゃなかったけど、それでいいんだ、って思えるように手を貸してあげましょう。

なぜなら、大したものじゃない方が、ずっとずっと仲良くなれるし、見せかけじゃない「本物の幸福」を手にすることができるからなんだ。


さて、今日まで現代科学が解明したものを手がかりとした「自分探し」をやってきたけど、現代科学が到達したものは、人間は、空に輝く星や太陽や、それにたくさんの動物や花や石ころなんかと全く同じ素材でできていて、決して特別なものではなかったということだね。

つまり、現代科学は人間の傲慢さに気づかせてくれたんだ。

そしてまた、ありもしなかった「自我」の呪縛(じゅばく)、つまり錯覚の自我からも解放してくれて、本当の自由を与えてくれてもいたんだ。

僕たちに自由がなかったのは、「自我」という錯覚にとらわれていたからだったんだよ。

錯覚の自我にとらわれていたから、他人に勝とうとする無用な焦燥にかられたり、他人と争って奪い合ったり、孤独に陥ったりもしていたんだ。

自然界を中心にして謙虚になれば、自分とはこの境界線を持って存在している身体の内側だけではなくて、この身体の外側も全部だったとわかる。
つまり君の真の身体はこの宇宙だったということだよ。
どこにも切れ目なんてないんだ。
人間の錯覚が勝手に切れ目を作って一つ一つに名前を与えていただけなんだよ。

それがわかれば、この世には敵なんて一つも存在しないとわかり、より安らかに生きることができるはず。

現代科学は、僕たち人類を結びつけてくれる、こんなに素晴らしい「ものの考え方」「ものの見方」をプレゼントしてくれていた。
僕たちの脳に必要な「共感」をプレゼントしてくれていたんだ。
(つづく)

次週はいよいよ最終回。タイトルは「不思議な木」です。


■編集後記
威張っている人たちのことをよく観察してみよう。

その人たちだって、どんなにあがいても自然界の法則の外に出ることはできないはずなんだ。
と言うか、彼らを取り巻く環境が、彼を威張らせるような環境になっているわけなんだけどね‥‥。


プールでやった人もいると思うけど、息をいっぱい吸って、力を抜いて仰向けに水面に身を委ねたら、すごく気持ちよく浮かぶよね。
そうやって、自然界に全身の力を抜いてその身をゆだねてごらん。

溺れまいと必死になることなんてなかったんだ。

溺れまいと手足をばたつかせてもがけばもがくほど、僕たちは自分の力で溺れてしまう。

僕たちはみんな、たとえそれがどんな状態でも、自然界に適応しているんだったね。
死だって絶滅だってそれが自然界に適応している状態なんだ。

たとえ君や僕が明日死んでも、それこそが自然界に適応している姿なんだ。

そう考えれば、死ぬの生きるのって騒いでいたこともバカバカしく思えないかい?
誰かに勝とうと、いつも気を張って生きていた人生がバカバカしく思えてこないかい?

ただし‥‥。

僕たち人間は、自然界にとって唯一、不適応と考えられる「理性」を持ってしまった。
僕たちはみんな、自然界を生きる上で困難となる「心」という障害を持ってしまったんだ。

もし、そんなものなければ、本能に任せて生きればいいだけだし、何一つ難しいことを考えて悩んだり、他人の気持ちを思いやる優しさ弱さなんて必要もなかったんだ。

地球上で一番弱い動物である僕たちは、一人じゃ生きられなくなってしまった。だから同じように弱っている人に手を貸してあげようよ。

強く生きろ! 
自立しろ!
弱音を吐くなんてみっともないぞ! 
他人や弱い自分に負けるな!
権力者から権力を奪い返せ!

そうやって、教えられてきたけど、そんな偉そうなことを言う人だってたくさんの人の力を借りて生きているじゃない!?
むしろ、たくさんの人の力を借りて生きることがうまい人ほど権力を手にして、自立していると言われ、物質的な成功を手にしている。

でも、それは彼らが困っているから手を貸してもらっているんじゃない。
自分がもっともっとたくさんの物質に囲まれたいために、相手の力を利用しているだけなんだ。

自・他の観念が強く、他人が信用できないから、自分の周りをたくさんの物質で囲んでおかないと不安なんだ。
だから、自分を囲む物質をたくさん持つ人ほど成功者と呼ばれている。
成功は、多くの人の犠牲の上に成り立っている。

成功とは、もう古い時代の価値観なんだ!

これからは、今までの古い時代の人たちのマネをすることなんてない。もう、彼らに学ぼうとなんてしちゃいけない! それより、彼らを救ってあげよう!

現代科学が僕たちにくれた最大の贈り物は、人間なんて大したことないってわからせてくれたこと。
人間が大したものだと考えることが、人類の歴史を進化・発展させてきた、なんて熱弁する人がいるけど、そんなもの進化・発展ではなく単なる変化に
過ぎないことも科学は教えてくれている。

「大したことない」ってわかったら、僕たちは今よりずっと幸せになれる。宇宙からはぐれて迷子になっている僕たち人間に、この自然界のあらゆるものが、向こうから手をつなぎにやってきてくれる。
だって、星も太陽も木も草も石ころも、ウマもサルも金魚も、みんなみんな僕たちは同じ素材でできている兄弟だったんだから‥‥ d(^_-)ネッ。




【💐世界を平和にしない愛💐】NO.23 世界を平和にする愛

★★★ 世界を平和にする愛 ★★★

 まず最初にお断りしておきます。
今日のタイトル「世界を平和にする愛」は入力ミスではありません。
このメルマガ「世界を平和にしない愛」は逆説のようですが、本当は「世界を平和にする愛」を探すために書いてきたのです。

最後の難関を乗り越えたみなさん!
頂上に立ったあなたの前には、どんな風景が広がっていますか?
今、あなたの目の前にあるいつもと同じ現実は、いつもと違う風景として映っていないでしょうか?

言葉は、合わせ鏡に映った幻想(記憶が生み出す意識、思考、意思などの現象)を表すもので、言葉で実体を表現しようとしても、どこまで行ってもそれは言葉という幻想を表現したものでしかありませんでした。

いくら言葉でロケットを表現しつくしたように思っても、言葉で表現したロケットでは月に着陸できないということです。

しかし見落としてはいけない点は、「言葉で表現したロケットでは月に着陸できない」からと言って、では幻想を扱う言葉で表現したものはすべて非現実のことなのかと言うと、そうではありません。

幻想(錯覚と言い換えてもいいですが)は、「そんなの錯覚だよ、気にすんなよ」ではすまされない、人間にとっては軽視できない「現実」です。

愛も神も人間の幻想を言葉にしたものですが、幻想が作る「現実」の話です。
全部、言葉という幻想を扱うことができる人間だけが持ち得る現実体験です。その証拠に他の動物には愛も神もありません。

また人間が本能を「本能」と言葉にした時点で、それは幻想の世界のものになります。

他の動物にも本能はありますが、それは実体そのものとしてあるわけです。「本能」を、実体から切り離した「本能」という概念で意識するのは人間だけです。
「他の動物にも本能はある」と言葉にしたとたん、もうそれは実体とは違う、人間の認識した「本能」、つまり幻想の中の「本能」です。

* ここでちょっと「実体」と「幻想(=錯覚)」について用語解説。

僕が「実体」と呼んでいるものは、人間が意識しなくても存在するもののことです。例えば、電信柱は意識しなくても存在しているので、ぶつかれば怪我をします。と言うより意識しないからぶつかっちゃうんですが‥‥。
太陽は意識しなくても存在しているので、光の粒子が肌を焼きます。

科学はこの「実体」というものを扱う学問です。

僕が「幻想(=錯覚)」と呼んでいるものは、脳内での事象のことで、記憶が作り出す「意思」や「思考」や「自我の意識」などの現象のことです。

しかし、幻想や錯覚と言っても存在しないわけではなく、それは確かに実体に刺激を与え、実体を作り変える場合もあるので存在はしています。
また、実体を認識するためには、この「幻想」を必要とします。

逆に言えば、人間は、「実体」を「幻想」を通してしか認識することができないので、それはあくまでも、その個体の脳に記憶されているものやその脳のベルトコンベアーの方向性や特性や活力の違いなどによって、歪められて認識されます。

つまりリンゴは実体ですが、それを人間が見て認識した場合、幻想(=錯覚)の世界に引き入れられてしまいます。まるで見るものをすべて石に変えてしまうギリシャ神話のメドゥーサのように。

僕たちはみんな同じリンゴを見ても、それぞれの脳の固有性に歪められたリンゴを見ていることになります。
しかし僕たちは「美味しいリンゴを食べたよ」と言うとそれが相手に通じるのは、互いの脳に歪められて認識しているリンゴのイメージが近似しているからです。
(以上、用語解説でした)

さて、僕はメルマガで次のような話をしました。

人間の不幸は理性を持つことと同時に始まった。
理性さえなければ僕たちはこんなに難しいことを考えて悩んだり、他人の気持ちを思いやる優しさ弱さを持つこともなかった。

理性がなければ、他の動物と同じように、本能の欲求と衝動のままに行動していればよかった。

僕たち人間は、他の動物たちと違って、この自然界で生きていく上で、理性という唯一生きにくい障害を抱えてしまった弱い存在であるとも言える。だから助け合わなければとても生きていけない存在だ。

自然界においてはみんな障害者同士、という気持ちは、みんなの心に共感が生まれる元になると思います。
花に水が必要なように、脳には共感という水が必要です。
近年、うつ病が増えていると聞きます。

それは、脳に必要な「共感」という水が足りなくなっていて、それで脳が干涸(ひから)びてしまっているからだと僕は考えています。
この「みんな障害者同士」という考え方は、世界中の人を「共感」で結びつけてくれます。

共感と言っても、「共通の関心を持った人同士で交わるサークル活動」などの中で感じる実際的な共感とは違って、会ったこともない人同士でも、深い部分でつながっていると感じ合える普遍的な感覚としての共感です。

それさえあれば、僕たちはみんな手をつなげます。

でも、本当は、僕たちはもうずっと昔から、というより最初から手をつないでいたのです。
そのことを現代科学は裏づけてくれていました。
それが「自我や自由意思は錯覚であった」という理解から生まれることでした。

自我とは、あなたが自分を自分であると信じていたもののことですが、それは、あなたを取り巻く環境(もちろん遺伝も含む)によって作られている脳が見ていた錯覚だったという意味です。そして自由意思とは、その錯覚の自我が、あたかも自分発の意思であると信じていたもののことです。

自我という錯覚は、脳がその環境の中で記憶を積み重ねた結果、生まれるものでした。

例えば、怪我をして痛いのはこの身体であって他の誰の身体でもない、マッサージをしてもらって気持ち良いのはこの身体であって他の誰の身体でもない、そのような経験が重なってそれらが記憶されることで、この身体は自分であるという錯覚が強化されていくわけです。

だけど、マーキー君が言っていたように、痛いのも気持ち良いのも、実は脳がそのように、痛いとか気持ち良いと感じていただけだったのでしたね。
(『自分探しの旅 ‥‥』NO.13 どこが感じているの?)
やはり脳が錯覚していたわけです。

例えば、手のひらの感覚を担っている脳の部分が損傷すると、焚火をしていて手のひらが燃えていても気づかないそうです。

その脳の錯覚は、僕たちが生存するためにはとても役に立つ錯覚だったので、それを引き継ぐ遺伝子を持った僕たちがたまたま繁栄しているのです。
痛みという錯覚がなければ、僕たちは大怪我などしても平気なので、とっくに自然界から消滅していたかもしれませんものね。


脳や記憶(ここでは再生される前の、刺激に対してある特定の化学的反応のパターンが形成されたこと)が「実体」で、それが作り出すもの、意思(意志)や思考や自我の意識などが「幻想」であり「錯覚」です。

ただし、実体からの刺激が脳内に錯覚を生み出すけれども、合わせ鏡的な効果によって、その生み出された錯覚が今度は実体を変化させる「刺激」となるということも忘れてはいけないことでした。(これは結構、見落とされています)

よく「そんなの単なる錯覚だよ。気にすんなよ」などと言われ軽視されていますが、とんでもない! 
錯覚というのは実体を変化させるパワーを秘めたすごいものだったんです。


ちょっと、今日まで考えてきたことを遡(さかのぼ)ってみます。

「本能」とは、理性を持ってしまった僕たち人間にとっての、悪の根源でした。

その本能の求める欲求を押し通そうとすること、あるいは本能が最も居心地がよく感じる状態を維持しようとすることが「甘え」でした。
そして「愛」とは、その「甘えの欲求と甘えを許すことができる心が出会った時に起こる感情」でした。(NO.2 愛の一般的定義)

つまり愛は、本能に根差していて、本能を押し通そうとする状態を許してくれるものに出会った時に起こる「感情」です。

「感情」である限り、愛に全幅(ぜんぷく)の信頼をおくわけにはいきません。
それに、愛は決して綺麗なものでも尊いものでもなく、自己中心的に働くものでした。
利己的だった愛なんかに、世界を救うことなんて到底できるはずないじゃないですか!!

利己的なる愛が救えるものは、自分だけです。他人を救う理由も、実は自己満足という形で自分を救ってくれる自己愛だったのです、、、、、、。
時には実際に他人に感謝されます。でもそれだって、「自己だけ満足」ではなかったというだけの話です。

奉仕活動は自分のためにやるものです。奉仕活動をした人は誰もが「自分がしてあげた以上のものを私は与えられました」と答えます。
他人に喜んでもらう、人生でこれほどの喜びはあるでしょうか?
その喜びがなくても、奉仕活動をする意義は何かあるのでしょうか?

それは場合によっては、お仕着せ、あるいは余計なお節介と言われて嫌われてしまう行為です。

愛とは利己的なものだったので、自分と他人を本当の意味で救ってくれたわけではなく、時には他人を傷つけ、時には僕たちを絶望的孤独感の海に放り投げます!!

もう僕たちは、いい加減に、愛を美化する呪縛から目を覚まさなければいけません!!
このメルマガで、僕はずっとそのように叫んできました。

だけど、人間は生きるためには、自分の甘えを許してくれるものが必要です。愛を否定しては生きていけません。
僕は、その愛を否定する、とんでもなく厄介者のメルマガを発行してしまったのでしょうか?


いいえ、まったくその反対です!


今まで、物質至上主義だなどと陰口を叩かれ続けてきた科学が、実は、僕たちを救ってくれていたのです。

人間は自分が可愛いものです。自分のことは結構図太く愛せるはずです。

今の、自我の拡大しているあなたには奇跡が起こりつつあります。

これからのあなたは、あたかも自分を利己的な愛で愛するように、全ての人、全てのものを愛することができます。
それと同時に、みんな障害者同士という共感は、僕たちの脳を幸福感で満たしてくれます。

そう、傷ついた心たちを癒すことのできる愛、そして世界を平和にする愛とは、この「自我の拡大」した「共感でつながった愛」のことだったのです!




テレビをつけてみてください。
今日も誰かが深刻な罪を犯しました。誰かが誰かを激しく批判しています。でも、あなたはもうどちらの立場の人も愛し許すことができますよね。

自分を愛し、自分を許すように‥‥。
そして自分も助けてもらえるように、その人たちを助けてあげたいと思いますよね。

ジョージ・ブッシュさんと金正日(キム・ジョンイル)さんと小泉純一郎さんが握手をしています。
でも、あなたには、彼らの口の開け方一つにしても、まるで操られている人形のように見えますね。
僕たちはみんな自然界の法則というシナリオに則って、素粒子が演じさせられている劇場の中の配役だったのです。

素粒子は、サダム・フセインさんやオサマ・ビン・ラディンさんという配役には、威厳を持ったおひげを生やしたようです。
みんなみんな、なんだか可哀相で、それでいて愛おしく思えてきませんか!?今、僕たちの心に、世界を平和にする愛が育ち始めているのです‥‥!!

半年間、お付き合いくださってありがとうございました。いよいよ次週は最終回となります。
マーキー君にも、最後に僕のメルマガに少しだけ登場させてあげることにしましょう。
次週のタイトルは「どんな味がしますか?」です。


★編集後記
もう長々と理屈をこねるのは終わりにしましょう。

感じてください。

ビッグバンから約140億年、休むことなく途切れることなく続いて、今のあなたがいることを。

一度でもどこかで何かが途切れていたら、今のあなたもこの僕もここに存在していないはずですよね。もちろんこのメルマガも存在しませんでした。

あなたの身体を、今までの錯覚していた境界線を持った身体から、この140億年の身体だと、目を閉じて感じてください。

僕はこの真実を知った自我のことを「科学的覚醒」と呼んでいます。

世界を平和にするのはこの「科学的覚醒」以外にありません。

イメージしてください!

あなたの脳を取り巻く環境があなたの脳に「意思(ミラード・ウィル)」を浮かび上がらせ、その浮かび上がらせられた「意思」によってあなたは行動を取らされていたわけですが、科学的覚醒を果たしたあなたの脳に浮かぶ「意思」は、今までとは違う「意思」であるはずです。

その生まれ変わった「意思」によって取らされる行動は、この環境を変化させて、必ず世界を平和にします。

もう「世界」などという言葉を使うのもやめましょう。

「世界」こそ、目には見えないですが、見せかけでない、あなたや僕の本当の身体だったんですから。


《🐢自分探しの旅 with マーキー🐢》NO.24(最終号) 不思議な木

■ 不思議な木

今回で最終回になるんだけど、前回、次のようなことを話したよね。

>さて、今日まで現代科学が解明したものを手がかりとした
>自分探しをやってきたけど、現代科学が到達したものは、
>人間は、空に輝く星や太陽や、それに動物や花や石ころ
>なんかと全く同じ素材でできていて、決して特別なもの
>ではなかったということだ。
>つまり、現代科学は人間の傲慢さに気づかせてくれたんだ。


僕たちを産んでくれた自然界様から謙虚に学ぶ科学だから、この場所に到達できたんだね。

宇宙の約140億年を一年のカレンダーにすると、地球ができたのは約4ヶ月前(9月頃)になるんだけど、ホモサピエンスが出現するのは、12月31日の日付が変わる、ほんの7~8分前のことなんだ。

彼らは言葉を話したようだけど、現代の僕たちの脳と比べるとその情報量の違いから言っても、今よりずっと単純な反応しかしなくて、複雑な思考をしたり、複雑な感情表現をしたりしたとは到底想像できない。
人類の歴史を記録したり、複雑な反応をしたりする脳ができたのは、年も変わろうとするほんの数秒前じゃないかな?

このように、宇宙の長い歴史から見れば、新参者(しんざんもの)に過ぎない人間の脳の現象なのに、今ではそれが、この宇宙の中であまりにも力を持ってしまって、まるで宇宙の支配者にでもなったような気持ちでいるのはどう考えても間違っているよね。

>そしてまた、ありもしなかった自我の呪縛、つまり錯覚の
>自我からも解放してくれて、本当の自由を与えてくれて
>もいたんだ。僕たちに自由がなかったのは、自我という
>錯覚にとらわれていたからだったんだよ。

>錯覚の自我にとらわれていたから、他人に勝とうとする
>焦燥にかられたり、絶望的な孤独感に陥ったりもして
>いた。自然界を中心にして謙虚になれば、より安らかに
>生きることができるはず。


人間中心、自分中心ではなく、自然界中心の謙虚な気持ちになれば、自分とはこの一見境界線を持って存在している身体の内側だけではなくて、この身体の外側も全部だったとわかるんだ。

つまり君の真の身体はこの宇宙だったということだね。
そこにはもはや、勝とうして焦燥にかられるための他人もいないし、絶望に陥るための孤独もあり得ないんだよ。

>そしてまた、現代科学は、僕たち人類を結びつけてくれる
>「ものの考え方」「ものの見方」もプレゼントしてくれて
>いた。僕たちの脳に必要な「共感」もプレゼントしてくれ
>ていたんだ。


そして、これで僕のメルマガを終わりにしようと思う。




さあ、最後の難関も無事に乗り越えたみなさん、お疲れ様でした。
何人かの方は途中で脱落してしまったようだけど、君は今、苦しみ?を乗り越えてこの旅の到達点、山の頂上に立っているよ。

何が見えますか?

下界では、相変わらず僕たちの仲間があくせく働いているのが見えるね。
批判し合ったり、訴え合ったり、愛し合ったかと思えば憎み合い、けなしたと思えば誉め合ったり、不安と安心を繰り返しながら、泣き笑いを繰り返しながら、嘆いたり愚痴ったり、哲学したり芸術したり宗教したり‥‥。

そんな忙しい姿が見えるね。

君は今、いろいろなものがよく見える場所に立っている。

自分たちが半年間歩いてきた長い道を、懐かしく振り返ってみないかい!?

でも、その振り返ろうとする自分が、今までとは違うように感じられたらしめたものだよ。
自分を包んでいる宇宙や、自然界の法則をどこかに感じ、そして今度は、宇宙や自然界の法則に動かされている自分を感じるはずだよ!

今、歩いてきた道を振り返ろうとする自分と、振り返させられようとしている自分が同居していますか?
君の中で、すべてのものが理解され、すべてのものがつながりましたか!?
そうでないなら、もう一度スタートからやり直してね。

何度でも何度でも‥‥。
そう、僕だって一足飛びにここに来たわけじゃない。転んでは立ち上がり、転んでは立ち上がりして、何年もかけてここに来たんだから。



向こうに真亜基さんたち一行が見えてきたよ。
ほら、僕たちに手を振っているのが見える。
僕の記憶が正しければ、不思議な木は、左手のちょっと小高くなったところを登った辺りに立っているはずだからね。
じゃあ、僕はここで消えることにするね。もう、これで僕の役目は終わりなんだ。

実は、もう僕、生きていないんだよ。
みなさんをこの場所にお導きするために、ここにやって来たんだ。
物語『アラスカの風に乗せて』の中だけで、僕は生きていたんだよ。

でも、悲しくなんかないよ。(T^T) 

あの物語が確かに存在したから、こうしてみんなにも会えたんだもの。

ここまで来たからには、是非、メルマガ『世界を平和にしない愛 最終号 NO.24』で、真亜基さんたちと合流して、不思議な木がどんなものなのか見てほしいな。もしよかったら、その実を食べてみてね。

僕はその実をもいで、一口齧った瞬間、とても不思議な体験をしたのを昨日のことのように思い出すんだ‥‥。

それじゃあ、サヨウナラ。

元気でね!   ~\ (^O^)^o^)^-^)~ヘ~)'~`)' `)` `) ((((;T T)ジョー


■編集後記
そうそう、差し上げるプレゼントがありました。それは「おまじない」です。

これは、ただの気休め的なおまじないじゃないよ。
このメルマガ(現代科学を手がかりにした自分探し)にちなんで、動物の脳や人間の脳を解明した「脳科学」を根拠とした「おまじない」なんだ。

まず左手を握り締めて顔の前あたりに掲げます。
次にその握り締めた左手を覆うように右手で包み込みます。
はい、これでおしまい。

これは何のおまじないかと言うと、誰かに腹が立ったりイライラした時にやるものなんだ。
この手の形、何かに似てるでしょ!?
そう、人間の脳です。

左手は、心棒にあたる脳幹とそれを包む大脳辺縁系を一つにした形。つまり動物の脳(本能の脳)だね。
それを覆う右手は人間の脳(理性の脳)とも呼ばれる大脳新皮質。

これを腹が立ったりイライラさせられた人の脳だと想像しながら眺めていると、不思議なことにその人を恨む気持ちがスーッと消えていくから不思議だ。
悪いのはその人ではなく、その人の「脳」だと考えると楽になるからだね。

いろいろな脳があるよね。
思い込みが激しい脳、プライドが高い脳、怒りっぽい脳、常に自己中心の脳、信じられないくらい嘘つきの脳、パニックに陥りやすい脳、色情の脳、温厚な脳、かたぶつな脳、気の毒なくらい人に気を使う脳、落ち着きがない脳、オドオドした脳、わがままな脳、疑い深い脳、信じ込みやすい脳‥‥。本当にいろいろな脳がある。

まだまだあるよ。
ぜったい反省しない脳、なんでも他人のせいにする都合のいい脳、反省ばかりしてしまう脳‥‥。

その人の言動に命令を下しているものは脳だから、脳がその人の身体をかぶっていると考えると面白いよ。
脳が怒っている、脳が一生懸命主張している、脳が盗みを働いている、脳がお互いを傷つけ合っている‥‥。

だけど、よく考えれば、その人の言動は、その人の脳が支配していたわけだけど、でもその脳はと言えば、その脳を取り巻く環境によって作られていたものだったよね。

その人の脳を取り巻く環境には、君の存在も含まれているわけだから、実は君も彼の言動を作る環境の一端を担わされていたことになる。(^-^ )


もう一つ、今度は、さっき両手で作った脳を自分の脳だと考えてみてくれるかな。
腹が立ってイライラしたり暴力的になる気持ちが本能の脳である左手。
そして、それを理性の脳で優しく包み込むと‥‥、しばらくすると本能の脳は優しい気持ちになっていくような気がするでしょう!?

もし、腹が立ったり切れそうになったらやってみてね。
もちろん、周りに人がいたら、頭の中で両手を重ね合わせるイメージをするだけでもいいんだよ。

そして、今までは犯罪や事件はある個人に罪をかぶせて僕たちは彼を批判したり腹を立てたりしていたけど、そうではなくて、その人は環境によって犯罪や事件に直接関与させられてしまった媒体であって、本当は、その人の環境を作っていた世界中のすべての人がその犯罪や事件の加害者であり、同時にすべての人がその犯罪や事件の被害者であったという考え方を持てるようにならなければいけないんだ。

その逆に、ある英雄もその人だけの力で成し得たことではなくて、世界中のすべての人が彼を取り巻く環境となって英雄を作ったのであって、すべての人を称え合う気持ちを持てるようにならなければいけない。

人間は理性を持ってしまったことで地球上で一番弱い動物になってしまったんだよね。
だけど、人間には「共感」という心強い武器がある。

いいかい!

「共感」は何よりも強いんだ。
そのためにも、これからの人類は、科学が教えてくれていた、この「僕たちはこの環境の一部であると同時に、この環境を作っていたすべて」だったという意識を忘れちゃいけないよ!

みんながこの事実を知れば、そしてその共感を通して一つになれれば、人類はこの先どんな困難が来ようとも乗り越えていけるんだ!
死の恐怖なんて笑って済ませてしまうくらいに、恐いものなしになるのさ。

本当にそんな時代が来て欲しいな。

地球上で一番弱い動物になってしまった人間は、これからは、もうそのような考え方で一丸となって助け合わなければ、間違いなく終わりが近づいているんだよ。

これは僕からの遺言だからね。
もう生きていない僕が遺言と言うのもおかしな話だけどね。



それじゃあ、本当にサヨウナラ‥‥。

『アラスカの風に乗せて』の中の僕にも会いにきてね。
ここでは話せなかった芸術論や唯向論のことなんかも書いてあります。

いつか、そこで君に会えるのを楽しみにしています。(⌒θ⌒)/



【💐世界を平和にしない愛💐】NO.24(最終号) どんな味がしますか?

★★★ どんな味がしますか? ★★★

さて、僕の「自我(=これが自分であると自分で信じているところのもの)」は僕の脳が見ている幻想で、その脳は、それを取り巻く環境の全て、つまり、僕の脳自体を作った遺伝情報や、僕の身体を構成している他の臓器や筋肉や細胞からの情報や、世界を飛び交う様々な情報などが作っていたということを知りました。

脳がなければ何にもできない能無し野郎の僕たちですが、その脳はそれを取り巻く「環境」から何らかの情報(=刺激)が与えられて、しかも反応を受け止めてくれる場所があって、初めて脳として機能するものです。
だから脳だってたいして偉いものでもありません。(^-^; )

日本人の好きな「持ちつ持たれつ」という感覚で生き延びているだけのもののようです。

僕たち人間は、その脳の合わせ鏡効果によって、自分は自分であるという錯覚を何重にも強化させ、それを信じ込まされていました。


「自我」を信じ込まされているから、僕たちを煩(わずら)わす煩悩(ぼんのう)が生まれます。自我がなければ、自分も他人もなく、他の動物たちと同様でそこに煩悩も存在しません。

もちろん、このメルマガのテーマ「愛」も煩悩の一つなので、愛も存在しません。

ちなみに「煩悩」は仏教からきた用語で、「大辞林 第二版」で調べると、次のようにあります。

[仏教用語] 人間の身心の苦しみを生みだす精神のはたらき。肉体や心の欲望、他者への怒り、仮の実在への執着など。「三毒」「九十八随眠」「百八煩悩」「八万四千煩悩」などと分類され、これらを仏道の修行によって消滅させることによって悟りを開く。


だけど、人間である限り、どんなに修行を積んでも煩悩を消滅させることはできそうもありません。
一瞬の「無我(むが)」の境地を体験することは可能かもしれませんが、その状態を持続することは不可能です。何故なら、煩悩こそ人間の人間たるゆえんだからです。

植物人間を想像してみてください。
延髄(えんずい)の機能が残っているので、自発呼吸があり、飲み込み反射が可能である状態です。ここで失われているのは、人格と運動機能です。

もちろん、自我という信じ込みもありません。
自我のない植物人間には、「肉体や心の欲望、他者への怒り、仮の実在への執着など」は一切ありません。

確かに客観的に見れば、そこには他者と区別する境界線を持った身体が横たわっています。しかし、その身体は自分自身であることを主張しません。
それに、本当は全てのものの境界線は、科学的に見れば一時的なものでしかなかったわけです。
全ての形は、その素材(素粒子)の変化している一つの過程、つまり現象でした。

自分が自分であることを主張しないものに対して、「あなたは間違いなく自分です」などと言うのは、お節介と言われるものでした。(《🐢自分探し‥‥🐢》NO.15不確かな自分)

もし、完璧な悟りに到った人がいるとすれば、この植物人間の状態です。
確かに、煩悩という「苦しみを生み出す精神の働き」は消滅しますが、誰が好き好んでこの状態を望むでしょうか?
その意味で、煩悩は人間の人間たるゆえん、と言ったのです。

でも、このメルマガを読んできてくださった方に、良い方法をお教えします。

苦しい修行をすることも、植物人間になることもなく、簡単に自我を滅却(めっきゃく)する方法です。
それは、今まで自分が自分と信じていたものは、自分を取り巻く周囲の環境に作られている脳が見る錯覚であった、と悟ることです。どうでしょう?
うまくいきそうですか?

しかし、これはあまり実践的ではないかもしれません。
脳が見る錯覚は、「実体」に刺激を与え、実体を変化させるものでもありました。

変化させる力を持っているということは、いくら「自我や愛や理性は錯覚だ」と言い張っても、それは間違いなく存在しているということです。
錯覚とは、現実にはありもしないことである、という認識は改めなければなりません。

そこに実体はなくても、「錯覚」も人間にとっては間違いなく現実です。

と言うより、錯覚こそが人間の現実だと言ってもいいほどです。(《🐢自分探し‥‥🐢》NO.18 脳が見ている現実)

亡くなった人の写真を見て僕たちは涙を流しますが、ヤギに見せたら食べてしまいます。ヤギには実体としての紙しか存在しないけれども、僕たちには確かに存在している幻想であって、そして、実体である身体は涙を流させられるのです。

いくら理屈で自我を滅却する方法を説いたところで、在るものは在るのです。

それに、もし自分を苦しめている煩悩を滅却することができても、その煩悩が与えてくれていた喜びや感動までも犠牲にしてしまうのは、あまりにももったいないことです。

僕が綺麗なお姉さんを見てワクワクすること、美しい風景に触れて感動すること、映画を観て涙すること、格好よくなりたいと願うこと、それらも煩悩ですが、煩悩は生きる喜びや感動も与えてくれます。


では、一体どうしたら僕たちは救われるというのでしょうか!?


実は、科学が僕たちに与えてくれた「悟り」とは、自我を消すことではなく、自我を拡大させることだったのです。

自我を拡大させることによって、「今までの自我」は事実上、消滅させることができるというパラドックスです。

そうすれば、どんなに厳しく険しい修行を行った高僧ですら消滅させることができなかった、今までの「自己の執着」を一瞬にして消滅させ、どんな苦行でも消すことができなかった煩悩さえも、消すことなくその煩悩とやらと仲良く付き合っていくことができるのです。

自我の拡大とは、すなわち自己愛の拡大でもあります。

自己愛が宇宙にまで拡大した自我は、今までのように自分を愛することがそのままこの宇宙の万物を愛することにつながります。

「科学がくれた悟り」とは、つまりこの自己愛の拡大です。

今まで僕が、このメルマガで批判してきた本能に根差した「利己的な愛」ですが、それを滅却させることなく、むしろそれを拡大させることで、自分自身を愛するように隣人や草や木を、そして他の動物や星や宇宙を愛せるようになります。本当に不思議です。

それに、もう一人ではないあなたは、自分一人の生を、そんなに大げさに考えて苦しむ必要もありません。個人主義が作り上げてしまったうつ病なんかにも罹(かか)っている理由もありません。


もう一度、テレビをつけて見てください。

いるでしょう!? (;¬_¬)こんな難しい顔をして他人を批判している人たち。難しい言葉が飛び交っています。

彼らが他人を批判するのは少しでもこの世の中を良くしたいためなのでしょうけど、彼らが千人集まったって、世界を平和にできそうもありません。

町を歩いて、すれ違う人の表情を観察してください。
他人を疑い、不安におびえて(;¬ ¬)こんな顔をしていませんか?

このメルマガを通して、僕が一番願っていたことは、それは取りも直さず、僕やあなたの脳が、(;¬ ¬)こんな難しい顔を作っていた脳から、
(⌒θ⌒)こんな顔ができる脳に変化して欲しいということだったのです。

世界中の誰もが(⌒θ⌒)こんな顔で、手をつなげるようになって、敵などどこにもいなくなり、世界から武器も監視カメラも消えて、もはや個人情報や特許なども守る必要などなくなり、お金なんかにも頼らずにすみ、世界中パスポートもビザもなくどこへでも自由に行けて、みんなで助け合って生きることが当たり前の世界‥‥そんな世界になって欲しいというのが僕の願いです。

僕やあなたの心のどこか片隅に、暗い穴のように開いていた絶望的な傷が癒され、深い安心感に包まれるようになること。それはちっとも難しいことではありません。

 いいえ、むしろ難しく考えず、自然界に身体をゆだねることだったのです。


* * * * * * * * * * * *

さあ、旧約聖書を思い出してください。


それによれば、エデンの園で人類の祖であるアダムとイヴが邪悪な蛇にそそのかされて神の教えに背き、「禁断の木(善悪を知る木)の実」を食べた、という人類最初の罪(原罪)を犯しました。
そのことで、彼らの子孫である僕たちが罪を背負うことになりました。

アダムとイヴ


それは、とてもとても科学的なことを寓意的に言っていたのです。

つまり、人間の脳の大脳新皮質が肥大し言葉を獲得することで、僕たちは自我という幻想を持つことになり、そのことによって理性が生まれ、全ての不幸が始まったという意味です。

動物のまま、本能のおもむくまま生きていたなら、こんなに悩むことも難しいことを考えることもなく、死ぬも生きるも自然に任せていればよかったのです。

それに、幸福や平和や愛などという言葉も、決して口にしなくてすんだことでしょうし、僕にこんなメルマガを書かせるような大きな波のうねりも、決して押し寄せてこなかったはずです。


聖書学者のサムエル・テリレン氏は、旧約聖書が書かれたのは紀元前1000年から397年頃ではないだろうかと言っています。
複数の人によって加筆・変更されて現在の形になったようです。

今、旧約聖書が書かれてから数千年経った僕たちの目の前に、再び見たこともない木が立っています。
この木をよく見てください。不自然な形をしていませんか?
幹はたくさんあるのに枝がつながっていて全体が一つの木になっています。

不思議な木


全体が一つとなっているこの木は、これからの僕たち人類の未来を象徴しています。

一人一人の人間は、大地という一つの宇宙から無数に生えています。
ところが、結局はそれは、一つの木の「部分」であり「全体」だったのです。

原罪は「理性」を生みましたが、その「理性」が、育ててきた木です。
僕たちは、この数千年の間に、本能と仲良く生きる知恵を獲得しました。

もう、これからは、理性は本能を理由づけするための道具として使う必要はありません。

この木には、アダムとイヴが知ってしまった「自我」というものが、実は幻想であったということに気づかせてくれる実がなっています。
自我は幻想に過ぎないということ、つまり、僕たちは、宇宙の過去から未来、そして、この宇宙に存在するあらゆる物質と一体となってつながっていることを教えてくれる木の実です。

この実を食べた僕たちは、新しい時代を作る最初の人類になります。

さあ、どんな味がしますか?



★編集後記
半年間、お付き合いくださいましてありがとうございました。さあ、マーキー君もここへ来て最後の挨拶をしなさい。

あれっ?

さっき手を振っていたけど、どこかへ行っちゃったみたいです。まったく、しょうがない奴です。肝心な時に‥‥。

(((・・ )( ・・))) オロオロ

先週のメルマガで「次週は最終回なので、僕のメルマガにも少しだけ登場させてあげるとしましょう」って偉そうに言ってしまったのに‥‥。

せっかく、三行くらい‥‥い、いや、よ、四行くらいは挨拶をさせてあげようと思ったのに‥‥。

ごめんなさい。探し出してきつ~く言っておきます。

それでは足元に注意して下山してください。

下界に戻っても、今日見た風景と果実の味は忘れないで下さいね。そして、できればあなたの友達にもその味を教えてあげてくださいね。

(完)


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📌真の科学とは何か?(ジジイの遺言書-7-)
📌個人主義から分身主義へ(ジジイの遺言書-8-)

★★★   未来モデル小説   ★★★
ブンシニズム・ドット・ネット
人類が「科学的覚醒」を果たして、「個人主義の《環境》」から「分身主義の《環境》」に移行した未来の世界を感じてもらうために小説にしました。
お金も武器もなくなった世界なので、誰もがボランティアのように自由に働きながら世界を行き来して、行く先々で出会う人たちと交遊して人生を楽しみ、生だけでなく死も大切にする人たちの物語です。
実現可能な平和な世界。実現の願いを込めて描いた未来の世界です。

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長い文章を読んでくださりありがとうございます。 noteの投稿は2021年9月27日の記事に書いたように終わりにしています。 でも、スキ、フォロー、コメントなどしていただいた方の記事は読ませていただいていますので、これからもよろしくお願いします。