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『華のスミカ』を観る

先日横浜関内、横浜シネマリンで観た映画、『華のスミカ』の感想文です。

横浜の歴史に触れたい

本作は、自身が福建省から日本に移住した先祖の血を引いているというルーツを知った林隆太監督が、横浜の中国人コミュニティを訪ね、地道な調査と取材を重ねながらまとめ上げたドキュメンタリー映画です。

横浜中華街は、全国に存在する中華街の中でも、最も有名です。中国大陸や台湾にルーツを持つ二世、三世、四世の人々が独特のコミュニティを形成し、日中の文化を融合させながら、商売と生活を営んでいます。

私が横浜で暮らし始めてもう10年以上になりますが、長く住んでいても、依然として知らないことが多いことをこの映画を観て痛感しています。

横浜中華街の誕生

横浜は、幕末の開港によって拓けた150年程度の歴史しかない比較的新しい町です。貿易港の開明的な雰囲気を頼りに、一攫千金を狙って国内外からクセの強い人が集まってきて街が発展していったと言われます。

中国大陸からの人々の定住は、1859年の横浜開港直後から始まったとされます。外国人居留地域に現在も残る関帝廟や中華会館、中華学校などを建設し、中華街のコミュニティの原型が誕生していったとされています。

1894年の日清戦争勃発によって、一旦中国大陸へ帰国する人が増えたものの、戦争終結後に清の弱体化が進み、欧米列強の支配が進むと、その災禍を逃れるかのように、横浜にやって来る人々が増加し始めていきました。

林監督の曾祖母が福建省から来日したのは、1910年代だったようです。

大陸派と台湾派の抗争

1945年8月に日本軍が連合軍に降伏し、太平洋戦争が終結したことで、1937年から続いた日中戦争も、中国側の勝利で終結をみました。

中国大陸は、毛沢東率いる中国共産党と蒋介石の国民党に二分され、内戦状態となりました。勝利した中学共産党が1949年に中華人民共和国を建国し、毛沢東が権力を握ります。敗れた蒋介石は台湾に逃れて中華民国を建国します。この分裂が、横浜の華僑コミュニティにも飛び火します。

横浜中華街にある横浜中華学院は、1898年2月、孫文によって設立された大同学校を前身とします。横浜中華街の華僑に、広東語で教育を受けさせるという目的に基づいて運営されてきました。

1937年に日中戦争が勃発すると、一時閉鎖に追い込まれますが、終戦後の1946年9月に再建されます。北京語による教育が導入され、1947年には、横浜中華学校と改称され、地域の華僑の生徒たちが通いました。

1952年、中華民国を支持する関係者と中華人民共和国を支持する関係者との対立から学校をめぐる紛争が起こります。中華民国政府は台湾から教師を派遣し、共産党を支持する教員たちを排除します。中華人民共和国支持派は、新たに横浜山手中華学校を設立し、分裂します。

当時小学生の林監督の父は、中華人民共和国側の学校に通い、中華民国側の友達との関係は疎遠になっていったようです。林監督の父、学文氏が、「毛沢東は父親みたいなもんだから」と平然かつ淡々と語るのが印象的です。

林監督は、中華人民共和国側、中華民国側の関係者両方から当時の話を聞き、どちらかに与する立場は映画の中では表明していません。

私見:横浜の貴重な記録

映画は、林監督の一人語りとインタビューした人々の語りで淡々と進んでいきます。自らのルーツと歴史を記録する目的は達せられていると思います。

本編とは直接関係しないものの、自らのルーツである福建省の曾祖母の孫にあたる人物を訪ねて、話を聞くシーンがあります。戦後の高度成長期の日本で、川崎市の工場で働いた経験もあるというその男性が「当時は日本くらいしか行くところがなかった。今は、給料安いから誰も日本には行きたがらないけど」とさらりと言うシーンに複雑なものを感じました。

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