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或るロックスターの思い出3:尾崎豊

私が関心を抱いていたロックスターを回想する、”或るロックスターの思い出”、その第3回は、尾崎豊(1965/11/29-1992/4/25)です。

彼のやっていた音楽をロックというカテゴリーに入れていいのかは疑問があるものの、壮絶な彼の生涯は"ロック"でしょう。ロックとは生き様です。本記事では、尊敬を込めて、"尾崎"と呼ばせていただきます。

時代のカリスマ

尾崎が亡くなったのは、今から29年前、彼が26歳の時です。傷を負った全裸の状態で民家の軒先に倒れている所を住人に発見され、後日急逝した事件は当時センセーショナルに報じられました。

直接の死因は肺水腫とされますが、覚醒剤の大量服用(オーバードース)が引き起こしたものだと言われています。死亡時に2歳だった息子の尾崎裕哉は現在は歌手として活動しています

尾崎は、高校生だった1983年にデビューしています。絞り出すような歌声と欺瞞に満ち溢れた社会への反抗の叫びを体現する歌詞が若者の心に刺さり、瞬く間にスターとなりました。特に10代の若者からの人気が高く、『中高生のカリスマ』の地位にありました。

音楽好きで繊細な感性を持つ青年が、背負っていたプレッシャーとストレスは物凄いものがあったのでしょう。突然無期限活動停止を発表して渡米したり、覚醒剤取締法違反で逮捕されたり、彼の人生は波乱万丈でした。人間不信状態となって周囲の信頼できる人間との関係も悪化していき、最終的には孤立を深めていき、自壊してしまったような最期でした。

私のヒーローではなかった‥

尾崎は、私自身が多感な年頃に彗星の如く現れたスターでしたから、『15の夜』『十七歳の地図』『卒業』など初期のヒット曲は無論知っていました。『I Love You』や死後にヒットした『OH MY LITTLE GIRL』は、バラードの名曲だと思います。しかしながら、尾崎は当時の私にとっては、崇め奉るようなヒーローではありませんでした。

彼の声は当時からいいと思っていました。ただ、感情をストレートに爆発させる熱唱スタイルとエッジは効いているものの全体的に整った印象を受ける楽曲に、熱心な尾崎ファンが語るほどの魅力を感じていませんでした。

本人は学業優秀で、模範的で社会迎合的な価値観も併せ持っているという報道がありました。『若者のカリスマ』『反逆のヒーロー』は、マーケティングから生まれた虚像ではないかと感じ、そこに"欺瞞的"、"胡散臭い"というネガティブな印象も持っていました。

「盗んだバイクは鍵がついてないから実際には走らないんだよ」と笑顔で自虐的に語ったというエピソードを聞くと、トリックスター的な匂いすら感じてしまっていたのです。

そして、私が尾崎本人以上に苦手だったのは、熱狂的な「尾崎ファン」の姿でした。教祖様を仰ぎ見るかのような熱量感で尾崎を語る人々にはついていけない気持ちがありました。冷静な目で、「アーティスト、尾崎豊」を見ることから距離を置いていました。

定期的に再評価されるのは必然

今冷静に振り返ると、尾崎豊という稀有なアーティスト、尾崎豊の残した楽曲が、これからも、その時代、その時代で、何度も思い返され、再評価され続けるのは間違いないと思います。

特に彼が10代の頃に発表した楽曲は、時代を越えて今も神聖な光を放ち続けているように思います。年齢を重ね、50代を迎えた今の私が聴くと、心を掻きむしられ、感情を揺さ振られます。寛大に見られるようになったせいかもしれません。

尾崎が、命を削って全身全霊でアーティスト活動をしていたであろうことは、楽曲の至る所から感じ取ることができます。当時の私にはあえて見ないようにしていたものの、尾崎ファン達は、その真剣に向き合う姿勢、余裕のないギリギリの危うさに惹かれていたのかもしれません。

死の結末しかなかったのか

尾崎と一時期密接な関係があった見城徹氏によれば、尾崎は、音楽的才能は申し分なく、天才的で魅力的な人物であったことを認めつつも、相手に自分への全人格的な献身を求める幼児的な危うさがあり、付き合うには尋常ならざる覚悟が必要だったそうです。あのまま寄り添い続けたら自分の方が破滅していただろう、と証言しています。

身近にいて信頼していた仲間が、次々と尾崎のもとを去っていった背景もそのあたりにありそうです。尾崎自身に、勝手に大きくなっていく自分のイメージの不安への裏返しとして、猜疑心の強さがあったのかもしれません。未成熟感は尾崎の魅力の一つですが、実生活で人間関係が次々に破綻した先の孤独に耐えられなかったのかもしれません。


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