解像度を上げる…という表現を考える
本日は、ビジネス界隈の人達が頻繁に使用する「解像度を上げる」という表現に対して、私の抱く感情を深掘りしてみようと思います。
気持ちいいけど、空虚な感じも…
● ふわっとした感覚的な議論に心がざわっとする……
● 漠然と考えていることに、どこから手を付けていいか見当がつかない……
● もやもやしていて悩んでいるけど、その正体が明確にならない……
会社員だった頃は、こうした場面によく遭遇したものです。
そういう時に「解像度を上げて考える」のが効果的な解決策だと思っていた時期があります。今でも気持ちの良いシャープで便利な言い回しだなあと思う反面、何となく違和感も覚えるようになってもきました。その正体を言語化してみようと思います。
解像度とは?
解像度とは、もともと技術用語です。IT用語辞典の解説を援用します。
違和感の正体①:思考にデジタル機器の原理を採用する是非
解像度は、デジタル機器の性能評価項目を語源とします。人生の充実には、入力(インプット)/出力(アウトプット)の精度を向上させることが重要ですから、デジタル思考と解像度ということばには親和性がありそうです。
そのことは肯定しつつも、私はアナログ技術全盛時代に慣れ親しんできたため、デジタル技術には100%の信頼と親近感が置けません。利便性・合理性・効率が最優先で、余白や遊びですら綿密に計算され尽くされており、全てを支配下に置かれて操られているかのような感じに、やんわりと抵抗があります。
デジタル思考全般を否定する訳ではないものの、それが当然・万能だと言わんばかりの提言には、反発する気持ちがあり、心情的に距離を置きたくなります。たとえそれで自分が損をするとわかっていてもです。
違和感の正体②:解像度は「上げる」ものなの?
「解像度を上げる」の意味する所は、対象を明瞭化する、視認化しやすくする、分解する、というあたりかと思います。ここに「上げる」という表現をあてるのは、”Zoom Up!”のような感覚から来ているのでしょうか......
「解像度を上げる」には、自分の立つ位置は変化させず、テクノロジーの力を使って対象の見え方を調整する、というニュアンスを感じます。私は手間はかかるけど、自分自身が動いて立ち位置を変えることで対象の見える景色を変えるという発想の方を好みます。
以前、スーラ(Georges Seurat 1859/12/2-1891/3/29)の点描画をみる機会があった時、画に近寄ったり遠ざかったりして見ることで、その見え方の違いと迫力に驚かされました。自分の立ち位置を変えることで、ダイナミックさがまともに受け取れたのは貴重な経験でした。自分の方が動く、というアプローチの方が個人的にはしっくりきます。
違和感の正体③:クリアに見えすぎることの苦悩
三つ目は、解像度が高く、鮮明に見えていることが、必ずしも自分の幸福度を高めないのではないか、という疑問です。というのは、鮮明過ぎる画像をずっと見続けていると、後でどっぷりと疲れるからです。
また、見えるものがクリア過ぎると、見たくないもの、デメリット、嫌いなものまで増幅されて浮き上がってくるように感じます。それがダメージとなって、疲れ切り、萎えてしまう気もします。
目指す場所と方法ががっつり固められていて、説明書も完璧で後はやるだけ、というお膳立てされている状態が、私はどうも好きではありません。「わかった」と思ったら、急速に関心が萎えてしまったり、安心して油断してしまい、失敗したりします。私の天邪鬼な気質が災いするようです。
人生後半戦では、闇の中を手探りで進む、よくわからないけどやってみる、合理的ではないけど直感を信じてこっちを選ぶ、何もしないで立ちすくむのもOK、みたいな自由さ、ゆるさを大切にしたいと思っています。その結果、損することになっても仕方がないかなあ、というのが最近の価値観です。
以上、屁理屈が満載でした。自分の考えていること、自分の言っていることを色々な角度から掘り下げて考えてみる趣旨であり、「解像度を上げる」ための行動を否定したい意図はありません。
ただ、私は「解像度を上げる」という表現は極力使わないようにしようと思っているという話です。
サポートして頂けると大変励みになります。自分の綴る文章が少しでも読んでいただける方の日々の潤いになれば嬉しいです。