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あの人が教えてくれるもの⑨:筒美京平

『あの人が教えてくれるもの』シリーズの第九弾は、昨年誤嚥性肺炎で亡くなった作曲家、筒美京平(本名:渡辺栄吉 1940/5/28-2020/10/7)です。近田春夫『筒美京平 大ヒットメーカーの秘密』(文春新書2021)を読んで、大いに触発されたので、記憶に強く刻む為に、今ほやほやの湯気が立ち昇る状態での気持ちをこの記事に残しておきます。

謎に含まれた希代のヒットメーカー

日本人に生まれ、日本で暮らした人で、筒美作品を一度も聴いたことがない、という人はおそらくいないと思います。"筒美京平"の名前や作品を知らない、と言っている人であっても、数多いヒット曲を聴けば、「これ知ってる!」「聴いたことがある!」と驚くことになると思います。

印象に残るイントロ……
新しい音や細かな実験が詰め込まれた難しい楽曲なのに「エゲツなさ」や「エグミ」が感じられない王道感……
シンガーの声、歌唱力に合った、魅力を最大限に引き出す曲作り……

筒美氏とは、日本の音楽業界でどのような立ち位置にいる存在なのか?昔、近田氏が筒美氏に気になっている作曲家やアーティストを尋ねた時に、

「それはもう吉田拓郎さんですよ」

と認めていたという吉田拓郎(1946/4/5-)が、筒美京平作品集『Kyohei Tsutsumi Hitstory』に寄せた文章に全て集約されているように思います。

「すごくいいナー」と思うと
必ず筒美京平の曲である。
「やったナー」と思うと
やっぱり筒美京平の曲である。
「whmmm」と口ずさんでいるのは
いつも筒美京平の曲である。
それに何と言ったって
「筒美京平」という名前がカッコいい。
皆のアコガレなんだな。

いい音と、売れる音は違う

含羞(がんしゅう=恥じらい)の人であり、ヒット作品を産み出し続けることを最優先した職人的な仕事師に徹し、自らを公の場で語ることの滅多になかった筒美氏の数少ない映像が、2011年5月にNHK-BSプレミアムで放送された『希代のヒットメーカー作曲家筒美京平』です。

いい音と、売れる音は違う

と言い切り、曲作りにおいて「売れる音」を追求し続けたと言われます。

筒美氏にとっての作曲は、依頼を受けて手掛ける「仕事」であって、優先すべきはシンガーの個性を際立たせる為の「売れる音」の追求です。自分自身の世界観を押し出したり、嗜好を表出させたりすることは封印しています。

幼少期からクラシック音楽に親しんで身に付けた確かな音楽的基礎と素養があり、アメリカやヨーロッパで流行っている最新音楽を徹底的に聴き漁って研究とリサーチを続け、自らの作品製作用の資料として引き出しにストックし続ける。その時の売れ線から元ネタを持ってきて、筒美京平という”フィルター”を通して、日本人の最大多数に受け入れられる音に濾過して、作品化するというプロセスを果てしなく繰り返していく…… それが筒美氏の仕事だったと考えられます。 

割と裕福な家庭に育ち、無理して自己肯定を求める必要のない環境にいたことも、創作スタイルや価値観に影響しているのかもしれません。

筒美作品の最高峰は?

私が個人的に筒美作品の最高峰を選ぶとしたら、数々の名作をコンビで世に送り出してきた松本隆(1949/7/16-)が作詞し、太田裕美(1955/1/20-)が歌った『木綿のハンカチーフ』(1975)です。

印象的なのは、棘を含んだ物語性のある歌詞ですが、あの絶妙に優しいサウンドに包まれていなければ、あの透明感のある世界感は生まれていません。筒美氏をリスペクトする近田氏は、

松本さんについては、やっぱり太田裕美の『木綿のハンカチーフ』に尽きるね。本当に見事な曲だと思う。(P45)

と称賛し、松本氏も「筒美氏による元祖J-ポップ」と評しています。

幅広く曲を提供し続けた筒美氏ですが、日本歌謡史に残るピンクレディー、山口百恵、1980年代以降では、松田聖子、中森明菜には曲を提供していません。それぞれに事情やタイミングのずれなどもあったのでしょうが、意外な事実でした。

音楽業界ビジネスモデルの変遷

筒美作品の全盛期は、1970年代から1980年代ですが、作曲家生活が20年を超えた1980年代には、時代の変化のスピードの早さに、自らの音作りの限界を感じ取っていたといいます。

時代が先にあって、時代が作家を選んでいくんだなあ、と痛感しました。

1990年代になると、筒美式ヒットの法則を徹底的に研究し、合理化した長戸大幸氏(1948/4/6)のビーイングが登場して音楽シーンを席巻します。本書では、「家内制手工業的な工房の時代」から「機能的かつ効率的で、大規模な生産体制を持つ工場の時代」への変化、と巧みな表現がされています。このヒット曲量産システムは、2000年代に秋元康氏がプロデュースするAKB商法へと受け継がれ、完成度を高めるという見立ては納得です。

更に、1990年代を席捲した、もう一つの潮流が小室哲哉氏(1958/11/23-)です。作詞・作曲・編曲を手掛け、歌詞の訴求力で勝負する曲作りが、
● デジタル音源の台頭、
● シンセサイザー使用の高度化、
● カラオケ文化の普及で、歌がじっくり聴き込むものから、共に歌って楽しむ方向に広がった、
● 楽曲が一つの完成された作品としてじっくり聴き込まれるものから、お気に入りのアーティストとセットで足早に消費されるものになった、
といった時代の潮流にマッチした、という近田氏の分析は興味深いです。

60年代前半までは、詞も曲も職業作家が分業で作るものだった。そこにビートルズが登場し、シンガーソングライターが進出し、同一人物が詞も曲も書くというスタイルが主流になった。筒美京平から小室哲哉へとヒットメーカーの王権交代は、英米に遅れること30年ほどで、ソングライティングの中核的座組みが変わったということを意味するのかも(P75-76)

仕事のスタンス・生き様への尊敬

筒美氏が、生涯裏方に徹するというスタンスを変えなかったことにカッコよさを感じます。常に研究を怠らず、あらゆる要求に対応できるマルチな才能を研ぎ澄まし続ける姿勢はなかなか徹底できません。

「いい曲と言われるよりも、売れる方が大切。誰かに届くことが大切」

筒美氏の曲作りは、感性主導ではなく、理詰めで音を置いていく手法であり、再現性を担保していて、それぞれに元ネタがある、とされます。膨大な知識と研究成果と感性が引き出しに保管してあって、求められる結果を出す為の最適解を提示していく手法は、ひょっとすると現代で主流と考えられているような仕事術とはずれているのかもしれません。

筒美氏は、一世を風靡した特定のアーティストやメッセージ性の強い音楽から、本当の意味での強い影響を受けていないという指摘もあります。ビートルズからも殆ど影響を受けていないし、ソウルやディスコもおそらく好きではない、と近田氏は指摘しています。それぞれの音楽から、サウンド面での技法や先進性や時代性は学んで、積極的に参考にしていても、飽く迄も売れる音作りの一環であり、精神的に傾倒する部分がなかったと言われます。

「商業至上主義」という誤解を受けそうな、ある種のマシン性を感じさせる筒美氏のスタイルは、長戸氏や秋元氏の仕事術にもありそうな気もします。

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