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他人の評価が気になる

自分が思う共有しないことの価値


共有しないことが大事
共有しちゃってるけど。笑

自分の気持ちわかってくれる人がいないかなとネットで探す行為は、良くないのではないか?と自分に思った。
YouTube見ながらコメント欄をスクロールするとかね。

それによって、自分に集中できなくなってるような気がした。自分が心地良いと感じることがなんなのか、よくわからなくなるんじゃないか?
例えばカラオケで歌ってるときに、人の目が気になってアガって歌の世界に浸れなかったり、一人で楽器を演奏しているときも没頭できなかったりする。あるいは勉強等何かをやって上手くできたときに、周りに誰もいなかったとしても、人に称賛される画が浮かんで気分が良くなる。「他人からどう見られてるんだろう」っていうムダな声が聞こえてくる。聞こえるというか、もはや、ひとの視点が自分の中に住み着いてしまっている。

今の自分にとって快適な状態は、大きく見せる必要も小さく見せる必要もない状態だ。
他人の視点が実際にあったとしても、リラックスしていたい。ネットの、共感を求めたりひとがどう思っているのか知りたいといった使い方が、それを邪魔している気がした。
無意識のうちに、"みんなの感覚はどうなんだろうか?"って伺っている。自分は人にどう思われてるんだろう。その定規に従おうって。

それじゃあ、自分の人生は歩めない気がする。


そして、孤独は自立につきものなんじゃないかと思う。
"わかってもらえないこととつきあうこと"と、"独特である"ということは切り離せない関係なんじゃないか、と思った。

わかってほしいとか、わかりたいと思って共感し合うことが心地よく、更にそれを求めることを通して、お互いに形を合わせることになり、ニッチではなくなるのではないかと思った。
自分は才能が好き、違いが好きだから、それを際立たせるためにはニッチである必要があると思う。ネットや本からすごい人のやり方を盗んだこともあるけれど、それは2→2.1程度のことをやっているに過ぎない。人のことを羨んだり真似をしていたり、すごいと言われている人のことを真似していたところで、一生すごい側じゃない。そもそも、みんながすごいと言っている人自体が他人の定規で測ったものだし。だから、まずそれをやめて、オリジナルのものに徹底的にこだわっていくしかないんだ。孤独で辛いだろうけど。

自分は楽しい事が好きで、それを人に紹介するのも好きだ。
人の楽しいと思うことってなんだろうって考えることもあった。商品を売るときはそれでいいのかも知れないけど、自分の生き方としては間違ってると思う。
そうじゃなくて、自分が感情的に楽しいって思えることをして、それがたまたま人に伝わったときに"わ"ができる。
これって、とにかく、たまたまの要素が大きいものだと思う。心から驚くことだったり楽しい事に出会うかどうかは、偶然の要素が強い気がする。
だから、とりあえずやってみることが大切だと思う。評価とか、人からどう思われるかとか関係なく、自分の感情、心が反応するかっていうことを大事にしていたい。

SNSとかYouTubeのひとのコメントとか、ネットに共感を求める態度には気をつけたほうがいいと思った。
自己分析もやりすぎは良くないと思う。人は自然に変わっていく。


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